その日のJヴィレッジには、そぐわない応援ダンマクだと思った。
『勝利至上主義』
或るチームの応援団が掲示した幕に書かれてあった〝激励句〟です。
クラブユースサッカー選手権大会という大会の趣旨、育成年代の選手たちの大会という性格を鑑みれば、違和感の強い文言だと感じました。
いやね、勝負事なんだから、負けてもいい試合は皆無だし、勝つことを目標に試合に臨むのは自然な気持ちですよ。
応援する人たちも、勝って欲しい、勝利してもらいたい、そう強く願うのが当然。
だけども、『勝利至上主義』というのは、“違うよね、それ”と感じずにはいられなかったわけで。
勝つことを第一義に、いわゆる「くそつまらんサッカー」も辞さず、とでも言うのでしょうか?
美しいサッカーでなくてもいい、無骨でも泥臭くても構わない、自分たちのサッカーを愚直に表現してくれ、そして勝利を掴め
―良いように解釈すれば、そういう意味なのかもしれないけど、でもそれでも『勝利至上主義』というのは???
これがね、プロチームだったら納得できます。
プロは所詮、結果出してナンボですからね。
でも育成年代だとなあ、それは違うよなあ、と。
そのチームのトップチームのサポは、決してそういう性格の集まりじゃないと思っていたんだけどなあ。
ちなみにそのチームの応援団、チームの勝機が完全に消え失せてから、途端に声援が途絶えてしまい……
試合後の挨拶にも、慰めの言葉も聞こえず……
ショックを受けているのは理解るけど、それはあんまりじゃないかと思った次第。
一番悔しくて、パニック的な精神状態なのは選手たちなわけで。
こういうときこそ、「大人の出番」だと思ったんだけど。
やっぱし『勝利至上主義』の結果どおりにならないから、ボイコット?
『勝利至上主義』
或るチームの応援団が掲示した幕に書かれてあった〝激励句〟です。
クラブユースサッカー選手権大会という大会の趣旨、育成年代の選手たちの大会という性格を鑑みれば、違和感の強い文言だと感じました。
いやね、勝負事なんだから、負けてもいい試合は皆無だし、勝つことを目標に試合に臨むのは自然な気持ちですよ。
応援する人たちも、勝って欲しい、勝利してもらいたい、そう強く願うのが当然。
だけども、『勝利至上主義』というのは、“違うよね、それ”と感じずにはいられなかったわけで。
勝つことを第一義に、いわゆる「くそつまらんサッカー」も辞さず、とでも言うのでしょうか?
美しいサッカーでなくてもいい、無骨でも泥臭くても構わない、自分たちのサッカーを愚直に表現してくれ、そして勝利を掴め
―良いように解釈すれば、そういう意味なのかもしれないけど、でもそれでも『勝利至上主義』というのは???
これがね、プロチームだったら納得できます。
プロは所詮、結果出してナンボですからね。
でも育成年代だとなあ、それは違うよなあ、と。
そのチームのトップチームのサポは、決してそういう性格の集まりじゃないと思っていたんだけどなあ。
ちなみにそのチームの応援団、チームの勝機が完全に消え失せてから、途端に声援が途絶えてしまい……
試合後の挨拶にも、慰めの言葉も聞こえず……
ショックを受けているのは理解るけど、それはあんまりじゃないかと思った次第。
一番悔しくて、パニック的な精神状態なのは選手たちなわけで。
こういうときこそ、「大人の出番」だと思ったんだけど。
やっぱし『勝利至上主義』の結果どおりにならないから、ボイコット?
犬飼さんには秋春制とか天皇杯のベスメンとか自分の仕事エリアだけじゃなくよりこっちを先にどうにかしてもらいたいもんです。
>育成年代の勝利至上主義は現在の日本では当たり前のようになっています。
そうですか?
最近は、数年前ほどの酷さはなくなったように見えます。
リーグ戦の導入ラッシュが、プラスに働いてるように感じます。
いわゆる勝利至上主義に走ると、評論家などから「叩かれる」ことも影響しているのかもしれません。
まあ、根絶はされていませんが。
勝利に拘るのは良いことだと思うんです。
やはりスポーツは勝ってナンボ、というのは否定し難い事実ですし。
勝つための方法論を身に付けるのは、重要だと思います。
でも勝つことに特化し過ぎるのが問題で。
自分たちの良さを出すことよりも、相手の特徴を消すことに専心したサッカーをユースやジュニアユース世代で見せられると、ゲンナリしてしまいます。
いま思えば、往年の国見高校のサッカーも、微妙なフットボールで。
弱者が強者に挑むのに、そういう方法論を採りたくなるのは理解るんですが、強者も時に弱者の必勝法を採用するところがあって、あれは残念です。
勝つのを度外視して試合に臨むのもダメだし、拘りすぎるのも問題だし。
美しいサッカーをしたからって勝てないのがフットボールの真実ですし。
匙加減が難しいですね。
ただこれだけは言えます、サポはそういうのを要求しちゃイカンだろう、ということです。