人間、いたるところに青山あり

生きるも死ぬも今一時

ビールと薩摩

2005-10-30 10:51:01 | Weblog
 静岡ニューメディア研究会の今月の演者はサッポロビールの取締役相談役の福田貞男さん。福田さんが社長になって取り組んだのがスーパードライだった。商品化される前 社内でのお偉方の反応はさんざんだった。これはビールじゃない。ビールの魂が全然ない。これを出したら世間の笑いものになる。だが福田さんは今までと違ったものを作ったのだ。これまでと似たようなものにはお客様は喜ばないと言って反論して 何とか市場に送り出したそうだ。そしてヒットした。反対にあってもしり込みせず信念を貫いた話に感動した。
 サッポロビールは日本で最初のビールだそうだ。黒田清隆が明治政府から北海道に派遣されたことや伊藤博文についで二代目の総理になったことは高校で学んだ。しかし薩摩から村橋久成と言う青年がきて最初のビールを作ったと聞いてうれしくなった。福田さんはその歴史を少し話した。それだけでは物足りなくて自分で調べてみた。1865年薩摩藩は幕府に相談せずこっそり将来ものになりそうな若い志士をイギリスに留学させた。その若き群像の中にいたのが村橋だった。ビール醸造所は東京に作ることになっていたが、北海道の開拓しに入って北海道の開発に奔走していた村橋は再三稟議を黒田清隆に提出した.その功あって札幌にビール醸造所ができた。ビールの大好きな僕にとってなんとありがたい話だろうか。

富士五湖めぐり

2005-10-29 22:20:51 | Weblog
 67歳になった中学時代の友達16人が横浜に集まった。マイクロバスで富士五湖を見物してきた。同窓会は3年おきにやっているが僕は6年ぶりの対面だった。みんな元気で相変わらず遠慮なく言い合っていた。家庭のことも笑いながらさらけ出して話していた。3年後は鹿児島で会うことにして別れた。
 富士吉田市の鐘山苑のホテルに泊まったが、その庭園のすばらしさともてなしの行き届いているのにはびっくりした。甘酒をいただいた小屋でお客さんにお酒を出すだけじゃなくこの庭の四季折々の様子を語るのに誇りを持っている姿が見て取れそれでいてお客にサービス精神でやっているのがよく分かり教育が行き届いているのだった。食事のいかんを知らずとももうすでにいつの日かまたきたいと思っていた。
 夕食の後和太鼓の音に感動した。今までも太鼓は何度も聞いていたが今度は全く違っていた。 一心不乱になって太鼓に向かっていく気迫に感動で涙が出る始末だった。鹿児島から静岡に飛び出してきたんだ。もうあるいは死ぬ季節が始まっているかもしれないのだ。もっと君はがんばらんといかとといがうのか?
 久保田一竹美術館がすごかった。室町時代の辻が花染めに東京国立博物館でであったのがきっかけでその美に魅了されたという。しかし太平洋戦争に召集されソ連抑留を経て60歳になって納得のいく作品ができたそうだ。家内が間違いなく喜ぶところだ。室町時代は日本固有の文化の生まれたときだ。中野孝次の本阿弥行状記に室町がよく描かれていたのが思い出される。
 同窓生との出会いはいろんな話を通して刺激を受けた。また3年後どんな成長を成し遂げているか。将来の課題だ。また旅行での見学から調べてみたい課題がでてきたのもありがたい。
 

グリコーゲンを使い切ってみたい

2005-10-26 08:40:34 | Weblog
 秋晴れの富士山がきれいに見える日だった。
9時家を出てた。 草薙運動場駅から国道一号線にそって富士山を眺めながら走りできれば興津まで行きたいと思った。清水駅の近くから先は初めてだったから楽しみ一杯だった。しかし天下の国道一号線は興津に近づくにつれて歩道の足場が悪いのにはがっかりした。さらに車道と歩道との連結にきわどい箇所が多くなってきたのもこわくなった
 ゆっくり走った。
左右のバランスはどうか?踵で着地しているか?
小指と薬指は喜んで仕事しているか?
重心のかけ方でひざとの連携はうまく運んでいるか?
道路の信号をきちんと見ているか。ゆっくりした走りでも信号待ちの車は僕に追い越されるから面白い。
筋肉と肝臓に蓄えたグリコーゲンがある限り楽に走れるはずだ。どこあたりで枯渇するか。
12時半に家に着いた。家内から怒られた。

リスク回避症候群とは

2005-10-22 19:48:15 | Weblog
 88歳の医者が週に4~5回当直にこられる。昼間は自分のクリニックで少ない患者を診て 夜間は老人病院の当直をされている。20分かけて自家用車でこられる。奥さんは死なれて一人暮らしだそうだ。だから夕と朝の食事を自分で作らなくてすむと笑っている。当直の時間に遅れたことはない。当直日誌もきちんと書いてある。夕暮れ時のいっとき大先輩の老医の話を聴くのは楽しいものだ。
 自分より20年を経ておられる。20年後の自分がどうなっているだろうか。この医者は株のことも話する。もっと若いころ一所懸命やっておったら大きな病院や施設を作れたろうにと言ったりする。医学知識がどのくらいあるかは別にしてもなかなかはつらつとしているところが気持ちいい。
 時代が激しく変わろうとしている。この新しい状況を正しく捉えることができないとあっという間に10年や20ねんは無為に終わってしまう。何事にも慎重で結局手を出しきらんではなんと情けないことか。そんなことでは脳の活性化のチャンスを失ってしまうではないか。限りある人生を充分に生かしきらないと根。自分相応のリスクは自分の人生を磨くことにもなるだろう。

49歳の甥が死んだ

2005-10-19 20:16:02 | Weblog
 甥は昨年の7月検診で心電図の異常を始めて指摘された。それから10月して今年の5月に入院した。この長い10ヶ月に真剣に自分の体のことを考えていたら、こんなに早く死ななくてもよかったかもしれない。
 ロシアに出張した時足が腫れてきつい思いをしたという。ロシアで入院する羽目にならなくてよかったとも言っていた。肥大型心筋症に診断で外来でアーチストやラシックスを飲みながら仕事に行っていた。外来のある時点ですでにアミロイドーシスはうたがわれ、5月入院したときは更なる確定診断と治療が目的であった。
 ところが入院してまもなく胸水や腹水がたまり、また呼吸器感染も併発してきた。心不全だ。他方腎臓、胃、心臓の生検でアミロイドの沈着が証明された。
さあ、アミロイソーシスの根治療法をしようとする段には心不全と腎不全があって対症療法しかできない状態になっていた。
 甥は生来頑丈でかつ仕事熱心だった。このことが災いして自分の命を縮めたと思われる。彼が本来病弱だったら、たえず自分の体と語って生きてきたから、足が腫れたことだけでなく、何で自分が薬の加勢をもらわないと心臓がままならぬかと思い巡らしたはずだ。40台でこんなに心臓が弱って不思議に思えなかったのは仕事が忙しすぎたし仕事が好きで仕事に対する責任感が強かったのも大きな原因だろう。こんなとき、家族の目が大事だ。主人の、父親の観察がもっとされていてあれば仕事はさしあたりやめておいて自分の体の治療を優先させられたかもしれない。
 こんな事例は珍しくない。僕の同級生で4月になくなったのは、医者嫌いで受診せず、またそれを家族がそのままにしてしまい、真の思いやりを発揮しなかったのが治療の遅れとなった。打つ手を打たなかったと言うのは実に残念だ。