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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

「徴用工」ってのは「軍艦島」を「アウシュビッツ」に仕立てたいのですね…

2020年06月28日 20時29分10秒 | いろんな歴史いろんなミリタリー
「従軍慰安婦」問題は、

金銭がらみの内ゲバ騒動なのですが、

「徴用工」問題っていうのも、

なかなかパンチが効いた様相を呈していますね。


それを一言で表現すれば、

タイトル通り「軍艦島」を「アウシュビッツ」に仕立てようとすること。


もう、ビックリ仰天!

凄まじいばかりの大嘘が展開されているようです。


典型的なのが「恥ずかしい世界文化遺産 軍艦島」という、

韓国で出版された児童向けの絵本。


具体的に何が書かれているか、

というような内容は書きません。

是非ご自分でお調べになってください。


自分は「アウシュビッツ」に仕立てようと、

明らかな大嘘を「これでもか!これでもか!」と、

並べ立てているという感想のみ提示しておきます。


なぜ「大嘘」だとわかるんだ?

というご質問に対しては、

無理がありすぎて検証すらバカバカしい…

それほどのものであるからです。

そういったものが「事実」となって流布されているということです。


もし興味がおありになるのであれば、

その実情を自らお調べになっていただきたいです。

そしてご自分で判断していただきたいです。


当ブログは啓蒙や洗脳を目的としておりませんから、

一人一人がこの問題について考えていただければ、

それで十分だと思っております。

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1990年代の沖縄旅行 「ひめゆり」戦跡巡り② 糸数分室(アブチラガマ)⑤

2020年06月27日 00時10分08秒 | 1990年代の沖縄旅行 「ひめゆり」戦跡巡り編
前回の続きです。




上記の画像は「カマド」の跡ですね。
アブチラガマ中央部にあります。

ちなみにですが、
日付が明記された画像しかアップロードしていません。
前回も同様です。
2020年現在のアブチラガマ内部では、
撮影禁止となっているからです。
内部での録音も禁止ということですが、
なぜ禁止なのかはわかりません。

もっとも、撮影に関してはフラッシュ必須ですから、
やたらにピカピカ光ったら眩しくて眩しくて、
平和学習どころではないかもしれませんね。


かといって、
そういったルールがあるのであるならば、
原則的にはそれに従うつもりでおりますので、
撮影禁止ではなかったと思われる1990年代の画像のみ、
しかも日付が明記されたものだけを掲載しました。
1996年7月5日に撮影したものです。


「カマドの跡」まで進んでしまえば、
陽光は全く差し込んできません。
真っ暗闇ですね。
「漆黒の闇」という表現が、
正に似つかわしいという感じです。

畑の真ん中にあるような位置ですから、
外の喧騒なんかあるはずもなく、
一切の外界から遮断された空間でした。
特に一人で入った時はそうでしたね。

あの暗闇は都市部ではもちろんのこと、
田舎でも体験することはできないでしょう。

自分はコンビニまで自動車で5分もかかるような、
栃木のクソ田舎に住んでいますが、
たとえ夜であっても星明りや街灯がありますから、
あんな暗闇を経験することができません。

なんというか、
「漆黒の闇」から受ける見えない圧迫感というか、
そのような重苦しさが、
それこそ無言で無音で伝わってくる感じです。
ヒンヤリとした空気も、
それを助長するかのような演出をしてくる気がします。

自分は幽霊や霊能者を全く信じてはいませんが、
その闇に対する不気味さだけはあったこと、
これだけは断言できます。
暗黒あるいは闇に対する恐怖というのは、
人間が持つ潜在的な本能なのでしょうかね…

戦争とはいえ、
このような場所で生活を強いられた「ひめゆり」たち、
兵士たち住民たちの苦難は、
フラッシュライトを消しただけで「追体験」できるような、
そんな場所でもあります。

さらに先へと昇ったり降ったり進んでいくと、
明らかに人工的な石垣が所々にあると同時に、
手すりや案内板が設置されていました。
ちょっと新しいような感じがあった記憶がありますので、
整備された直後なのかもしれません。

一時間以上かけて現在の「入口」側となっている階段までいくと、
やっと陽の光が届いていることがわかります。
その狭い階段を登り、
住宅地のそばまで無事に到着することができました。




この後も沖縄の友人といったりしましたが、
一人ではないという意識があったせいか、
あまり不気味さを感じはせず、
そういった意味では、
内部をよく観察することができましたね。

2020年現在では南城市が管理しているらしく、
糸数アブチラガマ案内センターにて受付等をしてから、
専属ガイドの案内で中へ入るシステムです。

1990年代は「入口」も「出口」も、
糸数アブチラガマ案内センターでさえなかった頃ですから、
単独で中へと入っていましたが、
ルールが設定されている以上、
一人で勝手に入るということは、
控えたほうがよろしいかと思います。

 
 これで「ひめゆり」ゆかりの地巡り②糸数分室(アブチラガマ)を終わりにしたいと思います。最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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もはやビジネスと化した「慰安婦」騒動

2020年06月25日 17時38分47秒 | いろんな歴史いろんなミリタリー
「慰安婦支援」銀貨を販売した少女像作家、支援額は「明かせない」

 慰安婦被害者を形象化した「平和の少女像」の代表作家、キム・ウンソン、キム・ソギョン両氏夫婦は、2017年7月に「慰安婦被害者記念コイン」の製作プロジェクトを発表した。  
 クラウドファンディングサイト「タンブルバグ」で国民の支援を受け、慰安婦被害者を記念するコインを製作し、支援金を支払った人には無料で、その他国民には実費で販売する計画だった。収益金のうち70%は慰安婦被害者支援団体や被害者本人に寄付するという趣旨だった。  
 詳細計画はこうだった。記念コインは純銀製で31.1グラム、直径40.5ミリ。デザインは自身が製作した少女像のイメージと「平和」という文字をあしらった。コインには夫妻が製作した「小型少女像」とセットで8万9700ウォン(約7930円)という価格が付けられた。これは支援金を前払いした人の金額で、それ以降は12万7000ウォンで販売するとした。  
 小型少女像は既に夫妻や正義記憶連帯(正義連)などが実費で販売していたものだ。価格は2万5000ウォン。つまり、コインは1枚当たり6万5000ウォンの価格を付けたことになる。2017年当時の純銀30グラムの相場は2万1000-2万2000ウォンだった。  
 こうした計画の下、作家夫妻は記念コイン3万5000枚を販売するとして、クラウドファンディングサイトで2000万ウォンを目標に募金活動を行った。  夫妻は当時、韓日関係と韓国政府の負担を考慮し、第三国であるニュージーランド領ニウエで記念コインを発行し、韓国に持ち込もうとしたが、日本の圧力で発行が中止になったとし、「アフリカのチャドと接触し、発行許可を新たに得た」と説明した。  しかし、募金活動は当初目標額の40%に届かず、失敗に終わった。タンブルバグは定められた期間に目標額100%を達成できなければ、それまでに表明された支援意思も全て無効として処理される。
 そうした状況でも作家夫妻は記念コインを製作した。夫妻は「代行業者の提案でプロジェクトを開始したが、目標数量の3万5000枚の3分の1も発行できなかった。生産経費も回収できず、代行業者とも対立したため、多額の寄付は難しかった」と説明した。販売は独自のウェブサイト「平和の少女像ネットワーク」などを通じて行われた。  
 記念コインを何枚製作し、いくら収益が上がったのかは明かさなかった。  
 推定可能な資料は存在する。当時作家夫妻はコインをチャドで発行して持ち込もうとした。未来統合党の金炳旭(キム・ビョンウク)議員事務所が関税庁から入手した資料によると、2010-20年4月までの期間にチャドから記念コインが輸入された年は作家夫妻のプロジェクトが推進された17年が唯一であり、それ以外の年は輸入量がゼロだった。  
 17年にチャドから韓国に輸入された記念コインは50キログラム、2万9904ドル(約318万円)相当だった。全て作家夫妻が持ち込んだものだと仮定した場合、純銀31.1グラムの記念コインを約1600枚発行したと推定可能だ。コイン1枚当たりの価格が8万9700ウォンなので、売り上げは単純計算で1億4000万ウォンとなる。  
 本紙は作家夫妻に記念コインの製作にかかった費用、慰安婦被害者への寄付額がいくらかを照会した。例えば、1000万ウォン程度の純利益があれば、700万ウォンは寄付できるのではないかという趣旨だった。しかし、作家夫妻は回答しなかった。  金炳旭議員は「慰安婦被害者のために記念コインを発行したと言いながら、売上高と寄付金の規模を透明に公表していない。この記念コインが被害者のためなのか、私腹を肥やすためなのか、国民は疑わざるを得ない」とし、「被害者の人格と名誉に累を及ぼす行為を中断し、謝罪すべきだ」と主張した。

6/24(水) 12:59朝鮮日報日本語版 



「記念コイン」まで発売していたなんて、
自分は知りませんでした…

「記念コイン」というのは、
そもそも何かを記念して発売される、
という感じだと思うのですが、
この場合は「慰安婦」の何を「記念」するのですかね?
なんか、よくわからない展開です。

ただ、昨今の「慰安婦」詐欺騒動を考えると、
もはや「慰安婦ビジネス」と化した…
ということにもなるのではないでしょうか。

事の発端が支援団体による使途不明金ですし、
結局は全てが「金がらみ」なんですよね。
ほんと、金を巡るイザコザでしかないような気がします。

しかもこれ、
例えば支援機団体や元リーダーとか、
「慰安婦像」の製作者とか、
そういった「慰安婦」当人ではなく、
本来なら当人たちをバックアップするための人たちが、
寄付金等で集めた莫大な資金を巡り、
それこそ魑魅魍魎と化し、
ことさら金の奪い合いをしているような気がします。

しかし、
だからといって、
「慰安婦」おばあさんたちに同情をよせる気は、
これっぽっちも一切ございません。

当ブログで何度も指摘していますが、
批判が許されない聖域となった、
「慰安婦」おばあさんたちではありますが、
特にその「証言」には不明瞭な点がありまくりで、
学術研究にさえ取り上げられるものがないという状態です。

ただし、「聖域」ですから批判非難は一切許されません。
日本も1980年代後半から90年代までは同じでしたね。

しかもここ最近の傾向では、
1945年以前よりも5年後の朝鮮戦争時代の話ではないか、
というような「証言」が散見される状況になっています。
つまり「それは日本とは関係ないのではないか?」
というものまであるということですね。

こうしてみると、
批判も非難も一切許されなかった「聖域」だからこそ、
「慰安婦ビジネス」が成立できたのかもしれませんね。
要は水戸黄門の印籠を悪用したビジネスなのですから…

なんか、
虚しさしか残らないような気がしますが、
ま、「対岸の火事」として傍観していたほうが、
いいかもしれませんね…

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1990年代の沖縄旅行 「ひめゆり」戦跡巡り② 糸数分室(アブチラガマ)④

2020年06月20日 01時35分28秒 | 1990年代の沖縄旅行 「ひめゆり」戦跡巡り編
前回の続きです。

石でできた頑丈な階段の設置によって、
誰でも出入りが簡単になった「出口」側を、
一人ゆっくりと降りていきました。

前回の画像でもわかるように、
木の根っこがダラ~ンと垂れ下がっていく中を、
10m以上は降りたのではないでしょうか。
階段自体「く」の字に曲がっていますからね。

さすがに一番下まで降りてしまうと、
陽光は奥まで届きません。
早速フラッシュライトを点灯して、
奥へと進んでみますが、
階段だけではなく、
通路に沿った手すりも設置されていましたよ。
階段と同時に整備したのでしょうね。

一応、内部の詳細な地図を持参していましたが、
手すりに沿って歩いていけば、
どれくらいの時間がかかるかわかりませんが、
比較的簡単に反対側の「入口」へ通り抜けそうでした。
通路もゴツゴツしていたわけではありませんし、
思ったより整備されているなって感じがしましたね。

一つ気になったのが、
赤色かオレンジ色に塗られたボックスが、
手すりに装着されていた点です。

最初は「消火栓」か何かかなと思っていました。
でも、こんな所に消火器設置しても、
あんまり意味がないんじゃないかな~と、
不思議に思ってましたね。

アブチラガマ自体、火の気が全くないし、
湿度も高かったような気がするのです。
その分、ヒンヤリとしていましたよ。

そのボックスには「注意書き」がありましたので、
よくよく読んでみますと、
「このボタンを押せばライトが点灯します」
というようなことが書かれてありました。

「あ~なるほど」
非常時にそのボタンを押せば、
ガマ全体を明るくすることができるって仕組みなんですね。
全長が270mもあるのですから、
緊急時には有効だと思いますよ。
勿論、自分は押しませんでしたけどね…

それからどんどん中へ入っていくと、
「便所」「倉庫」といった案内板も設置されていました。
大変わかりやすいです。





ほとんどは普通に歩けるほど天井が高いのですが、
それでも時にはかがみながらも、
持参した内部図を確かめつつ、
大体半分ぐらい進んだところで撮影したのが上記の画像です。
「病棟」と書かれていますね。

いろいろと苦労して撮影したことが、
今となって思い出されます。

自分は写真マニア、
カメラマニアではございません。
それでも実はこの当時、
一眼レフのオートフォーカスを使って撮影していました。
カメラに詳しい知り合いに聞いて、
貧乏のクセに7万円のカメラを買いましたね。

ま、当時全盛期だった「写るんです」でもよかったのですが、
どうせ撮るんだったら本格的なものがいいかなぁ~って感じ。
でも、若い人には「写るんです」って言ってもわからないかなぁ…

現在のデジカメやスマホみたいに、
片手で撮影できるような代物ではありません。
それにフラッシュライトしか照明がありません。

左手にライトを持って、
右手でカメラを構えて、
「病棟」という案内板にピントを合わせてから、
右手のみでシャッターを押す…
このような作業を何回も繰り返しました。

片手でシャッターを押すという状態ですと、
望遠レンズ付きのオートフォーカスですから、
とにかく重いんです。

いくら自動的にピントを合わせてくれても、
やっぱりその重みでブレちゃうんですよね。
特にシャッターを押す瞬間です。

デジカメやスマホみたいにその場で確かめられないし、
フィルムを現像しないとわからないから、
後になって初めて失敗したと気づくのです。
そういったわけですので、
ちゃんと撮れたのが数枚しかありません。

他に何かいい手段があったかもしれませんが、
自分はカメラマニアではありません。
その点はもうちょっと勉強しておいたほうがよかったと、
つくづく思うところでございます。


次回以降に続きます。
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いつの間にか10000人突破してました

2020年06月18日 01時03分31秒 | いろんなこと日記
自分なりの目標として、

最低でも訪問者数が10000人を超えることを、

とにもかくにも目指しておりましたが、

いやはや…


もう、感無量でございます。

誠に誠にありがとうございます!


たかが10000人で、

と思う方もあるかもしれませんが、

自分にとっては、

それはそれは、

かけがえのないものでございます。


こんなど~でもいいような、

ありきたりでつまらないブログでも、

読んでくださっていると思うと、

ホント、嬉しい限りでございます。

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