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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

1990年代の沖縄旅行 平和学習の中の「壕追い出し」

2023年08月17日 00時02分01秒 | 1990年代の沖縄旅行 いろんな場所編
別のタイトルにて南部戦跡で出会った人たち、
ことさら戦友会のことについて書きましたが、
もう一つ記憶に残っていることがあります。

それは現在もおこなわれている平和学習です。

必ずというわけではありませんが、
ひめゆりの塔は別格として、
白梅の塔や当時は糸数壕の呼称が一般的だったアブチラガマや、
摩文仁の丘や健児の塔といった、
1990年代当時でも有名だった場所では、
小学生から高校生たちの平和学習(修学旅行)に交じって、
その周辺をブラブラしていたことがありました。

ただ、あまり悪く言いたくはありませんが、
平和学習となると人数が十数名単位で多くなってしまいます。

そういった大人数だとやっぱり気を使ったりしまうし、
その中を身勝手に押しのけてかき分けてまで、
一人で行動するのはそれこそ非常識だと思うし、
とにかく落ち着いて探索ができなくなってしまうということで、
そういう時はサッと別の場所に移動していましたね。
ま、邪魔したくないし邪魔されたくもないって感じです。

でも時々「盗み聞き」してもいましたよ。

当事者かボランティアの方が生徒や児童たちに、
沖縄戦に関するいろんな話をしてる時、
自分もそれを聞いていたことが何度かありました。

その中で一番記憶に残っているのは、
白梅の塔での出来事です。

1990年代頃の白梅の塔には既に駐車場もありまして、
そこでレンタカーを停めて昼飯を食べようとしたら、
中学生か高校生の修学旅行だと思うんですが、
30代か40代の男性が白梅の塔の由来や、
ガマについて説明している場面に出くわしました。
ウチナーグチじゃなかったので、
ボランティアか平和団体関連の人でしょうね。

なんだかんだいって十数人の集団ですから、
正直言って「なんか落ち着かないな~」と思ったし、
レンタカーの中で食うのも窮屈だし、
どこで食おうかどうか迷いながらブラブラして、
ちょっと様子をうかがっていたんです。

そういうわけでありますから、
自然と平和学習の一部始終が聞こえてくるわけです。

白梅の塔の前での学習ですから当然のこと、
第二高等女学校についての説明をしていましたね。

自慢する気はございませんが、
自分もそれなりに事前調査をしており、
知っていることも多々ありましたので、
ほとんど聞き流しておりました。

もっとも、仮に間違った説明をしていても、
何もしませんでしたけどね。
そんな図々しい人は嫌いですし、
そんな図々しい人になりたくありません。

そうこうするうちにそのボランティアらしき人が、
ふと、日本兵による住民の「壕追い出し」について、
事細かに説明しているのが聞こえてきました。

ガマに避難していた住民を無理やり追い出して、
そこに日本兵が入り隠れるといった内容です。

日本兵が住民を壕から追い出すといった内容は、
平和学習を受けた方はもちろんのこと、
沖縄戦に興味ある方などもどこかで聞いたことがあるでしょう。
そういった意味では「定番」なエピソードですよね。

自分も様々な書籍とか摩文仁の平和祈念資料館等で、
事細かく読んだり聞いたりしていましたし、
現在もそれは変わることがないと思います。

ただ、その当時(1990年代)の白梅の塔で聞いた時は、
「白梅とは関係あるのかなぁ?」なんて思っていました。

いや、まぁ、どちらも沖縄戦のことですから、
全く関係ないとは言い切れませんが、
なんか、それとは別に、
自分としては別の違和感を持った記憶がございます。

なぜかというと、
日本兵による住民の壕追い出しというのは、
当時から沖縄戦における日本兵の「悪行三昧」の一つとして、
現在も語られていることに関して、
漠然とですが「なんかおかしいな」と思っていたからです。

「追い出す日本兵」と「追い出される住民」という構図は、
極々単純化すれば「住民を守らない日本兵」となるでしょう。

本来守らなければならない弱者側の住民を、
卑怯卑劣な日本兵が無慈悲に追い出したという事実は、
これはこれで決して間違いではないと思います。
現に実際に起こった出来事ではないかと思われます。

ただ、このようにして日本兵の行動を単純化し画一化し、
あるいはステレオタイプ化して固定観念化するのは、
自分にはどうも納得がいかないのです。

例えば、この「壕追い出し」の理由として、
「ここは危険だから今すぐ立ち去れ」といった場合も、
少なからずあったのではないかとも思うからです。

「危険」というのは即ちこのガマ、
あるいはこの地域が米軍との交戦状態になり、
その「危険」から住民を「守る」ための措置として、
住民を「追い出し」た場合も想定できるのではないかと思うのです。

「何を言っているのだ!」
「どこに逃げたって同じじゃないか!」
「住民に逃げ場などない!」
とお怒りの方もあるのではないかと思います。
現にそのような状況でした。

しかし、それはあくまで沖縄戦の顛末を知っている人間、
即ち結果を理解している「未来人」の考えたことではないでしょうか。
「後だしジャンケン」ならいくらでも勝てますよね…

当然のことでありますが、
沖縄戦を戦った日本兵に「未来人」など存在しません。

そういうことでありますから圧倒的な米軍の攻撃に対し、
「日本は負ける」と薄々感じていた日本兵もいたでしょうし、
同時に「日本は勝つ」と頑なに信じていた日本兵も、
それなりに存在したはずだと思うのです。

あるいは実際に戦った日本兵にとって、
今後の状況が自分たちも含めてどのようになるか、
皆目わからなかったのも、
数ある事実の中の一つだと思うのです。

そのような状況に置かれた日本兵が、
形勢不利な戦況にもかかわらず一途の望みを託して、
あるかもしれない安全地帯へ「住民を追い出す」ことを、
言い換えれば「住民たちの安全を考慮した行動」を、
躊躇せず実行したという場面があったことも、
必ずしも否定することができないと思うのです。

しかし、このような行為は結果として間違っていました。
住民に安全地帯などほとんどなかったのです。

ただ、それはあくまでも「結果として」です。
「未来人」が「結果として」未来で「判断」したのであって、
未来を「知らない」日本兵に対して「後だしジャンケン」のように、
「卑怯にも住民を追い出した」と断言し断罪するのは、
それはそれで当時の状況を無視したものではないかと思うのです。

彼ら日本兵がした行動の結果がどうなるか、
彼ら日本兵がその場で知ることはできないのです。
その判断が適正かどうかわからないのです。

ま、「未来人」ではありませんから当然のことですよね。
追い出された住民が戦火に斃れたかもしれませんし、
追い出されたことによって生き延びたかもしれません。

「お前はそうやって相対化して日本兵を美化している!」
と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし日本兵のとった一連の行動をステレオタイプ化、
あるいは画一化して糾弾するという行為は、
沖縄戦を「多角化」して考究することを一切排除し、
単なる戦争責任追及だけのプロパガンダに利用している…
そのようなことに繋がっているような気がしてならないのです。

そもそも、当時のことを当事者目線で見ようとしないのは、
本来なら主役であるはずの、
その当時者を悉く無視しておいてから、
自分たち(未来人)の都合のいいように、
歴史を「書き換え」ているような気がしてならないのです。

沖縄戦に限らず「歴史」というものは、
常に多角的、多面的に考究することが、
現代を生きる「未来人」の基本的な姿勢であり、
そのようにして初めて「歴史」を現代や未来に生かすことができる…
自分は常々そのように考えております。

従って歴史の一部を「未来人」によって、
レッテル化、一面化、単純化、ステレオタイプ化するのは、
多面的で建設的な歴史学を悉く無視し、
自分の思想に都合のいいように「利用」するような、
本来なら唾棄すべき行為ではないかと思っています。
それは右翼も左翼も関係がありません。

さて、この件について皆様はどうお考えになるのでしょうか…

1990年代の沖縄旅行 戦跡のジ~ちゃん連中

2023年05月08日 19時33分54秒 | 1990年代の沖縄旅行 いろんな場所編
沖縄南部の戦跡を巡り巡っていると、
時折様々な集団やグループに出会うことがありました。
それは現在でも全く変わらないと思います。

一番わかりやすいのは学生生徒児童さんの修学旅行ですね。
ひめゆりの塔なんか典型的です。
そのほかにも会社や職場の同僚とか、
色々な組合や団体なんかのグループたちと、
あるいは遺族会や戦友会などの人たちと、
あまり有名ではない戦跡で鉢合わせすることがありました。

特に自分が20代だった1990年代は、
終戦から50年ぐらいの年月でしたから、
沖縄戦から生還した70代~80代ぐらいのおじいちゃんたちと、
比較的高頻度で出会っていましたよ。

大体がワイワイガヤガヤといった観光気分で、
実際は辛い体験をしたであろうに、
沖縄戦に散った戦友たちへの慰霊とはいえ、
沖縄旅行を楽しんでいる光景を遠巻きに眺めていた時は、
あれは山城本部壕(ひめゆりの塔の近くにあります)でしたが、
なんかちょっと笑っちゃいました。
そのようなことがすごく記憶に残っているのです。

笑っちゃうなんて失礼なことを言ってしまいましたが、
あの当時の自分は「慰霊」というと、
わかりやすくいえば「葬式」と同じような感覚で、
いかにも暗い重苦しい雰囲気が漂うものだと、
厳粛で静寂が漂う空気が張り詰めている…
それこそ「勝手に思い込んで」おりました。

それにもかかわらず、
何だか楽しんでるような戦友会の雰囲気を感じた時、
じいちゃん連中が観光気分で和気あいあいだった光景を見た時、
そのギャップに笑ってしまったということなんです。

正に「勝手に思い込んでいた」んですね。
自分の狭苦しい主観と偏見で捉えていたということです。

今となってはその「勝手に思い込んでいた」ことを、
ひたすら反省しなければならないと思っております。
物事を一面だけでしか捉えないその愚かしさをね…

ただ、どんな理由であれどんな目的であれ慰霊であれ、
当のじいちゃんたちが楽しんでいればそれでいいと思うと、
むしろほのぼのした記憶として残っております。
終戦から70年以上経過した2023年現在、
こんな光景はもう見られないでしょうからね。

それに色々な話も聞きたかったですね。
自称軍事マニアとして、
沖縄戦にのっぴきならない興味を持つ者として。

相手から声をかけられれば別ですけど、
自分は人見知りなタイプですから、
率先して赤の他人に自ら声をかけるなんてことは、
今でもちょっと躊躇するので、
その当時は一切声をかけませんでした。

でもやっぱり聞いとけばよかったかな…
なんて思う時もある今日この頃です。

1990年代の沖縄旅行 自分的な憩いの場所だった真壁公園

2022年03月18日 18時04分15秒 | 1990年代の沖縄旅行 いろんな場所編
真壁公園自体は有名な戦跡というわけではないと思います。
そういった意味では数ある公園の一つになるかもしれませんが、
自分はよくこの真壁公園で休憩をとっていました。

なぜかというと、
南部戦跡のちょうど中心部になるんですよね。
自分はそう思っております。

正直言ってこの当時は戦跡巡りばかりで、
あまりグスクとかには興味なかった頃でしたし、
真壁グスクがどういったものなのかは、
ハッキリいって知りませんでした。

そうは言ってもちょうどいい位置にありますから、
徒歩での南部戦跡探索は当然ながら、
レンタカーも駐車できるスペースがあるし、
観光客もほとんどいないから、
わざわざこの場所へ赴いてから、
ゆっくり昼食をとっていた記憶が蘇ります。

もっとも、南部一帯は激戦地ですから、
軍関係の慰霊碑は建立されていました。



これは「真和の塔」です。
碑文を引用させていただくと、

「昭和20年5月下旬新垣・与座岳・真壁の千二放列陣地をしいた第5砲兵司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野砲高射砲第81大隊等の将兵は優勢なる米軍の砲爆のもと勇戦奮闘その火砲全部を破壊されるも怯まず全員白兵斬込みを敢行して壮烈なる最後を遂げたり。ここに南方同胞援護会の助成を得てこの塔を建て永くその偉烈を伝う 」

とのことです。



ガー(井戸)もありました。

そしてこの場所には「真壁陣地壕(寺山壕)」という、
人工的に構築された陣地壕があったそうです。
ただし、5カ所あった入口は埋没してしまい、
現在はどこにあるのか不明だそうです。

1990年代当時も所在が不明でした。
自分なりにウロウロ歩いて探してみたのですが、
結局は見つからなかったですね。

もっとも、強固な自然洞窟(ガマ)を利用したわけでもなく、
もっぱら人力で掘ったであろう壕でしょうから、
どちらかというと軟弱だったかもしれません。

米軍の攻撃によるものか自然崩落か、
あるいは戦後の整備かで埋没してしまったのではないでしょうか。
人工的に構築された壕(トンネル)って、
この場所に限らず埋没してしまった箇所が多々見られます。

さてさて前述の通り自分はこの公園で、
しょっちゅう昼休みを楽しんでいました。

大体は「サンエー」やら「かねひで」やらのスーパーか、
コンビニの「ホットスパー」で買ったお弁当や、
総菜といったものを一人食べていましたね。

あ、ちなみに自分だけかもしれませんが、
「ホットスパー」っていうコンビニは、
その当時(1990年代です)は沖縄だけのコンビニだ!
と思ってワクワクしながら買いにいったもんでした。

いや、東京に住んでいた頃は「ホットスパー」なんてなかったし、
その当時は沖縄のどこへ行っても「ホットスパー」だらけだったから、
A&Wみたいに沖縄限定かと本気で思っていましたよ。

でも違うのですね。
それを知ったのは結構あとになってからでした。
ちょっとショック…でも、まぁいいか…

別のブログでも書きましたが、
自分はご当地グルメにはあまり興味がなく、
長崎に旅行しても結局は「リンガーハット」で、
十分に存分に満足できる体質なのですが、
沖縄の場合は「せっかくなのだから」と、
沖縄グルメをせっせと堪能していましたよ。

好んで食べたのはおにぎりと一緒に買っていた、
おかずとしての色々な「チャンプルー」ですね。

「ソーメンチャンプルー」や「フーチャンプルー」を、
おかずにしておにぎりをがっつくって感じです。
なぜかは知りませんが「サンエー」で買った、
あの「フーチャンプルー」がとりわけ美味かったなぁ…

観光客向けではなく、
地元の人が好んで買うスーパーの味ですから、
余計に美味かったのかもしれませんね。

ただ、これも自分だけかもしれませんが、
「ゴーヤチャンプルー」だけは…
正直いってダメだった…

今となってはメジャーすぎるほどの野菜になったゴーヤ…
近所の人(栃木ね)も栽培しているほどのゴーヤ…
あの苦みはどうしても受け付けられません。

いや、苦いのが嫌いというわけではありませんし、
ピーマンなんか生でマヨネーズかドレッシングをかけながら、
バリバリぼりぼり食べるんですが、
ゴーヤの苦みはいまだに嫌いです。

まぁ、それはさておいて、
色々な場所に設置されたベンチに腰掛けながら、
自分一人だけの至福タイムを満喫していましたよ。

そして食後のデザートいうかおやつというか、
甘いものが欲しくなったら「タンナファンクルー」も買って、
ボリボリむしゃむしゃ食べていましたね。
あの素朴な甘みは大好物なのです。

ま、このようにして真壁公園を利用させていただきました。
今となっては楽しい思い出しか浮かびませんね…




真壁グスクの展望台(だと思います)から、
三和中学校や真壁小学校方面を撮影しました。
喜屋武岬方面ですので、
東シナ海も遠望できますよ。
1990年代後半の頃だと思います。



この画像も同じで、
画面左側に小学校や中学校が写っています。



この画像も同じです。
右側に写っているのは国吉霊園の一部ですね。
奥の方にうっすらと渡嘉敷島が見えるのがわかるでしょうか。

全て20年以上も前ですから、
景色が変わっているかもしれませんが、
どうでしょうか。

ちなみに3枚とも「写ルンですパノラマ」で撮影しました。
若い人にはなじみがないでしょうね…
「写ルンです」なんてね…



1990年代の沖縄旅行 修学旅行と平和学習を横目で見た感想

2021年02月18日 01時54分53秒 | 1990年代の沖縄旅行 いろんな場所編
東京で知り合った友人や知人が、
修学旅行で沖縄へ行ったことを何度が聞きましたが、
自分は北関東の小中高でしたから、
修学旅行で沖縄に行くことはありませんでした。

さて、
1990年代の戦跡巡りの時も、
あきらかに修学旅行か平和学習の、
児童さんや生徒さんたちの集団に出くわしたことが、
何度も何度もありました。

やっぱり一番多かったのはひめゆりの塔かな。
あそこは別格だと思いますけどね。

ひめゆりの塔以外でも、
たとえば白梅の塔とか、
そういった比較的有名な場所だと、
先生に引率された集団がボランティアの人の話を聞いている、
というようなことがありましたね。
多分、これは現在でも変わらないと思いますよ。

一クラス単位での集団行動はしょっちゅう出会いましたし、
小グループ単位での自由行動というか、
数人の生徒さんたちとも時々出会っていましたね。

ちょっと印象に残っているのは、
ひめゆりの塔に近くにある、
第一外科壕跡での出来事です。

自分も駐車場にレンタカーを止め、
ひめゆりの塔から第一外科壕まで歩いて向かっていました。
歩いてもそんなに遠くないんですよね。

そこにはおそろいのジャージを着た生徒さんたちが、
男女数人だと思いましたけど、
なんかワイワイとして楽しそうでした。

自分はカメラを持っていましたし、
初めて来たわけでもないのですが、
生徒さんたちを写さないように、
少し待っていました。

勿論、追い出す気は全くなかったし、
特に声をかけたりもしません。
慰霊碑の前で騒いでいるとしても、
少なくとも自分は不謹慎だなんて、
思ったりは絶対にしませんよ。

それにこのご時世…当時は1990年代でしたけど、
ヘタに声をかけると不審者扱いになりそうですからね…
それは現在でも変わらないでしょう。
もっとも、相手が明らかに困った様子をみせてたら、
それはそれで別の話ですけどね。

だから第一外科壕跡の周りを少しグルグルとしていました。
ま、自分は胡散臭そうでも普通の観光客ですから、
当たり前のように周辺をブラブラしていました。

ただ、生徒さんたちの会話は聞こえるんですよね。
向こうも全くこっちのことを気にしていないようでした。
盗み聞きとはいわないまでも、
それとなく生徒さんたちの会話を聞いていました。

どのような会話かというと、
「海がキレイ」とかマリンスポーツとか、
ま、一言でいえば「沖縄戦」の沖縄ではなく、
「リゾート地の沖縄」でしたね。

生徒さんたちは平和教育、
あるいは平和学習で訪れた沖縄だと思うのですが、
先生がいないから本音が出たのか、
第一外科壕跡の前でそのようなことを、
楽しそうにしゃべっていましたね。

先生やボランティアの前では、
みんな神妙な面持ちで話を聞いていたのを見ていたから、
その落差というものが印象に残っていて、
なんだかちょっとだけ笑っちゃいました。

ただし、ここで勘違いしてほしくないのは、
その生徒さんたちを責めるつもりは全くないこと、
むしろ微笑ましかったということを強調したいです。

自分の経験上、
修学旅行なんてそんなもんだと思いますよ。
「沖縄戦」より「リゾート」のほうに興味がわくというのは、
ごくごく自然な現象ではないかと思います。

なぜかというと、
学校教育における平和教育・平和学習というのは、
自分からすれば「沖縄戦の一面的な側面の押し付け」
だと思っているからです。

平和教育・平和学習そのものを否定する気は全くありません。
問題はそのやり方というか、
手段にあるのではないかと思うのです。


戦争=悪という考え方は間違ってはないかと思います。

しかし、しかしですね、
戦争=悪だからといって、
その戦争をした日本・日本軍・挙句の果ては兵士一人一人までも、
すべて悪という考え方は納得できません。

沖縄戦を考察する場合、
必ずといっていいほど日本軍=悪というイメージで、
いかにその日本軍によってウチナンチュが虐げられたか、
という側面しか取り上げないんですよね。
特に学校教育に関してはね。
ボランティアで沖縄戦を語る人たちもそんな感じです。

あくまでも自分の経験上なのですが、
死に物狂いで日本軍と一緒に戦ったというような、
一体感というか連帯感を誇りに思うような、
そんな思い出話を語ってくれたオジィもいましたよ。
しかもコソコソじゃなくて堂々とね。
1990年代の頃の話ですけど…

だから日本軍=極悪という構図しか取り上げないような、
左翼的な思考には物凄い違和感を持っております。
結局、一面的にしか物事を捉えられないような、
視野の狭い狭い考え方だと思うのです。
これは右翼的思考も同じです。
見る視点が違うだけですね。

沖縄戦の一面的な側面の押し付けによって、
平和教育・平和学習をするということは、
これはつまり、多面的・多角的な視野を否定すること、
あるいは、
物事を一面的にしか捉えることができない人を育てる…
そのようなことになってしまうと思います。

学校教育として、
これはふさわしいというのでしょうか?
少なくとも自分はそうは思いません。

第一外科壕跡で出会った生徒さんたちは、
どのような平和教育・平和学習を受けたか知りませんが、
一面的な沖縄戦を押し付けられたんでしょうね…
押し付け=強要=強制だから、
沖縄戦についても特に興味ないって感じがするんです。
ま、「やらされている感」っていうんですかね…

繰り返しになりますが、
平和教育・平和学習そのものを否定しているわけではありません。
その方法・手段が懐疑的だということを強調しておきます。

1990年代の沖縄旅行 あるものがなかった頃のバクナー中将慰霊碑

2020年11月29日 00時09分40秒 | 1990年代の沖縄旅行 いろんな場所編
今回は糸満市真栄里にあるバックナー中将の慰霊碑です。

この周辺には戦跡が多いですから、
ここも比較的有名な場所かもしれません。
だから特に詳しく説明をすることはしませんが、
アメリカ第10軍司令官の、
サイモン・B・バックナー中将が戦死した場所です。

ただ、
第二次大戦中で唯一の戦死者でもあります。
中将という将官クラスで戦死してしまったのは、
ヨーロッパ戦域を含め、
このバックナー中将だけなんですよね。

また、
米軍の公式見解では砲弾の爆発で破砕したサンゴ礁が、
胸にあたって亡くなったというものですが、
興味深いことに、
日本軍側の証言には狙撃したというのもあります。

現在の「山形の塔」あたりから狙ったというものですが、
本当かどうかはちょっとわかりません。

ただし、
「山形の塔」からこの場所までは、
直線距離にして500メートルぐらい。
現在は樹木や建物で直接見えることはできませんが、
沖縄戦当時の写真を見る限り遮蔽物はなく、
しかも高台で目立つ場所ですから、
理論上は可能かもしれません。
ま、ちょっとしたミステリーですね。

当然のように慰霊碑も高台の上にありますから、
階段を登っていくことになります。
すぐに長方形の石碑が見えるのですが、
1990年代当時はなかった石碑ですね。





奥のほうにあるの慰霊碑類は、
現在も変わらずにありますね。







ちょっとわかりにくいかもしれませんが、
「サイモン」ではなく「シモン」と書かれています。
建立も古いのではないのでしょうか。
ま、英語の読み方は時代によって変わりますからね。

昭和20年代の新聞や書物なんか、
「マッカーサー」を「マックアーサー」
って表記していましたから。





景色がとてもいいものだから、
思わず海を撮影しときました。
右下の日付は96.7.2ですね。
遠くの島は渡嘉敷島です。

しかし、
2020年現在と比べると「写っていないもの」があります。
それが何なのか、お分かりになるでしょうか?

撮影日は前述のとおり1996年ですから、
これがヒントになるかもしれませんが、
ま、地元の人にはすぐにわかってしまうかもしれません。

この当時はまだ糸満市に「潮崎町」がなかったのです。

潮崎町は遠浅を埋め立てた土地なのですが、
この当時はまさに、
これから埋め立て工事が始まろうとしている時期でした。
住宅は当然ながらありませんし、
糸満市役所もありませんでした。

遠浅がまだ残っている風景は、
今となっては二度と見ることのできないもの、
となってしまいましたね。
時代の流れを感じてしまいます。