Miyuki Museumブログ

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Miyuki Museumのひとりごと

海女さんの絵

2014-01-04 | 三重県便り
(Sat)
昔の絵がとっても興味深かったので
画像はnewspaperよりパチリ☆camera

三重便り/毎日jpより 
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三重の海女文化/絵に描かれた海女たち

江戸時代になると海女が絵に描かれ、広く世間に知られるようになった。

 初期の絵では1666(寛文6)年に
初版が刊行された絵入り百科事典「訓蒙図彙(くんもうずい)」に
「蜑人」と書かれた船の上の海女の図がある。
しかし、どこの海女かは分からない。




三重の海女を、それも潜水中を描いた最初の絵は
「日本山海名産図会」1799(寛政11)年である。


※右下方に潜っている海女がいる

「伊勢鰒(あわび)」とあるが、鰒は現在の南伊勢町を除いて、伊勢ではとれない。
イセエビと同じように、当時は志摩も伊勢の一部と考えられていたのであろう。
間違いなく志摩の海女である。

 絵は枕草子の場面を思い出させる。
もっとも男は船上にいるが忙しそうに働いており、
枕草子のように、鼻歌など歌ってはいない。

 潜った海女たちは裸である。そして水中メガネを使っていない。
海中でメガネなしで長く目を開けていられる人は少ないから、
当時の海女はどのように耐えていたのだろう。
メガネの普及した今日からみれば、アワビ漁獲量はうんと少なかったに相違ない。

 浮世絵の流行とともに海女も画題になっている。
その存在が珍しかったこともあるが、
女性の裸体を労働の姿で描きながら、エロチックな興味も加わっていたのだろう。
鈴木春信、喜多川歌麿、歌川豊国・豊貞らが描いている。
 

幕末の1857(安政4)年、二見浦の夫婦岩を背景に
海女がアワビとりをする三代・豊国の「光氏磯辺遊の図(一部)」を見ていただこう。
 

※背景に夫婦岩が描かれている

実際に当時の海女は腰に綱を巻いたり、
ふんどしをする程度であった。
サメよけのため腰巻きをしていた所もあったらしい。


1883(明治16)年に東京上野で開かれた
第1回水産博覧会に出品された「三重県水産図解」「三重県水産図説」には
「蜑婦(あま)」として海女が描かれている。



この図解は専門の絵描きが当たっただけに、正確に描かれており、
明治初期の海女の様子がよく分かる好資料である。
まだこの時期も裸で、水中メガネも使っていない。
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