まさか、まさかの・・・-脇袋塚古墳群-

2014-12-17 21:37:55 | 歴史あるトコ-福井

福井県三方上中郡若狭町

 

 

ナビに表示された「西塚古墳」の文字に引かれ、

急遽、左折!

 

脇袋古墳群!

 

 

若狭の国造である「膳臣」一族の墳墓と考えられています。

 

 

5世紀ごろの築造で、上之塚古墳➔西塚古墳➔中塚古墳の順。

 

 

上之塚古墳はキレイ前方後円墳!

 

 

そしてナビに記されていた西塚古墳。

 

本来は前方後円墳でしたが、今は後円部を残すのみ・・・

 

数多くの副葬品が出土したようです。

気になったのが・・・・

「日本書紀の記載と出土品の符合から、膳臣斑鳩その人ではないかとされています。」




膳臣斑鳩?

 

 

 

若狭は古くからの御食国(みけつくに)」といわれ、

皇室・朝廷に海水産物を御食料(穀類以外の副食物)を貢いでいました。


そして膳氏は、皇室や朝廷の御饌(みけ)を担当した伴造氏。

景行天皇の東国行幸の際、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと、膳氏の始祖)が蛤を捕り、

料理をして献上したところ、天皇の子孫代まで御食を供するよう「膳臣」を授かったといいます。

 

 

膳臣斑鳩 = 膳臣傾子(加多夫子)

 

日本書紀に欽明天皇の時代、「越国で高句麗の使者を接待するため派遣された」とされる人物です。


 

 

さらに「膳氏」といえば、思いつくのが

膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)

 

 

聖徳太子の妃の一人です。

 

そう膳臣傾子の娘なんです。

 

 

 

 ただ問題が一つ。



西塚古墳の築造は5世紀後半・・・つまり470~490年頃。

 

菩岐々美郎女が聖徳太子の妃になったのが598年。

実娘か? 養女か?という説に当てはめても・・・

 

 膳臣傾子の生年5世紀後半~6世紀初頭頃。

 

 

時代が合わない・・・・

毎度のことながら・・・・ 

 

 

まぁ、推古天皇以前の時代は不明なのがほとんどですからね・・・

微妙なズレがあるかもです。

 

 

そういうことにしときましょう!

 

 

一度、行ってみて

福井県三方上中郡若狭町  脇袋古墳群




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