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与那原大綱曳ー「むら」の「祭り」から「まち」の「まつり」へ  (1)

2012-06-21 11:02:20 | Weblog
はじめに  歴史的背景  「綱曳行事規定」  農耕儀礼としてー起源伝承から  期日と祈願  踊る・練る・競う・かつぐ  引く・遊ぶ・ねぎらう  <祭り>と<まつり>  「与那原大綱曳実行委員会」と「与那原まつり運営委員会」  「むら」から「まち」への変容ーその要因   「“つなひき”から“まつり”へ」ー町商工会青年部の決起   「まつり」の二元性と一元化に向けて

はじめに

 近年、「地域起こし」の一環として地方自治体が主催する自治体名を冠した「まつり」が、沖縄県でも盛んである。しかし、夏と秋に集中するこの「まつり」は、新聞の一面を割いて宣伝される広告に掲載された行事日程表を一覧する限りでも、地域の個性が全面的に開花しているといった趣は少なく、類型化・マンネリ化が見てとれる。それにも関わらずこれらの「まつり」が盛んなのは、地方自治体が都市化あるいは過疎化、もしくは地域の変容を正面から受け止め、相応に「地域の活性化」を図ろうとしている姿勢の表われと解することができる。

 本稿が対象とする沖縄県与那原町は、那覇市の東に中城湾に面して位置し、かつては「山原船」(1)の離発着地・中継港としてにぎわった町である。現在でも沖縄本島中北部と南部を結ぶ中継地点にあるが、戦後における本島内交通網の整備と船舶の近代化によって、東海岸における海上交通の拠点としての役割は薄れ、町の姿やイメージも変容を余儀なくされてきた。

 与那原町は現在、行政区が14に分かれている。そのうち本稿が対象とする「与那原大綱曳」の実施主体となってきたのは、王国時代に「与那原村(むら)」を称していた「6区」(以下、「旧与那原」と記す場合もこの「6区」を指す)、すなわち港、江口、中島、新島、森下、浜田の行政区連合である。「与那原村」と並んで、「板良敷村」「上与那原村」「大見武村」と称していた3区は、現在でも集落単位で旧暦6月26日に小規模な綱引きを年中行事として続けている。

 与那原町の人口は平成2年度の集計で14,438人、面積が4,26平方キロメートルである。県下では渡名喜村に次いで面積の小さい自治体である。人口密度も那覇市に次いで2番目に高く、目下港湾の埋め立て計画が進行中である。近年那覇市のベッドタウン化が進み、農業人口も急減している。6区では、1,590の世帯数(平成2年度)に対して専業農家はわずか8戸(専業・兼業総数は173戸、平成元年度)である。(2)

 「与那原」という地名からすぐに連想されるイメージが「与那原大綱曳」であることは、町内外の人々が等しく認めるところである。ところが、近年までその「大綱曳」は、与那原町市街地の中核をなしているものの行政区域としてはあくまで町の一角に過ぎない前述の6区が主催してきた。その「大綱曳」は、他集落同様旧暦6月26日に催されてきたが、「サラリーマンが増え、農業従事者が少なくなったことや、刊行宣伝的要素が強くなったことなど)(3)から、戦後まもなくその後の一番近い日曜日に開催されるようになって今日に至っている。

 6区の町民の間には、規模が大型化し、開催日を日曜日に移行して後も、あくまで6区の伝統行事であるという意識が強かったが、次第に6区単独の維持に不安を生じるようになり、一部町民の間から町の「まつり」に転換・昇格し、その一部として維持する動きが生まれた。(4)これを行政当局が引き取って、「与那原まつり」と銘打ち、新たな町づくりを図ってから、すでに10年を越している。

 本稿では、「与那原大綱曳」が「町づくり」の一環として開始された「与那原まつり」に包摂されることで、延命を図る過程を、宗教学でいう<祭>の祭儀(ritual)性と祝祭(festivity)性の変容という視角から追跡せんとするものである。(5)
 戦後まもなく再開された「与那原大綱曳」は、以下で述べるようにその後曲折を経ながら結局一度も中断されることなく現在に至っている。まさに「それでも、大綱曳は続いている」のであるが、他方では「それだから、大綱曳は続いている」という側面も合わせ持っている。「大綱曳」を支え、変え、つくる者の主体と主体性を動的に把握したいという筆者の願望がこの稿には伏在している。この願望の背景には、筆者がここ18年ほどこの与那原町に居住し、一町民として直接間接にこの「大綱曳」に関わってきた経緯がある。


歴史的背景
 
 現在の与那原町は、地番のうえでは大見武、与那原(行政区として与原・浜田・新島・中島・森下・港・江口・町営団地・日の出園・、このうち与原・町営団地・日の出園を除く区が6区である)、上与那原、板良敷(行政区として板良敷・県営団地・当添)に分かれるが、行政的な「町」として独立したのは、戦後1949年のことである。それまでは大里村の一角をなしていた。
 与那原町の歴史を特定する要因は、いくつかある。そして、それが「大綱曳」および「与那原まつり」を規定している。

 要因の一つは、農村一般として持つ性格とその変化である。17世紀半ばの記録とされる「琉球国高究帳」では「島添大里間切与那原村」の田高325石余、畑高155石余となっていて、田作中心の農業であったことがわかるが、王府編集になる『琉球国由来記』(1713年)大里間切(「間切」は現行の「町」や「村(そん)」に当たる)の項には、「与那原村(むら)」(「村(むら)」は現行の字に当たる)の他に「上与那原村」「大見武村」「板良敷村」の各集落で稲穂祭・稲大祭が執り行われたことが記されている。
 町内の地質の大半は、肥沃で保水力に富むジャーガル土壌で、近年は稲作に替わってサトウキビ作と花卉園芸が農業の中心である。しかし、サトウキビの千巻生産量は昭和50年代から5,000~6,000トン台で低迷を続け、平成2~3年期は3,563トンまで落ち込んでいる。(6)これが、那覇市のベッドタウン化による宅地化と関わることはいうまでもない。

 もう一つの要因は、琉球王国の首都であった首里に近接するという特性である。王権との関連でいえば、とくに国家最高の女性神職「聞得大君(きこえおおぎみ)」の就任儀礼「御新下(おあらお)り」の一環を占める儀礼が同地で挙行された。「御新下り」の主祭場は知念間切(現知念村)の「斎場御嶽(セーファ・ウタキ)」であるが、それに先立つ「水撫で」(みそぎに相当すると考えられる)が、与那原の「親川」で行われたのである。(7)『琉球国由来記』はこの「オヤガワ」のことを、「浜ノ御殿」と呼ばれる場所に天降りした「天女」が、子に産水を浴びせた所と記している。(8)「親川」の「川」は、井戸や泉の方言の漢字表記である。この「親川」は「与那原村」の村落発祥にかかる聖地として今も住民から崇められ、また天女が天降りした「浜ヌ御殿(ウドゥン)」は、現在「御殿山(ウドゥンヤマ)」、通称「青少年広場」と呼ばれて「与那原大綱曳」をメインとする「与那原まつり」の会場となっている。

 与那原町の歴史を特徴づける3点目は、沖縄本島東部にあって海に面し、戦前まで中北部と南部を陸路・海路両面で結ぶ役割を果たした港町・商業街としての特性である。近世から近代にかけて、首里や那覇、および近隣の村々と本島中北部の間で物資が交流する場として栄えた。その足となったのが、「山原船」(マーラン船)であり、馬車である。『与那原町史』によれば、明治34年にこの地から移出されたのは、焼酎(泡盛)・ソーメン・昆布・白米・味噌・醤油などの食料品に甘藷や豚、逆に移入されたのは薪炭・木材・木炭・樽板・製藍などである。(9)現在も海辺に材木店が数軒並んでいるのは、当時の名残である。

 港町・商業街として人口の増加をみた「与那原」だからこそ、大見武や上与那原、板良敷のような近隣の集落に比して大きな綱を毎年引くことができたということができよう。ただし、この都市化が近年では「大綱曳」に関心を示さない「寄留民」を増やし、その存続を危うくしてきた要因であることも、またたしかである。しかし、そのことは後で述べることにして、以上3つの歴史的特質を念頭に置いたうえで、「大綱曳」の歴史と現況を概観することから始めよう。

 現在の大綱引き(「大綱曳」なる表記は地元の「こだわり」に基づくもので、本稿では通常「綱引き」と記すことにする)は、現在南北に長い「青少年広場」で行なわれるが、戦前は中城湾に面し、港と直結して東西に延びる浜で引かれた。現在の地に会場が移ったのは戦後まもなくのことで、浜や海辺には戦争で破損した軍艦の残骸などがあって綱を引ける状態にはなかったので、当時整地が終っていた御殿山に会場を移動したのだという。戦前の綱作り場所は現在と同じく東方(アガリカタ)が「阿知利世主」と呼ばれる拝所前の馬場跡、西方(イリーカタ)は親川広場で、東の綱は漢那小路から浜へ、西の綱は親川から浜に伸びる道を通って浜に向かった。浜はその後埋め立てられて狭くなっているが、戦前はもっと広く、普段は山原船が本島北部から運んできた薪が山と積まれていたという。

 いつから浜で行なうようになったか、その前は別の場所で引いていたのではないか、そのことを知る古老はいない。しかし、浜で引くようになったのは山原船の拠点としてにぎわいを見せるようになってからで、その前は今は東方の綱をつくる(当時の)馬場で綱引きが行なわれていたことを推測させる行事はある。この馬場跡で旧暦6月15日のウマチー(稲大祭)に際して、子どもたち主体で行なわれるウマチーヂナグヮーがそれである。この「祭り」は元来、新米を神々や祖先に供え、五穀の豊穣を感謝する稲の収穫祭であった。隣の(旧)佐敷村(そん)字小谷では、「シンメージナ(新米綱)」と呼ばれる子どもたちだけの綱引きが行なわれていた。与那原のウマチーヂナグヮーもウマチーの一環として催されたことは、主催が「大綱曳実行委員会」であり、委員会としての「祈願」が前もって実施されることからも理解できよう。綱は東方が雄、西方が雌で、中島、江口、港の3区が東方、浜田、新島、森下の3区が西方に属するのも「大綱曳」の場合と同様である。あらかじめスピーカーで綱引き歌を流して、子どもたちが定刻に集まるよう連絡がある。綱は、親川の集会場に保管されている。綱を取り出し、子どもたちがハーイヤ、ハーイヤの掛け声をあげながら、雄、雌の順で馬場跡に運ぶ。他の子どもたちには、鉦やドラを打たせて、雰囲気を盛り上げる。「大綱曳実行委員会」のメンバーである6区の区長たちが全体をリードする。綱は3回引かれる。

「綱曳行事規定」と行事の主体

 戦後の綱引きは、終戦から2年目の1947年夏に再開されたという。与那原町の全区が大里村に所属していた時期であり、当然ながら旧与那原村(むら)単独の主催であった。当時、ワラは隣村(そん)の玉城村・知念村の農家から買い付け、鉦は大里村西原・大城から借りてきたという。戦前は、旗頭の兵庫は東が今と同じ「国豊」、西は民衆の安寧を願う「民安」であったが、戦後、民衆の繁栄を期する「民栄」に変わった。ちなみに、現在では与那原町に所属する上与那原、板良敷、大見嶽は、当時も現在も集落単位で、この時期に綱引きを挙行している。
 戦後の「大綱曳」の行事枠組みを規定してきたのは、1952年7月に作成された「綱曳行事規定」である。(10)この年、森下区長兼島信助の作成・提案になる案文が一部修正のうえ、6区区長によって決定された。
 まず規定の前文から紹介しよう。初めの「綱曳の由来」については、後ほど詳述するとして、続いて大綱引きが「遠く吾々の祖先より今日迄続与那原大綱と世間に喧伝せられ、其のもっとも勇壮にして又華やかなる事沖縄随一と称えられし程で、当日は近郷近在の老若男女はもとより首里那覇からも陸続として見物に蝟集し、実に殷賑を極めた大綱曳であった」とこれまでの経緯を述べる。そして、この大綱引きを「子々孫々に永久に継承さすべく、毎年旧六月二十六日には旧慣の通り盛大なる行事として老若男女を挙げて盛大に行ひ、我が与那原の発展と隆盛を祈願すべきである」とその意義を強調し、「後日の為に別紙の通り規定を設け、其の規定に依り今後綱曳の行事を執行するものとす」と、規定制定の趣旨を述べる。規定の内容は次の通りだが、そのまま戦前から戦後まもなくにかけての「六区」=与那原「むら」の大綱引きの概要を明記したものとして読むこともできる。

○ 期日:毎年旧6月26日
○ 主体:「旧与那原」すなわち「現在」の浜田区、新島区、中島区、港区、江口区、森下区
○ 性格:「昔より祭事を兼ねた行事であるから、之を如何なる事由あるにせよ町全体綱としての行事の変更は絶対に容認せざる事
○ 費用:一般寄付で充当
○ 施行主体:六区区長を中心に各区より区長推薦による実行委員の合議に基づく。委員長・副委員長は互選、副委員長は会計兼務
○ 実行委員:各区3名
○ 綱作り・綱曳要員:数え年17歳以上60歳までの男子は全員出勤。ただし、該当者にして出勤不可能者や官公吏、特殊業者並無届欠勤者等に対しての処置は別に定む
○ 旗頭:東西一本、申し込みにより加勢旗頭追加可能。毎年作り替えあるいは張り替えとする。ただし、東を菊、西を梅花とすることについては変更しない事
○ シタク:綱曳の時、シタク以外の者は絶対に綱の上に登らないこと
○ 実行委員会:実行委員長(現区長、綱曳行事の統括) 副委員長(同、会計事務一切) 綱作責任委員(同、藁・縄その他一切の資材購入) 用具責任委員(同、鉦鼓・太鼓・ドラ・鐘その他の用具並びに装束・鉢巻) 接待責任委員(同、桟敷作・来賓接待並びに行事期間中の茶・炭・酒肴一切) シタク責任委員(同、シタクの人選並びに準備一切) 綱作・綱曳指導委員(各区専任実行委員、寄付徴収、桟敷での入場者整理・料金徴収、綱作・綱曳の実際指導)
○ 要員と装束:旗頭持(東西8人系6人、鉢巻は東が紫、西は赤) 鉦鼓打(東西2人ずつ計4人、鉢巻白) 太鼓打(東西25人以上、計50人以上、鉢巻白)
  銅鑼鐘打(東西2人ずつ計4人、鉢巻東紫・西赤) カナチ人数(東20人、西25人、計45人、鉢巻東紫・西赤) カナチ継(東3人)
○ 綱作指導委員:各区より3人
○ 東西の組分け:東方は中島区、港区、江口区、森下区3班。西方は新島区、浜田区、森下区の1班2班
○ 綱曳行列順序:舞女(メーモーイ人数)、旗頭、金鼓、シタク、一般その他
○ 綱曳行列の時間:午後4時定位置より出発

 規定に基づいて早速兼島を実行委員長とする「綱曳実行委員会」が結成された。第1回実行委員会で決まったのは委員他の選任、材料・用具の調達方法、綱作り無断欠勤者の罰金、綱作り集合日時、寄付金徴収方法、綱の総延長(東西とも23間)、ワラ束の配布数、ウマチーヂナグヮーに関すること、以上である。

 現在の与那原大綱曳の実施主体は、「与那原大綱曳実行委員会」である。その原型は従前からあったと想定されるが、明確な組織規定のもとに構成されるのうになったのは、前述の通り1952年に「綱曳行事規定」(以後「規定」と表記)が制定されて以後のことである。この年は、歴史的に見れば沖縄が日本から法的に分離することが確定した年でもある。この時点では「綱曳実行委員会」と称していた。
 その後の大綱曳は、期日や綱作り態勢など一部に異同はあるものの、基本的にはこの規定に基づいて挙行されている。規定の第一項によれば、大綱曳は「毎年六月二十六日に綱曳を行ふ事」とあり、続く項では「現在の浜田区新島区中島区港区江口区森下区の六区の行事たる事を規定す」とある。与那原町を構成する他の「区」すなわち上与那原、与原、大見武、板良敷、当添は主催者に含まれていない。このことにはふたつの意味がある。

 ひとつは、他区を主催者から排除することである。実際、旧士族出身者が首里・那覇から移住して形成した集落(いわゆる「ヤードゥイ」)である当添と、「寄留民」と呼ばれた外来者や6区の次・三男で形成された与原を除く旧来の3集落は、いずれも独自の綱引きを旧暦6月26日に挙行して、現在に至っている。旧「与那原村」を前身とする6区による綱引きという限定は、6区の区長プラス各2人という役員構成や、綱作りに際して「十七才以上六十才迄の男子は綱作り綱曳には全部出勤する事」という規定にもよく示されている。

 次に、「綱曳は昔より祭事を兼ねた行事であるから、之を如何なる事由あるにせよ町全体綱としての行事の変更は絶対に容認せざる事」と規定が述べるように、町行政当局の介入も認めない方針を貫こうとしている。kれは、1952年当時、すでにそのような意見ないし動きが無視できないものとして存在していたことを示すものである。言い換えれば、「大綱曳」は近世の「与那原村」の「祭事」としての性格を受け継ぎながら、集落(地域)の変貌の過程で性格の変更を絶えず迫られてきたとうことになるのである。 

農耕儀礼としてー起源伝承から

 前記「規定」には、次のような「綱曳の由来」が記されている。

 昔、或る所に至って忠実な村頭があった。或る年、稲が頗る不作である上に害虫が発生して、農民は此の上もない苦境に逢着した。そこで彼は、人民を集めて協議をこらし、善後策を講じたが、人民は皆害虫を焼き殺そうと主張するばかりで、他によい工夫がない。村頭は折角作った作物を焼き払ふのは惜しいと思ひ、協議を中止して家に帰った。 色々と思案にくれたがよい考が浮かばない。彼は終に野原に捨ててあった父のところへ行き、事の次第をのべて教を乞ふた処、父は農作物を焼くのは惜しい事だ。人民総出になって太鼓を鳴らし、燧火を振りかざしつつ、大きな綱を作ってそれを曳け、綱曳く時は思ふ存分大声を出して騒げ、そうすれば害虫は自ら死滅してしまふ、と教えて呉れたので、村頭は早速人民を集めて右の次第を話し、大綱を作って青年男女の手によって田の畦で曳かれた。その結果害虫は水中に落ちて死んでしまった。そして害虫を駆除するとともに尚いくらかの収穫さえ得ることが出来た。此の事当時の国王の聴問(「聞」か)に達するや国王は彼らの挙を大いに賞賛し後は国全体に之を奨励したとの事である。それ以来毎年綱曳きは行われ、又六十才以上の老人を野原に捨てる事も禁止されたとの事である。

 この文章は、内容は言うに及ばず表現まで『島尻郡誌』所収の「綱引の由来」とほとんど同じである。(11)同誌は「大里村の郷土資料」を参照したとあるから、かつて大里村に属していた与那原にも同様の伝承があったことが考えられる。

 一方、与那原町教育委員会が平成3年に発行した『与那原の民話』は、綱引きに関する別の伝承を収録している。ひとつはこうである。田畑の害虫を追い払うため、お年寄りの進言で野山や周辺の草を集めて妬いて、みんなで鐘(鉦鼓の類)やドラを叩いたら逃げた。それで豊作になったら今度は集落の西と東で出来具合を争ったので、綱引きで勝敗を決するようにとの助言を得た。(12)もう一つは上記伝承とほとんど同じであるが、国王聴聞の話は出ず、始まりは400年前とする。最後に、豊漁を祈願する意味も込めて浜で引くのだという説明が付加されている。(13)

 また与那原の(大)綱引きは、上与那原の綱引きが終了して後に引く慣わしであったが、ある年、上与那原が引かないうちに与那原で綱引きを行ったら、いろいろなたたりがあったので、もとの通りに上与那原村が先に引くことになったという伝説もある。(14)この伝承は、後術するように、海辺に位置する「与那原村」が、山手にある「上与那原村」からの「分村」であることを示唆しているが、一方、旧暦6月25日以前に「引く」ことを戒めたものとも受け取れる。「大綱曳」の維持・展開を図るために、この日が平日だとその「直後」の日曜日に開催日をずらす、とする発想の裏には上記の事情もあったのかも知れない。

 400年前に始まったとするのは同じだが、理由については別の話も伝わっている。昔のこと、今「アマグイモー(雨乞い杜)」と呼ばれているところで雨乞いの儀礼をしたら雨が降った。ところがしばらくしてまた雨が降らなくなった。ある人が綱を引いたら雨が降ると言ったのでで綱を引いたら雨が降り続けたので、以来綱を引くようになった、というのである。別系統と見られる話も伝わっている。戦争の時代があって、同じ人間同士が殺しあっていた。神様が海に現れて殺し合いではなく、綱引きによって勝敗を決するように、と伝えた。神様が現れた日が6月26日だったので、今でも村びとは一致してこの日に綱を引く。それで綱引きの前は必ず海が荒れるという説明が付け加わっている。(15)これらの伝承から、綱引きが「神話の再現」によって豊穣を期する儀礼であったこと、儀礼の執行によって人心をまとめることによって、今で言う「地域の活性化」を図る趣旨が秘められていたことをうかがい知ることができる。

 与那原は元来漁業が盛んでなかったことからすると、豊漁を期するという趣旨は後世以降の付加とも考えられる。近世以降とくに首里・那覇から移住してきた士族出身の「寄留民」が当添区を中心として漁業に従事し、旧暦5月4日の豊漁祈願祭「ハーリー」(爬龍船競争)を主催、そのため旧来の農民が主催する綱引きと対抗する形になって町民の融和を図りにくい状況であったという。(16)その綱引きも現在のように東西に分かれて引くのではなく、親族組織(「門中」)による二分法になっていて、1回目は「寄留民」や見物客を排除した「門中綱」、2度目がこれらの参加を許した「シュニンジナ(諸人綱)」であったという。(17)


期日と祈願

 与那原大綱曳は、元来旧暦6月26日に挙行されていたが、近年は直後の日曜日に行われる。与那原町では現在、他に上与那原、大見武、板良敷の3区が従来通り26日に綱引きを実施している。沖縄全県下で行われる綱引きの実施時期を比較してみると、6月に実施される例が7割強を占め、それらは15日前後の「ウマチー綱」と25日前後の「カシチー綱」に二分される。前者は旧暦6月15日のウマチー(稲の収穫祭)の、後者は稲作を始めるに当たって必要な雨水が得られることを祈願する「年浴」の一環として挙行された。(18)

 起源説話が雨乞い祈願の趣旨を伝えていることはすでに述べたが、かつて所属していた大里村の集落がいずれも26日に綱引きを行っていることからしても、与那原町の4綱引きがカシチー綱に属することはたしかである。「年浴」のことを、地元では「アミシの御願(ウグヮン)」と呼んでいる。「大綱曳実行委員会」は、本来の期日に行わず、日延べを行うことの報告と許可を願う「日延べの御願」を26日当日に実施している。

 「日延べの御願」と綱引き当日の祈願は、「大綱曳実行委員会」の主要メンバーである6区の区長(自治会長)によって執り行われる。実行委員会の上位組織となっている「与那原まつり運営委員会」(後出)の委員長である町長は、当然のことながらこの祈願には参加しない。また、近年まで「与那原大綱曳」を旧与那原集落(6区)の行事と解してきた他区の区長が、「実行委員」として祈願に加わるようになったのは、平成5年からである。当日は、集落の安穏や豊作、綱引き行事の無事終了を祈願するという。祈願は大綱曳実行委員長が祭主となり、酒、米、菓子に線香(火をつけず)を供える。祈願の場所と順路は以下の通りである。「大綱曳」当日は、「親川」に開始の報告をする。このときの供物は「日延べの御願」と同様である。

写真6(親川と綱曳資料館) 写真7(阿知利世主)


  東名大主(アガリナ・ウフス、トウナ・ウフスとも):上与那原集落にあり、同集落の発祥に関わる人物「東名大主」を祀る。上与那原の名幸家の祖とされる。 
  ソウヌマシ:上与那原の開祖を祀る。東名大主の7代目の3男という。6区よりなる与那原集落はかつて海であったが、彼が干拓し、集落の基礎を造ったと伝えられる。海の真ん中に竿を立てて、そこまで陸にしてくれと願ったら、干上がって陸地になったとする伝承もある。このように、与那原は上与那原の祖先が開拓したことから、与那原の綱は上与那原の綱引き終了後に引かれるべきだと言われている。
  阿知利世主(アチリヨノヌシ):与那原の開拓功労者と伝えられる人を祀る。
  御殿山(ウドゥンヤマ):天女が天降りしたと伝えられる場所である。王国時代は、先に述べた「聞得大君」の就任儀礼に際して、祭場となる「斎場御嶽(セーファ・ウタキ)」の儀礼に先立って、ここで東方礼拝が行われた。  
  親川:集落発生に係る井泉である。天女が生まれた子の産水を浴びせたところと伝えられ、新任の聞得大君もここで清めの水を浴びる意の「お水撫で」を行った。

写真8「御殿山(左手広場が「まつり」会場)


 なお、旧暦6月26日に綱を引く上与那原、大見武、板良敷も、集落の発祥に関わる拝所や旧家の祖神、井戸(泉)を区長や区民が巡拝する。また、綱引きが神事としての意義を持っていることは、中断を忌避する観念にもうかがえる。綱引きは暴風のような悪天候でも必ず実施しなければならないとされていて、昭和20・21年は戦争のためやむなく中断したが、それ以外ではたとえば明治天皇の死去に際しても3月遅らせて実施したという。

つくる

 綱は東西2本、ワラでつくられる。2本とも頭部を輪状にし、西方の輪の部分は、東方のそれより大きめにつくる。東方を雄綱、西方を雌綱と呼ぶ。東方の雄綱頭部を西方雌綱頭部に挿入し、挿入した雄綱の輪内に木製の「カナチ棒」と呼ばれる太い棒を通して両綱を結合し、東西双方で引き合う形になる。綱は頭部のカナチ綱、胴体部分の胴綱、4箇所に付けられた手綱、その間に添えられる小綱(帯綱)よりなる。雄綱のカナチ綱の外経は5尺7寸、雌綱の内経が6尺2寸、胴の長さは前出「規定」では23間で、現在もあまり変わらない。頭部のカナチ綱は、雌雄いずれも独自の趣向を施した編み上げ方になっていて、当事者たちはこれが与那原大綱の特色だと自負している。

 綱は、大人の一握りのワラ束つくりから始まる。その3束1組で綱をつくり、これを1Century">単位として何本もより合わせ、大綱に仕上げていく。単位となる綱は100・90・80・70メートルの長さをそれぞれ2本、枝綱8本で東方が阿知利世主前の馬場通り(戦前は農耕馬の競歩が行われた場所である)、西方は親川前の小路でつくられる。現在は「与那原まつり」の一環と位置づけられているため、町の全区で分担して製作し、大綱曳実行委員会に提出している。各区から提出された綱を編み上げて大綱に仕上げる作業は、綱引きの前日、東方は馬場通り、西方がその西に続く中央通りで行われる。両通りは与那原の中心街を東西に貫通する。製作について1952年の「規定」は既述のように「十七才以上六十才迄の男子は綱作り綱曳には全部出勤する事」と定め、また「無届欠勤者は過怠金七十円(軍票=B円-引用者注)特殊業務者は百円宛徴収する事」と記すが、現在では強制ができずに有志を募っている。そしてそれが、「かつぐ」事とともにしばしば人手不足を生じる結果になっている。町役場でも職員に率先して綱作りに参加するよう呼びかけている。

踊る・練る・競う・かつぐ

 「大綱曳」は、「青少年広場」と呼ばれる御殿山の広場で挙行される。綱引きに関る一連の作業・行事の大半は東西に分かれて行なわれるが、広場は南北に長いので、綱引きにあたっては、東グループは南に、西のグループは北に陣取る。東グループは※区以東、西グループは※区以西となっている。大綱は、製作場所の馬場通り・中央通りから会場の青少年広場にかつがれて移動する。経路はえびす通りから東西に走る国道331号線へ出て右折、与那原警察署前の与那原交差点で右折して国道329号線に入って北方向へ。与那原小学校前まで来て右折し、会場へ、とするルートである。
 2車線の国道331号線路上では、車の往来を止めて、路上いっぱいを使って東西部隊による「ガーエー」(競演)が展開される。出演は、「メーモーイ(前踊り)」部隊、「旗頭」部隊、「シタク」、「金鼓(鉦鼓)」隊、これに個人演技の空手なども加わる。

 メーモーイは小太鼓や手拍子で拍子をとり、伝承されてきた綱引き歌を歌いながら踊るもので、婦人部隊の役目である。年配の女性から小学生まで、絣や縞の着物に細帯、あるいは浴衣姿で、鉢巻を前結びにして繰り出す。稽古は東が阿知利世主前、西は親川前の小路で行なわれる。旗頭とは、東が「国豊」、西が「民栄」と大書した幟を太い孟宗竹に取り付け、その頂き部分にチヂン・ドゥールーをしつらえたものである。チヂン・ドゥールーの語義は「鼓灯篭」。東は鼓部分を菊の花、周囲を菊の葉で包む形に、西は梅の花で、周囲に桜を散らした形に仕上げてあり、灯火はつかない。その制作は、与那原中学校の美術の指導で生徒有志が行なう。「供旗」として同形で少し小さい旗頭が同時につくられ、東は「実践」、西は「躍進」と書された幟が付く。それぞれ、バランスを保つために数本の綱がとりつけらてる。旗頭は、綱引きが横の動きを代表するのに対して、上下の動きをとることによって、3次元の動きを演出するとともに、気勢や歓喜を誘導する。重さが30~40キログラムはある旗頭を、青年たちが1人で上下に「躍らせ」、他の要員はとりつけられた綱でバランスを保つ。「躍らせ」る役は、子供たちの憧憬の的であった。

 シタクとは、大綱の行列開始から綱の結合の瞬間まで東西の綱の頭部近くに乗っている者たちのことで、「組踊」と呼ばれる伝統的な楽劇(国の重要無形文化財に指定されている、沖縄の代表的な伝統芸能)や伝説・歴史に登場する著名な人物に扮した若者たちである。東西のシタク一行の先頭には鉢巻に袴姿の少年が立ち、シタクの扮装が表す人物名を書した旗を持つ。その主題、すなわち扮装のテーマは毎年違っていて、登場人物が誰かはその時まで秘密とされている。これもまた、与那原大綱曳の特徴だと町民は自負している。与那原は、伝統的に沖縄芝居と縁が深い地域で、それがこのシタクにも現れている。

 「金鼓隊」は、ソーグ(鉦鼓)と呼ばれる真鍮製の打楽器を左手に持ち、木槌を使って速いテンポで打ち鳴らすグループと小太鼓のグループで編成された部隊で、中学生男子が務める。頭に鉢巻を巻き、剣道着の白い上着にたすきがけ、紺の袴の出で立ちで、とくに鉦鼓の叩き方に特徴があるとして、先輩たちの批評と注文が集中する。夕方からこの部隊の稽古が始まって、街中にそのリズムが響くと、チナムシ(綱虫)と呼ばれる愛好家たちだけでなく、一般の町民も綱引きが近いことを実感して胸をはずませるという。

 東のシンボルカラーは紫、西のそれは赤と決まっていて、鉢巻や帯、旗頭部隊の装束はいずれかに色分けされている。また、一連の行事の進行にあたって、全体にリズムを与え、景気をつけるのはホラ貝吹きと、真鍮製のドラを叩く者の役目であり、中堅・ベテランが務める。

 東西の綱つくりの場から国道への移動は西方(雌綱)が先になし、東(雄綱)が後に続いて「えびす通り」と呼ばれる商店街を南に進み、国道に行き着いたところで東西(左右)に分かれる。国道は通行が規制されていて、そこで東西それぞれの旗頭の「演舞」が披露された後、決戦に際して六尺棒で大綱頭部を支えながら結合させる役目のグループが旗頭の周囲に駆け寄り、六尺棒を縦に掲げて背中合わせに「サーッサ、サーッサ」と声をかけて、気勢を上げる。次に東西とも相手方の旗頭の周りに駆けつけ、同様に「敵方」の旗頭を中心にして気勢を上げる。この部隊が所属の旗頭の側に戻ると、両綱を結ぶ役のカナチ棒部隊が中央に進み、棒を立てにする。カナチ棒は雄側=東方に所属している。このカナチ棒を東西の六尺棒部隊がとり囲み、旗頭の場合と同様に気勢を上げる。その後、町の空手の名人が棒術を披露する。一連の東西の競演を「ガーエー」と呼ぶ。この間、それぞれの金鼓隊は鉦鼓や小太鼓を打ち鳴らし、メーモーイ部隊の婦人たちは小太鼓を叩きながら綱引き歌を唄い、舞う。ホラ貝、ドラのリズムは終始鳴り響いている。

(図2 道ズネー・大綱・町民パレードの進路図) 写真9「国道331号線で行なわれる東西両組のガーエー」 写真10「待機するシタク」


 ガーエーが終ると、東西の部隊はそれぞれ大綱の場所に戻る。ガーエーを含む路上での一連のパフォーマンスを「道ズネー(ジュネー)」と呼んでいて、これが終ると、いよいよ大綱が会場に向かって移動を開始する。綱をかつぐメンバーは道路わきで待機しているが、この場の責任者(大綱曳実行委員会のメンバー)の最大の任務は綱かつぎ要員の確保であり、見物人にも参加を呼びかける。もちろん、町外の人間であってもかまわない。綱の重量は、2トンから2トン400キログラムにも達する。杉製の棒を大綱の下に渡し、両側からそれぞれ2人づつでかつぎ、それが何列も続く。杉棒の数は東西それぞれ40本だから、全体としては160人の担ぎ手が必要な計算になる。そして、会場まで約500メートル。綱の重さが肩に食い込み、会場での綱の上げ下ろしに危険が伴う重要な任務であるが、ここ十数年町民の参加が思わしくなく、祭り好きの外人や一般参加者の協力がないと実現できないのが近年の姿で、大綱曳実行委員会の最大の悩みとなっている。
 大綱の頭部分は、6尺棒部隊が高々と掲げ、綱上にはシタクがそれぞれの役柄にふさわしいポーズをとる。先頭は旗頭、ついで金鼓隊、メーモーイ部隊、大綱、町の各種団体、一般参加者の順で国道331号線を西に向かい、与那原三叉路で方向を北に転換、国道329号線を進んで与那原小学校に道路をはさんで面する会場の「青少年広場」に向かう。東の大綱が南側の入り口から、西は北側の入り口から入場し、それぞれ南北に陣取る。

ひく・遊ぶ・ねぎらう

 広場は南北に長い。東部隊は北に、西部隊は南に陣を張るが、なぜ反対ではいけないか、理由は聞けない。大綱が到着すると、東西それぞれでひとしきりメーモーイの競演がある。広場の国道を背にする側には桟敷が設けられていて、町長他「与那原まつり運営委員会」や「与那原大綱曳実行委員会」の主要メンバーや来賓、年配者などが席を埋めている。その前で、金鼓部隊の鉦鼓が鳴り響き、メーモーイが演じられる形になる。この間、旗頭は桟敷の正面にくくりつけられていて、カナチ棒担当やシタクも近くに控えている。メーモーイがひとしきり続いた後、大綱かつぎのメンバーによって綱が持ち上がる。植えにはシタクが乗り、両綱の頭部は双方の6尺棒組によって高く掲げられ、東西の大綱が接近する。東(雄)綱の頭部が西(雌)綱の頭部の中をくぐり、もう1度雄綱の頭部が現れると、すかさずカナチが差し込まれる。ど同時にシタクが地上に跳び下り、いっせいに大綱が引かれあう。両綱の結合とシタクの跳び下り、両綱の引き合いのタイミングのすばやさが、他地域にはない与那原大綱曳の妙味として、チナムシ(綱虫)たちは鼻を高くする。

(写真11「大綱行列(西方)」 写真12「両綱結合」 写真13「メーモーイ」 写真14「金鼓隊と桟敷」


 観客の一部も小綱にとりかかる。その数は数千人に及ぶ。大綱の先頭にはリーダーが乗り、それぞれ赤・紫のチーム旗を振りながら、自陣営を指揮し、鼓舞する。大綱は、単に横方向に直線的に引かれるのではない。先導者に合わせて上下にゆする。ゆすりながら引く。そして引きながらゆする、という動作が万余の人ごみの中で続く。まるで大綱が生きているかのように。ホラ貝やドラの音がいよいよ高くあたりに響き渡る。二つの大綱は合わせて4トンを越すから、双方の引き手も同じ力を継続的に出して引き続けるのではない。引き手や相手方の大綱の動きを見据えながら掛け声をかけ、旗を振って、自陣営に緩急の動きをつくりながら、勝利に導くのが大綱上のリーダーの役目である。しばらくすると、綱が一方に動き出す。そうすると引かれる側に回った陣営に、観客から引き手に回る人たちが出てくる。そうこうするうちに、カナチ棒の下に設定されていたラインから大綱は大幅に移動を始め、勢いがとまらなくなったところで、勝敗が決する。

 勝った側のメーモーイ部隊が時を移さずに飛び出し、歓喜の踊り、歓喜の綱引き歌を歌いだす。両手の手首を前後左右にひねりながら、手の動きと合わせて両足を交互に前に出す。綱引き歌の合間に、「ヒヤ・マカチャサ(それ、勝ったよ)」という囃子が混じる。一方、勝った側の旗頭2旗が広場中央で、自陣の勝利を謳歌するかのように空中に舞う。正面では用意されたクス球が割られ、泡盛の1斗樽が割られてコップ酒が周囲に振舞われる。ひと時おいて、負けた側のメーモーイ、旗頭の空中乱舞も加わって、「祭」は頂点に達する。メーモーイには一般の観客も加わることがあるが、とくにアメリカ人女性が加わってみよう見真似で踊りだすと、歌舞のメンバーの勢いも最高潮に達する。もちろん、アメリカ人男性は綱担ぎから始まる欠かせない飛び入り要員である。

 旗頭部隊の一部は、綱引き前の国道での演技同様に、東西入れ替わって「敵陣」の旗頭の周囲に駆けつけ、周りを取り囲んで、菊(東)や梅(西)をかたどったチヂン・ドゥールーの真下に取り付けられた数本の縄をバランスよく引き合いながら、旗頭を上下させる。「鼓灯篭」を取り付けた太い竿を右手で支え、左手で抱えながら上下する竿を垂直に保つのは屈強の若者であり、何名かで交替しながらパフォーマンスを維持する。風や旗頭を支える若者の未熟さのせいで地上に倒れることもあり、そのときは観客のため息があたり一帯に流れる。東西の旗頭を接触させ、「敵方」の旗頭を倒そうとする緊迫したシーンも演出される。これは、旗頭を支え、これを維持せんとする部隊の腕の見せ所ともなる。この間、メーモーイが継続し、金鼓隊の鉦と太鼓、ホラ貝、ドラの音が祭の雰囲気を最高に盛り上げる。旗頭、メーモーイ、金鼓隊、ホラ貝、ドラの競演の間、綱引きの主要部隊は大綱に座ったり、見物したりして休養をとるが、まもなく第2戦が始まる。ふたたびシタクが大綱の上に乗るが、このときの出で立ちは、第1戦の時とは違うテーマによる扮装をしている。同じ段取りでもう1度大綱が引かれ、その後に各種競演が繰り返される。そして綱引きが終る。旗頭を先頭に金鼓隊、メーモーイ部隊、6尺棒部隊が親川広場に引き上げる。大綱はそのまま、会場に残される。取り付けられた「共綱」の一部を切り取り、そのまま持ち帰る人たちがいる。縁起がいいというのである。一方、会場の周囲には出店のテント小屋が立ち並んでいて、会場の南側には後述する「与那原まつり運営委員会」主催のアトラクションが繰り広げられる大型の舞台が設置されている。大綱は「まつり」が終了する間際に大型トラックが引き上げに来るまで、会場に残され、その間観客の格好のベンチに早変わりする。

(写真15「大綱曳の後、乱舞する東西の旗頭」 写真16「親川広場の演芸会」)


 親川広場に戻った綱引きの主要部隊の前で、旗頭部隊が東西の競演を再開し、金鼓隊が呼応する。こうして、一連の綱引き行事は終了する。広場にはシートが敷かれていて、舞台が設けられている。大綱曳実行委員長の挨拶があり、引き続き「与那原まつり実行委員会」の委員長を務める与那原町長の謝辞が述べられた後、実行委員会事務局から会計報告が行なわれる。すでに金鼓隊の中学生にはジュース・コーラが配られて、この時点までには解散しているが、広場では酒やビールが出回り、残りの部隊に応援の観客も加わって慰労会が始まっている。そして、舞台では演芸の夕べが開始される。これが目当てで集まる地元の老人たちもいる。出演団体や出し物は毎年変わる。町婦人会による芸能披露もあれば、町内在の琉球舞踊教室などが、それぞれ主宰者・門下生の芸を披露することもある。ちなみに、平成2年の演芸会では16の演目があり、うち琉球舞踊11、日本舞踊2、武と舞2、空手1となっていて、出演団体は7である。この時の主催者は、町婦人会となっている。
 一方、「まつり」会場の青少年広場では、舞台公演や「沖縄相撲(角力)」大会が催され、夜店も賑わいを見せる。最後は花火大会で2日間の「まつり」の幕を閉じる。町当局が介在しない時期の「大綱曳」の相撲(角力)大会は、「大綱曳実行委員会」の主催となっていたが、綱引きが「与那原まつり」の一角に組み込まれて後は、町体育協会の主管となっている。


(1)「戦前まで那覇や与那原、平安座、読谷村比謝橋などの中南部と、今帰仁村運天や国頭村奥などの北部、いわゆる山原(やんばる)地方とを往来した交易船のこと」「本島中南部の米・麦・豆などの穀類や黒糖・塩などの日用雑貨と、山原地方の材木・薪炭などとの交易を主とした」(名嘉真宜勝「山原船」沖縄タイムス社『沖縄大百科事典』下巻、p765)。その関係で与那原は、近隣の町や村から物資が集まる陸上交通の要所でもあった。主に荷馬車が使われたので、この方面の運送に携わる人たちも多かった。
(2)以上のデータは平成3年度町勢要覧『与那原』(同役場)による。
(3)『与那原町史 序説・むかし与那原』(与那原町役場、1988年)、p307
(4)照屋義実「魅力と活力ある地域づくりをめざして」(幸地進編『さきがけ』1986年)、p.6
(5)薗田稔「祭 表象の構造」(『祭の現象学』、弘文堂、1990年)、pp.41~87
(6)平成3年度町勢要覧『与那原』(同役場)
(7)琉球史料叢書1(横山重編、1972年、東京書籍)、pp.318~319
(8)琉球史料叢書1(横山重編、1972年、東京書籍)、p.319
(9)『与那原町史 序説・むかし与那原』(与那原町役場、1988年)、pp.309
(10)以下、「綱曳行事規定」については『資料集 与那原大綱曳』(与那原町商工会青年部、1983年)、pp18~24
(11)『島尻郡誌』(島尻郡教育部会、1970年)、pp.289~290
(12)『与那原の民話』(与那原町教育委員会、1990年)、pp.205~206
(13)『与那原の民話』(与那原町教育委員会、1990年)、pp.239~241
(14)『与那原の民話』(与那原町教育委員会、1990年)、p.206
(15)『与那原の民話』(与那原町教育委員会、1990年)、pp.242~243
(16)『与那原町史 序説・むかし与那原』(与那原町役場、1988年)、p.309
(17)『資料集 与那原大綱曳』(与那原町商工会青年部、1983年)、pp.108~109
(18)平敷令治「沖縄の綱引」(植松明石編『神々の祭祀』所収、凱風社、1991年、pp.275~331

『沖縄ー暮らしと文化の系譜』 第Ⅲ部構成案

2012-06-21 10:48:18 | Weblog
はじめに

第1部  暮らしの系譜ー「むら」から「まち」へ

1.「むら」の仕組みと労働慣行ー戦前の佐敷村の場合ー (1)(2) 第二部重複
 (『佐敷町史 二 民俗』 佐敷町 1984.3)
2.祭の聖と俗ー伊是名島の綱引きをめぐってー (収録中)
 (『島の文化と社会ー伊平屋村・伊是名村ー』 仲宗根勇編 ひるぎ社 1993、pp69~93)
3.与那原大綱曳ー「むら」の「祭り」から「まち」の「まつり」へ (1) (2) 
 (「旧題「町づくりの民俗ー<祭>から<まつり>へ」を一部改稿 『国立歴史民俗博物館研究報告第60集』 同館、1995.3)
4.戦後の南風原における「むら」から「まち」へ(1)(2)
 (『ゼロからの再建ー南風原戦後60年の歩み』(南風原町史第7巻 南風原町 2005.3)に補足


第2部 沖縄文化の系譜

1.金石文から見た琉球王権のメッセージ  (続く)
  (『新沖縄文学』「特集:琉球王権論の現在」 第85号 沖縄タイムス社 1990.9)
2.琉球における技術史・工芸史の画期と中国
 (『久米村ー歴史と人物ー』 小渡清孝・田名真之編 ひるぎ社 1993)
3.沖縄の経塚・経碑 第Ⅱ部重複
 (『球陽論叢』 同刊行委員会 1986.12) 
4.近世琉球の服喪の制
 (『家族と死者祭祀』 孝本貢・八木透編 早稲田大学出版部 2006.2)
5.琉球の茶と陶
(壺屋焼物博物館企画展「人間国宝の茶陶」図録解説、2000.7)
6.沖縄の近代化と民芸運動
(「沖縄タイムス」 2009.9)

第3部 形の文化、無形の文化

1.パリ国立人類博物館所蔵の沖縄陶器
 (琉球大学『フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究』 2000.3)
2.伊良波尹吉の遠近法ーその庶民性と構想=構成力を巡って
 (新里堅進作・与那原町教育委員会発行『沖縄演劇の巨星・伊良波尹吉物語 奥山の牡丹』解説 2000.3)
3.<沖縄の美>に向ける眼差しー三つの視角から
 (那覇市立壺屋焼物博物館『日本のやきものー日本民藝館名品展』図録 2001.2)
4.岡本太郎と沖縄と久高島
 (新沖縄フォーラム刊行会議編 季刊『返し風』37号 2002.12)
5.「描く」ことの神話性
 (書き下ろし 2011)

第4部 「物語」と「歌」で遊ぶ、読む

1.アジ・ノロ・王の系譜ー物語で遊ぶー (1)(改稿中)
 (谷川健一編『琉球弧の世界』 小学館 1992.6)
2.琉歌で遊ぶ
「創作オモロ」から「創作長歌」へ  
 (書き下ろし 2012)
琉歌「恩納岳あがた」の構造ーその詩と曲とドラマとー 
 (書き下ろし 2012)
3.「<沖縄の私>を詠う短歌」を読む
玉城寛子の短歌世界  
 (『くれない』103号 紅短歌会 2011)
夫(つま)恋うる歌ー名嘉真恵美子第2歌集『琉歌異装』(短歌研究社)に寄せて
 (書き下ろし 2012)

第5部 暮らしと文化の拠点づくり

1.沖縄の博物館ー戦前・戦後の連続と断絶ー(1)(2)
 (『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』 小林文人・平良研一編著 エイデル研究所 1988)
3.博物館づくりの理念と主体性
  (「沖縄タイムス」1999.9・20/21)
4.[沖縄県立博物館・美術館」の開館に思うー「博物館・美術館」とは何か
 (「琉球新報」2008.1.10/1.12/1.14 )
5.沖縄県立芸術大学を「アジア=沖縄ルネッサンスの拠点」に!
 (「琉球新報」2008.8/29.30) 

第6部 エッセイ・展評・書評
<沖縄研究>
窪徳忠先生と沖縄研究
 (書き下ろし)

<陶芸>
なぜ「陶芸」か
 (『(株)都市科学政策研究所25周年記念誌』2008.7)
沖縄の木と私
 (『島たや』第4号 クイチャーパラダイス友の会 2007.12)
ある出会い
  『沖縄パシフィックプレス』No.126(2000年春季号)
那覇市立壺屋焼物博物館特別展に寄せて
 「壺屋の金城次郎ー日本民藝館所蔵新里善福コレクション」(沖縄タイムス 2003.1/24)
 「壺屋焼ー近代百年の歩み展」(「沖縄タイムス」2009.1.22) 

島袋常秀陶芸展に寄せて
  (2002.11 画廊沖縄) 
松田米司陶芸展に寄せて
 (「琉球新報」05.6.20)
島武己「陶の世界」展評
 (「琉球新報」2004) 
彩度の白、明度の白ー黒田泰蔵の白磁
 「琉球新報」06.7.29
大嶺實清陶芸展に寄せて
国吉清尚陶芸展に寄せて3題
 <酒器>(「沖縄タイムス」1996.1/17)
 <華器・食器ー世紀末の卵シリーズ>(「琉球新報」1999.2.4) 
 <「国吉清尚の世界>(「琉球新報」 2004.9)

新垣栄茶陶展に寄せて
 (「琉球新報」 2005.12)

<織る>
新垣幸子「八重山上布展ー琉球の光と風」に寄せて
 (「沖縄タイムス」09.5.12)
澤地久枝『琉球布紀行』(新潮社 2000.12)のスタンス
 (「北海道新聞」 2001)

<舞う>
佐藤太圭子の芸
  観音の舞い
 (書き下ろし)
高嶺久枝の芸
  不条理の美学
  (『第ニ回 高嶺久枝の会』 琉舞 華の会 高嶺久枝琉舞練場 1991.9)
  芸のおおらかさと繊細さと
  (『踊り愛がなとー琉舞かなの会発足記念誌』 琉舞かなの会高嶺久枝練場 1998.11)
  柳は緑、花は紅
  (『芸道40周年記念高嶺久枝の会ー琉球芸能の源流を探る』 同会 2009.12)
平良昌代の芸
  舞いの想
  (『第一回 琉舞 華の会 平良昌代の会』 琉舞 華の会 平良昌代練場 1991.7)
   
<写す>
比嘉康雄:「撮り手」として、「書き手」として
 「記録者」と「書き手」の間:比嘉康雄『神々の古層』から『日本人の魂の源郷』まで
  (『EDGE』11号 APO 2000.7)
 「祈りの手-神仏に向き合う形」ー比嘉康雄写真展に思う
  (「沖縄タイムス」2011.1/5.6)
写真集『岡本太郎の沖縄』(2000年7月、NHK出版)の前後
 (琉球新報 2001.3/4)
『島クトゥバで語る戦世―100人の記憶―・ナナムイ・神歌』(琉球弧を記録する会)
 (書き下ろし)
栗原達男写真展「戦争と人々、民族、人生讃歌」(「琉球新報」2,009.3.18))

<読む>
雑誌『新沖縄文学』が問いかけるものー状況への対峙と基層を掘る作業
 (『新沖縄文学』特集号「『新沖縄文学』を総括する」第95号 1993.5)
なぜ「読む」か
 (「沖縄タイムス」2007.4.22)
島尾敏雄著『離島の幸福・離島の不幸』(未来社 1960)
 (『新沖縄文学』特集号「沖縄・戦後の知的所産ー著作・論文にみるアイデンティの変遷」 第91号 1992.3)
花田俊典著『沖縄はゴジラかー<反>・オリエンタリズム/南島/ヤポネシアー』(2006.5 花書院)
 (書き下ろし)
仲里効著『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(2007、未来社)評
 (書き下ろし)
屋嘉比収著『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』(2009.10 世識書房)
 (書き下ろし)
知念盛俊著『沖縄ー身近な生き物たち』(沖縄時事出版)
  (「沖縄タイムス」1998.10.16)

<博物館・資料館>
 「『南風原町立南風原文化センター』開館に寄せて」(収録準備中)
 (1989.11)
・新平和祈念資料館開館に寄せて
  (2000年4月29「琉球新報」掲載文に加筆) 
・法律にみる博物館ー壺屋焼物博物館の場合
 (2001.7/16 琉球新報)
・那覇市立壺屋焼物博物館の誕生ー焼物を展望する拠点に
 (「沖縄タイムス」1988.1/28・29の末尾を改稿)
・「博物館・美術館」ということー中黒「・」の意味ー

  (The Gallery Voice No33号 画廊沖縄 2008.1.12)

名嘉真恵美子の夫(つま)恋うる歌ー「<沖縄の私>を詠う短歌」を読む (2)

2012-06-21 10:31:00 | Weblog
 歌人の名嘉真恵美子さんから、新刊の第2歌集『琉歌異装』(短歌研究社)が送られてきた。そこで、収録作品の中から、私にも「読み」が可能に思える歌を、とくに「花」に寄せて亡きご夫君を偲ぶ歌に限定してコメントさせてもらうことにした。名嘉真さんは、琉球大学法文学部国語国文学科を卒業後、高校教師を長年勤め、2010年退職。1986年、馬場あき子主宰の「歌林の会」入会。1998年、第1歌集『海の天蛇』を上梓。現在沖縄タイムス紙歌壇時評担当。
 
 
 わたくしはいかなる花に匂ひゐき君の胸なるませ垣のうち 

 亡くなられたご夫君は、私も知らぬ仲ではありませんでしたが、この歌を生前の作と読むならば、2人の会話がたまたま出会いの当初に及び、妻の方から何気なく発せられた言葉=問いかけが素材になったと考えられます。 ご夫君は国語学者でしたから、「返歌」があったかどうかも興味が引かれるところです。そして、昨今のような「メール」による送信・返信があたりまえの時世だと、歌という形で「相聞」がくりかえされていた平安の昔が、しのばれてきます。

 傍注で紹介されている八八八六の「(古典)琉歌」。

 ませ内の苦しや 思ひ知り召しやうち 風の音信(おとづれ)や 聞かちたばうれ

 二つの歌の共通項は「垣」。「ませ内の苦しや」の「ませ垣」は、とりあえず生―生を隔てるものと推測されますが、だとすればその「垣」は身分社会を象徴するものと読むこともできますし、航海=タビが隔てる「壁」と考えることもできます。タビは「死」を意味する隠語でもあったようですから、「音信が無い」ことにも、二つの意味があったのでしょう。だからこそ、「聞かせてください」とする「風の便り」をこちら側から送るのです。

 形式こそ違え、共に「歌」に託して互いの思い(時に片思い)を詠い上げた「琉球の時代」と日本古代の間に、併せて「歌」を介して「音信」を「相聞く」社会があったことが、想起されます。さらに遡れば日本だと古事記・万葉の時代、沖縄では後れて戦前まで、共同の場でそれぞれの「思い」を直にぶつけ合う「歌垣」の世界があったと言われます。そして今でも、中国や東南アジアの山地・少数民族の間では、習俗として続いていると聞きます。ここでは、「垣」は「隔てる」ものではなく、「結ぶ」ものなのです。

 伊集の花もうあんなには咲けないと思ふから君にたのむ一枝
 
 沖縄本島北部(山原=ヤンバル)の「小旅行」の際に詠ったもの。伊集(イジュ)は、沖縄本島中北部の山間部に自生するつばき科の白い花。本人が記しているわけではありませんが、この歌のベースになっているのは、次の琉歌でしょう。

 伊集の木の花や あんきよらさ咲きゆり わぬも伊集のごと 真白咲かな

 (イジュの木の花は あんなにきれいに咲いている 私もイジュのように 真白に咲きたいものだ)

 「もうあんなには咲けない」とする心情は、一見「老い」の自白と感じられますが、あるいは、「あの頃のようには」「咲けない」、「今となっては」「咲いてはいけない」とする真情も、あわせて表明しているのかもしれません。次の一首が、そのことをほのめかしています。

 山の花名を呼ぶ人のおもかげに咲きてひとひらあはゆきこぼす

 ご夫君は、中北部の酸性土壌でしか咲かない花の群落を見て、「イジュの花だ」とでも叫んだのでしょうか。今は亡きその人が思い出されて、手元の一枝から落ちる花びらを見ながら、人知れず涙をこぼす、というのでしょう。「おもかげに咲きて」、「ひとひらあはゆきこぼす」のような、巧みな隠喩が、読む者にかえってリアリティとシンパシィを感じさせます。

 ご本人が明らかにしているわけではありませんが、次の作品も、花に託した「しのぶ恋」の歌に見えて来ます。

 仏桑華やけに朱いよ抜け出せず抜けずにゐるよ生垣の中

 仏桑華(アカバナー)は「グソー(後生)バナ」とも呼ばれ、飾られるのは墓前に限ると言って過言ではありません。その時の用意のために、かつて家垣を兼ねて生垣とする家がありましたし、今でもお墓の生垣に使うところがあります。その花の「朱」さが、ご主人の「没時」をまざまざと思い出させるのでしょうか。作者にとって、仏桑華は、「この(私の)世」と「あの(夫の)世」を分かち、隔てる「ませ垣」の「喩」でもあるのでしょう。おのれが「生―垣の中=内」に「囚われている」、とする実感を詠った作品としても読むことができると思います。
 蛇足ながら私の知見では、黄色→赤は成熟→死を想定させ、緑→青は生成→生長を象徴する「民俗カラー」なのです。

 ここまで来ると、冒頭の作品をご夫君生前の歌と読むことはむずかしいことに、気づきます。夫婦間の、とはいえ互いに異なる性と重ならない生、それぞれを持ち合わせているが故に感じられた微妙な「垣」に対して、自身を「花」に見立てて後を追うように問いかける歌と読む方が、作者の意図に近いかもしれません。もちろん、作者の意図とは別の読み方をしてもいいのが文学作品の特徴であることは、承知しているつもりです。

 イジュの開花は6月だとか。あるいは今頃すでに、白く、可憐で、しかも野生的な花々を、かの地で咲かせているのかもしれません。冒頭で作者が問う「いかなる花」とは、あるいはイジュの花を念頭に置いていたかと、余計な推測をしているところです。

 ここでとりあげた歌が、いずれも「追慕」のそれだとして、「湿っぽさ」を微塵も感じさせない作品の「昇華」の高さに、作者の歌人としての力量が現れているように思われます。そして、琉球・沖縄の「歌の伝統」に精通し、踏まえようとする、さらには島(シマ)々の言葉や「民俗」にも細かい気配りを加えながら、起伏の激しい「生の道」・「歌の道」を歩んで来て、これからまた作歌に新たな道筋をつけようとするこの歌人から、今後とも眼をはずさないつもりでおります。
                                                             (2012.6.4)

新垣栄陶芸展に寄せて

2012-06-21 10:24:39 | Weblog
 「壺屋焼」には、金城次郎作品に代表される、釉薬(うわぐすり)が施された「上焼(ジョーヤチ)」と呼ばれる焼物・技法の他に、「荒焼(アラヤチ)」と呼ばれるジャンルがある。水甕・味噌甕・穀物貯蔵壺・酒器など飲食物の保管・保存を主たる用途としてつくられたもので、年配の方々ならそれらが住宅の裏座や軒下に並んでいた光景を思い出されるであろう。 荒焼の製品には釉薬が施されず、また焼かれる窯の構造や使われる陶土、焼成温度も上焼のそれとは違う。しかし、先行する喜名焼や知花焼から引き継がれた野趣あふれる姿や色合い(「景色」)は、従来備前焼のそれにも比せられてきた。

 新垣栄は、荒焼の代表的な継承者として知られる新垣栄用の長男として生まれた。彼は、陶芸の道に進むのが当然であるかのように、大阪芸術大学工芸学科に入学。ここで陶芸の一般論と基礎的な技を学ぶとともに、日本の陶芸全般を見渡すスタンスを身につけた。そして帰郷後は、父から荒焼の土・つくり・焼きを徹底的に仕込まれる。このような経歴からすれば、彼が茶陶に手を染めるようになったのも、自然の成り行きであっただろう。そして茶道の門をたたくのも。というのも彼にとって「茶陶」こそ、日本の陶芸の「集大成」に他ならないから。

 ところが、「お茶を知るにあたり、茶陶の厳しさ、怖さを肌で感じるようになり」、「一時は断念」しようかと思ったこともあるという。それでも、「今後の荒焼の方向性を考えるには、避けては通れぬ」という思いで茶の道を進み続けて十七年が経過。今回の茶陶展の開催となるが、これが彼の初の個展となるということからしても、彼の茶陶と荒焼にかける思いの深さが知られるのである。言い方を変えれば、新垣はこの間、荒焼の可能性を茶陶に賭けることで、「沖縄の荒焼」を「日本の荒焼」の高みに引き上げたいというひそかな、しかし切なる思いを持ち続けていたことになる。
 
 とはいえ、今回展示される作品群が、伝統的な荒焼が持つ野趣をそのまま受け継ぎ、表現しているかというと、必ずしもそうとは思えない。長い茶陶の歴史が培ってきた様式を踏まえた彼の造形には、従来の荒焼の範疇を超えた雅趣がある。一方、器面に走る炎の軌跡、いわゆる「窯変」は荒焼そのものである。「先人たちから何を受け継ぎ、後世に伝えていくか。」「それは私に課せられた永遠のテーマでもあるが、苦しみでもある」と述懐する新垣だが、今回の個展で彼は確かな手がかり、確かな手ごたえを得たと見ると、ひいきの引き倒しになるだろうか・・・。

                                                                                      
                                                                                         (05.12.22「琉球新報」)