ATARI MUSIC STUDIO

ピアノを中心に様々な曲を編曲・演奏します。ブログでは音楽関係のつぶやきを中心に書き込みします。
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ベートーベンと、彼が生きた時代(その4)

2021年03月29日 | 日記

ベートーベン本人が書いたという「ハイリゲンシュタットの遺書」の内容とは?ベートーベンが歩んだ長い苦悩の道のりについて、少しお話させていただこうと思います。


若い頃のベートーベン 画像の転載元はこちら→ ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia

ベートーベンは16歳の時、ウィーンを旅しながら『フィガロの結婚』初演の成功で、名が売れつつあった当時30歳のモーツアルトを訪問しています。もしかすると、ベートーベンはフィガロ初演に立ち会っていたのかも・・・(すごい妄想)
母危篤の知らせを受け、ベートーベンは急遽ボンに戻っていますが、モーツアルトも若いベートーベンが只者ではないことにはすぐ気づいたようです。
モーツアルトは、既に親交のあった年配のハイドン先生に「ドイツからすごい才能の若者が来たんですよ」ときっと話していたことでしょう。


W.A.モーツアルト 画像転送元はこちら→ ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト - Wikipedia

ベートーベンは21歳の時、ハイドンに才能を認められて弟子入りしています。
もしかするとハイドンはモーツアルトからベートーベンのことについて事前に聞かされていたのではないか?ハイドンがボンを訪れた時、ベートーベンと会うことができたのも偶然ではなかったのではないか?など勝手に妄想を膨らませています。

いろいろ妄想しながら、ベートーベンと繋がりのある当時の作曲家たちを辿っていくのも、なかなか楽しいです。


ハイドン 画像転送元はこちら→ フランツ・ヨーゼフ・ハイドン - Wikipedia

その後ベートーベンはピアニストとして地位を確立し、音楽で食べていける道筋をつけていきました。
ようやく音楽家としての活動が軌道に乗りはじめた矢先、20代半ばからだんだん耳の不調を感じ始めます。その後、40歳で全聾になるまでの精神的な苦痛は計り知れません。ありきたりな言葉にしかなりませんが、相当に苦しんだのだろうと思います。ミュージシャンにとって耳は何より大切なのですから。ベートーベンが31歳の時、苦しい胸の内を弟のカールに宛てて書いた手紙が見つかっています。「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれています。


ハイリゲンシュタットの遺書(最初の1ページ目)
画像転送元はこちら→ ハイリゲンシュタットの遺書 - Wikipedia

手紙はかなり長文なのですが、内容をざっくり要約すると次のとおりです。
――――――――――――――――――――――
(1)耳が聞こえづらくなってからもう6年。
(2)医者に診てもらっているが良くならない。かえって年々悪くなっている。
(3)音楽家としては一番重要な「聴覚」を失うなど絶望的。
(4)人に「私は耳が悪い音楽家です」なんてとてもじゃないが言えない。
(5)難聴になってから人を避けるようになってしまった。
(6)自分が現世にかろうじてとどまっていられるのは、音楽に対する情熱があるから。
(7)私が死んだら、難聴で苦しんだことを世間に公表し、人嫌いのように思われていた誤解は解いて欲しい。
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人嫌い、気難しい人と思われる原因として、主に難聴が深く関わっていたことが伝わってきます。ハイリゲンシュタットの遺書を知って、ベートーベンに対する私の印象は大きく変わりました。

酒に溺れて失職した父に代わって兄弟の面倒を見たり、わざわざモーツアルトに会いにいって音楽への理解を深めようとしたり、ハイドンに弟子入りした経緯から考えても、決して元々コミュ障だったわけではなかったとわかります。案外、人懐っこい一面も持っていたのかもしれません。

とりあえず、「ベートーベンと、彼が生きた時代」のお話はいったんここでおしまいです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。感謝!