落ち入りしもののふはひた上りゆく深山(みやま)水さへ天指す峰を
紀州や奈良 四国の 山々 山里を尋ねるとき
昔々、いくさに敗れて 分け入った人たちをしみじみと思う。
「落ちる」ということは、「負ける」ことではないのだね。
狐狸も姿見せぬ深山へと落ちのびる・・・そのときの武者の心にあるものは如何。
再起か。仮に、それが万に一つもかなわないのが現実であったとしても、
最期に討たれるときも、自刃するときも 悔いや生き延びる打算はないだろう。
(そういう者は山などに入らず、勝者に低頭して命乞いするはず)
おそらく、決起したときの志は
たとえもはや戦うことなくとも寸毫も濁るどころか、いよよ高く澄んでいたのではないかとさえ思われる。
死に場所を求めたのではないとも思う。
落ちのびる
という言葉に不思議な、清々しい生への純な希求を感じてしまう。
現在の私たち。
もし治らぬ病を得たら・・・(その可能性にぶち当たるような思いがけない経験をして・・・)
このところ日々考えた。
死闘や、ファイトアウトは しない。負けたことに目をそらさない。
わたしは死ぬ日まで、落ちのびる
いや、病などなくても、そういう生き方が、あることも知った。
それも楽し
まさか、ご謙遜!
あ、でも、むりっくりに這い上がろうとするご時世、
逆に引力に逆らわず「落ちる」のも心地よし・・かもですね。