言葉の変遷の話です。
興味のない向きにはなんの興も湧かない話です。(当然ですが)
娘の言うには、最近
開けるという言葉が浸透している・・というんですな。
私はまだ聞いたことがないので、たぶん若い世代が言いだしてるんでしょう。
「○○ページをあけて・・」を「○○ページをひらけて」というらしいんです。
「開ける」は「あける」と読みます。
娘によれば、「たぶんこれを ひらける と読み違えたものが蔓延していった」と憶測しているようで、それなら顰蹙ものですが・・・。
しかし、考えていて、ちょっと待てよ・・と立ち止ったのは。
新語は次々と湧いて出てくるけれど、定着するものとすぐに消滅するものとがある。
「ひらける」が増殖していくならば、それにはきっとそうなるわけがあるに違いない
こう考えたいのが私の言葉観。
そして思いつくことは・・・
ひらく
という動詞は自動詞他動詞ともに、同じ五段活用をするということ。
自動詞 扉が開く: 開かない 開きます 開く 開くとき 開けば 開け
他動詞 扉を開く: 開かない 開きます 開く 開くとき 開けば 開け
こういう動詞は他にないかな・・ちょっとすぐには思いつかないが。
これが
「あく」ならば
自動詞 扉があく: あかない あきます あく あくとき あけば あけ(いうかな?)
これに対し
他動詞 は 扉をあける あけない あけます ・・・の下一段活用。
「ひらく」と「あく」
同じ漢字を使い、似たような意味なのに、一方は自動詞も他動詞も同じ活用をすることに
違和感を感じたのかもしれない。
活用法をそろえたい心理になったのかもしれないと考え付いたわけです。
もちろん、個人の心理、ではなく言葉感覚における群衆心理として。
「ひらく」が自動詞他動詞とも同じ活用形であることに使用上の支障はない。
ならば
「あく」という語の他動詞(もともと古語は四段も下ニも終止形は同じ)
も五段に活用してもかまわなかったはず。
戸をあかない 戸をあきます 戸をあく ・・・・と。
これが気持ち悪く感じるなら、それはそのように言い慣わされてきただけのこと。
浅学にしてしらないけれど
他動詞「あく」も以前は四段だった時代もあるのかしらん。
それなら、他動詞「あく」だけが下ニ(下一)にかわり
他動詞「ひらく」は四段(五段)のままなら
今の私たちが用いているのはまだ移行途上のそれ、といえるだけなのかもしれません。
「あく」が「あける」と分化したように
「ひらく」も「ひらける」に変わっていく途中だったのかもしれない。
それならば、言葉の過渡期において変遷のスポットに立ち会えるということは
とても面白いことではないでしょうか。
私が最も感動するのは
まるで大海のうねりのような、一個人のたとえ、どんな権力者の権力をもってしてもひとひねりもされない、言葉のもつ怒涛の力。
一握りの人間が、どう阻止しようとしてもとどまらない力。
多勢の力。
しかも、個人個人が意識して団結したものではなく、むしろ、個人はみな無自覚。
ら抜きもそうでした。
ルールを誰かが拵えたわけでもない。
言葉崩れと言われながら、可能の「られる」のみ「ら」が抜かれて
受身の「られる」が ら抜きで話されることは皆無。
そして、この分離はたぶん
「可能」と「受け身」をよりわかりやすくするために無自覚に行われた。
ただの「崩れ」ならこんな厳密な法則性ができるものでしょうか。
そもそも言葉のルールとは、先に作られるものではなく、おのずと必然的に形作られたものを解析してみたら、規則性が存在するのがわかる・・というもの。
ゲームのように無意味に条件を呈するというものでなく。
怒涛の力の偉力というのはそういうところ。
ただし、
私自身はといえば
「開ける」も「見れる」もなかなか使うことはできません。
理由は二つ。
ひとつは。
言葉は、合理性の要求によって変わるだろうけれど、一方で言葉の美学というものも同時に存在して、何をどれだけ重視するかは、個人に任されるだろうと思うから。
意味上使いづらいためか、もはや廃れ去った古語でさえ、美感覚的には使ってみたい言葉もある。(だから歌なんか詠んだりしたか)
もうひとつは。
これは生き方ともかぶるかもしれないけど、旗手となるよりは古い時代に置き去られていくほうが性にあうから。但し、新しいものは慣れてないからそぐわない、というような感覚保守的な理由ではありません。
総じて言えるのは 言葉を見ていたら
流れに逆らわず 逆らえず、悠久の来し方行く末のほんの一時に存在することが
何やら愉しいと思えること。
壮大な流れというと、よく人為に比して、自然や天体などを指すことが多いけれど
言葉のみは、偉大なる人為と思う。
あはは、「ひらける」から話が大きくなりました。
あめつちの「ひらけ」しときゆ・・・
おや、これは。。。どうなんでしょうか
興味のない向きにはなんの興も湧かない話です。(当然ですが)
娘の言うには、最近
開けるという言葉が浸透している・・というんですな。
私はまだ聞いたことがないので、たぶん若い世代が言いだしてるんでしょう。
「○○ページをあけて・・」を「○○ページをひらけて」というらしいんです。
「開ける」は「あける」と読みます。
娘によれば、「たぶんこれを ひらける と読み違えたものが蔓延していった」と憶測しているようで、それなら顰蹙ものですが・・・。
しかし、考えていて、ちょっと待てよ・・と立ち止ったのは。
新語は次々と湧いて出てくるけれど、定着するものとすぐに消滅するものとがある。
「ひらける」が増殖していくならば、それにはきっとそうなるわけがあるに違いない
こう考えたいのが私の言葉観。
そして思いつくことは・・・
ひらく
という動詞は自動詞他動詞ともに、同じ五段活用をするということ。
自動詞 扉が開く: 開かない 開きます 開く 開くとき 開けば 開け
他動詞 扉を開く: 開かない 開きます 開く 開くとき 開けば 開け
こういう動詞は他にないかな・・ちょっとすぐには思いつかないが。
これが
「あく」ならば
自動詞 扉があく: あかない あきます あく あくとき あけば あけ(いうかな?)
これに対し
他動詞 は 扉をあける あけない あけます ・・・の下一段活用。
「ひらく」と「あく」
同じ漢字を使い、似たような意味なのに、一方は自動詞も他動詞も同じ活用をすることに
違和感を感じたのかもしれない。
活用法をそろえたい心理になったのかもしれないと考え付いたわけです。
もちろん、個人の心理、ではなく言葉感覚における群衆心理として。
「ひらく」が自動詞他動詞とも同じ活用形であることに使用上の支障はない。
ならば
「あく」という語の他動詞(もともと古語は四段も下ニも終止形は同じ)
も五段に活用してもかまわなかったはず。
戸をあかない 戸をあきます 戸をあく ・・・・と。
これが気持ち悪く感じるなら、それはそのように言い慣わされてきただけのこと。
浅学にしてしらないけれど
他動詞「あく」も以前は四段だった時代もあるのかしらん。
それなら、他動詞「あく」だけが下ニ(下一)にかわり
他動詞「ひらく」は四段(五段)のままなら
今の私たちが用いているのはまだ移行途上のそれ、といえるだけなのかもしれません。
「あく」が「あける」と分化したように
「ひらく」も「ひらける」に変わっていく途中だったのかもしれない。
それならば、言葉の過渡期において変遷のスポットに立ち会えるということは
とても面白いことではないでしょうか。
私が最も感動するのは
まるで大海のうねりのような、一個人のたとえ、どんな権力者の権力をもってしてもひとひねりもされない、言葉のもつ怒涛の力。
一握りの人間が、どう阻止しようとしてもとどまらない力。
多勢の力。
しかも、個人個人が意識して団結したものではなく、むしろ、個人はみな無自覚。
ら抜きもそうでした。
ルールを誰かが拵えたわけでもない。
言葉崩れと言われながら、可能の「られる」のみ「ら」が抜かれて
受身の「られる」が ら抜きで話されることは皆無。
そして、この分離はたぶん
「可能」と「受け身」をよりわかりやすくするために無自覚に行われた。
ただの「崩れ」ならこんな厳密な法則性ができるものでしょうか。
そもそも言葉のルールとは、先に作られるものではなく、おのずと必然的に形作られたものを解析してみたら、規則性が存在するのがわかる・・というもの。
ゲームのように無意味に条件を呈するというものでなく。
怒涛の力の偉力というのはそういうところ。
ただし、
私自身はといえば
「開ける」も「見れる」もなかなか使うことはできません。
理由は二つ。
ひとつは。
言葉は、合理性の要求によって変わるだろうけれど、一方で言葉の美学というものも同時に存在して、何をどれだけ重視するかは、個人に任されるだろうと思うから。
意味上使いづらいためか、もはや廃れ去った古語でさえ、美感覚的には使ってみたい言葉もある。(だから歌なんか詠んだりしたか)
もうひとつは。
これは生き方ともかぶるかもしれないけど、旗手となるよりは古い時代に置き去られていくほうが性にあうから。但し、新しいものは慣れてないからそぐわない、というような感覚保守的な理由ではありません。
総じて言えるのは 言葉を見ていたら
流れに逆らわず 逆らえず、悠久の来し方行く末のほんの一時に存在することが
何やら愉しいと思えること。
壮大な流れというと、よく人為に比して、自然や天体などを指すことが多いけれど
言葉のみは、偉大なる人為と思う。
あはは、「ひらける」から話が大きくなりました。
あめつちの「ひらけ」しときゆ・・・
おや、これは。。。どうなんでしょうか