民主党への疑問  1

2010年07月19日 | 政党
後期高齢者医療制度の始末について、厚生労働省が検討している新制度の骨格案が明らかになったという。国民健康保険(国保)への加入を基本とするが、サラリーマンやその配偶者らは国保ではなく、被用者保険に入ることになる由。

これに対して「きょうも歩く」で「年金が高い階層ほど安い保険料で公的健康保険のメリットを受けられ、年金が低いあるいは無い階層ほど公的健康保険に高い保険料を払わなくてはならない。」という批判が浴びせられている。制度の細かいところや拠出金の算出式がまだ解らないので何とも言えない部分も多いとは思うが、こういう批判がでて当然だろう。

 実際、国保、健保、共済、と比べると、負担はこの並びで左に行くほど高いが、給付はこの並びで左へ行くほど低くなっていく。
 社会的に弱い層の入る健康保険が最も負担が重く給付が低い一方で、恵まれた層の入る健康保険程負担が軽くて給付が手厚いのである。
 そもそも何故複数の種類の保険者が併存しているのか、健康保険自体の性格から説明することは難しいだろう。はっきりしていることは、保険者が多ければ多いほど天下り先が増えるとういうことであるし、現行の制度では役人が最も恵まれた健康保険に入っているという事実である。

 この点、役人にとってどこまでも制度が都合よくできていることは国民年金、厚生年金、共済年金を比較するともっとはっきりする。年金についても役人の年金が最も手厚くできていて、特にその職域加算部分は、厚生年金基金のように解散の心配もない。

 もう一つ、意外に知られていないのだが、公務員は雇用保険に加入していない。馘首される心配も、やむを得ず退職する可能性も無い、ということである。


 要するに役人がどこまでもいい思いをするように制度ができあがっていて、民主党はそれをどうこうしようというわけでもない。それでいて消費税増税を言うのだから問題にもならない。減って当たり前なのである。

抑止力

2010年07月10日 | 政党
1984年(昭和59年)5月14日の朝日新聞夕刊にギュンター・グラスの文章が掲載されている。
表題は「今こそ抵抗を学ぶ時 憲法擁護に立ち上がれ」。     
グラスはノーベル賞を受賞するまで日本では一部のファンの間でしか読まれることはなかった。グラスはドイツ社会民主党の「党員」(後に同党の移民政策に反対して離党)であり、「運動」に実際にかかわってきたことが知られている。が、本田勝一に(『大江健三郎の人生』で)その悪質な正体を暴かれた大江健三郎が「進歩的知識人」の擬態を維持するためにこのグラスの実践家のイメージを悪用しようとしたのが透けて見える朝日新聞上の「往復書簡」やその後のノーベル賞受賞の前後以外にこの国で大きなメディアに登場したところは見たことがない。
冷戦末期に書かれたこの文章を読んでいるとどうしても普天間に思い至る。
やや長いが引用してみよう。


 それらは配備されている。住民多数の意志に反し、西ドイツ連邦議会の多数の意志に従って。それらは武器と呼ばれているが、人類絶滅の道具である。それらは安全保障に役立つということになっているが、すべてを抹殺せずにはおかぬヨーロッパにおける核戦争の危機を増大する。わが国に配備されてはいるが、それらの発射は、われわれが口を差し挟むことのできぬ遠いところで決定される。それらは防衛力を増強するというふれこみだが、先制攻撃を加えるために考え出されたものである。軍備増強という言葉がこの国でその存在と必然性を公言すると、同様に東ドイツやチェコスロバキアでは、それに相応する対抗システムが軍備増強の名で配備される。さらにこちらでもあちらでも(すでにとうの昔に狂気の域を超えているが)軍拡はエスカレートするだろう。 それらは中距離ミサイルと呼ばれる。いま以上に大きくなる大量殺戮(さつりく)の潜勢力を代表するそれらは、人類の置かれている状態を証明しているのだが、人類は何十億という浪費を重ねながら、自らの最後を準備しているのだ。この紛れもない自己抹殺の論理は、いかなる出費もいとわない。 
政府は能なし
 人類の最後へ向かうこの発展を阻止できるかどうか、私には確信が持てない。さきごろの連邦議会での討議では、公共に対する新しいミサイル網の危険よりも、むしろ「NATOへの忠誠」とアメリカとの約束が問題になったが、それを聞いた後で、私の危惧(きぐ)は不安にまで高まった。現在のわれわれの政府は能なしだ、という不安である。彼らは毎日の政治の貧困のつけをはらいきれずに、多数決の中に逃げ込むが、それは、生死についての責任を同盟国にあずけて、われわれを禁治産者扱いすることである。こうした議会の勢力関係は、悲惨と名づけるか、狂っていると呼ぶしかない。 彼らは明らかに、自分のしていることがわかっていない。ただ巧妙な図式に導かれるままに、確信犯になってしまったのだ。そして彼らが「自由はその代償を要求する」と叫ぶとき、われわれは、自由とその代償のことを心配せざるをえない。 死んでも自由を守ろうとするあの人たちから、いったい、だれがわれわれを守ってくれるのか。あらかじめ定められたように人類の最後へ向かう傾向をもつもう一つの発展は、どうやったら阻止できるのか。もうすでに、平和連動の衰弱、疲労、無力が目立ってはいないか。われわれの恐怖を正確に言い表す言葉を、われわれはまだ持っているか。 


この後、当時の西ドイツ内でグラスが置かれている立場でどのような行動をとっていくのか述べられているのだが、上記の部分は示唆するところが多くないだろうか。


尚、グラスと大江健三郎の違いは次の件に端的に表れている。

「そして―私は自問する―私もすでに、たくさんの抗議や、いつも同じようなアピールや、繰り返される名士たちの抗議の署名に-その中に毎度私の名前が入っている―うんざりしていないか、ますますうんざりしていないか。」 

権力と対峙することなど何一つ無い大江健三郎が「うんざり」することなどなかっただろう。

議会「改革」で損をするのは誰か

2010年07月04日 | 朝霞市民ネットについて
 朝霞市議会小山議員は朝霞市議会でも一問一答方式を採ることを主張している。一問一答方式の利点は和光市議会基本条例(素案)の条文と「解説」に端的に示されている。

 
第4章議会と行政の関係
(市長等と議会及び議員の関係)
第5条議員が質疑及び質問を行うに当たっては、論点を明確にするよう努めるものとする。
2 議会審議における市長等と議会及び議員との関係は、緊張関係に努めるものとする。
3 一般質問においては、一問一答の方式により行うことができる。

解説
※議会審議における市長等と議員との関係は、論点を明確にした活発な会議の充実を目指し、議会での一般質問は、市民に論点及び争点を明らかにするため一問一答方式をすでに導入しており、これを明文化し定めています。


これを見れば何故市民ネットが一問一答方式に賛同しないのか、明らかになる。「論点を明確に」することと最も遠いのが田辺議員であり、かかる「緊張関係」になど耐えられそうもないのが田辺議員だからである。


和光市の市長側の提案にさえ及ばない水準で

「議会革新の灯を消さない!市民の代理人として、市議会を活性化します。」 

というのであるから噴飯ものである。

田辺議員の異常な行動

2010年07月02日 | 朝霞市民ネットについて
黒川滋氏のブログで田辺議員の何とも気持ちの悪い行動が紹介されている。読者の皆様はいかが思われるだろうか?

 今日只今に至るまで田辺議員からこのブログへ反論が寄せられたことはただの一度もない。寄せられた反論には真面目に対応させていただいていることは藤井議員への反批判 でご理解いただけるであろう。

 朝霞市議会は反問権を制度化したうえで、市長は議員への反問権を遠慮せずに行使すべきである。そうなれば田辺議員も恐れをなして意味も無ければ見識の裏付けもない質問などできなくなるだろう。つまり、このブログに対して硬く沈黙を守っているのと同様のこととなる。結果、議会から電気代の無駄ぐらいは省けて結構なことである。