ぼくがまだ十代だった頃、
シェーベルク、クセナキス、ジョン・ケージ。
はたまた日本では、武満徹、演奏家では
高橋悠治など現代音楽シーンは活況をていしていました。
この大きなムーブメントは風速でいうと50mの
勢いでクラシック界の中央道を吹き抜けていったと
言っていいでしょう。
当時、私がクラシックの作曲法を習っていた先生は
ある音楽大学の教授をされていました。
東京で現代音楽の作曲家グループを
主催されていたので、私にも作品を発表の機会を
与えてくれました。
当時、大変音響がよい青山ホールで自分の作品を
2度ほど発表しました。
自分の書いたスコアーが大きなホールで
発表できた経験は大変ありがたく、
勉強になりました。
その際、痛切に感じたことは、現代音楽というジャンルが
衰退していくだろうという予感です。
また、ジャズも徐々に勢いを失っていくような気がしました。
やはり、現代音楽の風はその後一度も戻ってくることなく、
消え去ってしまったように思えます。
もちろん、完全に消失したわけでなく、
現代音楽そのものが持っている音楽のレトリックは
ガラパゴス化しているとしても、そのコンセプトの
価値が消失してしまったわけではありません。
同時期のいわゆるスタンダードジャズは
その当時急激に勢いを失い、そののちシャカタクのような
16ビートの軽い音楽と変質し、
一瞬輝きを放ちましたが、
まるで流れ星のように消え去ってしまいました。
2000年以降のジャズの惨状はみなさん、
ご存知のとおりです。
多くのジャズピアニストは何枚もCDアルバムを
発表し、多くのライブをこなした後、
個人的都合で惜しまれながら
やめてしまった人が何人もいます。
それはクラシック界も同じで、
圧倒的なファンを持ち、ライブで
二千人、三千人を集めるプレイヤーは
ほんの一握りです。
たとえ、芸大卒だろうが、海外のコンクールを
いくつももっていても、
たくさんの友人、知人、知縁、血縁を
頼ってチケットを売らなければ、
コンサートは黒字にもなりません。
そういう音楽シーンの状況を踏まえて
吉松 隆さんの「作曲は鳥のごとく」
を読むと、作曲家として成功しているようにみえる
吉松さんであっても、最後のあとがきを見ると、
作曲家の業の深さに自分自身押し潰されそうに
なっていることがうかがい知れます。
武満徹さんがどこかで書いていましたが、
生前、彼の名がマスコミで喧伝され始めると、
どうしたら、作曲家になれるのか
見知らぬ親から問い合わせがあったそうです。
彼は苦笑しながら、やめておいたほうがいいよと
アドバイスしたそうです。
武満さんほどの世界的に有名になった作曲家でも
音楽で生活するのは
生易しいことではありません。
最近、武満さんの音楽をいろいろ聞いてみましたが、
すでにもう古いなという印象があります。
武満徹を演奏するだけでは人は呼べません。
ノーベンバーステップスとか、アルバムを
もっていますが、いまさら聞く気にはなりません。
先程も、あの佐村河内守のゴーストライターだった
新垣さんの広島をNHK FMで聴いていましたが、
その職人的スコアー技術には興味がありますが、
日頃仕事につかれた脳にはちょっとしんどい音楽です。
むしろ、スタンダードジャズを聞いていたほうが、
仕事で疲れた脳にはよほどビタミン剤になります。
さほど、シリアスな音楽の使い道は少ないのです。
しかし、文学に、純文学があるように
シリアスな人間の内面をえぐるような
あるいは新しい人間の境地をあからさまに
見せてくれるような作品は必要です。
そして、抜けたジグソーパズルをはめるように
誰かがそのピースを作り、その穴を埋めなければ
なりません。
そして、そのピースを作るには長い年月の研鑽と
技術の練磨と一定レベルの知性と才能が必要なのです。
では、最後に
吉松さんの文章を引用して、この雑文を締めくくります。
「 人は、寿命があり儚いからこそ、「個」の思いを未来に託そうとする。
私もその思いを受け取ってきたし、その思いを未来に託そうとしてきた。
そして、過去から未来に連なる鎖の中で、やがて「個」は
消え、大きな「環」のひとつになる。それこそが、
作曲家の・・・「人」の役目なのだろう。」p280
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