UNITED NATIONS PROJECT 国連プロジェクト
1945年5月、戦後戦略の設計者達、または、彼らがそう呼ぶのを好んだ「宇宙の主人たち[Masters of the Universe]」は、国際連合憲章を書くために豪華なパレスホテルのあるサンフランシスコに集められた。 主だった何人かは、その内輪のガーデンルームでの非公開会議のために引退した。
米国代表派遣団の団長は彼の最高の側近(アルジャー・ヒス[Alger Hiss])を密会に招いた。ヒスは、アメリカとソ連(KGB)の大統領の代理である。
ジョンF・ダレス[John Foster Dulles](サリヴァンとクロムウェルのウォール街法律事務所)、
その師(ウィリアム・ネルソン・クロムウェル[William Nelson Cromwell])は会議の場で「革命のプロ」と呼ばれていた。
そして、W・アヴェリル・ハリマン[Averill Harriman](特命全権大使)は、残存をかけたスターリン戦争を指揮するためにモスクワで最後の2年を費やした。
これらの4人の男は世界情勢に於けるアメリカ共和国のものすごい力を代表していた。それでも、その4人のうち(?)、エドワード・ステティニアスJr.[Edward Stettinius Jr., ]国務長官だけは憲法によって地位を公認されていた。
ステティニアスは、緊急の問題を議論するよう命令して会議を招集した。というのは、日本人はすでに内密に平和を求めていた。そして、それは重大な危機であった。原子爆弾は、準備するのにもう数ヵ月の準備がかかる。
「我々は、ドイツをすでに失った」と、ステティニアスが言った、「日本が辞退したら、我々は爆弾をテストするのに生きている住民を失うだろう」。
「しかし、長官」と、アルジャー・ヒスが言った、「誰も、この武器の残忍な力を無視できませんよ」。
「それでも」ステティニアスがはさみ、 「我々の全戦後プログラムは、原爆で世界を恐怖させることに依存している。」 「その目的を成し遂げるために」、と、ジョンF・ダレスが言った、「あなたには、都合のよい勘定が必要だね。私は、100万とすべきだ」。「そうです」、と、ステティニアスが答えた、 「我々は、日本での百万人の[死体]勘定を期待している。しかし、もし彼らが降伏すると、我々は何も得ることがないだろう。」
「爆弾が準備できるまで、やつらを戦争状態にしろ」 と、ジョンF・ダレスが言った。
「それは、問題でない。無条件降伏だよ」、「やつら、それに同意しない」と、ステティニアスが言った、「やつらは、天皇を守るために誓ったのだ」。
「その通り」と、ジョンF・ダレスが言った、 「もう3ヵ月、日本を戦争にひきこませろ、さらに、我々は都市で爆弾を使おう、さすれば、我々の意に屈するだろう世界の全民族は、むきだした恐怖とともにこの戦争を終了する」。
Jr.は、第一次世界大戦時で世界最大の軍儒品取扱業者の同業者J.P.モルガンのパートナーの息子だった。彼は、戦争の間ずっとアメリカ国内でフランスとイングランドの両方に軍儒購入品全般を監督するよう、J.P.モルガンによって指名された。
ジョンF・ダレスは、洗練された戦争屋でもあった。1933年に、彼と弟のアレンは、アドルフ・ヒトラーに面会するためケルンに急行して、ナチ体制を維持する資金を保証した。ダレス兄弟は、彼らの顧客、クーン・ローブ社とロスチャイルド家を代表していた。
アルジャー・ヒスは、アメリカにおける共産主義エリートの黄金の王子だった。彼が第二次世界大戦後の名門のカーネギー国際平和基金の首脳に選ばれたときの彼の指名は、ジョンF・ダレスによる介添えだった。ヒスは、ソビエトスパイ活動諜報員と同等の功績をつくる嘘のために、後日、偽証で刑務所に行かされた。
ガーデンルームの密会は、実は国連による最初の軍事戦略会議だった。それは、生きている住民の真上で世界初の原子爆弾兵器を爆発させる任務に専念したからだ。それも、アメリカの納税者から5兆ドル出費させ、43年も続く冷戦(Cold War)の全戦略をあらかじめ準備され、必ずしも何も達成しなかったのは、意図されたことだ。
それゆえ、我々が見るNew World Orderは、教室に座っている何千もの子供たちを含め、生きたまま、広島と長崎で燃やされる何十万人もの一般人の苦しみに、その全戦略の基礎をおいていた。
これら幹部達は、順番に大量殺人を要求する大規模なテロリズムなしでルールはできない、という、彼らの主人(ヨシフ・スターリン[Josef Stalin])に精通していた。
同様に、ヴァンデンバーグ[Arthur Hendrick Vandenberg, 1884–1951]上院議員(共和党の忠実な反対勢力のリーダー)が言った、
「我々は、『連中』をひどく怖がらせなければならない」 (1977年8月、アメリカンヘリテージ誌引用)。
アーサー・ヘンドリック・ヴァンデンバーグ
(つづく)
【翻訳:タドン】
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100411.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100413.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100419.html
関連
広島 ネブラスカ、長崎 フロリダ By Henry Makow, Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12080043
「冷戦」: 五兆ドルのイルミナティの無用な仕事 by Henry Makow Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12090152
2.ジョン・フォスター・ダレス
ジョン・フォスター・ダレス
John Foster Dulles
生年月日
1888年2月25日
出生地
ワシントンD.C.
没年月日
1959年5月24日
死没地
ワシントンD.C.
出身校
プリンストン大学
ジョージ・ワシントン大学
所属政党
共和党
親族
アレン・ウェルシュ・ダレス(弟)
--------------------------------------------------------------------------------
第52代国務長官
任期
1953年1月21日 - 1959年4月22日
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ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles, 1888年2月25日 - 1959年5月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。日本国との平和条約が締結された1951年9月8日、その同日に調印された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約の“生みの親”とされる[1][2]。1953年から1959年までドワイト・D・アイゼンハワー大統領の下の第52代国務長官を務めた。
反共主義の積極的なスタンスを主張した、冷戦時代の政治家であった。インドシナでベトミンと戦うフランスの支援を主張し、1954年のジュネーブ会議では握手を求める周恩来を拒絶した。講和発効以降、国際社会に復帰したばかりの日本(特に保守陣営)にとっては強い反共主義者である“ダレスの親父さん”の意向は無視できないものがあった。
32代国務長官ジョン・ W・フォスター の孫で、 42代国務長官ロバート・ランシングの義理のおいにあたる。 アイゼンハワー政権で中央情報局長官を務めたアレン・ウェルシュ・ダレスは弟。
1945年5月、戦後戦略の設計者達、または、彼らがそう呼ぶのを好んだ「宇宙の主人たち[Masters of the Universe]」は、国際連合憲章を書くために豪華なパレスホテルのあるサンフランシスコに集められた。 主だった何人かは、その内輪のガーデンルームでの非公開会議のために引退した。
米国代表派遣団の団長は彼の最高の側近(アルジャー・ヒス[Alger Hiss])を密会に招いた。ヒスは、アメリカとソ連(KGB)の大統領の代理である。
ジョンF・ダレス[John Foster Dulles](サリヴァンとクロムウェルのウォール街法律事務所)、
その師(ウィリアム・ネルソン・クロムウェル[William Nelson Cromwell])は会議の場で「革命のプロ」と呼ばれていた。
そして、W・アヴェリル・ハリマン[Averill Harriman](特命全権大使)は、残存をかけたスターリン戦争を指揮するためにモスクワで最後の2年を費やした。
これらの4人の男は世界情勢に於けるアメリカ共和国のものすごい力を代表していた。それでも、その4人のうち(?)、エドワード・ステティニアスJr.[Edward Stettinius Jr., ]国務長官だけは憲法によって地位を公認されていた。
ステティニアスは、緊急の問題を議論するよう命令して会議を招集した。というのは、日本人はすでに内密に平和を求めていた。そして、それは重大な危機であった。原子爆弾は、準備するのにもう数ヵ月の準備がかかる。
「我々は、ドイツをすでに失った」と、ステティニアスが言った、「日本が辞退したら、我々は爆弾をテストするのに生きている住民を失うだろう」。
「しかし、長官」と、アルジャー・ヒスが言った、「誰も、この武器の残忍な力を無視できませんよ」。
「それでも」ステティニアスがはさみ、 「我々の全戦後プログラムは、原爆で世界を恐怖させることに依存している。」 「その目的を成し遂げるために」、と、ジョンF・ダレスが言った、「あなたには、都合のよい勘定が必要だね。私は、100万とすべきだ」。「そうです」、と、ステティニアスが答えた、 「我々は、日本での百万人の[死体]勘定を期待している。しかし、もし彼らが降伏すると、我々は何も得ることがないだろう。」
「爆弾が準備できるまで、やつらを戦争状態にしろ」 と、ジョンF・ダレスが言った。
「それは、問題でない。無条件降伏だよ」、「やつら、それに同意しない」と、ステティニアスが言った、「やつらは、天皇を守るために誓ったのだ」。
「その通り」と、ジョンF・ダレスが言った、 「もう3ヵ月、日本を戦争にひきこませろ、さらに、我々は都市で爆弾を使おう、さすれば、我々の意に屈するだろう世界の全民族は、むきだした恐怖とともにこの戦争を終了する」。
Jr.は、第一次世界大戦時で世界最大の軍儒品取扱業者の同業者J.P.モルガンのパートナーの息子だった。彼は、戦争の間ずっとアメリカ国内でフランスとイングランドの両方に軍儒購入品全般を監督するよう、J.P.モルガンによって指名された。
ジョンF・ダレスは、洗練された戦争屋でもあった。1933年に、彼と弟のアレンは、アドルフ・ヒトラーに面会するためケルンに急行して、ナチ体制を維持する資金を保証した。ダレス兄弟は、彼らの顧客、クーン・ローブ社とロスチャイルド家を代表していた。
アルジャー・ヒスは、アメリカにおける共産主義エリートの黄金の王子だった。彼が第二次世界大戦後の名門のカーネギー国際平和基金の首脳に選ばれたときの彼の指名は、ジョンF・ダレスによる介添えだった。ヒスは、ソビエトスパイ活動諜報員と同等の功績をつくる嘘のために、後日、偽証で刑務所に行かされた。
ガーデンルームの密会は、実は国連による最初の軍事戦略会議だった。それは、生きている住民の真上で世界初の原子爆弾兵器を爆発させる任務に専念したからだ。それも、アメリカの納税者から5兆ドル出費させ、43年も続く冷戦(Cold War)の全戦略をあらかじめ準備され、必ずしも何も達成しなかったのは、意図されたことだ。
それゆえ、我々が見るNew World Orderは、教室に座っている何千もの子供たちを含め、生きたまま、広島と長崎で燃やされる何十万人もの一般人の苦しみに、その全戦略の基礎をおいていた。
これら幹部達は、順番に大量殺人を要求する大規模なテロリズムなしでルールはできない、という、彼らの主人(ヨシフ・スターリン[Josef Stalin])に精通していた。
同様に、ヴァンデンバーグ[Arthur Hendrick Vandenberg, 1884–1951]上院議員(共和党の忠実な反対勢力のリーダー)が言った、
「我々は、『連中』をひどく怖がらせなければならない」 (1977年8月、アメリカンヘリテージ誌引用)。
アーサー・ヘンドリック・ヴァンデンバーグ
(つづく)
【翻訳:タドン】
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100411.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100413.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100419.html
関連
広島 ネブラスカ、長崎 フロリダ By Henry Makow, Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12080043
「冷戦」: 五兆ドルのイルミナティの無用な仕事 by Henry Makow Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12090152
2.ジョン・フォスター・ダレス
ジョン・フォスター・ダレス
John Foster Dulles
生年月日
1888年2月25日
出生地
ワシントンD.C.
没年月日
1959年5月24日
死没地
ワシントンD.C.
出身校
プリンストン大学
ジョージ・ワシントン大学
所属政党
共和党
親族
アレン・ウェルシュ・ダレス(弟)
--------------------------------------------------------------------------------
第52代国務長官
任期
1953年1月21日 - 1959年4月22日
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ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles, 1888年2月25日 - 1959年5月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。日本国との平和条約が締結された1951年9月8日、その同日に調印された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約の“生みの親”とされる[1][2]。1953年から1959年までドワイト・D・アイゼンハワー大統領の下の第52代国務長官を務めた。
反共主義の積極的なスタンスを主張した、冷戦時代の政治家であった。インドシナでベトミンと戦うフランスの支援を主張し、1954年のジュネーブ会議では握手を求める周恩来を拒絶した。講和発効以降、国際社会に復帰したばかりの日本(特に保守陣営)にとっては強い反共主義者である“ダレスの親父さん”の意向は無視できないものがあった。
32代国務長官ジョン・ W・フォスター の孫で、 42代国務長官ロバート・ランシングの義理のおいにあたる。 アイゼンハワー政権で中央情報局長官を務めたアレン・ウェルシュ・ダレスは弟。