第Ⅰ章 木造軸組工法概観・寸法体系

2020-04-22 13:40:00 | 木造軸組工法の基本と実際:概観・寸法体系

木造軸組工法の基本と実際             作成:下山 眞司

目 次(予 定)  Ⅰ 木造軸組工法概観・寸法体系 Ⅱ 矩計・木材について  Ⅲ 基礎設計  Ⅳ 軸組を組む:土台・1階床組  Ⅴ 軸組を組む:通し柱と2階床組  Ⅵ 軸組を組む:軒桁まわりと小屋組   Ⅶ 各部の納め1:屋根   Ⅷ 各部の納め2:壁   Ⅸ 各部の納め3:床・天井・開口部   Ⅹ 各部の納め4:玄関・和室・浴室等     

 

第Ⅰ章 木造軸組工法概観・寸法体系       PDF「第1章 概観・寸法体系」A4版1+10頁

1.現在の木造建築工法

わが国の建物は、日本の地域的特性ゆえに、木材特に針葉樹を主体に構築されてきた。

木材の特徴  ① 同種同寸の材でも、1本ずつ性質を異にする。  ② 乾燥材でも10~15%の水分を含み、かつ常に水分の吸・放出をくりかえすこれを維持させることが必要である)。  ③ 材の重さに比して強度がある(軸方向、曲げ、剪断それぞれに対して相応に)。これは樹木が自然環境に耐えつつ地上に立ち続けるために備わった性質である  ④ 弾力・復原力があり(③の性質の内の一つ)、かつ加工が容易である。 ⑤ ある条件の下では、容易に腐食する(立ち木は腐食しない)。  ⑥ ある条件の下では、燃えやすい。

また、地理的・地質的特性ゆえに、我が国では常に台風(大風と大雨)、地震に見舞われるので、日本の建物づくりでは、この地理的・地質的環境を十分にわきまえ、上記の材料の特徴に見合った構造とすることが必然的に求められてきた。 したがって、日本の木造建築の技術は、材の歪みや収縮に対して十分考慮したうえ、風雨にも地震についても常に対策の検討を加えつつ発展してきた。

 その建築工法は、具体的には、柱と横材によって外形:直材で直方体の骨組みを組み、屋根をのせ、柱間を充填して壁をつくる、いわゆる「軸組工法」である。

 

 この古来の工法に加え、第2次大戦後、新たな木造構築法(「2×4」、「ログハウス」)が加わり、現在我が国で行われている木造建築工法は、以下に大別できる。

 1)軸組工法(伝統工法)」 2)在来(軸組)工法」 「2×4」 「ログハウス」

 

1)「軸組工法」(江戸時代後期・明治までに体系化された日本の木造技術)

  土台・柱・梁といった部材を、材の接合部を刻み加工し、組み立てることによって立体格子を造る。実践・体験を通じて技術者:大工棟梁の手により培われ、江戸・明治期までにほぼ完成された体系にまとめられている。

  骨組を立体物としてとらえ、「継手・仕口」で組まれた骨組全体で外力や荷重に「耐える」こと(応力の部分への集中を避け、継手・仕口を経て全体に分散させること)を考えている。

 これは、木材が同種の材でも一本一本微妙に性質が異なり、また収縮や揺れをともなうため、部分で外力に耐えるよりも、組まれた全体で耐えることが有利であることを、幾多の経験で習得していたからであろう。したがって、接合部での補強金物の使用は、必要最低限となる。また、床や壁や屋根などの構成材も、すべて外力に抵抗する重要な部分として考えられていた。

 軸組を表さない大壁造りもできるが、一般的に構造体をそのまま意匠とする真壁造りが多い。したがって、設計~施工は以下のようになるのが普通である。

設 計:堅固で柔軟な架構体を考えると同時に、表し仕上げとする柱・梁等の位置、寸法等についての見えがかり面での検討も必要となる(立体骨組にかかる「力の流れ」を考える)。材端部の「継手・仕口」の指示建て方の順序の検討を行うことが望ましい。 そのための表示手段としては、「矩計図」および各「伏図」が最も重要である。造作の検討は、軸組によって寸法(特に平面方向)がある程度決定されているため、鴨居高や天井高等の縦方向寸法の指示と部分的な詳細の検討のみとなる。

矩計 例                         伏図 例  (各章にて解説)

 

木 材:特に真壁造りでは架構体が仕上がり(見えがかり)でもあるので、見える部分ではある程度の材の選択が必要となる。関東地方では、柱は105㎜(3.5寸)角以上:一般的には120㎜(4寸)角:を用いるのが普通で、総じて骨組に要する材木量は多くなるが、その分、造作材の量は減る。

施 工:軸組を組み上げるまでの加工場での「材の刻み」に多くの時間を必要とする。建て方」も40坪程度の住宅で3~4日必要となる。継手・仕口で組立てることによって上棟時には自ずと水平・垂直が確保され、架構体としてもほぼ安定する(仮筋かいなどで支持する必要はほとんどない)。 上棟後の作業は、まず初めに屋根が架けられ、次いで造作、壁工事が行われる。柱・梁等がそのまま意匠となることが多いので、造作の仕事量は多くはない。

手 間:仕事の程度を示す方法に、「1坪(あるいは1㎡)に対して何人手間」という表現がある。軸組工法の場合は、軸組を最大限に表して最も簡素な造作の場合で、木工事は1坪に対して6人手間程度以上となる(軸組加工4人~、屋根野地・造作2人~)。

 

参考 [二階屋のはじまり]

豊田家住宅:寛文2年(1662年)奈良県橿原市今井町  

  

通り側の概観                         みせ 通り側開口 

 

      

 どまからみせ(左手)東なかのま見る          どまの通り側・大戸口を見る

 

 

1階・2階平面図                          架構図

 

桁行断面図                        十二通り差鴨居分解図

 

 桁行断面図部分

写真・図共に 日本の民家6 町屋Ⅱ(学研)より:豊田家住宅修理工事報告書 

 

17世紀中頃の建設。通し柱を1間半~2間ごとに立て、鴨居位置に成の大きい差鴨居を確実な仕口で組込んでいる。現在のような胴差を継いで2階管柱を立てることは、まだ行われていない。土台も用いられておらず、礎石立てである。

「い、ほ、と・・・・」の平仮名番付側が通りに面し南面であるが、東面は、通し柱を4尺~4.5尺ごとに立て、上下5本のが通されている。小屋組は、桁行方向2列に架けた敷桁が柱間を均等に割った6筋の小屋梁を受け、小屋束が整然と立てられ、小屋全体を堅固なものとしている。

差鴨居の上にを立て、根太掛けをかけて2階床板を張っている。2階は天井が低く、「厨子(つし)二階」と呼ばれ(2階室内には小屋梁が飛ぶ)、現在の「本二階(天井が高い)」になる前の架構である。2階の床は、同時に1階の天井でもあり、踏み天井根太天井とも呼ばれる。             

                           

2)「在来工法」(元来の軸組工法を改変した木造工法)

近年最も一般的に行われている木造構築方法で、明治以降奨められ、建築基準法で規定されている工法である。現在使われている「在来(軸組)工法」の「在来」という語は、第2次大戦後、外国、特に北米から導入された「2×4工法(枠組工法)」などと区別するために付けられた。 この工法は、軸組を、外力に耐える部分(耐力部)耐えない部分(非耐力部)とに二分して考え、その耐力部分を「面」として捉え、「面」を補強することを主眼とするのが特徴(部分の足し算で全体を考える考え方)である。いわば、面材で構成する工法と言った方がよい。耐力部分(面となる部分)には、筋かいを用いるのが一般的である。筋かいを設けるにともない、水平外力によって材端部分に応力集中(柱に生じる引き抜きの力など)が起きるが、それに耐えるため、金物による補強が必要になる(元来の「軸組工法」では、水平力によって柱に引き抜きの力がかかることは少ない)。

多くの場合は、構造体と意匠・造作工事が切り離して考えられる。まず骨組を造り、その骨組に化粧材・壁材が取り付けられる。筋かいや金物が多用されるため、外部内部ともに大壁仕様にすることが多く、真壁風に仕上げる場合は付柱や付梁を構造材に取り付けることもある。

設 計:骨組については、柱・梁等の位置が図面に簡単に記され、材端部の加工・金物などについては現場の裁量に委ねられることが多い。耐力部とみなす壁の設定(壁量の設定)が重要となる。大壁仕様の場合、造作関係の図面は、外部内部とも、平面方向・縦方向多数必要。

木 材:骨組み材は化粧仕上げを施していない材(野物のものを使用。通常、柱は105㎜(3.5寸)角以下で、骨組み材の材積は「軸組工法」に比べ少なくなるが、造作材量は多くなる。

施 工:施工期間は、材の加工・建て方等、「軸組工法」よりも短時間で行われる。上棟時、骨組みだけでは自立せず揺れやすく(そのため仮筋かいを多用する)、構造体として比較的安定するのは、床板・野地板を張ってからとなる場合がある。「建て方」終了後、水平・垂直の確認作業を必要とし、その後金物の固定が行われる。金物部分は経年変化によって緩むことが多いが、内部が見えない仕様の場合が多く、保守管理が難しく、構造体全体に緩みと変形が生じやすくなるので注意が必要である。 見えがかりとなる内外壁・造作工事には多くの注意が払われる。

手 間:木工事の手間は、最も簡便な場合は3人手間/坪くらいからとなる(軸組加工・野地0.5人、造作2人~)。

 

近年行われている木造の建築方法は、上記の「軸組工法」と「在来工法」が混在したものである場合も少なくない。たとえば、茨城県下の農家の場合、内部を柱の見える真壁として、構造体の一部でもある「差鴨居(鴨居の成が大きい。幅105mx成105~180~300m)」を「仕口」で柱に差し込む。外部は大壁の場合が多く、柱・梁等の接合部等の隠れてしまう部分では、補強金物が使用されている。

このテキストでは、上記の「軸組工法」と「在来工法」の両方、つまり「元来の軸組工法の原理・考え方」をあらためて見直し、法規等により規定され推奨されている「在来工法」をも含め、木造建築をより確実なものとする方向で考えて行く。

 

2.木造軸組工法の部位と名称

現在の木造軸組工法の一般的な工程、施工は以下通り。

[基礎]→[軸組]→ [小屋組] → [屋根葺き] → [床組] → [壁・造作]

    

            「PDF5,6頁」に掲載しました。 ブログ記事としては省略させていただきます。

 

 

トラス梁 建築学講義録 瀧大吉著 明治29年発行

 

(「3 寸法体系」に続きます。)


第Ⅰ章 3.日本の建物の寸法体系

2020-04-22 13:39:33 | 木造軸組工法の基本と実際:概観・寸法体系

3.日本の建物の寸法体系

1)尺・寸による寸法体系

日本の建築工事では、長い歴史を通じ、「(しゃく)(すん)・(ぶ)(りん)という寸法体系を編み出し、用いてきた。1尺≒303㎜、1寸≒30.3㎜、5分≒15㎜、1厘≒3㎜メートル法の使用が義務付けられている現在でも、木工事では尺表示が使われることが多い。

これは、1寸:約3センチ1尺:約30センチが基準となる寸法体系である。

たとえば、通常の1間は6尺(1,818㎜)、敷居~鴨居間内法寸法6尺1,818㎜)あるいは5尺8寸、天井の高さはおよそ8尺(2,424㎜)など、建物の基本寸法が単純明快な数字で指示される。

住宅の場合、関東では1間=6尺(通称「江戸間」または「関東間」)、関西では1間=6尺5寸(通称「京間」)が用いられることが多い。ほかにも、地域によって異なる寸法が柱間単位として用いられており、また、建物により任意に設定することもできる(大規模の建物で標準柱間を9尺とする、など)。メートルグリッドを用いることも可能。ただし、木材の「規格寸法」に留意する必要がある。注 「京間」では、畳寸法を6尺3寸×3尺1寸5分として柱~柱の内法を畳枚数で決める場合もある。

間に満たない寸法に対しては、1間の1/2、1/3、1/4、1/5、1/6・・・を用いるのを通例とする(工事がしやすい)。

また、管柱の長さは10尺(3,030㎜)、通し柱の長さは20尺(6,060㎜)、柱の太さは4寸(120㎜)角、5寸(150㎜)角、「柱のほぞ」の幅は1寸(30㎜)、「腰掛け鎌継ぎ」の鎌の長さは4寸など、木材の材の長さと加工に関してもきわめて分かりやすい寸法表示が可能である。

現在用いられている多くの建築材料も、大半が尺寸法による規格をメートル寸法に読み替えたものである。

柱材:3mもの←10尺(9.90尺)、 4mもの←13尺(13.20尺)、6mもの←20尺(19.80尺)   合板の大きさ:構造用合板、耐水ベニヤ:910㎜×1,820㎜ ← 3尺×6尺:通称「サブロク判(版)」など  なお、北米等の国外産材には4ft×8ftが多い(メートル換算:約1,200㎜×2,400㎜)。

また、この寸法体系に基づく「指金(さしがね)かね尺」と呼ばれる定規が生み出され、通常の加工場では、現在もこの定規を使って、各部材に「墨付け」を行い「刻み」を行っている。 現在では、ミリの指金も使われているが、加工現場では、ミリ単位で木材の加工を行う場合と、尺に換算し直す場合の二様ある。プレカットの機械も両方に対応している。

  

2)「指金(さしがね)」の使用

指金(さしがね)には表目盛りと裏目盛りがあり、表は尺寸法が、裏には平方根の目盛りが刻まれている。この表裏の目盛りを使い、採寸はもとより、直角・勾配・円周等、墨付けに必要な寸法取りが可能である。

また、指金の幅5分(1/2寸≒15mm)にできており、これも寸法取りに多用される。たとえば土台に「柱のほぞ穴」を墨付けする場合、土台の芯墨に指金をあてて両側に一枚分(5分+5分 ≒30m)を記せばほぞの幅が指示される。

一般に墨付けは材芯からの振り分け寸法で指示する設計図の作成も、この点に留意する必要がある。

 

尺とメートルの換算:一般に、1間=6尺=1,820㎜とすることが多いが、正確ではない。

1尺=10/33m≒303㎜1間=6尺≒1,818㎜である。木工事は、通常現在でも、指金で施工し、大工職は1,820㎜の指示を6尺と読み替えることが多い。一方、基礎工事は「メートルものさし」で1,820㎜の指示どおり施工するから、1間につき2㎜の誤差を生み、現場での混乱の原因となることがある。正確な指示が必要。

参考文献:大工さしがね術 理工学社

 

3)木造軸組工法における「通り番付」

木造軸組工法は、まず、縦材(柱)と横材(梁など)を立体格子状に組み上げることにより必要な空間の骨格を造り、できた骨格の間に壁や開口部を充填する構築方法である。

それゆえ、通常加工現場では、この骨格を構成する材を適切に配置するために、900~1000mグリッドに整理・調整を行う。 関東では通常3尺格子に通り番をつけることが多い。番付と呼ぶ。

木造の通り番付の付け方:梁間を「いろは・・・」の平仮名、桁行を「一二三・・・」の和数字、または梁間を「一二三・・・」、桁行を「いろは・・・」とする。 尺(909㎜)のグリッドであることが多い。

グリッドからはずれた通りの表示は、「ろ又一」、「四又一」の如くに指示する。

番付ふりには、右から左・図面下部からふって行く「上り番付」と左から右・上部からふる「下り番付」があるが、施工者によって異なるので、可能ならば、事前に確認を取る。 大工職は、設計図に示された番付が、自分の慣れている付け方と異なっている場合、通常、読み替えを行っている。

番付の起点は、敷地の方位、道路位置との関係などによって決められる場合もある。たとえば、建物の鬼門(北東)の方角を「い一」としたり、取り付き道路に立って右手あるいは左手手前を「い一」としたり、多様である。

「JIS製図法」にしたがい、X1、X2・ ・、Y1、Y2・・と付ける方法もあるが、実際的ではない。部材には交点の符号が記されるが、「X2・Y5」等と記すよりも「ろ五」と記す方が簡便で明瞭だからである。

柱の各面の呼び名は、奥が「」、手前が「」および「右、左」である。この呼称は、柱に取り付く水平材(胴差や梁)の端部にも記される。

  

右図 「水盛遣形仕方」 日本家屋構造 より 明治37年発行「方形造りの建物は其両端の束及母屋等は三尺間になすが故に番號も亦三尺毎に付すものとしるべし」 

参考文献:棟梁に学ぶ家 木造伝統工法 基本と実践 彰国社

 

4)内法(うちのり)寸法

垂直方向に対しても、高さの基準を設けるのが一般的で、室の出入口の開口高さ:内法の高さを室内空間の垂直方向の基準寸法としてきた。

書院造では[切目長押上~内法付長押下]を内法高さとするが(下図参照)、現在は一般に敷居上~鴨居下]。

真壁・軸組工法では、内法高さを一定にすると、壁面の構成が容易になり、また安定感が生まれる付長押は、それをさらに強調するため重用されたものと思われる。

出入口以外の開口:窓も、内法上端(鴨居の下端)からの下がりで決めるのが一般的で、下がり寸法に応じた開口部の呼称がある。 

下がり2尺程度(開口内法2尺)まで:「小窓(こまど)」、下がり2尺~4尺程度(開口内法2~4尺):腰高窓(こしだかまど)高窓)」、下がり4尺~5尺程度(開口内法4~5尺):「肘掛(ひじかけ)

内法寸法として、従来、5尺7寸(1727.1㎜)、5尺8寸(1757.4㎜)などが用いられてきた。これは、当時の標準的な身長から設定されたものと思われ、現在ではやや低い。また、内法(鴨居)より上の小壁に欄間(開閉可能)を設けることも、一般に行われてきた。

かつては地域ごとに木製の規格建具が、内法寸法に応じて生産されていた。住宅用規格アルミサッシでも、従来の木造建具を踏襲し、内法寸法で5尺7寸~6尺1寸前後まで対応した製品が用意されている。(小窓、腰高窓、肘掛窓、欄間付窓、欄間付掃き出し:テラス戸等。 ← 「欄間付」の利用が最近減っている)。

 

[切目長押上~内法付長押下] 書院造 園城寺 光浄院 客殿 1601年建立

 

    

室内床面との段差切り替えに設けられる材を切目長押(きりめなげし)と呼ぶ。建具は、外側の切目長押~内法付長押間に蔀戸(しとみど)、内側は、敷居~内法付長押間に明り障子を入れる。

カラ―写真 原色日本の美術12(小学館)より  図・モノクロ写真 日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより モノクロ写真は編集

 

「明治期の内法寸法」

平屋建住家矩計」:日本家屋構造 より 明治37年(1904年)刊行。 左の住家の内法寸法5尺8寸となっている。

 


「人間・住居・環境と科学技術・・・・万博万歳!・・・・」 1984年4月

2020-04-22 13:39:02 | 「筑波通信」より

     

 

 人間・住居・環境と科学技術・・・・万博万歳!・・・・      

                                     1984年度「筑波通信№1」

 今年はいつになく寒く、例年ならば桜の花も咲きかけてもよいころなのに、梅の花さえ開ききっていない。日かげにはまだ雪も残っていたりする。

 三月の半ば、それというあてもなく、研究学園都市の開発地区をはずれた西側の地域へ車で散歩?に出かけてみた。午後三時すぎ、昼間の日ざしはさすがに春めいて暖かったが、そのころになると風がまた冷たくなっていた。

 このあたりには商店などもなく、日ごろ私の生活に縁がないから、まずほとんど出かけることがない。開発で設けられた広い通りを一歩越えると、そこはいわゆる市街化調整区域で、急に田園風景が目の前に拡がってくる。こんもりとした林が点在し(そういう所は大体集落があると思ってまずまちがいない)、その背景には、その林よりも低く一定の高さで連なる主として赤松からなる林が見える。光のあたり具合では、北国のから松林のように見えることもある。そこには人が住んでいないから夕暮れどきなど、灯り一つ見えない黒々とした森が拡がっているように見え、少しばかりこわい感じさえする。灯り一つ見えない闇の世界が、ここにはまだあるのである。

 

 研究学園都市なる開発がなされた一帯は、高い所でも標高25メートル、低い所は霞ヶ浦よりほんの数メートルしか高くない低い丘が拡がっている場所である。この低い所というのは、丘に刻まれたひだ、そこには小さな河川が流れている。落差がないから、そういった低地はじくじくした湿地帯であった。であったと過去形で書いたのは、今では機械排水で大かた乾田化されたからで、つい最近まで(詳しくは調べていないが昭和20年代は多分そうだったと思う)湿田だったのである。人々はかなり昔からこの湿田を拠り所として、この湿田に面した丘の上や縁に住みついた。地図で見ると分ることだが、人々の住みついた場所すなわち集落は、そういった低地:小河川をはさみこむようにして点在している。そして、この一帯は、先にも記したように、言うならば平原に近く、関東平野を吹きおりてきた風はこの何のさえぎるもののない一帯を吹きとんでゆく。人々はその住む家々のまわりの樹木を大事に育てあげ、ふところをつくった。いや、ことによると多分、立派な家をつくりあげる前に、そのようなふところを見つけだし、あるいはつくりだすことから始めたのである。そこでは、あたりの山林とはちがい、ケヤキやシイノキが大きくこんもりと育ち茂るようになる。そのほとんどは今ある建物よりも年老いていそうで、なかにはその年輪が集落の年輪を物語りそうな木々もある。

 低地に面する丘のへりに人々が住みつき、集落ができあがる一方で、低地から離れた丘の上部には(都会人が見たら絶好の住宅用地だと思うにちがいないのだが)、まずほとんど家というものはつくられてこなかった。もうかなり昔から赤松を主体とする林のままであったらしい。そういう所に土地に拠って住むには畑作しか考えられないけれども、そうするにはそこは、あまりにも畑作向きではない。少なくとも自然の成りゆきによって農業を営むには、地味が悪いのである。赤松向きの土地、言いかえれば赤松しか生えない土地、というのは地味が悪い証拠なのだそうである。土地の断面を見ても、ほとんど赤土:いわゆる関東ローム層のままで、表土が薄いのである。しかもこの赤土は粒子がこまかく粘土のようで、水を吸うとすぐには水がはけない。客土でも十分にして、しかも風で飛び去らないような方策でもしないかぎり、よき農土とはならないのである。こういった土地にも開拓・入植の試みは昔からなされ、特に戦後、満州あたりへ入植した人たちが帰国して、彼らには既にほとんど戻るべき故郷の土地はなかったから、このあたりへ多数入植したようであるが、こういった土地ゆえ、なかなか成果はあがらなかったようである。私の住所の竹園というのは、そういった開拓地の拠点につけられた松・竹・梅の雅名を基にしたらしいが、元の竹園も梅園も既に学園都市の下敷となり消されてしまい、町名にだけその名をとどめている。それらの元の場所は、開発前の地図によると、赤松林のまんなかで、家の数も少なく、集落の体をなしていない。集落をなすまでにはいたらない、いたり得ない土地だったということだろう。

 かといって、この丘の上の広い赤松林が人々から全く見捨てられていたわけではない。戦時中、この林は、あの松根油(松の根から得られる無色の油。独特のにおいが有る。〔第2次世界大戦中ガソリンの代用とされた〕:新明解国語辞典)を採るのに活用されたようだが、それは別として、これらの林は昔から、丘のへりの集落に住む人たちの重要な薪炭林の役割を担っていたのである。それはちょうど武蔵野の雑木林と同じで、それを生活のために使うことにより、いわば自動的に毎年手入れがゆきとどいていた。信州の山奥などに行くと今でも家のまわりに薪が壁のように積みあげられているのを見かけるけれども、ここはそれほどの寒地ではないからそこまでの量はいらないにしても、一軒の家が年間に使う薪の量は相当なものだっただろう。だから、この広大な面積の、一見無用・不毛に見える赤松林は、周辺の町や村の貴重な燃料源として、見合った広さであったのかもしれないのである。今では多くの林が下伐りもされずに荒れるにまかされているけれども、それは多分、燃料革命:プロパンガスの普及と並行しているはずで、風が吹いて桶屋がもうかる式に言えば、松食い虫の大量普及はプロパンガスの普及のせいなのである(松食い虫は、手入れのゆきとどいた松林にはあまりよりつかない)。

 

 だが、今から20年ほど前、この広大な山林を、無用・不毛な土地と見て、目をつけた一群の人たちがいた。もったいないから開発しよう、というわけである。それがすなわち、研究学園都市の開発計画に他ならない。相対的に山林の占める割合が多い一帯に、まるで白紙に自由画を描くかのように計画され、そしてつくられたのがわが研究学園都市なのである。そして、その開発計画の地区内では、まずほとんど全てと言っても決して言いすぎではないほど、既存の地物は根こそぎひっくりかえされた。そしてそこには、まわりとは全く何の関係も整合性もない 「絵」がはめこまれてしまったのである。

  以上の部分については添付の別文と地図(筑波大学芸術年報1978 所載)をあわせお読みいただきたい。:通信に続いて掲載

 

 私が今散歩をしようとしているあたりは、幸か不幸か、あの学園都市の「はめ絵」からはずれた一帯である。概して既存の集落が多く散在している。

 学園都市の壮大なる大通りを越えると、道は急に細く、人がゆったりとした気分で歩ける程度の幅になる。ここではもう、車はわがもの顔では走れない。道は田畑のなかを曲りくねり続き、やがてこんもりと茂った樹林のなかに入ってゆく。集落に入ったのである。あいかわらず道は微妙に曲り、太くなったり細くなったりする。樹林が所々で切れ、そこから、うっそうと茂った樹林を見てきた目にはうそかと思うような明るい空間が中に拡がっているのが見える。家はそこに建っている。樹林の切れ目は、単に切れ目の場合もあるし、そこに立派な門が構えられていることもある。門の形も多様である。しかし、いずれにしろ、どの家も見ごとなたたずまいである。たたずまいということばは、こんな場合にしか使えないのではないか、と思うほどである。不思議なことに、それは、そこに建つ建物が古かろうが新しかろうが、さほど変らないのである。ただ、そのたたずまいを侵すのは、それが既製品のプレファブであったり、近代的な平らな屋根の建物であったりするときだけのようである。こうしてみると、このようなたたずまいというものが単に建物それ自体だけで生まれるのではない、ということがよく分る。建物それ自体をいかに合理的に近代的にしたところで、その置かれる場所:空間との関係が忘れられているかぎり、住めるたたずまいは生まれてこないのである。因みに、空間ということばはドイツ語ではraumというが、 その語源は「開墾ないしは移住の目的で、森林内の間伐地をつくること」であるといい、そこには、「人問を庇護するように収容し、人聞がそのなかで自由に運動することができる空洞(O・F・ボルノウ著「人間と空間」より)という意味が含まれているのだそうであるが、こういう集落で見かけるあの樹林のなかの空間は、まさにこのことばの語源そのもの以外のなにものでもない、といつも私は思う。

 

 先に私は、道は田畑のなかを曲りくねり、と書き、更に、集落に入っても、道は微妙に曲り、太くなったり細くなったりする、と書いた。実際、初めてこういう所へ来ると、一つとして幾何学的整形の道などなく、わけがわからなくなるように思うのだが、慣れてくるとそうではなくなってくる。道が曲りくねるのも、ただいたずらに曲りくねっているわけではなく、ちゃんとした理由があり、その理由を一たびのみこむと、全てが素直に分ってくるのである。こういう集落まわりの道は、あくまでも、人が歩くことからつけられるわけで(もっとも、道というものはもともと全てがそうなのだが)決して人に無理・強引な歩きかたをさせはしない。なるべく平らに人を歩かせる、曲りの多くは、だから、土地の等高線をたどったものであったり、そういった道が何か地物にぶつかり止むなくそれをまくような場合にかぎられるのである。それに、一軒一軒の家の場所のとりかた、先きほど書いた意味での「空間」のとりかたも、それぞれいいかげんに、めちゃくちゃになされてはおらず、田畑との関係には、ほぼ一定したやりかたがある。こういったことをのみこむと、地形や地勢から、自ずと集落の姿、土地への張りつきかたが見えてきて、迷うようなことはまずなくなり、いわばすいすいと歩けるようになってくる。通常言われる田園風景ということばは、なんとなく、いわゆる自然と一体になったのんびりとした風景、なんの規則もなく雑然と家々や田畑が散在しているような風景、のように思われがちであるが、それは決してそうではなく、土地の性状に拠らざるを得ない生活が必然的につくりだす、いわばその必然という規則がそこに内在しているわけなのである。そしてそれには、その土地で生きる、生きるしかない、という強い人間の意志が働いているわけであるから、自ずとそのたたづまいは、その土地の者でもなく、また農業を営むわけでもない人にも、人間としての共感を抱かせるのである。

 

 こういった集落を、その風景を味いながら、いくつも通りぬけてゆくうち、突然、工事中の広い道路にぶつかった。その様相はまったく私がいま見慣れてきた風景にそぐわない異質のものであった。その広い道は、私が通りぬけてきたいくつもの集落の拠り所である湿地帯:小河川沿いの水田の帯を、無残としか言いようのないやりかたで分断していた。水田を横切ってダムのように土堤がつくられている。その道にのってしばらく走って合点がいった。少し走るとゲートがあり、そこで追いかえされたのである。ここがかの科学博:万博会場なのである。あとになって判ったのだが、これ同様のとてつもなく広い道が、とてつもないやりかたで、あと数本、この田園風景を貫いて走るのだそうであり、それに沿って、これまたとてつもなく広い駐車場が、山林や田畑をつぶしてつくられるのだという。

 3月17日付の朝日新聞万博特集によると、この駐車場の借地代は10ア-ルあたり25万円(年間)、米をつくるときの純益は8万円だから、汗水流さずに3倍のもうけ、と書かれている。またこういった値がつけられた結果、周辺の地価も3倍4倍と上昇したという。国や県のえらい人たちの間には、このような地価の上昇をもって、その地域のストック:財産が増えたことと見なす考えかた、それが開発あるいは万博を開く意義だとする考えかたがあるらしい。しかしこれは、一言で言えば、この地域の人々に対して農業をやめろということに他ならない。いったん汗水流さず金の入ることを覚えた人たちは、汗水たらす農業がばからしく思うかもしれないし、かといって、万博はいつまでも続くわけではないから駐車場はいつまでも駐車場ではあり得ず地代が入り続けるわけでもない。仮に駐車場を原形に復すとしても、いったん完全舗装した土地が、直ちに元通りの収量を保証する耕地や、元通りの山林に戻るわけがない。ほんとに元通りになるには、もらった地代などではとりかえしのつかない費用と、これが大事なことなのだが、歳月を要するはずである。これは明らかに、なんらかの方便で、農民たちをだまくらかしたとしか、私には思えなかった。

 

 私は、万博のテーマを思い出していた。そのテーマこそ「人間・居住・環境と科学技術」ではなかったか。だが、あれこれうかがうかぎり、人間・居住・環境はどうやらお添えもの:ついでのことばであるらしく、出展物はもっぱらいわゆる先端科学技術のいわば強引な日常生活への押しつけ・押し売りであるようだ。先きほどの朝日新聞の特集版の見出しを借りれば、「科学が描く21世紀」ということになるのだろう。「科学」が「21世紀の夢」を「描いた」つもりになっているとき、その会場にされてしまった地元では、夢どころではない、その日常の生活の営みが、そしてそれこそが21世紀への礎となるべきものすなわち「人間・居住・環境」に他ならないのだが、無残にも破壊されつつあるのである。かつて、この地域に住みついた人たちは、いやおよそ人間という人間は、大地に改変の手は加えても、決してこのような破壊はしてこなかったし、そして、いわゆる「技術」に振りまわされるようなこともしなかった。なぜなら、土地に手を加えることは、あくまでもそこでの生活を成りたたせるためであったし、「技術」はあくまでも道具であって、道具は生活遂行の必然から生みだされるものであり、道具に生活を合わせるような本末転倒は、およそ人間であるかぎり、思いも及ばぬことだったからである。

 

 そうは言っても、この21世紀の白昼夢は、現実に来年の今ごろ開かれる。地元の人たちの困惑をよそに、多くの人々が押しかけるのだろう。

 私は訪れる全ての人々に、単に万博会場や研究学園都市やあるいは周辺の観光地を巡り歩くだけではなく、万博会場のつい目と鼻の先に数多く点在する集落そしてその拠ってたつ田畑をも、是非見て歩いてもらいたい、と思う。それならば私もよろこんで案内役をかってでよう。とにかく、あのたたずまいを身をもって感じとってほしいのである。そして、それを万博会場や研究学園都市のつくりかたと比較してみてもらいたいのだ。現代とは何か、「科学技術」とは(人間にとって)何か、何だったのか、自ずと分ってもらえるのではなかろうか。

 「人間・居住・環境と科学技術」という万博の主テーマは、万博会場のなかだけでは示されず、万博そのものと、その周辺に存在する既存の(「時間をかけて積みあげられてきた」人々の諸々の営為とを比較し対比するなかで、初めて、そして正しく如実に明らかにされるはずである。あるいは主催者のなかには周辺に拡がる日本の既存のたたずまいや風景を、時代おくれの恥しいものだと考える人たちもいるかもしれないが、しかし、会場はもとより道路の全てにふたをするわけにはゆかないから、十分にそれらを見聞してもらうことが可能だろう。考えようによれば、地元の人たちのこうむる迷惑を別にして、あの主テーマのためには、きわめて適切な場所が会場に選ばれたのである。ここだからこそ、本来の「人間・居住・環境」と「科学技術」というもののありかたが強く対比されて見えるのであって、これが都会のまんなかだったら、面白くもおかしくもなかっただろう。もしかして、主催者たちは、そこまでを見こんだ偉い啓蒙者集団なのかもしれない。乞御期待!

 

あ と が き

〇第4-1号という字を標題に書きこんで、もう四年目になる、という思いと同時に、なんだかこわいような気分になった。時間がどんどん過ぎてゆき、なくなってしまうのではないか、という恐れのようなものを感じたからである。実際、この三年間にいったい何ができたのだろう。かといって、黙りこむのもしゃくだから、気をとりなおして続けてみようと思う。よろしくおつきあいのほどを!

〇この号では、初め、別のことを書くつもりでいたのだが、たまたま万博会場のあたりを通る機会があり、そのあまりのひどさにいささか腹をたて、その結果、こういう内容になった次第なのである。

〇まったく「人間・居住・環境」などというテーマをよくもまあ白々しく唱えたものだと寒心にたえない。それとも、21世紀の「人間・居住・環境」というのは、ああいった姿のことを指すのであろうか。そうであるなら、私は御免こうむりたい。

〇第一、人々が営々として築いてきた農地を平然と壊してゆく神経が私には理解できない。ここ数年のちょっとした冷害で、あっという間に余剰米が底をつき、東南アジアヘの供与もやめ、減反も見なおさざるを得ないというのに、あいかわらずよき時代の夢を追っている。それとも、21世紀の先端技術、遺伝子工学で品種改良、米の工場生産ができるようになるから構わない、とでも言うのだろうか。

〇土浦の市内に、これも万博にからんで、今とんでもないものができつつある。高架自動車道である。万博の観客輸送のためにバスを大量に走らせなければならない。市内の今までの道路を走らせたのでは渋滞して大変だ。そこで駅から町はずれまで高架道をつくるのだという。なるほど万博の期間中はそれもよかろう。けれども終ったらどうするのか。終ったあともそこをバスが通るのだろうか。そうなると、高架道だから、バスは市中を通らない。まさか高架の上に停留所がつくられるわけでもあるまい。そんなことをしたら不便きわまりない。となると人はみなーたん駅へもっていかれてしまう。都合がよいのは駅ビルだけ、市中の商店にとっては致命傷となるのは明らかである。おまけに、自分たちにとって何の為にもならないその高架道で、いつでも日かげ。環境悪化以外の何ものでもない。それでいて、高架道により土浦の町には活が入れられる、というのが県や市の(市は県に、県は国にそう言わされている気配がある)言い分である。万博を開くという無計画の計画のしわよせがここでも弱い人々の上におおいかぶさっている。

それぞれなりのご活躍を!

            1984年3月29日                  下山眞司

 

 

『環境』の見方・見え方 一ムラの論理と他者の論理一    筑波大学芸術年報1978 所載

 上の図は、研究学園都市周辺の開発直前(昭和45年)の状況に現況の道路パターン(点線)を重ねたものである(作図上簡略化して作成した)。

 この図をどのように見るか。一般的且つ客観的な一つの見方は、土地利用図としての見方である。この図を眺めていると、見慣れた学園都市がそこはかとなく見えてくるが、それは必ずしも記入した現況の道路パターンのせいではない。学園都市は、主に山林荒地・畑地すなわち人の住めない無用の土地に計画され、その無住地帯の形がまさに学園都市のパターンなのである。古い地図では、これが更にはっきりとよみとれる。故に、学園都市はこの不毛無用の土地を有効利用した賢明な国土開発だと楽天的に見える見方もできる。しかしそれでよいか。

 おそらく、この地域の集落に現実に住んでいるムラの人たちにとっては、そこは単なる中性的に無用な土地としてではなく、具体的な彼等の生活の場・空間、更に言えば彼町の営為の過程を刻んだものとして見える筈である。なぜなら、彼等は農民として「ここ」を選びムラを成して住みついた。水田(となる土地)を探し居を構え、山林荒地を開き使うことによって生きてきた。だからその土地利用は、伊達や酔狂のそれではなくまさに彼等の生活の(営為の)証に他ならないと見るのが妥当ではないか。彼等にとってそこは、そうあったのではなく、そうなったのである。そのように見るとき、一見雑然として見える集落・水田・道など全ての土地が、生活を彼等自らがつくって行く立場にたってあみだした彼等の環境とのとりくみの論理によって統括されているように見えてくる。実際、桜川と小貝川に狭まれ稲作川の水に乏しいこの台地には、わずか数本のヒダ(谷地田)が刻まれているにすぎず、人々はこのわずかなヒダを水田化することを支えとして生きるしかなかった。そのまわりにムラの適地を探したのである。従って、雑然と見える集落群も、このヒダを通してのまとまりがあり、他の土地利用もある原則によって展開していると言えよう。そしてそれは、図上の(きれいな)パターンとしてのまとまりではなく、彼等の具体的な生活の場・空間(環境)確保を通じての、彼等にとってのまとまりとしてある筈なのだ。

 このようなムラの人たちの側の見方をムラの見方・ムラの論理、通常一般的目つ客観的な見方を他者の見方・他者の論理と仮に言おう。そして、この他者の目では、このムラの人たちの自分の内に視点を据えた見方は決して見えず、ムラの人の営為の意味もつかめず、全てが等質にして中性的なものとしてしか見えないのである。

 もしこの他者の論理による一つの計画がムラの上にかぶせられたとき(学園都市もそうではなかったか)当然のことながらムラの内的まとまりは無視され、ムラの空間の骨組自体が根本からくつがえされる。これは、例えばムラの道を切断しその分の交通量を新しい道路で補うとか畑地をつぶし別の代替地を用意するというが如き数量的単純足し算では回復不能な事態なのであるが、他者はそれに気付かないし第一そのような問題のあることさえわからないだろう。それどころか、こういう他者の見方こそ、科学的計画手法の根拠として、いままで重用されてきた見方ではなかったか。そしてその一方での環境保存・環境との調和・地域との交流などという他者の言葉は、あまりにも漫画的に私にはきこえるのである。

 土地・環境を単に中性的に客観的に見ず、むしろ極度に色付けして見るムラの人たちの見方こそ、それに迎合するのでなくそれを尊重寸する意味で、まさに客観的に知らねばならないことではないだろうか。いったい平城京にしろ平安京にしろ、それを計画実行したのは他者であったか、それとも前住者とは別のムラの論理の持主であったか(後者だと私は思うが)またそれをどのように行なったか、私には非常に興味がある。あるムラの論理が、別のより卓越したムラの論理に圧倒されたことは、歴史上よくあったことにちがいない。しかし、他者の論理がこれほどまでに大手をふって歩いたのは、現代をおいてないだろう。これは建築単体においても全く同様であり、例えば公共建築はいったいどれだけムラ(そして)にとっての見え方を考慮しているか。ムラの論理・個の論理を無視した公共の論理は、人間の生活から遊離した他者の論理に他ならない。建築の論理は、ムラの論理・個の論理に一旦はかえらざるを得ないのではないだろうか。

 

 


投稿について

2020-04-22 13:37:55 | 投稿者より

おいで頂き、ありがとうございます。

このブログでは、「木造軸組工法の基本と実際」のテキストと「筑波通信」等の掲載を行います。

 

「木造軸組工法の基本と実際」は、故 下山眞司が、10数年にわたって講師を務めさせて頂いた(一社)茨城県建築士事務所協会主催の建築設計講座のテキストからの抜粋となります。

テキストは毎年改稿され、Wordデータとして残っているのは2005年版になります。ただ、それが一番読みやすいかというと必ずしもそうではなく、編集作業は、部分的に原稿として残る2000年~2004年のものも含めてそこからの抜粋・編集になります。

左のカテゴリー順に掲載予定ですが、どこでどのような作業が必要となるのか、全体の見通しはたっていません。

 

建築設計という作業には、その人その人なりのアプローチの仕方があると思います。 このテキストの掲載は、一人の建築士としてのアプローチの仕方だとお考えいただくと、投稿者としては、自由に作業ができるように思っています。

どうぞよろしくお願い致します。

                              投稿者:下山悦子(建築士)