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40- 平安人の心 「鈴虫:光源氏の満足と寂寥 出家を選んだ女たち」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏五十歳の夏、女三の宮の持仏開眼(じぶつかいげん)供養が営まれた。光源氏が発願し紫の上も準備に加わった法事は絢爛たるものだった。とはいえ光源氏は尼姿となった女三の宮にまだ未練があり、悲しみの歌を詠むが、それにつけても女三の宮との心はすれちがうばかりである。

  女三の宮には朱雀院から三条宮が与えられたが、光源氏は女三の宮を六条院に引き留めた。彼女の住む寝殿は本来、春の町の一角に造ったものであったが、光源氏はそれを、尼にふさわしい秋の野の風情に変えさせた。虫を放し、その声を聞くことを口実に訪れる光源氏を女三の宮は疎むが、来訪を断る強さもない。
  そんな八月十五日の夕暮れ、女三の宮のもとで光源氏が世の遷り変わりを思いながら琴を弾いていると、光源氏の異母弟の蛍兵部卿宮がやって来て、夕霧や上達部(かんだちめ)たちも交えての遊宴となる。やがて冷泉院から誘いがあり、光源氏たちはこぞって院の御所に移動した。帝位を降りて軽い身となった冷泉院は喜んで光源氏を迎え、詩歌(しいか)の遊びでもてなす。その暮らしぶりは静かで落ち着いていた。

  明け方光源氏は、冷泉院と共に暮らす秋好中宮を、挨拶がてら見舞う。四十一歳の秋好中宮は、光源氏に出家の意向を漏らす。光源氏は言下に諫めるが、中宮の真意が亡き母・六条御息所の迷妄する霊を救いたいがためのものと聞くと、内心ではいたわしくも思い、胸を打たれるのだった。
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  「出家とは、生きながら死ぬということ」。自ら出家の道を選ばれた、瀬戸内寂聴尼の言葉である。ご自身の体験を踏まえてこその一言であるに違いないが、この言葉は、こと平安時代の貴族女性においても、ほとんどそのまま真実と言ってよい。
  庶民階級には、僧の妻として暮らす尼や芸能で身を立てる尼など、世俗を引きずる者がいた。だが貴族社会では、尼となれば恋人や夫との関係を断ち、世俗の楽しみを捨てて、厳しい仏道修行に励まなくてはならなかった。それでも彼女たちは、それぞれに心の救済を求めて、出家の道を選んだのである。
  動機は、大きく三つに分かられよう。何らかのできごとをきっかけに、生きる意欲をなくして出家するタイプ。また家族など大切な人を喪って出家するタイプ。そして最後に、病を得たり年老いたりして、死を身近なものと感じ出家するタイプである。

  第一のタイプは最も劇的な出家といえ、「源氏物語」の女君は多くがこれにあたる。光源氏のストーカー行為から逃れるために出家した藤壺。同じく継息子(ままむすこ)に言い寄られて、世に嫌気がさした空蝉。柏木に犯されて出産し「もう死にたい」と出家した女三の宮も、自殺未遂の果てに出家した浮舟もそうだ。
  史実では例えば、一条天皇(980~1011年)の中宮定子がいる。清少納言の「枕草子」に快活で知的な姿の描かれる中宮定子は、天皇と深く愛し合い幸福な日々を過ごしていた。しかし父の関白・藤原道隆が亡くなり、追い打ちをかけるように翌年、兄と弟がいわゆる「長徳の政変」を引き起こす。女性関係のもつれを動機に兄弟で花山法皇(968~1008年)に矢を射かけたという、痴話げんかが発端の事件なのだが、被害者が法皇であるだけに、天皇も彼らを厳罰に処さざるを得なかった。
  二人は流罪。定子は家が受けた辱めに堪えられず、絶望の中で出家した。その心は、半ば自殺に等しいものではなかったろうか。このことは当初、同情を以て貴族社会に受け止められた。だが一年後に、定子を諦められない一条天皇によって定子が復縁させられると、「尼なのに」「還俗か」と批判を受けた。運命に翻弄された痛々しいケースである。
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