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解説―5.「紫式部日記」長徳の政変

解説―5.「紫式部日記」長徳の政変

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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長徳の政変

  一方伊周(これちか)は、この一度の挫折で、あらぬ方向に奔(はし)ってしまう。翌長徳二(996)年正月十六日、弟の隆家を語らって前帝花山法皇を襲撃したのである。動機は、「栄華物語」が記すことによれば、女性問題だった。

  出家後も性的に放埓(ほうらつ)な花山院が伊周の恋人に言い寄ったというのだが、それは全くの思い違いであった。院の相手は、伊周の恋人の妹だったのだ。

  なお、この時花山院に言い寄られていたという故太政大臣藤原為光の四女は、寛弘五(1008)年に院が崩御して後、道長の妾(しょう)となっている(「栄華物語」巻八)。

  一条天皇は事件の起きた長徳二年、十七歳。道兼の死後は関白をおかず、帝自らが判断を下す親政を執っていた。

  伊周らの処分に、天皇は迷った。彼らは定子の兄と弟、自らも親しんだ義理の兄弟である。だが迷ううち彼らの余罪が発覚した。天皇の母である東三条院詮子を呪詛したとの罪、そして天皇家以外に催してはならない秘法である太元師法(たいげんのほう)を密かに行ったとの罪である。

  偶然とはいえ、花山院への襲撃も合わせて、これらはみな天皇家を標的にし、その権威を踏みにじる行為であった。天皇は伊周と隆家を流罪と決めた。特に伊周は国家転覆罪並みの、太宰権帥(だざいのごんのそち)に降格させての流罪であった。

  この「長徳の政変」によって中関白家は没落した。政変の悲劇の中で、定子は折しも初めての子どもを懐妊中だったが、衝撃的に出家してしまった。

つづく
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