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7.紫式部の恋 続き2 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

2024-03-25 15:29:41 | 紫式部ひとり語り
7.紫式部の恋 続き2 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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続き2 喪失 宣孝の死

  宣孝の死後しばらくの間、私は時間の感覚を無くしていたように思う。妻が夫の喪に服する期間は一年。宣孝は夏に亡くなったので、決まりにより私は一年間を夏の喪服のままで過ごした(「小右記」長和三年十月四日)。

  ある時、知人から手紙が来て「この春は帝も喪に服していらっしゃる、悲しい春だ」という。春というのだから、もう翌年になっていたのだ。そう言えば年末に、長く病でお苦しみになっていた東三条院様がとうとう亡くなられて、帝が喪に入られた(「日本記略」長保三年閏十二月二十二日)。

  女院の崩御なので、子である帝だけではなく天下が喪に服する。だからその春は、世の中の誰もがみな喪服を着ていたのだ。前からずっと喪服姿でいた私は気がつかなかった。だが、私の衣と皆の衣は違う。私の喪服は夏衣。女院が亡くなられたのは冬だから、皆の喪服は冬衣だ。

   何かこの ほどなき袖を 濡らすらむ 霞の衣 なべて着る世に

   [どうして私ときたら、この取るに足らぬ分際の、薄い夏衣の袖を涙で濡らしているのでしょうね。天下がなべて女院様のために喪服を着ている世の中で、私一人が違う喪服を着て、私一人が違う涙を流しているのですね。] (「紫式部集」41番)

  女院様の大規模な喪を思うと、それに比べて宣孝がどれほどちっぽけな存在だったかが痛感される。たかが正五位下の下級貴族どまりで死んだ宣孝と、帝の母で女として初めて院の称号まで受けられた東三条院様とでは、生きていた時も違うが、死んでからも扱いが違いすぎる。世の中とはそういうものだと、私は初めて知った。

  いや、これまでもよく知っているとは思っていたのだけれども、それは形ばかり知った気になっていただけだったと分かったのだ。人ひとりの死に、こんなにも思い軽いの差があるのだ。本当に侘しい、哀しい。

次回「続き3 喪失 宣孝の死」につづく

6.紫式部の恋 続き1 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

2024-03-24 11:25:11 | 紫式部ひとり語り
6.紫式部の恋 続き1 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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続き1 喪失 宣孝の死

  そして冬に入った頃から、疫病が猛威を振るい始めた。流行は鎮西から始まり都へと襲いかかって、疫死者が後を絶たない事態となった(「日本記略」十一月是月(ぜげつ:このつき?)・今年冬)。そんな中、空に月を挟んで東西に二つの雲の筋がかかる。「不祥( 不吉であること)の雲」である。
  月は后の象徴、この雲は后への凶兆である。まさにそれはあたって、十二月十五日夜半から翌十六日未明にかけて、かねてより東三条院様がご滞在の平惟仲宅が火災で全焼、女院様は道長殿の土御門殿に避難されたが、ご容態が急変、危急の事態となった。

  それと全く時を同じくして、一条天皇の皇后定子様がご出産、女皇子はうまれたものの定子様は崩御されてしまう(以上「権記」十二月十五・十六日)。定子様といえば、私が越前に下向する直前の長徳二(996)年五月、ご実家の没落と共に出家されたにもかかわらず、翌年再び天皇に迎えられて、きさきに復帰された方だ(「小右記」長徳三年六月二十二日)。
  前代未聞の復縁は、ひとえに帝のご愛情の深きによる。後ろ盾のないきさきへの御寵愛に貴族たちからの風当たりも強く、彰子様の入内と相前後して一の皇子をお産みになったものの、世は歓迎しなかった。やがて彰子様が中宮に立たれ、定子様は皇后の名を与えられながらもすっかり圧倒されていると拝察された。その挙句の非業の死だ。

  世とはなんと騒がしく、また脆いものなのだろう。災禍、病、苦しみ、そして死。確かなものはどこにあるのか。定子様は享年二十四と聞く。帝もまだ二十二歳だ。私とて彼らと同世代だ、思うところが無いではなかった。だが私はこの頃には、未だそれを自分のこととして感じていなかった。
  定子様の四十九日にあたる二月五日は、たまたま春日祭りの前日だった。勅使に支障ができ、宣孝は代理を打診されたが、「かねてから痔がよくないから」と断った(「権記」二月五日)。そうしたささいなことがずっと続くと、私は思っていた。

  それが絶たれた。宣孝は疫病にかかり死んだ。私は正妻ではないので、夫と一緒に住んではいない。だから死に目に会うことはできなかった。私にとってその死に方は、不意に消えたも同然だった。

次回「続き2 喪失 宣孝の死」につづく

5.紫式部の恋 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

2024-03-22 18:02:58 | 紫式部ひとり語り
5.紫式部の恋 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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喪失 宣孝の死

  宣孝が死んだのは長保(ちょうほう)三(1001)年四月二十五日のことだった。(「尊卑分脈」)。
  宣孝には死の影などなかったと思う。仕事は順調で、多忙だった。結婚した長徳四(998)年の八月には、それまでの右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)に加えて、山城守を拝命した。(「権記」同年八月二十七日)。

  山城国はこの平安京が置かれている地域だ。守は賀茂祭の行列などにも参加して、受領ではあるが雅で華やかな職だ。また、翌長保元(999)年には名誉なことが沢山あった。十一月七日、藤原道長殿の姫君である彰子様が帝に入内し女御となられた夜には、宴に奉仕した。上機嫌の道長殿に命ぜられ、藤原実資様にお酒をついだりしたのだという(「小右記」同日)。

  同じ月の十一日には賀茂の臨時の祭りの「調楽」と呼ばれる総稽古で舞い、会心のできだったようだ(「権記」同日)。また二十七日には、九国豊後の宇佐八幡宮へと遣わされる「宇佐遣い」として、勿体なくも帝のお言葉を携えて出発した(「日本紀略」同日)。帰ったのは翌年二月で、道長殿に馬二匹を献上した。(「御堂関白記」同月三日)。

  こうした日々の中で、私には娘が生まれていた。宣孝にとっても私にとっても充実した日々が続いていたと言える。もちろん夫婦だし、宣孝はもてる男でもあるしで、時にはつまらない喧嘩などがなかった訳でもない。だがそうしたことも含めて、今思えばすべてが大事なき日常だった。今日は昨日の繰り返しであり、明日はまた今日と似た日の繰り返しになるのだと、私は何の根拠もなく思いこんでいた。それはなんと浅はかな考えだったことだろうか。

  思えば宣孝が宇佐から帰った頃から、不吉な兆しはあったのだ。四月七日、大内裏豊楽院(ぶらくいん)の招俊堂(しょうしゅんどう)が落雷に遭い出火、灰燼に帰した(「日本記略」同日)。五月には一条天皇の母君である女院、東三条院詮子様の病が重篤となり、帝は天下に大赦を施された(同 五月十八日)。しかしその効果が見えないまま、道長殿までもが重病に臥された(同 五六月之間)。

  お二人が回復されたと思ったら、八月には大雨で賀茂川の堤が決壊。多くの家が流された。私のこの家はもちろん、東京極通りを挟んですぐ向かいの道長殿の邸宅土御門殿にも被害が及んで、庭の池があふれ海の如くであったという(「権記」八月十六日)。

次回「続き1 喪失 宣孝の死」につづく

4.紫式部の恋 白居易の詩と紫式部の宣孝への思い歌(紫式部ひとり語り)

2024-03-19 17:39:36 | 紫式部ひとり語り
4.紫式部の恋 白居易の詩と紫式部の宣孝への思い歌(紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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唐の白居易の詩と紫式部の宣孝への思いの歌
 晩桃花
一樹の紅桃 たれて池を払ふ
竹遮り松蔭(おほ)ふ 晩(おそ)く開くの時
斜日に因るにあらずんば 見るに由なし
これ閑人ならずんば 豈知るを得んや
寒地、材を生じて 遺ることやや易く
貧家、女を養ひて 嫁ぐこと常に遅し
春深く落ちんと欲するも 誰か怜れみ惜しまんや
白侍郎 来たって一枝を折らん

現代語訳

   [一本の桃の木が、池の水面に枝を差し伸べている。
   上で竹が光を遮り、松も覆いかぶさっている。遅咲きの桃はやっと咲いたというのに。
   夕暮れの日が射さなければ、暗くて目にも留まらない。
   私のような暇な詩人でもなければ、この花はみつけられまいな。
   そうだ、人間にも似たことがある。低い家門からは逸材が出てもなかなか拾われないし貧しい家の娘は、必ず嫁ぎ遅れるものだ。
   春遅く、花はもう散りそうなのに、憐れみ惜しむ者は誰もいない。
   ならばこの私、白居易が一枝折って、家で愛でてやろうではないか。]
     (「白紙文集」巻五十八 2823「晩桃花」)

  白居易のこの詩「晩桃花」は、散歩中に遅咲きの桃の花をみつけたという、ただそれだけの詩だ。だがその花は、陽の当たらない可哀想な場所でやっと咲き、しかし誰にもその美しさを愛でられないまま散りかけている。白居易はその姿に、貧しい家の子女たちを思うのだ。
  能力があっても出世できない男子、まるで私の父ではないか。そしてどこにも嫁の行き手がないまま歳をとる娘。私は自分のことを言われたように思う。詩人白居易は、手を差し伸べてその桃を一枝、大切に折る。桃の花は、初めて人に愛されるのだ。

  私はこの詩を心に置いて、桃の花の歌を詠んだ。

    桜を瓶に立てて見るに、とりもあへず散りければ、桃の花を見やりて
    折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひぐまなき 桜惜しまじ

    [瓶に立ててあった桜が、見る間に散ってしまった。それで桃の花に目をやって  桃の花よ、そうして手折られ、彼の愛を受けたなら、もっと頑張って咲きなさい。つれない桜に未練なんて、私は持たないわ。宣孝さん、あなたはどうかしら。] 
    (「紫式部集」36番)

  私はこの歌で、私という晩桃花を励ましたのだ。誰の目も引かなかった私だけれど、「結婚して馴染んでみたら、恋人時代に思っていたよりもいい女だった、見直したよ」などと言われて、愛されたい。彼の別の女たちよりも。

  宣孝はここまで分かってくれたのかどうか。でもこう詠んで返してくれた。

   ももといふ 名もあるものを 時の間に 散る桜には 思ひおとさじ

   (桃の名は「百年(ももとせ)」の「もも」にも通じるだろう?百年添いとげよう。移ろいやすい桜より軽んじたりは、しないよ。)
   (「紫式部集」37番)

  かつて私は自分を「永久に解けることのない雪」と詠んだ。そんな心の持ち主だった私に、やっとささやかな花が咲いた。

  だが、花はみな等しく散る。咲けば散るのが定めなのだ。私の花もあっけなく散った。結婚生活はわずか三年で、長保三(1001)年、宣孝は死んでしまった。

次回「喪失」につづく

3.紫式部の恋 晩桃花 (紫式部ひとり語り)

2024-03-18 11:44:19 | 紫式部ひとり語り
3.紫式部の恋 晩桃花 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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宣孝の正体は紫式部の父方のまたいとこ(掲載図参照)

  実は宣孝は、私にとって父方のまたいとこにあたる。父にとっては、花山天皇時代に同じ六位蔵人(くろうど)として働いた同僚でもある。ただ、宣孝は父が蔵人になる前、円融天皇の代から既に蔵人を務めていた。つまり円融天皇にも花山天皇にも近かったのだ。その一点からも知れる通り、父とは正反対に世渡り上手な人だった。

  私の家系は曾祖父兼輔の後うだつが上がらなくなった。もう一人の曾祖父定方の男子たちは命脈を保っていた。うち五男の朝忠様は、中納言の職に昇られたうえ、「後撰和歌集」に歌が採られたり、村上天皇の時代の伝説的歌合わせ「天徳内裏歌合」で名誉にも第一首目を詠んだりと、公卿と歌人の両面をもつ方だった。

  加えて女性関係が実に華やかで、「後撰和歌集」に載る歌のすべてが女に係わっている。宣孝にとっては大伯父にあたり、女好きな所がそっくりだ。この方のお嬢様が、やがて左大臣源雅信様に嫁がれ、今道長様の奥様である倫子を産んだ。だから宣孝は、倫子様にとってもまたいとこにあたる。

  朝忠様の弟で宣孝の祖父にあたる朝頼も、恋歌が「後撰和歌集」に採られている。この人は公卿にもう一歩届かなかったが、その息子為輔は権中納言に達した。宣孝の父だ。宣孝は母親も参議の娘だから、悔しいが私より家格は上だ。宣孝の姉妹も藤原佐理(すけまさ)の妻になっていて、れっきとしたものなのだ。そう考えると、なぜ宣孝が私のような、ぱっとしない父親を持つ、薹の立った(とうがたつ:野菜などの花茎が伸びてかたくなり、食用に適する時期を過ぎる。盛りが過ぎる)娘などを妻にしようと思ったのか分からない。

  だが一つだけ思い当たる所がある。年齢だ。私の歳は世間から言えば嫁ぎ遅れていたが、宣孝の他の妻に比べればずっと若かった。宣孝は、長男の隆光が私とほぼ同い年で、私とは父と娘ほどの歳の差があったのだ。私は彼にとって、私の知るだけでも少なくとも第四の妻だった。

  宣孝との結婚のため、私は京の自宅に戻った。結婚は長徳四(998)年の春だった。

  その時、家の中には桜の折り枝が飾られていた。ところが桜の命は短く、見る間にはらはらと散ってしまった。私は桜から庭の桃の木に目を移した。折から桃の木も花を咲かせていたのだ。

  桃は中国でも日本でも、長寿をことほぐめでたい木として知られている。漢詩でもおなじみの花で、例えば

 「桃の夭夭(ようよう:若若しく美しいさま)たる 灼灼(しゃくしゃく:明るく照り輝くさま)たりその花」(「詩経」周南「桃夭(とうよう)」)

で始まる有名な古歌謡は、嫁入りする若妻を桃に喩(たと)えたものだ。私も宣孝の妻になる。この詩の妻のように若くはないけれど、桃の花にあやかって、せめて長く添いとげる妻になりたい。桃に寄せてそんな思いがこみ上げる。

  この時私の奥深くに、一篇の詩が浮かんだ。唐の白居易の詩だ。

次回「晩桃花」につづく 白居易の詩と紫式部の桃の花の歌