4.紫式部の育った環境 名家の矜持(きょうじ) (紫式部ひとり語り)
山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集
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名家の矜持(きょうじ:プライド)
私の家は、藤原氏の中でも名門の北家(ほっけ)に属する。まだ都が平安京に移って年浅い頃、嵯峨の帝に側近として仕え、天長二(825)年には正二位左大臣となり、死後は正一位太政大臣の地位まで贈られた藤原冬嗣公には、優秀な息子たちがいた(図の系図2)。
長男の長良(ながら)様と、次男の良房様だ。政治の能力は良房様が上で、娘の明子(あきらけいこ)様を文徳(もんとく)天皇の女御に入れ、生まれた皇子をその年の内に東宮の座につけた。それが水尾(みずのお)の帝、清和天皇だ。良房様はこの清和天皇の時代に、人臣にして初めての摂政となられた。
摂政とは、帝になり代わってすべての政務を執行できる最高の役職。今でも藤原氏の公卿たちなら誰もが切望する地位だ。また清和天皇の女御となり陽成天皇をお産みになったのが、兄の長良様の娘、高子(たかいこ)様。
そして良房様亡きあと摂政の地位を継がれ、清和・陽成天皇、その後の時代までも君臨されたのが、長良様の三男で良房様の養子に入られた基経様だ。
この人たちを「勝ち組」とすれば、「伊勢物語」の主人公になぞらえられる在原業平などは「負け組」かもしれない。「伊勢物語」を本当にあったこととすれば、業平は高子様と駆け落ちしたものの追いかけてきた基経様に高子を奪い返され、自身は東に下って傷心を慰めたというのだから、私はもちろん、歌人業平を尊敬している。だが私の祖先は「勝ち組」の一族だった。
つづく