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4.紫式部の育った環境 名家の矜持(きょうじ) (紫式部ひとり語り)

2024-04-17 09:46:36 | 紫式部ひとり語り
4.紫式部の育った環境 名家の矜持(きょうじ) (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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名家の矜持(きょうじ:プライド)

  私の家は、藤原氏の中でも名門の北家(ほっけ)に属する。まだ都が平安京に移って年浅い頃、嵯峨の帝に側近として仕え、天長二(825)年には正二位左大臣となり、死後は正一位太政大臣の地位まで贈られた藤原冬嗣公には、優秀な息子たちがいた(図の系図2)。

  長男の長良(ながら)様と、次男の良房様だ。政治の能力は良房様が上で、娘の明子(あきらけいこ)様を文徳(もんとく)天皇の女御に入れ、生まれた皇子をその年の内に東宮の座につけた。それが水尾(みずのお)の帝、清和天皇だ。良房様はこの清和天皇の時代に、人臣にして初めての摂政となられた。

  摂政とは、帝になり代わってすべての政務を執行できる最高の役職。今でも藤原氏の公卿たちなら誰もが切望する地位だ。また清和天皇の女御となり陽成天皇をお産みになったのが、兄の長良様の娘、高子(たかいこ)様。
  そして良房様亡きあと摂政の地位を継がれ、清和・陽成天皇、その後の時代までも君臨されたのが、長良様の三男で良房様の養子に入られた基経様だ。

  この人たちを「勝ち組」とすれば、「伊勢物語」の主人公になぞらえられる在原業平などは「負け組」かもしれない。「伊勢物語」を本当にあったこととすれば、業平は高子様と駆け落ちしたものの追いかけてきた基経様に高子を奪い返され、自身は東に下って傷心を慰めたというのだから、私はもちろん、歌人業平を尊敬している。だが私の祖先は「勝ち組」の一族だった。

つづく

3.紫式部の育った環境 ひけらかし厳禁 (紫式部ひとり語り)

2024-04-16 10:57:07 | 紫式部ひとり語り
3.紫式部の育った環境 ひけらかし厳禁 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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ひけらかし厳禁

  私は父に嘆かれても漢籍読みをやめなかった。それどころか漢詩や漢文に没頭した。そこに繰り広げられる壮大な歴史劇、心震える情愛の物語、深遠な哲学が私を虜にした。だがある時、人から言われた一言が胸に引っかかって、私はこの力を隠すようになった。

   「男だに、才がりぬる人は、いかにぞや、はなやかならずのみ侍るめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、「一」といふ文字をだに書きわたし侍らず、いとてづつにあさましく侍り、

   [誰かが「男ですら、漢文の素養を鼻にかけた人はどうでしょうかねえ。皆ぱっとしないようではありませんか」と言うのを聞きとめてからというもの、私は「一」という字の横棒すら引いておりません。本当に不調法であきれたものなのです。]
   (「紫式部日記」消息体)

  男でも、漢文の知識をひけらかす者はうだつがあがらない。それは誰のことだろう。父はどうか。そうだ、確かに父の地位は華やかとは言い難い。父の文人仲間とて、ごく一握りの人が摂関家におもねって出世している以外は、おおかた低い身分だ。

  そして、私が知る限り最も漢文の素養を鼻にかけた貴公子、伊周(これちか)様はどうだろう。二十一歳の若さで内大臣になるまでは世間を驚かせる出世ぶりだったが、一旦道長殿との政争に負けるや、自ら女がらみのばかばかしい事件を起こして失脚してしまった。
  先の帝である花山法皇を自分の恋敵と勘違いし、一味で矢を射かけて暗殺未遂の罪に問われたのだ。余罪も含め多くの連座者を出し、後に「長徳の政変」と呼ばれるに至った大事件だ。伊周様は内大臣の地位を剥奪され、大宰府にまで流された。やがて都に戻っては来たものの、最期は三十七歳の若さで、それは惨めな亡くなり方だったと聞く。

  男ですらこうなる。まして女は、ということだ。私はぞっとした。絶対にひけらかすまい。人には漢字の素養を見せるまいと心に決めた。このように私は、まことに世間に従順な人間なのだ。

  世の中には「男は漢文、女は和歌」という規範がある。だから「源氏の物語」の中でも、光源氏が漢詩を作る場面などを書きはしたが、その詩そのものは決して書いていない。そういう場面では、「女がよく知りもしないことを語るものではないので、省く」と逃げた。「源氏の物語」はちょうど女房が語っている形式なので、辻褄も合う。

  それにしても、漢学は私にとって二重にも三重にも複雑な意味を持つものだった。それが矜持(きょうじ)でもあったが、引け目でもあった。だから、救いとも感じたが嫌悪感も抱いた。

つづく

2.紫式部の育った環境 女官になるのは嫌い (紫式部ひとり語り)

2024-04-14 08:54:57 | 紫式部ひとり語り
2.紫式部の育った環境 女官になるのは嫌い (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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女官になるのは嫌い
  
  それにしても世の中には、そこそこの身分がありながら娘を女官に仕立てるなどという父親もかつていたようだが、なんとおぞましい話だろうか。

  女官など下々の身分の者がなるものだ。女官や女房は、人に顔をさらす。顔などいくら見せても減るものではないと人は言うかもしれないが、そうではない。女は減るのだ。恥じらいや気品というものが。

  確かに私も、後には女房勤めをした。だがそれは望んでそうしたものではない。やむにやまれずのことだった。しかも、最初は嫌で嫌でどうしようもなかったのだ。自分の娘、賢子を女房にしたこと? それは仕方がない。あの子には父親もおらず、もうその道しかなかったのだから。

  だがそうしないで済む方法があったのならば、どこの親が最初から進んで娘を女房などにしたてようか。それは少なくとも、名誉ある家系に生まれた私の感覚ではない。

  かつて娘を自ら女官にしたというのは、高階成忠(たかしなのなりただ)という人だ(図の系図1)。父と同じ漢学の徒だ。だが父とは全く考え方が違っていた。成忠は、学がありすぎて誰からも煙たがられ、変人と噂されていた人物だった。確かに変わり者だ、世の男が信用できぬあまり、娘には結婚を薦めず勉学を授けて女官にしたというのだから。

  成忠の娘の貴子様は、父親から鍛えられて漢文に熟達し、円融天皇の時代に狙い通り天皇付きの掌侍(ないしのじょう:律令制における女官のひとつ)となって活躍された。だがそれがきっかけで、藤原道隆様、道長殿の一番上のお兄様に見初められ、縁づいてしまわれたのだから、世の中とはおかしなものだ。

  高階氏は遠く長屋王に血の繋がる王族とはいうものの、貴族内での地位はせいぜい四位・五位程度に過ぎない。その高階氏から藤原摂関家の本妻へというとんでもない幸運のため、この話は世に知れ渡った(「栄花物語」巻三)。
  だが考えてみれば、成忠が結婚をすんなり認めたというのはおかしなことではないか。最初は男が信用できないと言っていたはずだ。相手が時の大納言藤原兼家様のご長男だからよかったというのか。所詮玉の輿に目がくらんだのではないか。笑止千万だ。

  貴子様は道兼様との間に数々の御子を産んだ。やがて内大臣の地位まで昇られた伊周(これちか)様、一条天皇の后となられた定子様も貴子様の腹だ。お二人とも母君の才能を受けて漢文の素養がおありだった。だがあの一族は、結局は零落してしまった。怖ろしいことよ。漢文ができることを鼻にかけたのが悪かったのではないか。

つづく

1.紫式部の育った環境 少女時代のおこぼれ学問(紫式部ひとり語り)

2024-04-11 11:31:42 | 紫式部ひとり語り
1.紫式部の育った環境 少女時代のおこぼれ学問(紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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私(紫式部)の少女時代のおこぼれ学問

  私の少女時代は、漢詩を抜きにしては語れない。こう言うと世の人からは、はしたない、なぜ女だてらに漢籍など読むのかと叱られるだろうが。これには訳がある。

   この式部丞(弟)といふ人の、童にて文読み侍りし時、聞きならいつつ、かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞさとく侍りしかば、書に心入れたる親は、
「口惜しう。男子(をのこご)にて持たらぬこそ、幸いなかりけれ」
とぞ、つねに嘆かれ侍りし。

   (うちの式部丞と申します弟が、まだ子供だった頃、勉強のために漢籍を朗読しておりまして、私はいつもそれを聞いていて自然に覚えてしまいました。弟は暗唱するのに時間がかかったり忘れしまったりいたしましたが、私はそんなところも不思議なほどすらすらできました。ですから学問熱心だった父は、
   「残念だな。お前が息子でないのが。私の運の悪さだよ」
といつもお嘆きでしたわ。)
   (「紫式部日記」消息体)

  私の父、藤原為時は、文章道(もんじょうどう)出身の文人だ。家には漢籍があふれていた。父は自分で読むばかりではなく、弟にも学ばせた。自分と同じ漢学の道に入れて出世させようと期待したのだ。

  だが弟は、幼い時からどうもぱっとしなかった。愚鈍というのは可哀想だが、素早く頭が回るほうではない。幼学の入門書の素読などという初歩中の初歩の勉学でもなかなか覚えきれず、つかえたり忘れてしまったりの繰り返しだった。
  そうやってあの子が何度も何度も読み上げるものだから、私は横についているうちに、自然に覚えてしまったのだ。弟が鈍いお蔭の、言わばおこぼれ学問だ。

特別な努力など全くしていない。もちろん、父が私に薫陶を授けたなどということもない。父は逆に嘆いていたのだ。男ならば漢文に長けた有能な官人として出世の道もあるだろうが、女のお前には望むべくもないと、それは私の心を傷つけた。
  あり余る才能があるのに、女だから父を喜ばせられない。漢文など読めても無駄なのだと。

  そう、そんな能力は要りはしない。それなりの家に生まれ、娘や妻、つまり「里の女」として一生を過ごす女たちにとっては。そして私も、ただそのような女として生きるはずだったのだ。

つづく

8.紫式部の恋 続き3 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

2024-03-29 15:18:06 | 紫式部ひとり語り
8.紫式部の恋 続き3 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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別の妻の娘との交流、宣孝の身代わりはあり得ない実感

  またある時は、宣孝と別の妻の娘が桜の枝を送ってくれた。私とは血のつながらぬ娘だが、悲しみを分かち合える有難い相手だ。桜につけた手紙には「父が亡くなりこの家も手入れができず荒れてしまったけれど、桜はきれいに咲いてくれました」とある。

  自然は悠久、人は無常、ああそれは真実だったのだと思う。そうしたことも、これまでよく分かったいるつもりだった。だが頭で分かっているだけだった。無常ということは人が死ぬということで、それはこんなにも寂しいことなのだ。

  あの人の娘も、同じように実感しているのだろう。私は思い出した。宣孝は生前、この娘のことを随分心配していた。
  歌人中務(なかつかさ)に「咲けば散る 咲かねば恋し 山桜 思ひ絶えせぬ 花の上かな(「拾遺和歌集」春36番)」という歌がある。娘を亡くした歌人が山桜に娘を重ねて「思いは尽きない」と詠んだ歌なのだけれど、宣孝はいたく感じ入っていた。子煩悩な人だった。虫の知らせか、歌とは逆に自分が居なくなった時のことを心配していたのかもしれない。私は娘に歌を返した。

   散る花を 歎きし人は 木(こ)のもとの 寂しきことや かねて知りけむ
  「思ひ絶えせぬ」と亡き人の言ひけることを思ひ出でたるなりし。

   [「咲けば散る 咲かねば恋し 山桜」。そう嘆いてばかりいたお父様は、花が散れば木が寂しくなると分かっていたのでしょうね。自分に先立たれれば子のあなたが寂しがるだろうと、お父様は分かっていたのでしょうね。
   亡き人が「思ひ絶えせぬ」という和歌を口にしていたと思い出したのだ。]
   (「紫式部集」43番)

  これは春の歌だし桜を見て詠んだのだから、宣孝が死んでからもうほとんど季節をひと巡りした頃に詠んだのだ。だが私にはそのようには感じられない。自分の中では時が止まったようだったからだ。

  外の世界で年が明け、春の花が咲いても、宣孝との死別の痛みは癒えなかった。むしろこの歌のように、不意に様々な記憶が浮上しては私を驚かせ、泣かせた。記憶というものの鮮やかさ、それが有無を言わせず浮かび上がる時の荒々しさも、私は知った。

  思い起こせば、私は今まで多くの大切な人を喪ってきた。母、実の姉、そして親友だった「姉君」。だが母が死んでも姉がいたし、姉を喪った時には身代わりに「姉君」を慕った。それで少しは気を紛らわすことができていたとは、なんと幸せな私だったのだろうか。
  母を喪い、姉を喪い、「姉君」を喪っても思い知ろうとしなかった私だが、宣孝を喪ってこそ思い知った。文字通りかけがえのない人に、身代わりというものなどあり得ない。その人のいない世界を身代わりというものなどありえない。その人のいない世界を身代わりと共に生きても、それはやはり違うものでしかない。

  だが、私は生きなくてはならない。娘をおいて出家はできなかった。

この項終わりです。