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☆Voli alla gloria☆

路が見えぬなら飛んでしまえ。日々の思考と感覚の記録を綴ってゆきたい、とあるバンカーのブログ。

眼鏡橋

2005年04月27日 | 2004年 九州旅行記
眼鏡橋下の鯉たちです。俊宏はひたっすら石やらゴミやらを放り投げ、鯉たちが必死で口をパクパクして群がってくるのを見て喜んでいました。鯉さん、ごめんなさい。ホント、こんな友達連れてきて…

2004年 九州旅行記 その9

2005年04月25日 | 2004年 九州旅行記
11日。朝、8時半。部屋の扉を叩く音、それから「朝よ~起きて!!」というヒロの声にて起こされる。実際に目が覚め、起きたのは9時過ぎころだっただろうか。朝食は9時半まで、ということだったが、僕と俊宏はそれどころではなく、朝食は摂れなかった。ぎりぎりチェックアウトの10時に部屋を出て、今日はどうしようかと三人で話し合う。駅近くのコーヒー屋でコーヒーを飲みながら話し合った。レンタカーを借りてどこかへ行こうか、とヒロ。料金のこともあるし、借りるとすると終始僕がドライバーを務めなければならない状況(ヒロはペーパードライバーだったし、俊宏は自動車免許を持っていなかった。注、今現在も持っていないw)を考えると、当時、あと数日だけ「初心者」期間が残っている僕としては腰が重かった。佐世保の西海公園にある「九十九島」は、確かに行ってみたかったし、何より、「経験」を大事にしたい僕としては悪い話ではなかった。僕は生返事をしていたので、レンタカーの話は置いておき、とりあえず街の中を散策しようということになり、「眼鏡橋」のほうへ向かって歩き出した。「眼鏡橋」は橋の下の部分が川の水面に映って眼鏡のように見えたことからそう名づけられた橋だった。僕は修学旅行でこの眼鏡橋は見学済みだった。その橋を渡り山の方へ近づいてゆくと「聖寿山 崇福寺」というところを訪ねた。ここは江戸時代に長崎に在留していた福州人らによって建立されたお寺で、明王朝~清王朝の初期(17世紀)の南支建築様式をそのまま輸入したものでわが国では他に類例がないという特徴を持つ寺院である。訪れたときはちょうど「盂蘭盆会」だったらしく、いつもより煌びやかな様子で、観光客で賑わっていた。お坊さんたちが経を読む姿もゆっくりと見ることが出来た。
崇福寺を出るとまた街中を散策に出た。映画「長崎ぶらぶら節」でもお馴染みの丸山地区を散策した。その昔、市中に散在していた遊女屋を官命により一箇所に集めたところが、この丸山地区だったらしい。そこには、花街へ行こうか行くまいか思案し、思い切って渡って行くその想いが伝えられているという、「思案橋跡」や、その思案橋を渡り、いよいよ思い切って花街へと入っていったのであろう「思い切り橋跡」、などがあった。その先には「中の茶屋」や「花月」などの指定史跡があり、今やひっそりとしたそのたたずまいが印象的であった。
散策をしていると、時刻は13時を回って14時近かったので、近くの中華料理店に入り、遅めの昼食とすることにした。腹は確かに減っていたのだが、暑い中を結構歩いたので、食欲のあるようなないような、不思議な気分だった。僕はまたまたまた、長崎ちゃんぽんを注文し、ヒロと俊宏は、マーボー豆腐定食を注文した。これからどうしようかと、思案しつつ、通算3杯目のちゃんぽんを平らげると、いよいよレンタカーを借りて旅立つかと、僕ら3人は意気揚々と長崎駅前へと歩き出した。しかし、普通免許初心者では借りられない、と宛にしていた「駅レンタカー」に断られてしまった。その後、近くにあった「オリックスレンタカー」では初心者でも借りられることがわかった。しかし博多で車を返すとなると乗り付け料が別途にかかる、というので本当に借りる決断を下すのにはしばし時間がかかった。料金の概要を明かすと、レンタカー代が24時間で6000円弱(1階級安いクラスの料金にしてくれた)。それに乗り付け料、つまり、別の地区の営業所に車を返却ということになると別途にかかる料金で、それが8000円ほどだった。結構な出費だった。しかし、僕の頭には青のシグナルが点灯し、行こう、と俊宏に言い放った。荷物をトランクに詰め、いざ、長崎を出発。

続く…

2004年 九州旅行記 その8

2005年04月23日 | 2004年 九州旅行記
グラバー園を後にすると、もう21時を回っていた。これからどうしようかと、三人でとりあえず「電停(路面電車の停留所の意)」までぶらぶら歩いていると、ヒロのバス会社の同僚の方たちが、たまたま長崎にお仕事で来ているらしいことが解り、その飲み会に、ヒロの計らいで厚かましくもお邪魔できることになった。路面電車で移動して、ヒロについてゆくとなんと着いた飲み屋は…あの「八剣伝」ではないか!!僕と俊宏は、まさか、九州にまできて「八剣伝」に入ろうなどとは夢にも思っていなかった。ここで居合わせた一期一会な方たちは、バスの運転手をしていらっしゃるRさん(48)と、ヒロの一つ上の先輩バスガイドのOさん、と、あと一人は東京からいらっしゃっていた旅行会社の添乗員さん(名前は忘れてしまった…)、以上の三名だった。この三人は僕らが到着したころにはよい感じに酔っていらっしゃって、特にRさんは(ヒロからは「りきやん」と呼ばれていたが)、非常に面白い方だった。僕と俊宏は「りきやん」とは初対面であったし、始めから佐賀弁(?)でまくし立て上げられて、少し身構えてしまった。が、少しビールを飲みつつ徐々に会話が弾むようになっていった。今思うと、「りきやん」と一緒になって盛り上がったのは、猥談でしかなかったような気もしないではないが…。しかし、社会に出てからの厳しさ、仕事の辛さなど、猥談の合間に貴重なお話も聞けたような気がする。楽しいひと時はあっという間だった。先の三方は次の日の朝も通常通りお仕事があるということで、0時を回ったあたりでお開きとなった。この三人の方とはもうお会いすることはないかもしれない。まさに、一期一会。別れ際は、少し寂しかった。「りきやん」との出会い、一生忘れられない。あのひと時を、本当に心からお礼を言いたい。
さて、さすがに路面電車ももう走っておらず、タクシーを拾って長崎駅近くのホテルへ。コンビニに寄って残りの夜更けを楽しもうと、缶ビールを4~5本くらい買い、俊宏の部屋にて飲み再開。俊宏が持参したトランプを以て、始め「ばば抜き」をやる。負けたら一気!!のお決まりの罰ゲーム大会が繰り広げられた。始めは俊宏が負け、次はヒロが負け。しかしさすがに、ヒロは疲れもあってか、もうお酒は飲めなくなり、罰ゲームはいつのまにかなくなり、結局僕と俊宏二人で缶を開けていた。ヒロにルールを教えながら「大富豪」もその後したが、すぐに終わってしまった。その後は何をしたのだろう?三人で少し、語り合った気がする。明日はどうしようか、まだ始まったばかりの九州旅行。寝床についたのは2~3時ころだったろうか。こうして九州、長崎に入った初日、10日の夜は更けていった…。

続く…

写真はグラバー園にあった、ハートストーン☆カップル二人で触れると…なんてお決まりのあれです♪僕にはお尻にしか見えませんでしたが。なんちゃってw

長崎新地中華街

2005年04月20日 | 2004年 九州旅行記
新地中華街

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横浜、神戸と並ぶ中華街・新地は、江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立ててできた街。
東西、南北あわせて約250mの十字路は、長崎市の姉妹都市である福建省の協力でできた石畳。
現在、中華料理店や中国菓子、中国雑貨など約40店舗が軒を並べています。

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<新地の歴史>
中国との貿易が盛んに行われた江戸時代(元禄)、出島に住むオランダ人と同様中国人についても居留地が設けられました。唐人屋敷(唐館)は、総面積約9,360坪、役人詰め所や、大門、二の門、住宅、市場、関帝廟、土神堂、観音堂などがあり、高い練塀をめぐらせ、出入りは出島と同様厳しい制約がありましたが、中国人たちの出入りは比較的自由でした。
市内に在住する中国人は1万人ともいわれ、当時の長崎市の人口が6万人でしたから、たいへんな数の中国人でした。
中国船からの積荷は、五島町や大黒町の海岸の荷蔵に納めていましたが、1698年の大火で荷蔵が喪失したので、二度とこのようなことが起きないようにと、唐人屋敷前面の海面3,500坪を埋め立てて隔離された荷物倉所を造り、この場所は新しく築地によってできた場所という意味で、「新地」とか「新地蔵所」と呼ばれました。(中華街の中央に新地蔵(しんちぐら)跡の石碑が建てられています)
明治維新後、唐人屋敷とともに新地蔵所も廃止されたため、在留中国人は港に近い新地蔵所跡地に移り住み、長崎独特の中国人街を作ってきました。

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<中華門>
中華街の四方にそびえる色鮮やかな中華門は、新地中華街商店街振興組合の人たちが横浜・神戸と並ぶ中華街に発展するよう願いを込めて、本場中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて築造したものです。東、北、南門は高さ、幅とも9メートル。西門は高さ9メートル幅4メートル、屋根瓦は中国製。昭和61年4月に完成しました。
各門は正確に東西南北を示す方角に位置しています。これは、古代中国の地相占い風水に基づくものです。銅座川に面する北の玄武門は水を呼び込むとされ、湊公園へと開かれた南の朱雀門は火を呼び込むとされています。そして鬼門の北東には、華僑の菩堤寺である崇福寺があり、邪気を封じています。
門の裏側には東門では青龍、西門は白虎、北門は玄武(亀と蛇)、南門は朱雀と門を守る神が彫られています。

以上、とあるホムペからまた抜粋。多少なりとも、長崎の街に興味を持っていただければと思いまして。わざわざ「新地中華街」なんて検索かける機会もないでしょうし(笑)目を通してみてください☆

2004年 九州旅行記 その7

2005年04月18日 | 2004年 九州旅行記
次に訪れたのは、昔の出島に存在した建物などを再現しているスポットだった。出島のミニチュア模型の前で俊宏と記念撮影。そのまま、僕らは「長崎新地中華街」へと、足を運んだ。横浜の中華街と比べてしまうと見劣りしてしまうのは否めないが、十分僕はその外観、街の造りを眺めて楽しむことが出来た。修学旅行でもこの中華街は訪れたと記憶している。同じグループの仲間と、料理店に入ってマーボー豆腐を食べたのを覚えている。「ちゃんぽん」や、「皿うどん」などもみんなで注文して分け合って食べたのだろう。時間は18時前になっていたので、夕食を中華街でということになり、ヒロのお勧めの料理店、「江山楼」というところに入った。そこで僕らは「ちゃんぽん」、「皿うどん」、そして豚の角煮まん、「トンポーロウ」を注文した。生ビール中ジョッキも、もちろん忘れずに。乾杯。ここでの「ちゃんぽん」、「皿うどん」はまた格別に美味しかった。「トンポーロウ」は初めて食べたけれど、あんなに美味しい豚角煮を食べたことはなかった。またこの料理にはビールがよく合い過ぎた。まさに、至福のひと時。18時半ころお店を出ると、「グラバー園」へと向かった。このグラバー園は長崎の街の発展に多大なる貢献を果たした人物、トーマス・ブレイク・グラバー氏が住んでいた場所であった。彼を紹介すべく、略歴を抜粋してみた。

《天保9年(1838)、スコットランド東海岸に面した小さな町フレーザーバラで沿岸警備隊員の息子として生まれた。11歳の時にアバディーンに移り住んだ彼は、そこで名門校「ジムナジウム(大学予備教育機関)」に通い、父親からは船舶の操縦技術を学んだ。
安政6年(1859)9月に上海経由で長崎へ来航し、同じスコットランド人K・R・マッケンジー経営の貿易支社に勤務していたが、二年後の文久元年(1861)、マッケンジーが長崎から去ると、彼の跡を引き継いでグラバーは「グラバー商会」を設立。当時、東アジア最大の商社だったジャーディン・マセソン商会の長崎代理人となった。
時代の流れを見抜いたグラバーは坂本龍馬をはじめとする、長州や薩摩などの藩士達と交流を深めながら、幕府や各藩に武器や船舶、機械類などを大量に販売し、莫大な利益を得たが、明治3年(1870)グラバー商会は、諸藩の掛け売り回収ができずに倒産した。グラバー自身は、土佐出身の岩崎弥太郎経営の三菱の顧問となって、明治30年(1897)には東京に転居し、裕福な余生を送った。
グラバーは、大浦海岸でわが国初の蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせたり、近代的ドック「小菅修船場(ソロバン・ドック)」の建設、高島炭坑に近代的な採炭技術の導入など、さまざまな最新技術を日本に初めて伝えた偉大な功労者でもある。また、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(のちの「キリン麦酒株式会社」)が横浜に設立される際にも活躍した。
日本政府は、明治41年(1908)、外国人として初めての勲二等旭日重光章を贈って彼の功績をたたえた。東京の自宅で明治44年(1911)、73歳の生涯を閉じたグラバーは、家族と共に坂本国際墓地に埋葬されている。》

以上であるが、相当な人物であった、グラバー氏。学校の教科書になぜ載っていないのかと、首を傾げたくなるくらいである。このグラバー邸、ちょっとした丘に位置しているので、ここから眺める長崎の街の眺望はなかなかのもので、特に夜は夜景が綺麗である。長崎は港町でもあるので、豪華客船が寄港している間などは、街の夜景に更なるきらめきを添えるらしい。ちょうど僕らが訪れた時期は期間限定で特別に建物がライトアップされており、なんともロマンティックな雰囲気であった。クリスマスなど、そういったイベントの際にはまた違った演出がなされるのではなかろうか。恋人と是非訪れたいスポットとしてあげておきたい。そのグラバー園の中にちょっとした喫茶店のような店を見つけ、「自由亭」という名前だったが、そこで少し休憩することになり、三人でまたビールを注文。雰囲気的に、ちょっとオシャレにグラスで…といったところ。このお店の中からももちろん夜景が一望できる。窓ガラスが汚れていて、僕は一人ぼやいていたが…。その後で長崎で行われる「おくんち」というお祭りに使われる、お御輿のような、実際には船をかたどったものだったが、そんなものを見て、グラバー園を後にした。「おくんち」とは、9日、つまり「御九日(おくにち)」のことで、端午の節句、桃の節句、と同じように、9月9日も「重陽」といい、五節句のひとつであり、陰暦の9月9日だが、菊の節句らしい。この日に、長崎では主に豊作を祈って行われるお祭りを行っているそうだ。

続く…


2004年 九州旅行記 その6

2005年04月16日 | 2004年 九州旅行記
僕は修学旅行の時に資料館は一度見ていたので、それを思い起こすような感じでどちらかといったら流す感じ、しかし悲惨さに痛々しさを感じつつ、足早に出てきてしまった。ヒロは何度も見ているので、外で待っている、ということだったので、早めに出てきてしまった僕は俊宏が出てくるまで、ヒロと久しぶりの再会で、話をして待っていた。俊宏は原爆に関する資料を見るのは初めてだったから、相当そのショックは大きいようだった。彼はゆっくり、一時間ほどだっただろうか、じっくり見学したようだった。その後の彼は、重苦しい、何かを背に負ったようで、表情が緩むまではしばらく時間がかかるようだったのが印象に残っている。資料館を抜けると、そこに隣接している「国立原爆死没者平和追悼祈念館」に入った。そこには原爆により命を落とした人たちの名簿がうず高く積み上げられていた。死者数を数字で見るよりも遥かにその名簿の用紙は、多いような気がした。紙に一人一人の名前が記されていて、何枚かを束にケースに入っており、それが天井まで積みあげられて、安置してあった。その記念館の中や、外には、噴水や、水の出るモニュメントのようなものが多くあったのだが、被爆した直後の人々が、水を、水を…と、求めたことから、水を多く配して追悼の意味を込めているらしかった。このように、至る所に水が配されていたのがここでは印象的だった。

続く…

写真は「国立原爆死没者平和追悼祈念館」。
原爆によって亡くなられた死没者を追悼し、恒久の平和を祈念するために長崎・広島に設置された施設。主な目的として「平和祈念・死没者追悼」「被爆関連資料・情報の収集及び利用」「国際協力及び交流」があり、長崎は「国際協力及び交流」に重点を置いた施設として平成15年7月に開館した。地下1階~2階が手記展示や遺影・手記閲覧室、追悼空間、平和情報コーナーなどになっており、唯一地上に接した施設の上部には、多くの被爆者が求めた水を湛えた直径29mの水盤を設置されている。この水盤は夜になると光ファイバーにより約7万個の明かりが灯される。7万という数は昭和20年、原爆が落とされた年の年末までの推定死没者の概数だ。地下2階の追悼空間には原爆で亡くなった方の名簿が安置され、短時間の追悼式や献花式を行なうこともできる。

浦上天主堂

2005年04月14日 | 2004年 九州旅行記
写真は浦上天主堂。ちょうど改修工事中だったので、景観はちょっと残念だったけど、中には入ることができた。
いまわしい原爆とキリシタン弾圧の悲話を今に伝える。キリシタン弾圧の時を越え、禁制が解かれ、ようやく信仰の自由を得た人々が『祈りの城』としてつくったのがこの天主堂だそう。赤レンガを一つ一つ積み上げ、33年もの歳月をかけ完成させた美しい天主堂は、当時東洋一の大聖堂とうたわれていたそうだ。

2004年 九州旅行記 その5

2005年04月14日 | 2004年 九州旅行記
ここで、改札で出迎えてくれた方が居る。永田裕子さんである。彼女は福岡県の、あるバス会社で貸し切りバスのガイドをしている。彼女と僕は、四年前、僕がまだ高校二年生の頃のことだ。修学旅行の行き先にて、九州での僕らのクラスのバスガイドを担当してくれたのがこの永田裕子さんだったのである。当時の僕はそれほど永田さんとはお話する機会もなかったのだが、クラスの一部のメンバーが修学旅行後も永田さんと連絡を取っていたようで、永田さんはその後福島へとわざわざ足を運んでくれ、当時のクラスのメンバーと再会するなどして、僕らのことを特別大切に思ってくれていた。その後、つまり、永田さんが一度福島を訪れてくれたのをきっかけとして、僕と永田さんは親しくなったのであった。そして、今回の僕らの旅行のガイドを、わざわざお仕事をお休みして、務めてくれることになった。僕ら当時のクラスの生徒を教え子のように可愛がってくれる本当に心優しいバスガイドさんだ。彼女のことを僕らは、愛称で「ヒロ」と呼んでいたのでここでもその愛称で綴ることを了承願いたい。
ヒロは駅のすぐ近くに宿を用意してくれていて、そこに荷物を預けて観光を開始することになった。僕は長崎の町は初めてではなかったが、俊宏は初めてなので、彼が町の景色をグルグルと見回していたのが印象的だった。長崎は路面電車が今でも走っていることでも有名な街であるが、早速路面電車を使って移動した。どこの区間を乗っても大人は100円、子供は50円という、なんとも使い勝手のいい交通機関だ。始めに僕らが向かったのは、僕は修学旅行の際に訪れたのだが、「平和記念公園」だった。ヒロの「本物」のガイド、解説を聞きながら、平和記念像を望んだ。修学旅行の時とは違って、ゆっくり見て回ることが出来るのが、今回の旅行の利点であり、醍醐味だ。存分に見て回った後、腹が減ったというので、ヒロが連れて行ってくれたのは公園の近くにある、「和泉屋」という食堂だった。そこで僕らは「長崎ちゃんぽん」をご馳走になった。ヒロはというとビールの中ビンとおつまみを頼み、三人グラスで飲んだ。ヒロは本当にお酒、特にビールが大好きで、面白い女性である。本場の長崎ちゃんぽん、久しぶりだったが、とても美味しかった。お店を出ると、三人ともほろ酔い気分で、「浦上地区」へと足を運んだ。浦上地区は「浦上天主堂」に代表されるように教会や神学校などが多く立ち並んでいる街である。浦上天主堂は一般公開していて、入って見てみたが、その時は、ステンドグラスを通して入ってくる日の光が、何とも言えず崇高で神秘的な雰囲気を醸し出していたのが印象的だった。その後また歩いて移動し、原爆が投下された、その爆心地に塔が建てられているという、「原爆公園」を訪れた。平和公園内にある原爆落下中心地に立つ塔は、崩壊した浦上天主堂の壁の一部で建てられたものだそうで、この上空で原爆が炸裂したことを示しているそうだ。そのそばを流れている川には原爆投下直後には何人もの被爆者が水を求めて集まったということだ。文字通り地獄絵図のような死屍累々という惨状であったことだろう。このあたりを観光しているころからだろうか、僕らの表情に笑顔はあまり見られなくなった。そして「長崎原爆資料館」へと足を運ぶころにはその神妙な表情がさらに硬いものへと変わっていた。

続く…

写真は、俊宏と平和記念公園にて。記念像の上に指した右手は原爆の脅威を、水平にのばした左手は平和を、軽く閉じたまぶたは原爆犠牲者の冥福を祈っているそうだ。



2004年 九州旅行記 その4

2005年04月12日 | 2004年 九州旅行記
 10日。朝9時頃。なぜか、案外早く目が覚めてしまったことに後悔。車掌のアナウンスが耳に入ってくる。「…しものせき」という言葉が辛うじて聞き取れただろうか。「しものせき…下のせき…下関!!??」…こんな思考回路で、「下関」という言葉を「地名」としてやっと認識し、車窓から下関のホームを覗き見たのだった。ついにこんなところまで来てしまったのか、と、僕は二日酔い気味…というより、まだ明らかに酒気が抜けておらず、紅潮して火照った顔をこすりながら呆然としていた。隣を見ると俊宏の気持ちよさそうな寝顔がカーテンから覗き見えた。持ってきたデジカメで、すかさず激写!…そして、僕の顔も自分で撮ってみたのだが、案の定目の周りの赤い、ただの酔っ払いがディスプレイに映っていたのであった…。その後、順調に「さくら号」は進み、博多駅に着いたのが確か午前11時ころではなかっただろうか。そのころになってやっと俊宏が起床。博多駅を出ると長崎へと「さくら号」は向かった。その途中通過したのが、福岡県と長崎県の間で、居づらそうに位置している、あの「佐賀県」である。車窓から佐賀県の風景を眺めていると、田園風景ばかり続いていた。しかし、その規模が物凄く、水田が一面に広がり、その先にはなんと、地平線が見えたのである。これには僕らも驚愕だった。地平線など何年ぶりに見たことかと。しかも、水田の地平線など今までに見たことがあっただろうか。空を見ると残念ながらあまり天気はよくなかった。始めは曇り空が広がっていただけだったが、長崎に近づくほど雨が降り始めた。佐賀県を抜けると、有明海が車窓から見えた。天気が悪かったのが非常に残念に思えた。晴れていたら、どんなにか綺麗だったろうかと、俊宏と語り合っているうちに、いよいよ長崎県に入った。見慣れない風景が徐々に現れるようになり、遂に到着したのだった。13時3分。遂に、九州は長崎、長崎駅に到着。ご苦労様、と、「さくら号」に別れを告げ、改札へと僕らは向かった。

写真はまだ爆睡する俊宏(笑)

2004年 九州旅行記 その3

2005年04月10日 | 2004年 九州旅行記
 ホームに列車が入ってきたときは、胸が高鳴った。外観こそお世辞にも「綺麗」とは言えなかったが、そんなことよりも寝床がどうなっているのかが知りたかった。僕と俊宏は扉が開くのも待ちきれないような、何だか中学生にでも戻ってしまったような気分だった。さくら号、B寝台、7号車。想像していたような、そのままの構造だった。貧乏っぽさがたまらなかった。それに加え、ほとんど7号車は僕らの貸し切り状態だった。
けれども、真剣に考えてみると、この寝台列車での旅というのは一見すると貧乏旅行のように見えるかもしれないが、実際にはその旅費は安くないのである。東京~長崎間は時間にするとちょうど19時間もかかる。そのうえで、料金構成を説明したい。まず、今回は大学が発行する、学割証明を持っていって乗車料金は割引になって1万1千円ほどとなった。それに、特急料金が3千円弱。それにこの寝台列車は、言うなれば宿泊料である「寝台料金」なるものも発生する。この「寝台料金」は寝床の立派さによって決まってくる。僕らが乗った「B寝台」は一番安いのであるが、それでも寝台料金は6千円弱。今日、羽振りのよさそうな、あの「東横イン」に泊まってお釣りがきそうなくらい高いのである。B寝台はあの、映画「おもひでぽろぽろ」で主人公が乗っていたようなのが、そうである。この「寝台料金」は寝床が一人ずつコンパートメントになっていたり、それより上の階級だと、寝床が部屋のようになっていて鍵がかけられるようになっていたりする。この最上の階級まできて、やっと「浴場なしの安いホテル」的な宿になってくる感覚だろう。そのような寝台は恐らく寝台料金だけで1万円以上はするのではなかろうか。乗り心地はといえば、当然、在来線の列車なので揺れに揺れる。以上のように、寝台で寝心地も悪く、19時間もかけて行くのだから、安く行けるのだろうと思われがちであるが(現に僕らも始めはそれなりに安く済むのだろうと思っていた)、これを知った上でこの先を読み進めて欲しいというのが僕の切実なる願いである。では、ここまで寝台列車について語った上で、僕なりの考察を加えてみたい。
寝台で行く意味とは何なのか?高いお金を出してまで長い時間をかけて行く意味とは?何が僕らをそうさせたのか?…それは、「経験したいから」の一言に尽きると思う。こんなに時間のある時代はもう僕らには老後にしか訪れることはないのではなかろうか。時間があることが、そしてその時間を自由に過ごすことが出来ることがどんなに幸せで、今の、この大学生時代でしか出来ないということ、それこそが今回、僕らをしてこの「寝台列車」に乗らしめたのであろうと、切に思う。この先、九州にまた行くことがあったとしても、残念ながら寝台列車で向かうことは、もう、ないと思う。こんなにありふれた時間があるのは「今」だけだから。
少々熱く語ってしまったような気がするが、寝台列車の中での僕らの乱痴気ぶりを披露することにしよう。出発の夜はまず旅の決行を祝って、祝杯を挙げることに終始した。先ほど記したように、僕らは列車に乗り込む際に、一人当たりビール2本とチューハイを1本買った。それを飲み干してしまい、もっと買ってくればよかったと嘆きつつ列車の中を二人で散策していると、自販機の中に「麒麟一番搾り」を発見し、歓喜の雄叫びと共に夏目さんを自販機の中へ投入し、三本ずつ缶ビールを持って7号車へと戻ったのであった。もちろん、「アホの坂田」の足取りで。あまり記憶が定かではないのが残念だが、0時はまだ回っていなかったのではないかと思う。その3本を飲みつつ0時を回り、そのころに京都や奈良、近畿地方を「さくら号」は静かに進んでいたと記憶している。前日に飲んで3時間ほどしか寝ていないのに加えて、在来線で東京まで行った挙句の果てに寝台列車の中で缶ビールとチューハイ合わせて6本も飲んだわけだが、僕らの馬鹿っぷりというか、旅のハイテンションはまだまだとどまることを知らず、おまけにということであと2本ずつ飲んだ。そこで、やっと眠さと疲れに耐えられなくなったのか俊宏がギブアップして「寝る」と言い出したのだった。確か10日午前2時~3時の間であったと記憶している。さすがに僕も疲れに疲れきっていたのは同様だった。しかし、興奮が冷め遣らぬ中、なかなか寝付けずしばらく車窓から外を眺めていた。8杯目である「麒麟一番搾り」の最後の一滴が僕の喉を潤すと同時に列車の揺れを心地よく感じ、眠りについたのだった。こうして長い旅の始まりである9日の夜は、更けていった。

続く…


追記
この寝台列車「さくら号」は残念ながら、多くの鉄道、寝台列車ファンに惜しまれながら、2005年2月をもって、廃線となってしまいました。廃線前は、毎日、東京駅から午後六時に長崎へと、発車していた、「さくら号」。もう寝台列車で九州に行くことが出来ないと思うと、非常に残念でなりません。ある意味、本当に貴重な体験を僕たちはしたのでしょう。ありがとう、そして、お疲れ様でした、「さくら号」。



2004年 九州旅行記 その2

2005年04月08日 | 2004年 九州旅行記
上野にやっと着いた時は13時を過ぎていたのではないかと記憶している。僕は眠さと興奮と空腹が入り混じった、わけのわからない腹部の不快感を覚えつつ、上野駅構内をさまよっていた。僕ら二人はとりあえず近くのカレー屋で空腹を凌ぐことにした。腹は確かに減っていたので、カレーは難なく胃の中に納まった。が、やはり奇妙な満腹感、というより、嫌な膨満感といったほうが正確かもしれない、そんな、静かに悲鳴をあげている胃を感じながら、上野駅で長崎までの寝台列車の乗車券を購入。駅員も乗車券を発行するのに数分かかった。少々苛々させられたが、九州まで寝台で行こうとする者の希少さが推し量れる駅員の対応であった。料金を聞いて、少し予算よりも高いような気がした。窓口を離れ、顔を見合す僕ら。「高いな…。」ここにきて俊宏の所持金が完全に底を尽きることが確定した。計算違いだった。仕方がないので、僕の預金から貸してあげることとなった。これが、人生史上最高額金貸しの幕開けであった。行きの寝台だけで2万円弱かかるのを知って、僕は、さきほどの膨満感もあってか、興奮が一気に冷めてしまい、しばしブルーな気分に陥ってしまった。上野駅構内のコーヒー屋に入り俊宏と一服している時ほど、旅行中で一番気分が優れなかったことはなかったように、今振り返っても思う。俊宏に慰められながら、まず寝台の出発時刻までどう行動するかを決めにかかった。預金を下ろすため、銀行を探さなくてはならなかったので、とりあえず新宿に行くことになった(今考えれば、何もわざわざ新宿まで行かなくてもよかっただろう…)。東京駅に移動し、荷物をロッカーに預けて、山手線で新宿へ向かうこと20分強。あの気分の中20分立ちっぱなしで、人ごみの中に居るのはなかなか辛いものがあった。また、新宿の人ごみの中を歩いて、気分は晴れるどころか、塞ぐ一方だった。それに追い討ちをかけるように、すぐ目に入った「あおぞら銀行」では我が取引銀行の「東邦銀行」は取り扱われず、路頭に迷いかけた。というのは大げさだが、その後すぐに「みずほ銀行」のATMを見つけ、無事預金をおろすことが出来、二人ともほっと一息というような感じであった。新宿の人ごみの中を歩いていても、これが田舎者の性なのか解らないが、気が滅入る一方なので、「紀伊国屋」や、「高島屋」にちょっと立ち寄って、早いうちに新宿を離れた。東京駅に戻ったのは16時前ではなかっただろうか。そのあと東京駅丸の内口から一旦改札を抜けて少し丸の内を散策することにした。丸の内口の駅外観を見つつ皇居外苑を少し散歩。新宿へ行かずにここに来てゆっくり散歩しておればよかったと反省しつつ、和田倉噴水公園を通り、和田倉橋を渡り、東京駅へと戻った。時間は大体17時過ぎころではなかったであろうか。そのころになると、いよいよ寝台に乗るのだと、否が応にも気分が高揚し、先ほどまでの気分の悪さはどこ吹く風、という感じだったのをよく覚えている。少々腹が減っていたのでそば屋に入って不味いざるそばをすすり、寝台の中で旅の成功を祈る杯として缶ビール2本と1本の缶チューハイと少々のつまみ、翌日の朝食としてのおにぎりとお茶などを買い込み、準備万全で寝台列車の来るホームへと上がっていった。気分はますます高揚する。 

…つづく

2004年 九州旅行記 その壱

2005年04月06日 | 2004年 九州旅行記
旅行の後は日常と非日常の狭間で感傷的な毎日を過ごしてしまう。そんな今日この頃。大学二年の夏も終わり、いよいよ折り返し地点へと差し掛かっている…。そんな九月、夏の余韻の残る九州へと、まだ終わらぬ夏を求め、旅立った。今回の旅行はわが親友である、俊宏が同行した。俊宏は、浪人時代に知り合った、受験戦争の「戦友」でもある。彼なくしては僕を語ることはできない。そんな彼との珍道中九州旅行記、堅苦しく章立てするよりも、徒然なるままに書き綴ってみようと思う。道中の行程にはなるべく沿うように図るつもりだ。


9月9日。旅立ちの日。前日、8日に、友達と三人で俊宏の部屋で午前2時過ぎまで飲んでいたのにもかかわらず、朝6時に起床。恐ろしく眠気が残る朝だった。7時過ぎころだっただろうか、部屋を出発。出発の朝はよく覚えている。夏季休業に入って自分はこれほど早起きしたことはなかった、などと、眠い目をこすりつつ、少々悪戯な朝の清々しさを肌に感じながら福島駅へと向かっていたのであった。朝食は「朝マック」。テイクアウトして2番ホームのベンチに座り、ハンバーガーを頬張り、電車へと乗り込んだ。朝の7時半、通学の高校生やら通勤のサラリーマンらで一杯だった。当然座ることは出来ず、立ち乗りだった。周りの人々を見回す、今日も彼らにとっては単なる「日常」としての9月9日であるに過ぎない。僕らは、「非日常」への第一歩を確実に踏み込んでいるというのに。朝の電車内を見ていて、そんな不思議な感覚を覚えていた。十分にも寝ず、二人とも疲れた顔をして電車の中を揺られて一時間。隣に居た、女子高生のわけのわからない格好を密かに談義したり、ただ何となく南の駅へと向かうたびに方言がひどくなる高校生たちの会話に耳を傾けたりもした。郡山で乗換え。徐々に「日常」から遠ざかっているのを実感した。黒磯行きの次の電車までは30~40分ほどあったので、改札を抜けて一旦外に出た。ここでも、全く他の人々にとっての「日常」が溢れていた。時間になり、電車に乗り込み、黒磯へ。今度はボックスに座ることができ、いよいよ僕にとっては未開の旅への突入だった。僕は須賀川から先は在来線で向かったことはなかった。車窓に広がる田園風景を眺めながら、あっという間の黒磯だった気がする。その後すぐに宇都宮行きの電車に乗り換え、今度は余裕をもって座ることができた。乗り換えの際には俊宏が財布を座席に忘れ、一時騒然とした僕らではあったが…。宇都宮まではすぐだった。また宇都宮で上野行きに乗り換え。向かい側には僕らと同じように荷物を携えた学生然とした人たちが座っていた。その宇都宮ゆきの電車の中で俊宏は眠っていた。僕も眠ろうと目をつぶってうとうとしかけてはいたが、完全に眠ることはなかった。これから起こるだろう出来事を想像し、興奮していたのかもしれない。上野までは少々長く感じられた。というのも、俊宏は隣で眠っていたし、僕も眠ろうと下を向きつつも興奮であまり眠れなかったからだった。

…つづく


写真はこの旅行とは関係ないけどw俊宏と白石城にて。