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☆Voli alla gloria☆

路が見えぬなら飛んでしまえ。日々の思考と感覚の記録を綴ってゆきたい、とあるバンカーのブログ。

続夜景

2005年05月24日 | 2004年 九州旅行記
正面に見えるのがシーホークホテルです。左のほうは海です。ため息が漏れてきそうな景色ですよねぇ…
ちなみに水滴みたいのが点々としてますが、これは展望室の窓ガラスの外側についていた雨の雫です。でもこの雨のおかげで空が澄んで、遠くまで良く見えたんです。

2004年 九州旅行記 その16

2005年05月22日 | 2004年 九州旅行記
バスを降りて、タワーを見上げる。高い。ひっそりとした街の中で、静かに聳え立つ巨塔とでも言おうか。夜だったので綺麗にライトアップされ、その壮観に二人は立ち尽くした。タワーの周りは本当にひっそりとして、人影もなく閑散としており、それが異様だった。(後でタワーの受付のお姉さんにそのことについて聞いてみたら、日曜の夜なので…とのことだった。)タワーの中に入り、展望室へ。展望室へ上るには観覧料がちゃんと請求される。大人800円。この福岡タワーは全長234メートル、海浜タワーとしては日本一の高さを誇るタワーであり、展望室は地上123メートルで、福岡の街並み、博多湾、背振山系と、360度のパノラマを楽しむことが出来る。展望室に上ってみると、すばらしい夜景を望むことが出来た。二人とも言葉を失った。先ほどのスコールで、空気が澄んでいたせいもあってか、本当に綺麗に遠くまで輝いていた。これで、空も晴れ渡っていて、満天の星を抱いた空があったならば、遠くの光は、街の明かりか、星の明かりか、わからなくなるのではないだろうか。そんな夜景だった。展示室は当然の如くたくさんのカップルで溢れていた。僕らは観光だ、という気持ちがあったので、特別恨めしい気分にはならなかったが、いつか優美を連れてまた来たいと、切に思う僕だった。しばらく夜景を眺めていた。俊宏はこの福岡の夜景を、香港での夜景、東京、六本木ヒルズでの夜景に次ぐ、自分の中では第三の夜景だ、と言っていた。香港もヒルズにも行ったことのない僕にとって、当然この福岡の夜景は僕の中ではトップになった。デジカメにも何枚か収めたけれど、あの光景は忘れられない。しばらくの間ため息が出るような夜景に見とれていた。展望室を後にして、一つ下のフロアーにはレストランがあった。あんなところで恋人と食事でもしようものなら、誰もがロマンティックな気持ちにうっとりしてしまうことだろう。

続く…

写真は言葉を失いながらも写した福岡の夜景。綺麗ですよね~…僕はこれほどの夜景は初めて見ました。感動です。彼女と見たい地上の星でした☆

2004年 九州旅行記 その15

2005年05月16日 | 2004年 九州旅行記
その後僕らは天神駅に無事に着き、今度はガイドに載っているラーメン屋を目指した。しかし、なんとその日は定休日。日曜が定休日という、何とも幸先の悪いラーメン食道楽となってしまった。仕方がないので、そこから近くでガイドに載っている店に入った。店の名前は「郷家(ごうや)」。期待して待っていると、出てきたラーメンは、なんだかスープの色が薄い…そ、そして、ふ、太麺…?もしや…と思ったらやっぱり、僕らが期待していたあの博多ラーメンではなかったのだ。東北でも食べられそうな、普通の醤油ラーメンのような感じだった。特別まずいというわけではなかったが、期待外れだったので、僕ら、少々テンション下がり気味で次なる目的地へ。
次の目的地は、博多の夜景を一望できる、「福岡タワー」。少し天神からは距離があるため、バスで移動することに。言わずもがな、あの「西鉄」の路線バスだ。いや、何のことはない、普通の路線バスなのだが。昔、「西鉄ライオンズ」って球団があっただろう。あの、「西鉄」。バスに乗って、いざ、福岡タワーへ。途中、高速道路を経由するという、路線バスだった。何だか驚きだった。一般道を行くと渋滞で時間がかかるので、高速道路をほんの少しだけ利用するようだった。5~10分くらいの間だけ高速道路を走り、また一般道に戻る。なんとも不思議な路線バスである。高速を使うからといって特別料金を請求されるわけでもなく、一律、200円強くらいで福岡ドームやら福岡タワーまで行くことが出来る。途中ドームの脇を経由して、その隣に聳え立つ、高校の修学旅行で泊まった、懐かしの「シーホークホテル」を見上げると、やがて、タワーに到着した


続く…

写真は福岡タワーです。バスを降り立ってすぐ、撮影しました。三脚など使ってませんので写りはよくないですが。綺麗に見上げることができましたね。

2004年 九州旅行記 その14

2005年05月12日 | 2004年 九州旅行記
腹ごしらえをすると、ヒロは福岡市内にある寮へと一旦帰るということで、地下街で別れた。その後、僕らはホテルへ戻り、地下街で買ってきた福岡ガイドブックを読みつつ俊宏の部屋で夜の散策プランを立てた。実際プランを立てたのは専ら俊宏で、僕はお金の賃借状態を計算する役にまわっていたが…。17時ころホテルを出ようというときになって、いきなりの土砂降り。まさに「スコール」だった。「バケツをひっくり返した様」、とはこのことだと思った。仕方がないので一階ロビーで雨が止むのを待つことに。その間、ロビーにあった自販機で発泡酒を買い、二人で飲んだ。ちょうど飲み終わるころになって雨が止んだので、二人、ほろ酔い気分でホテルを出発した。
しばらく雨上がりの博多の街を歩いた。一瞬仙台の青葉通りを歩いているような気がしたのを覚えている。なんとなく夜の雰囲気が似ていた。とりあえず、ヒロが言っていた「キャナルシティ」というショッピングモールまで歩いた。着いてみると、そのスケールの大きさに、ただただ唖然とするばかりだった。極端な話、仙台の「長町モール」の2~3倍はあるのではないか、と思われるような店舗数。案内を二人で眺めたが、とても一つ一つ見る気にはなれなかった。ちょっと気がとまったのは、「ラーメンスタジアム」なる、仙台の「ラーメン国技場」のようなのがそこに入っていたようで、その中に喜多方ラーメン「坂内」が入っていたことだ。九州は博多にまで出店しているとは…恐るべし「坂内」。とても店内を周る気にはなれなかったので、そこではトイレだけ拝借して立ち去った。いよいよ今度は地下鉄天神駅を目指した。中洲を通っていこうということで、川沿いを歩いていたら、見知らぬおばちゃんに声をかけられた。天神へはどのように行けばよいのか、ということだったので、僕らと行き先が同じであったので一緒に行くことになった。話をしていると、なんとそのおばちゃん、仙台の人だったのだ。九州まできて、東北人、しかも仙台人に会えるとは露とも思っていなかった。おばちゃんの住まいは俊宏の実家に近いらしく、妙に俊宏が興奮していた。おばちゃんは何食わぬ顔だったけれど。なんかちょっと変わったおばちゃんだったけれど、取り留めもないような話をしながら、おばちゃんは天神駅の地下街に行きたかったらしく、途中で別れた。しかし、このおばちゃん、自分が荷物を置いて出てきたホテルの名前も忘れていて、なんか少し心配になってしまった。が、本人が「何とかなるべ」とか何とか言っていたので、そのまま別れた。これもまた、一期一会。

続く…

写真は博多駅。駅の向こう側には福岡空港があります。アクセスが便利でいいですよね。東北の空港はとにかく不便!なんとかしてほしいものです…

2004年 九州旅行記 その13

2005年05月10日 | 2004年 九州旅行記
天満宮を後にすると、いよいよ目的地「博多駅」を目指すことになった。カーナビの示す通りに車を走らせた。ところがこのカーナビ、少々お馬鹿で、実際に車は道を走っていたのにもかかわらず、カーナビの画面ではあろうことか我が車が川の中を突き進んでいた!!衛星の受信エラーだろうが、しばらくカーナビの中で車は川を泳いでいた。そんなカーナビに俊宏と僕はツッコミを入れつつ、目的地を目指した。駅に近くなると僕は仙台駅周辺もろくに運転して走ったこともないので、仙台のそれ以上の車線の多さ、道路の複雑さに目が回る思いだったが、頼りないカーナビと俊宏ナビ(自称「アビナビ」)に手助けしてもらいつつ、レンタカーの営業所を目指した。ところがなかなか見つからず、駅に着いてから3~40分くらい周りをグルグル回っていた。やっと営業所の位置を確認すると近くのガソリンスタンドでガソリンを詰め、営業所へと無事レンタカーを返却。お疲れ様でした、マツダファミリア、「ホワイト号」。ボディーが白だったからだろうか、そう、いつの間にか名づけられていたレンタカーと別れたのだった。
 博多駅に着いたのが15時前だったろうか。予め電話予約をしておいた駅の近くの東横インで精算し、荷物を預けると、少し腹が減っていたので、ヒロの案内に従って地下街にあるラーメン屋「一蘭」に行った。ここの店のシステムには度肝を抜かれた。その最大の理由は「味集中カウンター」にあった。客が一人一人、味に集中して思う存分ラーメンを食すことが出来るこのシステム。凄い。どんなシステムなのか説明すると、まず「吉野家」のカウンターを思い出してもらいたい。あのカウンターに客一人一人を個別にするために、客と客の間に仕切りがあるのだ。おまけに店員が行き来する目の前にまで暖簾がかけてあり、正面の客とも顔を合わす恐れがない。店員の顔すら見ることは出来ない。水の出る冷水機まで個別にひとつずつ設置されており、周りの目を一切気にすることがない。つまり、カウンター席が、食べるときの顔が誰にも見られない半個室の席になっているということだ。おまけに、声を出さずに替え玉や追加注文が出来るシステムになっていて、女性一人でも人目を気にせず思う存分食べられるようになっている。また、席に着くとテーブルに味付けを指定するオーダー用紙が置いてあり、例えば「味の濃さ」をどのくらいにするか、「麺の固さ」はどうするか、など、好みの味のラーメンを注文することが出来るようになっているので、何度でも違った味を試すことが出来る。心底、脱帽。東北には残念ながら未だ進出していないのが何とも残念なところ。仙台には「博多ラーメン一風堂」が最近進出したことだし、今後東北進出を大いに期待したい店である。

続く…

2004年 九州旅行記 その12

2005年05月06日 | 2004年 九州旅行記
12日。起きたのは9時頃だったろうか。僕の出発準備が一番遅くなってしまい、準備する間、二人に朝食を買ってきてもらい、出発した。ホテルを出るとそのまますぐに西九州自動車道(武雄佐世保道路)を通って、長崎自動車道への合流を目指した。途中、サービスエリアに入って、朝食を摂った。おにぎり二つくらいだっただろうか。それと、緑茶のペットボトル。減っているのか減っていないのか判別がつかないような腹の具合だったが、とりあえず摂っておいたという感じだったか。しばし休んだ後再び僕らがレンタカーは、福岡は大宰府を目指し、走り始めたのだった。しばらく高速で気分よく飛ばしながら(途中スピードメーターを見たら、140~150キロくらいを指していたのが記憶にある)取り留めのない話を俊宏とヒロとしていたような気がする。はっきり言って運転中の周りの景色はあまり記憶にない。というより、記憶にあったら恐ろしい。高速道路で余所見が出来るのは、トラックの運転手か、よっぽどの注意力散漫かのどちらかだろうと思う。ただ、道路状況は問題なく、気持ちよく走ることが出来たのはよく覚えている。やがて鳥栖JCTより、九州自動車道に移り、そのまますぐ大宰府インターで高速道路を降り、太宰府天満宮へと向かった。天満宮に着き、車を専用駐車場に停めて外へ出ると、煮えくり返るような暑さだった。東北で経験する暑さとはまた一味違った暑さがあった。特筆すべきは日差しの強さである。あれほどの日射は過去に記憶にない。長崎散策のときにも同じような日差しを浴びたかもしれない。おかげで天満宮の仲見世を歩いているときなど、僕と俊宏の足取りは重く、前日に引き続いての運転で疲れていた僕は尚更ガタガタだった。仲見世では俊宏がカキ氷を買っていた。境内に入るとたくさんの人が居た。賽銭を投げ、それぞれ祈った。俊宏は何を祈ったのだろうか。そんなことを思いながら、お守り売り場へ。僕はそこで優美(僕の彼女)に縁結びのお守りを買い、弟には来年の受験に備えた学業お守り。両親にはそれぞれ健康お守り。合計いくらだっただろうか。何気にかなりの額の御納めをしてきてしまった自分。休憩所で少し休んでから、置いてあった御神籤を三人で引いた。僕はまた、末吉。いつも末吉だ。そんな僕をよそに、くじ運の強い俊宏は大吉。ヒロは中吉だっただろうか。最後に俊宏と二人で絵馬を書いた。「皆、それぞれが、それぞれの道を邁進できますように…文理ズム!!」。僕らが文理ズムに栄光あれ(「文理ズム」の説明は省略させてもらうが、ここでは浪人時代の仲間の間での共通観念とでも言っておこう)。そんな思いを胸に大宰府を後に…といいたいところだが、それよりも、なんという暑さだここは、という思いのほうが強かったかもしれない、いずれにせよ天満宮を後にした。しつこいようだが、「暑い」という記憶が甚だしく残った大宰府であった。

続く…

写真は天満宮仲見世。日差しが強くて、観光客の人たちは、みんな日陰を歩いているのがよくわかると思います(笑)ほんと、暑かった…

2004年 九州旅行記 その11

2005年05月03日 | 2004年 九州旅行記
手続きを済ますと(このときの宿泊費の出費は痛かった…)、それぞれの部屋へ。僕は荷物を置き、俊宏の部屋へ行き、熱い、男同士の抱擁を交わした。本当に心から疲れ切ってしまっていた僕は、無事にここまでたどり着けたことを、褒めてもらいたかったのかもしれない。しばらく休憩すると、三人でとりあえず飲み屋を探しに街にさまよい出た。佐世保の町も大きな街だった。建造物のスケールが総じて大きかったような気がする。大きな教会があったし、仙台にある、「メディアテーク」をもう少し大きくしたような建物もあった。アーケード街をしばらく歩いたのだが、時間も遅かったので店はやっておらず、飲み屋も見つけられず、途中で引き返した。結局、駅近くにあった、「庄や」に入ることになった。この「庄や」、地元福島駅にある、あの「庄や」の高級版といった感じの店だった。とりあえずビールで乾杯。疲れた体が少し癒されるような、まさに五臓六腑に染み渡るようだった。本当にお疲れ様、大輔。自分に労いの言葉をかけ、酔いながら、色々な話をした。人生論から、身近な話まで。テーマはいつも僕と俊宏が話しているようなことで、そこにヒロが加わり、いつもとは一味違う「語り」が出来た。やはり、僕たちは学生だった。社会人と話が出来るということはまたそれで、僕たちの自己形成の一端となってゆく。それを感じることができた。その店には中ジョッキがなく、大ジョッキしかなかった(!)が、僕と俊宏はそれを二杯飲んだ。疲れの中、二杯も飲めば十分酔えたし、料理を注文しすぎてしまい、結構残してきてしまったが、ほろ酔い気分で店をでた。時間はおそらく0時近かったと思うが、まだ部屋でもう少し飲むということで、コンビニから適当に酒を買って俊宏の部屋へ。しばらく、旅行の行程を振り返ったり、楽しく話をしたりしていると、明朝も早いということで、三人それぞれ部屋に戻った。一人になってみると、急に優美(僕の彼女)の事が恋しくなってしまい、思わず電話をかけてしまった。電話越しに聞くその声はなんだか嬉しかった。今すぐ優美の元へ行きたいと、そう思った。知らぬ間に僕は、旅情と少しの酒に誘われた切なさからか、静かに涙を流していた…。
僕はこの「夜」を終わらせたくないと思い、二人に声をかけ、またもや一堂に会した。一階のロビーの自販機からビールを買ってきて、また飲み始めた。さすがに、3人とも疲れていて、それほど時間がたたないうちに、ヒロは俊宏の部屋でベッドに眠ってしまっていた。その後、僕と俊宏は、わけのわからない、プロレス議論をするテレビ番組を見ながら、プロレス技について語り、またいつもの「語り」もした。午前3時頃だったろうか、さすがにもう寝ないとまずいと思ったので、今度こそは本当にそれぞれ部屋に戻り、就寝。こうして11日、佐世保での夜が更けていった。(というより、12日の朝が明けていった…。)

続く…

上記の行動中の写真はありません。本当に疲れきってしまっていたのか、デジカメを持たずに佐世保の夜を歩いたためです。でも佐世保の町並み、撮りたかったなぁ。ちょっと後悔。

2004年 九州旅行記 その10

2005年04月30日 | 2004年 九州旅行記
車を走らせ、長崎市内を一望できる「稲佐山」という山があり、そこへ寄ろうとしたのであるが、車を駐車場に停め、ロープウェイで展望台まで行かなくてはならず、佐世保の「九十九島」にて沈む夕日を目指していた僕らは、駐車場までは行ったがすぐにまた佐世保に向かって車を走らせた。レンタカーは、白のマツダのファミリア。カーナビがついていて、少し興奮を感じた。助手席には俊宏が、後ろにヒロが乗った。俊宏は隣でナビ係というわけだ。カーナビがあるではないかと思われるかもしれないが、僕らはカーナビの使い方、見方も始め解らなかった。そのため、隣で俊宏がカーナビを見つつ僕を誘導し、僕は運転に神経を集中させる、というシステムが自然と成立したのである。
目指すは佐世保市。途中少し道に迷いつつ何とか長崎の街を脱し、国道206号を北上した。右手に大村湾を望みながらひたすら北上。僕は運転していてあまりその景観を楽しむことができなかったのが残念だった。「西海橋」を渡って、途中一度休憩にコンビニにより、北を目指した。佐世保に近づき、西九州自動車道を経由して九十九島を目指す。そのころにはもう空はかなり暗くなっていて、夕日を見るのは無理なのだろうかと、焦る気持ちを抑えつつ、地図で確認すると相当にその広さが目に付く米軍基地の脇を走りぬけ、ひたすら目的地を目指した。このあたりはずっと山道の運転だったのだが、今振り返っても気持ちが焦っていたのが思い起こすことができるし、無事目的地に到達できたときにはもう疲れきっていた。駐車場に車を停め、海を見渡せるところまで全力で駆け上がっていき、息を切らしながら展望台に上った…が、日はたった今沈んだばかり、というような景色が目の前に広がった…しかし、その景観には舌を巻いた。なんと言おうか、宮城松島の景観を思い出してもらいたいが、あの小さな島が「九十九」などと言われるくらいに、無数に広がっているのである。ぼくらが到着したときはもう薄暗くなり始めていたころだったので、右手に佐世保の港と街の夜景を望むことができた。そこで十分に景観を楽しんだ後、佐世保駅方面へと戻り、宿を探さなければならなかったが、無計画で突き進んできた僕らは、宛もなくさまよい、なるべく安く泊まれるところを僕が運転している間、携帯で俊宏が検索して、そのホテルを目指し、向かったのだが、安く泊まれるキャンペーンが終わっているとのことで、結局泊まれなかった。ついでに、そのホテルの前の道路がものすごく狭く、方向変換しようとしていたら、そこはタクシーがガンガン通る道路で、しかも一方通行だと知り、非常に焦ってひやひやしながら何とかその場を逃れたのだった。こんなこともあったものだから、僕はもう、心身ともに疲労困憊し、それを他の二人は読み取ったのか(あの時僕は本当にうんざりしていて、ものすごく不機嫌な顔をして何か文句を言ってすらいたような気がする…)すぐ目の前にあるワシントンホテルに行ってしまおうということになった。車を駐車場に停めてやっとドライブから開放された僕は大きな安堵を覚えた。

続く…

写真は九十九島。夕日が見られなかったのが、本当に悔やまれます…

花月

2005年04月28日 | 2004年 九州旅行記
史跡料亭花月

創業は1642年、花月はもと引田屋といい、その庭園にあった亭(ちん)を花月楼といっていましたが大方清雅により崎陽随一の酒楼と喧伝されるに及び、ついにはこの名を採って店名としました。開業は今から358年前となります。敷地は、丸山町・寄合町・中小島の三か町におよび、当時家運の隆盛とともに拡げられ、そこに家屋が新築されるたび世間から賞賛されたと伝えられています。
 当時はオランダ人や唐人達の丸山見物の際には、花月に必ず立ち寄ったといわれています。シーボルトと其扇(そのぎ)の関係は有名。また、文人墨客の訪れも多く、頼山陽、武元登々庵、田野村竹田等、花月において当時の珍奇な風物を賞し、長崎独特の風流を愛しました。
 幕末には、明治維新の志士達が花月に出入りしました。大広間(龍の間)に残る刀痕は、松本良順と遊びに来た坂本竜馬が残したものだといわれています。また、英国人水兵の暗殺された事件では、海援隊の仲間に嫌疑がかかったため、竜馬が長崎奉行所に苦情書を差し出した下書きが掛け軸にして今も残っています。

以上、抜粋御免。

聖寿山 崇福寺 盂蘭盆会

2005年04月28日 | 2004年 九州旅行記
盂蘭盆会で綺麗な感じでした。観光客も結構居ました。少しの間だけ、異国に来たような雰囲気を味わえたような気がします。

聖寿山 崇福寺


日本最古の興福寺に遅れること9年、寛永6年(1629)に長崎在住の中国福建省の人達によって建てられた。そのため古くは福州寺とも呼ばれていた。

一つの寺でこれだけの文化財を擁するのは京都や奈良を除けば西日本随一という崇福寺。全部で21もの文化財がある。なかでも長崎にある3つの国宝のうち、2つ(大雄宝殿(だいゆうほうでん/本堂)、第一峰門)がこの崇福寺にあることにも注目したい(もうひとつは大浦天主堂)。

また、通常寺の門は“山門”というが、崇福寺は3つの門扉があるため三門といい、さらに二階建ての楼門でもある。竜宮城に似ていることから竜宮門とも呼ばれるこの三門に掲げられた扁額の「聖寿山」の文字は隠元禅師の筆。