時には目食耳視も悪くない。

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目で見る音楽。

2017年09月22日 | ひとりごと
 以前、《バカの壁》(新潮新書、2003)の著者の養老孟司さんが、「音楽を言葉で説明するべきではない。(心で感じるものなのだから)」とおっしゃっていたことに対して、爆笑問題の太田光さんが「(どんなに言葉で説明するのが困難な事象でも)言葉の専門家たる学者が、使命ともいうべき『言葉で表し、後世に伝えること』を放棄するべきではないのではないか」と主張していらして、それが忘れられない印象として記憶の中に残っていて、今でも繰り返し思い出します。

 養老さんの言いたいことも分かりますし、太田さんの言うことも間違っていないと思います。

 人間の存在意義の第一は「伝達」にあると私は思います。
 私たちは先人や、先人たちが築き残した事物から何らかのものを受け取り、また次の世代にそれらを伝え残していきます。

 自分は世間と全く関わらず、誰とも何も関係を築いていないと思ったとしても、この時代に、この地球上に生まれ出た瞬間から、太古から続く時間の流れを継ぐ者として生きざるを得ないのです。

 今を生きる私たちは、決して初めての人間でも最後の人間でもありません。

 また、人は文明から隔絶して存在するのは難しいものです。(アマゾンの奥地で動物と一緒に育たない限りは…)
 家屋で寝起きし、洋服を着て、多国籍の料理を食べ、本を読み、テレビを見て、インターネットでゲームをしたり音楽を聴く。
 それらの、どれ一つをとっても、人間の知恵や工夫の産物からの恩恵を受けずして出来ることはないのです。

 たまに、ジャングルで全裸で生活する人がいると聞きますが、一切の文明から切り離されたいという精一杯の抵抗なのだと私には思われます。
 しかし、二足歩行をすること、火を熾すこと、道具を使って生活すること、文字を理解すること(その人が然るべき教育を受けていれば)など、それら人としての本能的な特性からは逃れることができませんし、その全てをも断ち切ろうとするならば、もはや存在としての個体の保持が叶わなくなるでしょう。

 私たち人間は、精神的にも物理的にも孤独ではあるけれど、単独で存在することが難しい動物だと思います。
 もし、自分には家族も友達もなく、この地球上に独りぼっちでいると思っている人がいるなら、あまり悲観することはないかもしれません。
 思わぬところで、知らない誰かや、何かと繋がっているかもしれないのですから。

 さて、話題を戻しますと、音楽を言葉にすること(説明する、描写する)は、確かに容易ではありません。
 何故なら、誰一人として、全く同じ感性を持つ人間がいないからです。

 一言に「明るい音楽」とか「楽しい音楽」などと言っても聴く人によってイメージするものは違ってしまいます。
 ある人には「楽しく」聞こえても、他の人には「騒々しい」だけだと感じられたり、あるいは「懐かしく」思われて郷愁を誘うものであったりするのです。

 自分には感動的な曲が、友人には不快な感情を喚起するものだったり、その逆もまた起こり得るでしょう。

 養老さんのおっしゃる通り、音楽は各個人が耳で(心で)聴くものであり、言葉で説明して伝えるものではないという考え方も一理あると思います。

 しかし、もし耳が聞こえない人が、その音楽を知りたいと思った時、あなたはどうやって伝えますか?
 曲の楽譜を見せてみますか?それとも、その人の身体(例えば、腕など)に直接触れて、曲のリズムを指先で刻んであげますか?

 そういう時には、あなたが音楽から感じることを言葉にして伝えることも意味があると思えます。
 (耳が聞こえないのだから、音楽を知る必要はないんじゃないかという意見は、建設的ではないので却下します。)

 先日、ある障害者団体の集会での出来事を聞きました。
 その集会では、来る行事での余興を何にするかを話し合ったのですが、一番希望が多かったのはカラオケ大会でした。

 ところが、聴覚に障害のある参加者たちはカラオケを楽しめないという反対意見があがりました。
 これまでも、カラオケ大会は何度となく行事の余興として行われていましたが、その度に、耳が聞こえない参加者たちはつまらない思いをしていると言います。

 考えてみれば、音が聞こえないわけですから、どんな曲なのかも分かりませんし、カラオケマシーンから遠くの席に座ってしまうと、歌の歌詞すら分かりません。
 歌っている人には楽しい時間でも、耳の聞こえない人には退屈な時間でしかありません。

 それでも結局、賛成する人が多いという理由で、余興はカラオケ大会に決まったそうですが、多数決ではそもそもの問題が解消されませんし、あまつさえ、「楽しめないのなら、行事に参加しなくてもいいんじゃないか」という意見も出たそうです。
 実際、行事は自由参加だそうで、障害が重く移動が簡単にできない人は欠席することもあるとか。

 せっかくのイベントなのに、障害の種類や程度によって楽しめる人とそうでない人が出てしまうのは、少し残念だと思いました。
 かといって、他の参加者が楽しみにしているカラオケ大会を止めてしまうのも良い考えとは思えません。

 今の時点では、うまい解決策など浮かびそうにありません…

 私はその話を聞いた時、目で眺めているだけでも楽しめるカラオケ機械があるといいのにと思いました。
 一部では、手話による歌詞翻訳を見ながら、カラオケを楽しむ聴覚障害者の方がいると聞きますが、それはかえって疲れるという意見もあるようです。

 カラオケの場合、歌って楽しむ人ばかりではないはずです。「音楽は好きだけれど、歌うのはちょっと、、、」という方も沢山いらっしゃいます。
 私自身はほとんどカラオケには行きませんが、そもそも、カラオケって「歌を歌うこと」が目的というよりは、「仲の良い友人たちと歌を通して楽しむ場」なのではないかと思うのです。

 だから、より沢山の人(聴覚に障害がある人でも)が楽しめるような、カラオケマシーンが開発されるといいのにと、ふと考えました。
 音に反応して動く置物があるように、人が声を発っすると同時に、光や色のついた波形やシャボン玉が現れたり消えたり、また、様々に動くなど、視覚化できるような仕掛けがあると面白いかもしれません。

 日本のアニメーション技術はかなり高度ですし、音に関する感知・感応技術も進んでいるようなので、そんなカラオケマシーンが開発されるといいなぁと思いました。

 今後に期待です。




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