時には目食耳視も悪くない。

読んだ本、観た映画、聴いた音楽、ふと思ったこと、ありふれた日常・・・

2023年の総括③自分のあり方

2023年12月17日 | ひとりごと
 目食耳視とは読んで字のごとく、目で食べ、耳で視るという、どちらかというと一般的でないこと、非常識であることを意味しています。
 私は子供の頃から、家族や友人と考えや意見が食い違うことが多く、集団の中で自分だけ受け入れてもらえていないのではないかと感じることがありました。

 それは学生になっても変わらず、どこにも馴染めない自分自身を自分でも持て余していました。
 30歳を過ぎたあたりで、自分は多くの人が当然だと思うことを当然だと思えない非常識な人間であることを自覚するようになり、そんな自分を受容できるようになりました。

 それまでの私は、周りの人に自分の意見を聞いてもらいたかったですし、それを肯定して欲しいという気持ちが強かったように思います。
 しかし、他人はもちろん、自分の家族も私の意見や考え、むしろ私の存在そのものに、そんなに関心がないのだということに気がついて、とても傷ついたと同時に、何だか気が楽になったのです。

 私の考えが彼らと同じであろうとなかろうと、私は私として存在していて良いのだと思えるようになったのです。
 仲間外れにされないように、無理に自分の考えや気持ちを無視して、彼らが満足するような言動をとらなくても良いのだと思い知ったのです。
 だって、彼らと同調してもしなくても、仲間外れにされる時はされるのだと分かったから。

 もちろん、必要な時には自分の意見を主張しますが、反対に何も言わなかったとしても、自分は存在していて良いのです。
 何者かになったり、何かを達成しなければ、社会の中に居場所はないと、それまでの私は勝手に思い込んでいました。
 そして、そのどちらもできていない自分に焦りを感じ、追い詰められているような苦しさを常に抱えていたのです。

 でも、違いました。違うということにやっと気がつくことができました。
 私が何者であろうと、何をしていようと、世間の人には全く関係がないし、私の人生に興味を持っている人もいないのです。
 私は社会の中で、他人に迷惑をかけなければ、誰からも制約を受けることなく、自由に生きることができるのです。
 なぜ、それができないと今まで思い込んで生きてきてしまったのかが悔やまれます。
 (子供の頃に、日常的に父親から怒鳴りつけられて過ごしてきたので、周囲の人たちの顔色を伺うようになってしまったのかもしれません。)

 いずれにしろ、やっと気がついたとはいえ、40年以上生きてきて、今さら考え方や行動を改めるのは容易ではありません。
 世間から見れば、私の考えや生き方は一般的なものとはズレているでしょうし、反対に何が一般的なのかということも、正直よく分かりません。
 ただ、他の人たちとズレていてもいいじゃないという気持ちから、このブログのタイトル「時には目食耳視も悪くない」を決めましたし、自分が思うことを勝手気ままに書くことで、心の中の蟠りのような物を解消できています。

 また、ツイッターやYoutubeなどでいろんな人の投稿を見ると、自分と同じようなことで悩んでいる人や、似たような考え方で生活している人たちもいるようだと知ることができ、案外、私はそんなに非常識ではないかもしれないと思うこともあります。
 ただ、それが大多数であるかと聞かれると、そうではないような気がします。直接、顔を合わせることもなく、言葉を交わすこともないSNS上で、自分の考えが孤立していないというだけのことで、相変わらず、私を取り巻く実際的な状況は閑散としています。

 家族と一緒に暮らしてはいますが、それぞれが個別のライフリズムで暮らしているので、支えてもらったり、助け合えるような関係性ではありません。
 時には、自分のために作った料理を食べられてしまったり、必要で準備していた物を勝手に捨てられたり、使われたりして不便をすることもあります。
 それでも、何かと物騒な世の中ではあるので、女の一人住まいに比べれば心強いのは確かです。

 物事が一面的に存在しているわけではないことを忘れないようにしています。
 すべてのことに、良い面と悪い面があります。
 そして、そうした価値観は流動的でもあります。私が子供の時に、大人たちから押し付けられてきた価値観が、今の子供には押し付けないようにしようという風潮になっています。
 近頃の子供たちを見ていると、なんとのびのびと自由奔放に育っていることか。
 見ているこちらが、思わず危なっかしさを感じるくらい警戒心や周囲への危機感を持たない子供が多いように思うのです。
 現在では、やっていいことと、やってはいけないことを厳しく言う大人はほとんどいないのではないでしょうか。

 自分が子供の時には、厳しく、それこそ心にトラウマを植え付けられるように言いつけられたことが、今では何の問題もなく「許されて」いる様子を目の当たりにすると、正義って何なのだろうという疑問が湧いてきますし、何かを信じることや決まり事を守ること自体が馬鹿馬鹿しく思えてきます。

 40年以上生きると、時間の経過や社会の変化、新しい技術の登場や進歩、それに伴って生まれてくる新しい概念や価値観と、自分が過ごしてきた時代におけるそれらとのギャップに愕然とする瞬間がやってきます。
 それまで、必死になって努力を続けて、それが思うように報われることがなく、辛さや苦しさを抱えている人にとって、そのギャップはこれから先の人生を諦めてしまうくらいの威力はあるのではないでしょうか。
 中年世代の自殺件数が意外に多いのは、この辺りに原因があるのではないかと思います。

 それとは少し違うのですが、よく「生まれ変わったら何になる?何をする?」という質問を目にしますが、今の私は生まれ変わりたくないと思っています。
 どうしても、この人生をもう一度やり直したいとは思えないのです。
 どんな親の下に生まれても、それなりに苦労するでしょうし、どんな仕事をしても、それなりに大変なのだと思うと、わざわざ生まれ変わってやり直したいとは思えないのです。
 それに、生まれ変わった先の社会が今よりも治安が悪くて、差別が激しい環境だったら、今以上に苦労しますしね。
 
 いずれにしろ、私はこれからも、自分のことを理解してもらえないだろうと思いながら、社会生活を送ることになるでしょう。
 何年生きても馴染めない人間社会で、あまり人と関わりたくないと思いながら、目で食べ、耳で視る生き方をしていくのだと思います。
 この考えが、今後変わるような出来事があるかもしれないと思ってみるのも悪くはないですが。。。


(2023年の総括④へつづく)


コメントを投稿