1890年(明治23年) 3月27日 稲生沢川 門栗ヶ淵(お吉が淵)に、身を投げたとされる 唐人お吉 こと 斎藤きち (享年48歳)だが、この安直楼始末記を読むと、場所は少し上流の萬昌ヶ淵(志戸橋付近)、自殺ではなく事故により亡くなった可能性が強いと言う。なぜ下田からそんなところへ行ったのかと言うと、その先 箕作の三叉路を西に少し行った「伊豆お遍路 第四十七番札所 龍門院 庚申堂」へ半身不随になった体を直すため よくお参りに行っていたからだと言う。
(幕末お吉研究会)
これは見に行かねばと、先ずはお吉が淵
ここは最後に目撃されたという場所だが投身したのを見たわけではない。昭和8年、村松春水に案内された鉄道省の役人が、下田を観光地化するため門栗ヶ淵をお吉が淵と命名したという。
そして萬昌ヶ淵付近、明治44年1月 静岡民友新聞の記事にここより投身と書かれたそう。
昔は度々川が氾濫する危険地帯だったそう。また志度橋の先には曲がりくねり山が迫っている箇所があり、今の様に整備されていない道では事故の可能性も考えられる。しかし目撃者が無く、お吉の生活や身なりから、世をはかなんで自殺したのだと判断されたものと感じられました。
そしてもう一枚とシャッターを押すと
すぅわー、閃光。お吉の霊だろうか? (-_-;)
近くには萬昌ヶ淵の由来の萬昌寺
そして行き倒れや川で亡くなった人たちの霊を慰めるために建てられたというお地蔵さん
次に約3km下流
お吉の遺体が流されてきたという高馬地区
そばにある傾城塚、室町時代のものと言う宝篋印塔と、お吉の霊を慰めるために建てられた石仏
結局のところ入水した場所も事故なのか自殺なのかも分かりませんが、
お吉謂れの場所を手を合わせ廻って行くと、だんだんと心が洗われていくような感じになりました。
そして下田
修復中のなまこ壁、近頃は材料の入手が難しいためかモルタルとペンキを使っている様。
市内にはお吉の墓のある宝福寺がありますが、これも西野屋の子分が敷根(下田富士の懐)で火葬し
寺に埋葬を頼んだところ手厳しく刎ねつけられ、そこで裏の藪の無縁墓の台石の下へ入れたのを
改めて祀ったとの事。慈悲の心をもって引き取った話では無いようです。
そんなところからも激動の時代に儚く生きたお吉の叫びが聞こえてくるのを感じたのでした。
お吉42歳の写真、小料理屋「安直楼」を開業した年に写されたものと言う。
(一般に流布されている写真は全くの違う人物のもの)
隣国慰安婦、あちらでは偉人のように神格化されていますが少し似た感じもします。
あちらでは、戦前も戦後も身を売る女性は居たのに、
戦中にだけ取り上げ非難しているんですね。
しかし今回のウクライナ戦争では、
日本の侵略・重慶爆撃、またソ連軍の略奪や捕虜のシベリヤ勾留、またアメリカの無差別爆撃と原爆投下、そして福島の原発事故などの再現が目の前で起きていて
歴史を真摯に受け止めなければと感じています。