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大善人へ身魂磨き

亀卜のはじまり

壱岐島に行った際に、武内宿禰の身代わりとなった壱伎直祖真根子氏の逸話を知り、祭祀が関わっているような気がしました。真根子氏は、中臣家の祖です。


その前に行った宇佐神宮では、神武天皇に宮をもうけてもてなしたウサツヒメと、神武天皇の家来を結婚させた話がありました。


その2人の祖霊を祀った御幣が宇佐の妻垣神社そばの足一騰宮の磐座に行く途中にあり、種子山神社にあり、タネコは説明に中臣氏の祖と書かれていました。





神武天皇とともに渡来した側近の方は、壱岐真根子ともきっと関係があり、また、ウサツヒメ(宇佐氏)とも婚縁関係をもった存在だとなりそうです。


その流れで中臣氏が宮中祭祀をしたり、宇佐神宮の神託が太古から重んじられてきたのかなと思いました。


中臣氏は、その後、忌部氏と宮中祭祀を巡り争います。忌部氏は負けて宮中祭祀は中臣氏へととってかわられます。



しかし、今では大嘗祭における宮中祭祀で中臣氏の流れを汲む亀卜の祭祀も、また、忌部氏の織物の祭祀も、共に復活しています。伝統を守っていて良かったなぁと感じています。


律令時代の7世紀後半には、国家の吉凶を占う手法として亀卜が採用され、伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の三国卜部(さんごくうらべ)が占いの職能集団として朝廷に仕え重視されたようです。


今回の旅行では寄りませんでしたが、政祭一致の時代、壱岐島のそばの対馬は特に亀卜で有名で、占いのみならず、政治的な影響力も保持していたようです。亀卜をするから卜部(ウラベ)氏とよばれたりします。






平安時代になると安倍晴明などの陰陽師が活躍するようになります。陰陽をさらに木火土金水(5行)へ。


鎌倉時代になると武士が台頭し、対馬の卜部氏は力を失ったようですが、亀卜は対馬藩の公式行事として幕末まで存続したみたいです。



ところで、中国の太古の殷代には、王が祭祀の軍事などの王朝の重要事項について甲骨占卜をおこない、その結果に従って政策を実行していたようです。昔の殷王朝は神権政治とも呼ばれていました。


しかし、甲骨占卜は「吉兆」が出やすいように事前に加工がされていて、殷代の甲骨は裏側に窪みが彫られており、それによって表側に出現するひび割れの形をコントロールできたようです。


つまり、見かけ上では、甲骨占卜によってあらわれた神の意志によって政治をするという形ではあったけれど、実際には王が実行したい政策を甲骨占卜を通して正当化していたこともわかっています。


腐敗はいつの世もあり、また、神事や神様をなのりながら都合の良いことをいう存在もいつの時代もいたということでしょうね。


人が選び難いケース、例えば、大嘗祭で神様に奉納する新米の土地の選定などに、亀卜により答えを出して決着点とすれば、争いはなくなりますからいいですね。


しかし、


自分のことは誰かに頼り外に答えを求めるより、

自分の内なる神との調和し、和合、心の聲や直観に正直に生きたいなぁと感じています。




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