引き続き、ツツの名言より
「私は同性愛を嫌悪する神を崇拝しないだろう。それほど私はこのことについて深刻に考えている。
天国が同性愛を嫌悪するなら、私は行かない。申し訳ないが、そんなところより、ほかの場所に行くほうがいい。
私はこの活動に、アパルトヘイト撤廃運動並みの情熱を持っている」
(2013年の国連の同性愛者の権利擁護キャンペーン開始に際しての演説。BBCより)
人にはそれぞれ、表に出せる悩み、出せない悩み、重さはそれぞれで何もないヒトを探す方が珍しい。
何かしら抱えて、抱えきれないくらい辛い時も、踏ん張ってただ一日が無事に終わることだけを望む日もあります。
宗教は、曲解されたものもあり、同性愛を認めないものもありますね。そもそも、神はそんなことを認めたり、認めなかったりするのかな。
神は外より自分の内にいて、その答えを持っている気もします。心からヒトを愛してそれが同性だったなら、それはそれで良いと思います。
今のネット社会は、苦悩をありのまま発信することで、自分とは違う重荷を抱えた人の気持ちや苦悩に触れ、多様性を受けいれる社会へと変化しています。
しかし、その一方、簡単に言刃で見ず知らない人を攻撃できる社会でもあります。
私は、ど近眼でコンタクトをつけないと生活できません。コンタクトをつけるとものがはっきり見えます。
しかし、コンタクトをつけてはっきり見えるこの目で見ている世界は、実は生きる中で色のついた眼鏡をかけた目なのかもしれないとも思います。
たまに、ボンヤリしか見えない方や、見なかった方が良かったかもなんて思うものが目に入ることもあります。
他者が経験する苦悩は、自分が経験した訳ではないからわかりません。しかし、苦悩を言葉で表してくれたものは、色のついた眼鏡をはずすきっかけにもなります。
そうして、何層もの色眼鏡が全部外れたら心の眼で観ながら心の音を聴いて感じられるのかもですね。
目が悪い私は、コンタクトが必要ですが、心の眼はきっと何もいらない純粋な水晶のような眼なのかなぁと思います。
水晶のような眼は全ての人の心にある眼だとも思っています。
そして、その眼は身魂磨きにより開眼されていくとも思っています。