応神天皇は、神功皇后のお子様です。その応神天皇のお子様が菟道稚郎子です。異母兄弟に仁徳天皇がおられます。
末っ子の莵道稚郎子は学問に優れ、応神天皇から寵愛を受けていたため跡継ぎとして皇太子に任命されています。
しかし、兄達は妬みの感情を抱き、長兄が兵を差し向けるほどの騒動にまで発展し、莵道稚郎子は兄達を差し置いて自分が皇太子になるわけにはいかない、と異母兄の大鷦鷯尊(仁徳天皇)に皇位を譲るため自害したとされます。その場所が宇治川です。
宇治の世界遺産では平等院が有名ですが、宇治川の東岸の朝日山の山裾には、神社建築では、日本最古の本殿である宇治上神社が鎮座しており、
御祭神は三柱
・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)
・応神天皇
・仁徳天皇
です。
宇治上神社の近くにあります宇治神社の御祭神は、莵道稚郎子のみです。
この背景から「宇治神社」は、莵道稚郎子への弔いの意味で、そして「宇治上神社」の莵道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇の3神は互いに手を取り合い、和解して穏やかに眠る鎮魂の意味で祀られているのではないかと指摘されている方がおられました。
実は、この宇治川の話を読んだ時、菟道稚郎子の父、応神天皇の時代におこった異母兄弟の話と重なる因縁めいた話を思いだしました。紹介します。
神功皇后の子誉田別尊(ほむたわけのみこと、後の応神天皇)の出産がかなりおくれたことなどもあり、異母兄弟である忍熊皇子、他兄たちは、皇統を巡りたたかいます。
戦いの追い風は武内宿禰がサポートする神功皇后にふき、結局は忍熊皇子は負けて自害し、遺体が菟道河(うじがわ:宇治川)から発見されたといわれています。
まるで、二代にわたり、同じ場所(宇治川)で同じような悲劇がおこっています。その時代をずっと天皇の側近として仕えていたのが360年も生きたとされる武内宿禰でした。応神天皇=仁徳天皇?とすら思えてしまいます。
京都の宇治市には「莵道」(うじ)という地名があります。
「宇治上神社」「宇治神社」の御祭神は莵道稚朗子です。かつて宇治は「莵道」と書いて“うじ”と言っていた時代があったようです。
昔、宇治に入る人々が道に迷うと“うさぎ”が振り返って、正しい道案内をしてくれた、という言い伝えが宇治には残っているようで、
「宇治上神社」「宇治神社」に“みかえり兎”と呼ばれる像が多いようです。その兎は“正しい道に導く”などとよばれています。
兎といえば、因幡の白兎などを思い浮かべたり、月に関係があるのではとかも思います。出雲大社でも、沢山兎の銅像をみました。
また、菟道稚郎子には、王仁(ワニ)博士という渡来系の家庭教師がついていました。因幡の白兎には、ワニも登場しますね。
ワニは、兎をサポートするも、兎に騙されて怒ります。
菟道稚郎子や忍熊皇子に共通する後継ぎ争い→自害、宇治川など、あまりにも共通点が多く、
また、ワニ族は、古代イスラエルに起源をもつ祭祀にかかわる一族だったとすると、
ワニが兎を大陸から日本に繋いで、初めはワニを騙した兎がワニから痛い目に遭うも、最後は兎はヨミガエリ、大国主命に助けられる、といったこれら一連の神話に暗示される何かがあるかもしれません。
何か大きな祭祀とかにもかかわる政変が古墳時代にあったのかもしれません。何故なら宇治に菟道稚郎子の眠る古墳があり、古墳時代というのは、歴史の中であまり書物も残っていなくてわからない時代だとされているからです。
大国主命に纏わる因幡の白兎は、色んな暗示を織り交ぜた話だと思いました。
つづく