goo blog サービス終了のお知らせ 

大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

カモ氏② 出雲王国の話から

2023-07-30 05:49:00 | 神仏について
昨日の続きです。

古代出雲では、 神をカモと発音したとありました。


8代目オオナムチ(大国主命)は、神門臣家からでています。海童(徐福が海から渡ってきた連れてきた渡来人の子供たち)により幽閉された古代出雲王を、富家のスクナヒコナ(🟰富家王子🟰コトシロヌシ)が助けに行き、さらには幽閉されるという悲劇の一大事件を浦島太郎の序盤に描いている気がします。


スクナヒコナ(🟰コトシロヌシ、富家王子)も幽閉されて枯渇した姿で猪目(イノメ)洞窟から後に発見されます。


イノメとよばれるものは、神社にあります。



神社にあるハートマークが猪目🐗です。


神社の守護として見張る意味があると宇佐神宮のガイドさんに教えて貰いましたが、

🐗猪が、ずっと見張るというのは、王を助けに行って幽閉された王子(コトシロヌシ)の無念と、騙された怒り(イカリ🟰猪狩?)があったりするのかもです。

日本語は奥深いです。宮崎駿監督が乙言主として怒った猪🐗を描く背景は、もしや猪と古代出雲の関係を気づいているのかもしれないです。

乙言主はもののけ姫でタタリ神として描かれるのです。


また、最初に参拝した葛城一言主神社には、雄略天皇の銅像があり、雄略天皇と一言主神のやりとりには時代ごとに変遷がありました。

一言主神の地位がどんどん下がり土佐に流されてしまうのですが、雄略天皇の武勇伝を示す絵がこちら☟。


なんと、一言主神を🐗で現しているではありませんか!


浦島太郎の話は龍宮へ行って帰ってきたら時代が変わっていたという話ですが、出雲王国全盛期を作った8代目大国主命とスクナヒコナは還ってくることはありませんでした。


また、幽閉された辺りの洞窟を黄泉の坂、黄泉の穴と呼ばれていたようで、奈良時代には、出雲が黄泉の国と呼ばれるようになったとあり、イザナキ様、イザナミ様の争った黄泉国は神話では出雲にあるように書かれたようです。


スクナヒコナが大国主命を置いて常世にお渡りになる話がありますが、スクナヒコナ(事代主)は粟島で亡くなります。

粟島の隣の大きな島は「夜見の島」と呼ばれるようになり、夜見黄泉(死語の世界)を意味するとあります。

出雲が黄泉の国と呼ばれる所以は、この古代出雲を震撼させた幽閉事件にも理由があるのかもです。


出雲の著書の中からわかったことは、スクナヒコナは役職(王の補佐)であり、コトシロヌシはスクナヒコナの亡くなった後の諡でしたが、8代目コトシロヌシの個人名は八重波都身であったとあります。


その名前の一部と、鴨の字が組み合わさって「鴨都波神社」の名になったとありました。

また、カツラギに移住した登美家は、カモ家 (神家)とも呼ばれ、「神」の字はのちに 「賀茂」 「鴨」「加茂」の字で書かれるようになったようです。


古代出雲の登美家が、賀茂家と正式に呼ばれたのは、建津乃身 (建角身、 大賀茂津身、たてつのみ)からであると著書では伝えます。


高鴨神社に参拝した後、偶然に出会ったご家族から、近くに、鴨都波神社と葛城御歳神社があるから行ってみては?と教えてもらいました。


高鴨神社に参拝した後夕暮れ時でしたが、まだ日が高かったので参拝することにしました。

先ずは、葛城御歳神社からです。到着してすぐに美しい白鷺を水路で妹が見つけました。


つづく



カモ氏① 大国主と事代主

2023-07-29 04:14:00 | 神仏について

奈良県にありますカモ族に由来のある奈良の神社に数社参拝しました。その御祭神に一言主や、事代主が多いため、カモ氏との関係を調べるため大元出版の出雲王国とヤマト政権を読み返しました。まずは出雲の著書から紹介します。

8代目大名持の時代に、出雲王国は最大の繁栄を迎えた。大名持は、神門臣家のヤチホコ (八千矛)が選ばれた。このお方は、のちに出雲神話で有名な「大国主 と呼ばれた王であった。 一方、副王・少名彦は、八重波津身が選ばれた。 このお方 は「コトシロヌシ (事代主)」とも呼ばれ、出雲神話では神門臣家 大国主の息子として登場するが、実際には富家の王子であった。『古事記』では、8代大名持 (大国主のもとに来た少名彦のことを「神産巣日神 (神魂の神)の御子」とクエビコが説明する場面があるが、この時代の少名彦が神魂家 (富家出身であったことを示している。

コトシロヌシは、死後の贈り名であった。事代主という漢字は、発音に対する当て字であり、正しい意味の漢字では 「知」であった。「知」とは「知らす」(支配する)という意味で、 「言知主」 とは武力ではなく「言論で統治する王」 という意味であった。「事知主」 と書いても、意味は同じである。 

金刀比羅神社 (香川県仲多度郡琴平町には末社・事知社があり、コトシロヌシを祀っている。 この本では、八重波津身のことをコトシロヌシの名で呼ぶことにする。

……

出雲の方では、コトシロヌシは富家出身であり、また、少彦名は役職で王の補佐であり、富家の王子とありました。

記紀神話では、大国主命と少彦名神は、仲良い、大小ペアで国作りをしたように描かれていますが、出雲全盛期の際、大名持(八千矛🟰出雲神話で有名な「大国主」🟰8代目出雲王 )と、少名彦(八重波津身🟰コトシロヌシ🟰副王)が、共に幽閉され亡くなる大事件が古代出雲で起こります。それは、出雲の著書によると☟

ある日、タケヒナドリがヤチホコ王に、「海岸で海童が、ワニ(サメ)を捕えて騒いでいる」と、告げてきた。出雲では、ワニは神聖な動物と考え、尊んでいた。王は、タケヒナドリに連れられて、園の長浜に出向いた。そして、海童たちにワニを放つよう説得した。すると、海童たちは王を取り囲み、船に引きずりこんだ。それ以降、ヤチホコ王は行方不明になった。この異変は、タケヒナドリによって、神門臣家と富家にすぐに知らされた。このときコトシロヌシは、大庭の宮殿には不在で、美保の時で魚釣りをしていた。コトシロヌシに異変を伝えるために、さっそく使者のタケヒナドリを乗せた舟がオウ川をくだり、王の海 (中海)を渡って知らせに出た。


「ヤチホコ様が、園の長浜で行方不明になったので、コトシロヌシ様もいっしょに来て探して下さい」と告げ、コトシロヌシと従者を舟に乗せた。

 舟は、弓ヶ浜の粟島(米子市彦名町)に着いた。すると、海童たちが現われ、舟を取り囲んだ。そして、コトシロヌシは舟から引きずり降ろされた。それ以降、コトシロヌシも行方不明になってしまった。出雲王国は、主王と副王の2人を ほぼ同時に失うという、前代未聞の事態におちいった。

神門臣家がヤチホコ王を探し出した時は、王は猪目洞窟 (出雲市猪目町に幽閉され、枯死していた。

以上

浦島太郎には、カメを虐めた小童たちから、大国主命がカメを救い龍宮へいく話しがあります。出雲で神聖だとされているワニ🐊を海童から助けようと海にいく大国主命の話は似ています。🐊はワニ氏の女性?なのかもです。龍宮の乙姫?かもです。

また、記紀神話の国譲りの際、コトシロヌシ神が釣りをしている話も似ています。大国主命(出雲の8代目王、ヤチホコ)を救いにいったスクナヒコナ(🟰コトシロヌシ、王子)まで出雲王国の話によると幽閉されてしまったということです。

エビス大黒を祀る出雲の美保神社では諸手舟神事がなされているようです。諸手舟に乗りヤチホコを助けに行こうとしたのがコトシロヌシであり、諸手というのは両手を挙げて賛成する、という意味ですが、国譲りで、コトシロヌシが直ぐに賛成した話は、この幽閉事件の暗喩、降参せざるをえなかった状況を意味しているのかも、、 

出雲8代目王国で起こった悲劇は、八大龍王や、八岐のおろちや、様々な形で暗に語りつがれているのかもしれません。 ☜これらは、全て空想ですが。続く


世界は広い in 🇲🇳

2023-07-28 06:40:00 | ひとりごと
モンゴルに娘が行っていました。

バイトしてお金貯めて、経験を積んで、若いって、いいですね。やりたいことを実行にうつし、世界中に友達を作るなぁと感心します。

ボランティアなら日本でも出来るよ、という私に、色んな世界を見てみたいとモンゴルで住み込みボランティア。

エアチケットから全て何から何まで自分で手配します。何日から行ってくるね、、っと報告のみ。フットワーク軽いです。

経験は行動の先にあります。




こちらのゲルにて宿泊したみたいです。




この自然を見れただけでも良かったなと思いました。余分なものが何もない。

土と緑と空と水と自然の気。人が生きるには、定住出来ない、移動しながら家畜を飼いながら暮らすモンゴルの草原の人たち。

その大自然は、写真からも空気に穢れがない様子が伝わってきました。

いいねー見てみたいなぁと言うと、お母さん、次は一緒にボランティア行こう!と。笑

モンゴルの人の写真をみた時、日本人とそっくりなのにも驚きました。蒙古斑も日本人とモンゴル人だけだし、ルーツが近いのかも、、。
わかりませんが。

若い時は沢山の外の世界を見てみたかったなぁと思い返します。

バックパックを背負って、言葉の壁にもどかしい思いも沢山しましたけれど、今でもふとあの頃のアドベンチャーな日々、若かったなぁと思い出します。

今は日本🇯🇵の神社参りをするようになって、日本の素晴らしさに魅了されています。

日本はいいですね。

地球は、世界は、日本は本当に美しい。
みんな仲良く手を繋げば良いな。

外から内へ、そしてまた自分の中へ。

若い時はやりたい事に挑戦し、外に出てみて様々な所を見た上で、
次第に内にある、内鳴る素晴らしさにも気づくのかもですね。

沢山身体を動かして沁み込む何かもある気がします。









高鴨神社 in 奈良

2023-07-26 05:31:00 | 神社仏閣
奈良にあります全国加茂(鴨、賀茂)社の元宮、高鴨神社に参拝しました。境内入ってすぐの池のあたりです。



大和平野を一望できる高鴨神社は、鴨族発祥の地です。

鴨族は山を支配し、薬草、天体観測による暦、製鉄、農耕技術、馬術に優れていた一族でした。この辺りには縄文晩期の集落跡があるようです。

鴨氏の「カモ」は「カミ」の語源と云われており、「カモす」という言葉から派生し「気」が放出しているさまをあらわしているとのことです。

主祭神である
迦毛大御神を祀る神社は約300社あります。
福島県一宮の都々古別神社
栃木県日光市の二荒山神社 
高知県一宮の土佐神社
などもそのようです。

福島の都々古別神社は夫が参拝しています。山上に大きな磐座があり、そこまで登ったようです。磐座信仰といえば、縄文時代の古い信仰といえます。




葛城山では、一言主(事代主)神が土佐に流された話がありました。迦毛大御神、アジスキタカヒコネ神、一言主、事代主と様々な名前を呼ばれながらも、同じ鴨族の神様が土佐神社(高知県一宮)に祀られているのですね。

カモ族の神様については、書きたい事が沢山ありすぎて、まだ頭の整理がついていませんので、ゆっくり整理しながら書いてみようと思います。






葛城一言主神社 in 奈良 ②

2023-07-24 05:29:00 | 神社仏閣
一言主神社の居をくぐるとすぐ蜘蛛塚がありました。以前彼岸花について書いた際に、この神社を紹介しています。参拝できるとはその時は思っていませんでした。


土蜘蛛とは、縄文時代、朝廷に恭順しない地元民に対する蔑称で、怨念が復活しないように、頭と胴体と脚を別々に埋めたところだとも言われています。

彼岸花の名所になるところには、土蜘蛛と結びつきが深い気がします。


写真はお借りしました。


九州もそうでした(7つ森古墳群と土蜘蛛塚 )。彼岸花は秋に紅い華をつけて、浮かばれない御霊の昇天を手助けする花だと私は思っています。

 

この地で朝廷に恭順しなかった土蜘蛛は、葛城山の洞穴に住んで、身なりも汚かったのでしょうか。土蜘蛛たちを退治するために、葛で編んだ網で捕まえたところからこの地は葛城山という名前になったとも言われます。

茨城の御岩神社周辺に残る逸話も土蜘蛛成敗のためイバラを使った話がありました。

土蜘蛛は手足が長いとも記されます。古事記に登場し、神武天皇の東征に逆らい続けたとされる長髄彦も手足が長かったと記されます。


奈良には下記の話が残っているようです。☟

昔、この付近で、毎夜一匹の大きなクモが出て荒らしまわり、人々を困らせていた。そこへ一言主神が通りかかり、「私が捕まえてやろう」といい、首尾よく退治した。村人はその死骸を田の中に埋めたという。この時、クモの大きな牙が取り置かれ、今も神社の宝物(ほうもつ)となっている。 




この話とは別に、『日本書紀』に土グモの話があります。


昔、神武天皇が日向(ひゅうが)(宮崎)から東の国々を征服する旅に出た。熊野から上陸して大和の宇陀などを経て葛城の高尾張邑(たかおわりむら)に来た。ここで天皇は土グモと戦い、これを退治した。


土グモは土地の民のこと。この時、葛(かずら)のつるで作った網でクモを覆い殺した。よってこの地を「葛城(かずらき)」と名づけたという。やがて天皇は橿原宮で即位した。


奈良と土蜘蛛。この地も古代に闘争があった地。一言主については、逸話が沢山あります。

人の作った逸話に背びれ尾ひれがつき一言神が色付けられている気がします。それだけ古くから大和のこの地に御坐す神は、人々の心のよりどころなのでしょう。


ワカタケルとの逸話



一言主神社には雄略天皇の銅像がありました。

葛城山の一言主神が雄略天皇と狩猟の成果を競った話が記されていました。賀茂山から葛城山へ名前を変えても、賀茂一族はしばらくは力を有していましたが、やがて力をえた雄略天皇は、一族の神(一言主神)を土佐へ流すという実力行使に出ます。


黒須氏の著書の中では、一言主神は饒速日大王の神霊であり、実体としては賀茂一族を指している、とありました。賀茂一族の神は、雄略天皇により土佐に流され、氏神を祀る権利も剥奪され雄略朝に隷属する民に落とされたとありました。



雄略天皇(ワカタケル)の銅像

境内





役小角との逸話





役小角は伊豆に流されるも、701年に放免され故郷の葛城山に戻る。そして68歳の時、弟子たちに「本寿は限りはないが、化寿は今に至った」と告げ、天井ヶ岳にて微笑みながら静かに息をひきとったといわれています。

役小角の遺訓には

「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」

とあるようです。自らの身体で様々な体験し、全ての体験からその精神を高めていくところに神髄があるようです。


日本は大陸からの移民、仏教の伝来など、様々なものを受け入れ溶かす(十化ス)国。しかし、そこに至るまでには闘いも苦悩もあったでしょう。文化が大きく変容を遂げた時期、山には日本古来の民たちが生き、役小角も山で修行をします。


苦難にめげずに民に寄り添いながら、より高い霊的な高みを目指すという姿勢は、様々な逸話が語り継がれる中でも心に強く残ります。