定年夫婦のイタリア・スイス旅日記

あこがれのローマ,ルネッサンス発祥の地フィレンツェ,そしてツェルマットへ

雑感3 たくましき女性たち

2012-06-27 08:47:34 | 日記
 夕食が終わりもう午後8時を回っているというのにまだ明るいシニョリーヤ広場。少し夕涼みをしてから帰ろうと思い、彫刻に囲まれたステージの階段に腰掛け、そこに集う人々を眺めていた。夫はいつものごとく手当たり次第にカメラのシャッターを押している。ふと空を見上げると飛行機雲が一筋空高くぐんぐん白い筋を延ばしているところだった。とてもきれいで自分だけ見ているのがもったいない気がして、隣に腰掛けていた若い女性の肩をトントンと軽くたたいて教えてあげた。
「日本の方ですか?」
と聞いてきたので
「はい、そうです。あなたも?」
と尋ねた。
「はい。」
「どちらから?」
「私は、ここに住んでいるんです。」
日本から遠く離れたこの地で単身働いているのだそうだ。
「写真お撮りしましょうか?」
と言ってくれたので、夫と2人並んで撮ってもらった。
「お仕事がんばって!」
「ありがとうございます。よい旅を。」
爽やかな女性だった。
 思えばこの旅の間、イタリア各地で単身働く何人もの日本人の女性たちに出会ってきた。どの方も颯爽としてかっこよかったな。その女性たちの勇気とたくましさに拍手。

雑感2  日本人専用レストラン?

2012-06-25 15:53:45 | 日記
 言葉も分からないし土地勘もない2人にとって、夕食をどこでとるかも大きな課題。そこで活躍するのがガイドブック。食事担当は妻の私ということで、値段も手頃で一通りその土地の料理を出してくれそうな店をチェックしておいたので、うきうきしながら出かけた。丁度7時ごろだったと思うが、私たちの前に先客が2組。会話から1組はイタリア人、もう1組は日本人だと分かった。飲み物を注文し料理がくるのを待っていたら、次々に客が入ってきて、そんなに広くない店のテーブルがほぼ埋まった。気がつくと客の3分の2が日本人。何気なく隣の人を見たら私が持っているガイドブックと同じものを持っていた。
 そうこうするうちに注文していた料理が出てきた。お味は、想像にお任せ。しかし、ガイドブックの宣伝効果はすごいと感じた出来事だった。本当においしい料理を出す店は、もしかしたらガイドブックには載ってないのかもね。



雑感1 「生かされなかった事前学習」

2012-06-14 10:58:00 | 日記
 ユーロスター・エクスプレスでローマからフィレンツェに移動する際の出来事。
自分たちの乗る列車がどのホームから出るのか確認したいと、少しもたもたしていると、若い娘さんが声を掛けてきた。夫が列車のチケットを見せると、さっとチケットを手に取り刻印機に差し入れ刻印をしてくれた。そこで、覚えたてのイタリア語で「グラッチェ」。更に7号車の51・52の席であることを確認し、私たちを先導し手招きをしながらずんずん行く。私たちも遅れまいとスーツケースをガラガラ引きながら彼女の後を追いかけ、やっと7号車にたどり着いた。そこで、再び「グラッチェ」。ここでさよならと思いきや、なんと列車に乗り込み更に先導し51・52の席まで着くとやおらかなり重いはずのスーツケースをひょいと荷物棚に上げてくれた。ありがたいのなんので私たち2人は米つきバッタのように何度も頭を下げ「グラッチェ・グラッチェ」。
 気持ちよくバイバイと思ったら、娘さんは、さっと手を出した。握手かなと思ったらそうではない。チップを要求される。夫が5ユーロ差し出すと、それでは足りないというようなことを言って帰ろうとしない。しかたなく夫が財布に手を掛けようとしたその時、相席の外国人のご婦人が、日本語で「もう十分ですよ。」と夫を制し、その後いろいろ言っている娘をいさめてくれた。娘は不満そうに列車を降りていった。
 いろいろやってもらっての5ユーロは、そう高くはなかったかなとも思えるが、しかし事前に「危険回避のマニュアル本」で(親切すぎる人には要注意!)と学んだはずなのに生かされなかった出来事だ。
 ところで、私たちを救ってくれたご婦人はというと偶然にも旦那さんが日本人の方だとか。そんな方と同席で、運がよかった。

新幹線の中で

2012-06-09 03:01:16 | 日記
2012.6.8(金)

 今回の旅のことを考えると,外国語のできない夫と地図の読めない妻,アバウトな夫と緻密な妻,そのような対照的な夫婦であったが,二人の力を合わせなくてはできない旅であった。
 旅の計画の概略と現地ツアーの手配は夫,航空券と列車とホテルの手配は旅慣れた娘,そして妻は,ガイドブックを調べ上げて毎日の日程を手帳に整理し,事細かくメモを作り上げた。旅先では,時には夫のでたらめな英語や身振り手振りも役立ったが,妻が事細かく調べ上げたメモ帳が大活躍をした。しかし,所々では,どたばた劇やパニックに陥り,二人で一丁前というよりは二人で半人前の旅であった。また,時には言い合いになったときもあったが,どうにか喧嘩はせずに旅を終えることができた。
 今回の旅行では,夫婦互いの違いや良さを改めて感じ合い,道に迷ったり,現地の人の優しさを感じたり,気に入った環境の中にいつまでも止まったりするような貴重な体験をすることができた。このようなことは,ツアーの旅行では味わうことの出来ないものであった。苦労があれば,それ以上の楽しみがある。やはり,ワクワクドキドキするような冒険とそれを乗り越えたときの感動体験は,いくら年を取っても必要なことなのだ。それは,旅だけでなくこれからの夫婦の生活の中でも言えることなのであろうと,改めて見直したように思う。
 帰宅時の新幹線の中で書いている。

帰国

2012-06-09 02:56:50 | 日記
2012.6.7(木)

 ドバイからの飛行機の中で,2回食事が出る。2回ともご飯もので,久しぶりに米の飯を食べておいしかった。更に,少しではあるがそばも付いてきて,日本に帰国する帰国する人たちのことを考えているメニューだなと感心した。
 機中では,暗くして眠るようにしたが,なかなか熟睡はできない。成田に近づくと,懐かしい田園風景が見えてくる。イタリアやスイスでは,山と丘と畑であり,田んぼのある景色をしばらく見ていなかった。水が満々と張られた田,太陽の光にきらきらと輝いている田,日本人の心の故郷を表しているのだなと思う。
 日本時間の5時30分,ほぼ定刻通りに着陸。各種の手続きをし,スーツケースを宅急便で送るように手続きし,成田エクスプレスで東京に向かう。有楽町で娘と合流し,親子三人で食事を取りながら,ブログでは書ききれなかった旅の思い出話に花が咲いた。天ぷら,焼き魚,刺身,長芋の鉄板焼き等を食べ,久しぶりに飲む日本酒は胃袋だけでなく,心の奥底まで染み込んで行った。ローマ,フィレンツェ,ヴェネツィア,ミラノ,そしてツェルマットと,世界に名高いいろんな名所旧跡を訪ね,その土地のおいしいものを食べてきたが,やはり,日本の食べ物はしっくりし,日本の風景の原点である里山を見ることや日本人のいる所は,落ち着く。やはり旅することは,自分の居場所を再確認することにつながるようだ。
 娘のアパートの畳の上で,しばらくぶりにゆったりとした気持ちの中で,二人爆睡した。

チューリッヒから帰国

2012-06-07 05:51:38 | 日記
2012.6.6(水)

 チューリッヒから,いよいよ帰国となった。昨日の疲れもあり,今朝はゆっくりと眠ることが出来た。8時半に朝食を取り,俺は昨日のブログの整理をし,妻は荷物の整理を行う。今日は飛行機乗りの一日なので,荷物の入れ替えが大変であったが,二つのスーツケースとリュックに入れ替える。
 昨日まで,いろんな所を見てきて,感動しっぱなしで心が飽和状態である。当初チューリッヒも半日観光をしようと考えていたが,もうその他に見ようとも思わない。午前中は荷物の整理をしたりホテルでゆっくりしたりする。
 11時にホテルをチェック・アウトし,飛行場に向かう。飛行場には,列車で1駅で10分程度で,12時前に着いた。しかし,15時35分発の飛行機なので,まだ搭乗手続きをしていない。スイス最後の食事を取り,12頃30搭乗手続きを完了し,飛行場の中でゆっくりする。ドバイ行きの飛行機なので,乗客は,アラブの人が大半で,日本人は極わずかであった。
 飛び立って1時間ほどして,ランチを配布しだしたが,搭乗前に食べたて,まだ腹一杯なので遠慮し,何も考えることなく,映画を見る。多くの映画の中から,「山本五十六」と「ミッション・インポッシブル」の2本も見てしまった。
 ドバイに着いたのが,11時30分頃。乗り換えの手続きをし,3時35分発の飛行機まで,待合室で待つ。成田行きの搭乗口は140で一番と奥まった所であった。ドバイ空港は,真夜中でも,乗り換えのためであろうか,人がいっぱいである。眠るわけにも行かず,この記事を書きながら待っている。

ツェルマットからチューリッヒへ

2012-06-06 02:24:31 | 日記
2012.6.5(火)

 いよいよツェルマット最後の日,朝の3時頃に目が覚めてしまった。妻もなかなか寝付かれなかった様子である。外を見るとマッターホルンに少し雲がかかり,満月が出ている。カメラを取り出し,夢中になって撮影する。青い空に,月が輝いており,マッターホルンにかかった雲が月明かりで輝いている。山に入ったときに,よく目にする光景ではあるが,ここはツェルマット,そして見えるのはマッターホルンである。幻想的な光景に,心を奪われ,ガメラ操作もおぼつかない,後で見ると,三脚がないのでぶれている写真が多かった。
 月が隠れ,しばらくすると明るくなり出し,今度はマッターホルンが,赤く染まってきた。待ちに待ったモルゲンロートである。最初に,頂上部分が赤くなり,だんだんと下に広がってくる。考えてみれば,大学4年の夏,友達に無理矢理連れ行かれた暁登山,その時のご来光とその後西の空や山がピンクに染まっていく光景を見た時の感動が忘れられなくて,山に夢中になったのであった。暗闇から,ピンクに染まる,神々しい山の姿を見れば,人間の存在を超えた,自然のすばらしさに,皆心を動かされることでであろう。今時の子ども達の多くが,このような感動体験をしていないという。本当に嘆かわしいことである。
 朝食も取らず,6時30分,妻と共にホテルを出発し,向かったのは,昨日も行ったゴルナーグラートである。始発の列車が7時なので,駅のキヨスクでパンとジュースを買い込み,登山鉄道の列車に乗り込む。朝早いので,登山電車に乗る人たちは,山で仕事をしている人たちがほとんどで,観光客はわずかばかりであった。途中,昨日はわずかばかり姿を現していたマッターホルンが,今日は惜しげもなくその姿を現している。
 ゴルナーグラートの駅に着いたとき,昨日以上の感嘆の声を上げた。駅から頂上に約5分ほど歩いて,たった二人で周囲を見回す。360度雲一つない青空に,純白の山々が,その姿の美しさを競い合っているのだ。その中で,一際群を抜いているのがやはり,マッターホルンである。まさに,アルプスの盟主である。ブライトホルン,リスカム,モンテ・ローザがその隣に連なり,遠くドームやホワイト等という山々が並んでいる。モンテローザとリスカムの間から,アルプス第2のゴルナーグラート氷河が流れている。白い雪が陽に輝ききらきらと光り,所々に氷河が溶けてできた氷河湖が青い水をたたえている。そして,真っ青な空には飛行機雲が幾重にも延びている。周りには観光客はほとんどおらず,このすばらしい風景が,俺たち二人のものなのだ。心清むまで写真を撮る。そうしているうちにドイツの若い男女が上ってきて,写真を撮ってくれというので,喜んで取ってやり,俺たち二人も撮ってもらう。同じ趣味を持つもの同士,言葉ああまりわからなくても,心は通じ合うようだ。
 約2時間,すばらしい風景を満喫した。2番目の列車で観光客がどっと上がってくると同時に,大声の日本語が響きだし周囲が騒がしくなってくる。日本人観光客が多いのだ。セントバーナード犬を相手に,記念写真を撮っている団体が多い。日本人観光客として,海外に行った場合,マナーに気をつけなければならないと感じた。「旅の恥はかきすて」では通用しない。そういえば,ツェルマットのホテルのエレベーターの中に,「ホテル内では大声を出さないようにお願いします」という内容の表示が日本語のみでしたあった。日本人は,一人一人では気弱であるが,集団になると豹変するのだろう。これから注意すなければと,強く感じた出来事であった。
 9時31分の列車で下山し,ホテルに戻り,荷物をまとめチェックアウトする。ホテルの電気自動車で駅まで送ってもらい,駅のコインロッカーに荷物を預けツェルマットの街を散策しようとした。しかし,コインロッカーの使い方がなかなか分からない。そうこうしているうちに,妻の機嫌が悪くなってきた。「前もって調べておかないからよ。」と,行ってくる。くわばらくわばら,妻をベンチに座らせて,もう一度説明を見てみると,なんだ簡単じゃないか。やはり,じゃまが入らないでじっくりと考えると出来るのである。スーツケースをロッカーに入れ2時間半程ツェルマットの街の散策に出かけた。
 それにしても,マッターホルンが美しい。白い姿を街の上に見せている。街の中には,マッターホルンがよく見える所に,ベンチがあるのだ。二人でそのベンチに座ってマッターホルンを眺めながら,今回,海外旅行に来ることが出来た幸せをかみしめる。
 昼食のために,レストランに入ってチーズフォンジュを注文したら,その店のお爺ちゃんとおぼしき人が,俺のカメラを見て,「テーブルの端から落ちないように,奥の方に置いておけ。ニコン,俺も持っているよ。D7000だ。だけどおまえのは,俺のより良い。」と話しかけてきて,店の絵葉書を1枚くれた。その裏には,ツェルマットで1番古いレストランとあった。チーズフォンデュが出てきて食べていると,じゃがいもを皿の上でつぶし,その上に溶けたチーズをかけて食うとおいしいと教えてくれた。気さくなお爺ちゃんで,一緒に写真を撮って店を後にした。
 午後2時39分発の列車で,ツェルマットを後にする。フィスプでチューリッヒ行きの列車に乗り換え,インターラーケンを通る。ここからクラリンデルワルトやクライデシャネックにも行けるのだなと思うと,またいつか来たいものだ強く念ずる。「念ずれば花開く」ことを念じつつ。
 チューリッヒの駅で降りて交差点の所で,ウロウロしているとサイクリストのお兄ちゃんが止まってくれて,話しかけてくる。地図を見せホテルの場所を聞くと,丁寧にも,アイホンで地図を表示し教えてくれた。駅の反対側に出てしまっていたのだった。何処にも親切な人はいるものだと,改めて感心した。
 ホテルに入り,疲れたので,今日は早めに休む。明日は,いよいよ帰国だ。 

ツェルマット2日目

2012-06-05 01:02:48 | 日記
2012.6.4(月)

 現地時間で18,日はまたまだ高い。ホテルのベランダにパソコンを持ち出して,雄大で,美しく,神々しいマッターホルンの姿を眺めながら,ブログを書いている。西日に照らされ,北壁が少し光っている。刻々と雲の流れが変化していき,いくら眺めていても飽きることはない。朝は雲に覆われていて,今日は見ることができ無いのだろうと心配していたが,午後から晴れ出して,素晴らしい姿を見せてくれた。今は,すっかり雲も晴れ,美しい姿を見せている。そして,何という小鳥だろうか,鳴き声がとても心地良い。この様な素晴らしい風景の中に妻と二人でいることが出来ることに感謝したい。もちろん妻だけではなく,家族全員に感謝,そして,周囲の方々にも感謝である。
 朝5時前に目が覚めるが,小雨だったのでまた眠ってしまう。そして起きたのが8時近くであった。朝食を済ませると,小雨も上がってきたので,長袖の下着やジャンパーを着込みリュックには雨合羽などを入れて,出発する。最初に向かったのが,ゴルナーグラートである。登山列車に乗って約30分で1500メートル程登り,標高3089メートルの地点まで行くのだ。9時30分に出発して,10分ほどして歓声が上がった。今まで雲に隠れていたマッターホルンが木の間から少しばかり顔を出している。さらに標高を上げるに従い,徐々に現れてくるようになり,夢中でシャッターを切った。終点のゴルナーグラートについた時には,周囲が真っ白い雪の世界であった。昨夜も降ったのであろう,5センチ程新雪が地面を覆っている。ここからは,あいにくマッターホルンは雲に隠れて見えなかった。しかし,ブライトホルンが見事な姿を見せている。そして,ゴルナーグラート氷河も長く長くつながっている。1時間ほどいて,ツェルマットに下り,今度はロープウェーに乗って,標高3029メートルのトロッケーナ・シューテークに向かった。
 ツェルマットの繁華街を歩いて,ロープウェーの駐車場に向かう。ツェルマットには,自動車の進入は禁止で,走っているのは地元の電気自動車のみなので,音もなく近づいてくる。街の中で音を聞くのは,川の流れ,鳥のさえずり,そして観光客の話声で,日本の都会とはまるっきり違う。本当に素敵な街である。
 ロープウェーを2本乗り継ぎ,トロッケーナ・シューテークに着く。ここは,ゴルナーグラートとは違い,観光客が少ない上にマッターホルンに近いので,雄大な景色である。行った時には,マッターホルンは雲に隠れていたが,徐々に現れてくる。もう少しもう少しと2時間程滞在する。妻もつき合ってくれたので,十分に写真に収めることができた。ツェルマットの街に着くと,マッターホルンが,美しい姿を現している。マッターホルンあってのツェルマットだと感じた。
 次は,ケーブルカーで,標高2288メートルのスネガ・パラダイスに向かった。急勾配のトンネルを,わずか3分程度で駆け上り駅を出ると,野外喫茶コーナーがあり,目の前には,雄大な景色が広がっている。妻とコーヒーを飲み,幸せな一時を過ごし,最終の17時のロープウエーで下山してホテルに戻った。
 俺達の部屋は4階の一番真ん中で,ベランダからは,マッターホルンの眺めが一番とよく見える。これも,娘が選んでくれたことに感謝しなければならない。ホテルのレストランで夕食をとり,急いで部屋に戻りベランダでカメラを構え,徐々にアーベントロードに染まっていくマッターホルンを,何枚となく撮す。。若い時,山登りに夢中になった時からあこがれていた風景を目の前にしていることは,本当に大きな感動に包まれる一時であった。
 今日は,昨日の苦労を無事に乗り越えたからこそ味わうことが出来た,幸せであった。
 明朝は,モルゲンロートに輝くマッターホルンを一目みたいものだ。

ミラノからツェルマットへ

2012-06-04 00:48:38 | 日記
2012.6.3(日)

 外国語の分からない夫と地図の読めない妻の外国旅行中で,最困難の一日,しかし最大の楽しみの一日のスタートである。ミラノからツェルマットへ,4回の列車の乗り継ぎがある。個人旅行であるので,全部自分たち夫婦でこなさなければならない。夫婦のチームワークが一番試される日だ。
 ミラノのホテルで朝食を取り,8時30分に駅に行く。ベリンツォーナ行き(チューリッヒ行きの列車に乗って,途中で降りなければいけない)の列車は,もう8番線ホームに入っていた。今まで何度となく列車に乗っているので,ここまでは問題なくできた。6号車の85と87番の席に向かった。列車の中に入ると,6人の席で一室になっていて,80番台は81~86しかない。隣の部屋にあるだろうと見てみると,なんと91~96なのだ。確かにチケットには,87と印刷してあるが,「俺の座る席がない!」のだ。さあ,どうしよう。妻は,おろおろしているし,外国語のしゃべれない親父の活躍が始まった。チケットを持っていろんな人に見せながら,時には席の所まで連れてきて,聞いてみたが,どうにも合点がいかない。ああ,これまでか。この時考えた。乗客はほとんどいないので,このまま乗って行っちゃえと。9時10分,無事にスタートした。そうしていると,車掌が点検に来た。チケットの87の番号を指さして見せると,何と「気にするな。」というポーズであった。今までの心配は何だったのか。イタリアという国は何というアバウトな国なのかと思ってしまった。普段アバウトで通っている親父の数倍も上を行く国である。その時車掌に,ベリンツォーナでゲシュネン行きにり乗り換えるのは1線と聞いて,10時34分にベリンティオーナの駅に降り立った。途中イタリアからスイスに入ったが,警官らしき人たちが回ってきたが,何も検査もされなかったし,どうにか来られた,これで一安心とベンチに座って,11時06発の列車を待つ。
 11時03分頃に列車が1番ホームに入ってきたので,来たぞと思い,妻と共に勇んで乗り込むと,すぐに発車した。指定の75番と76番の席を探すが見あたらない。そして,乗客もほとんど乗っていない。何か怪しいぞ,と親父の勘が働いた。もしかして,別の列車に乗ったのではないか。とっさに次の駅で降りて,聞くとやはり間違いで戻らなければならないとのこと。しかし,指定された列車はもう出発している。これで終わり,今日はツェルマットにたどり着くのは無理なのではないかと思いながら,心うなだれてベリンツォーナに戻る列車に乗った。妻はパニック状態になってしまっている。駅について,妻を落ち着かせ,列車の予定をメモ書きにし,駅員に聞きに行く。そうすると,何と,丁度1時間遅れで列車があるではないか。そして,アンデルマットからは,予定された「氷河特急」に乗れるのである。親切な駅員さんは,予定を印刷して渡してくれた。何という有り難いことかと,妻と共に再び喜ぶ。そうすると急に腹が減りだした。駅の売店でパンとジュースを買って腹ごしらえをしながら,外国語の分からない親父でも,何とか役に立つものだ。やる時はやるんだよ。とか何とか話しながら50分程待つ。
 そして,慎重に慎重に乗車して席に着く。指定席はどうなるのだろう。お金を払う必要があるのだろうか等と考えて,車掌を待つと,「OK」なのだ。そのまま座ってゲシュネンに到着したのであった。
 ゲシュネンからは5分間でアンデルマット行きの列車に乗り換える。当初の乗り換えを一番心配していたが,小さい駅なので,割合とスムーズにいく。そして,11番ホームから出発して10分間でアンデルマットに到着したのである。13時54分発の「氷河特急」までには,まだ30分程の待ち時間があるのだ。結局は,前の列車で来ても,ここで1時間30程待たなければならなかったのだった。おっちょこちょいの夫婦だから,もしかしてこの様なこともあるだろうと,余裕を持たせて切符を手配してくれた(?)娘に感謝しきりである。
 いよいよ氷河特急への乗車である。今度こそは間違わないで乗車できた。走り出すと,緑の草原に一面のタンポポが咲いている。まさに黄色の絨毯が広がっているようだ。また,左右に山々の急峻な岸壁が現れたと思うと山々の懐に点在する村々が現れてくる。そして,底深い谷の上を,特急とはいえゆっくりゆっくりと列車は走っていく。昼食を注文すると席まで持ってきてくれ,素晴らしい景色を見ながらゆっくりと食事を取ることが出来る。まさに至福の一時である。そうこうして進んでいくと,途中から雨が降ってきて,ツェルマットに着く頃にはシトシトと本格的な雨になっさていた。せっかく楽しみにしていた,マッターホルンは,恥ずかしがって顔を出してくれない。
 電気タクシーでホテルに入る。部屋の窓からはマッターホルンが見えるとのことであるが,明日を楽しみにしよう。
 夕食は何処にも出ずに,ホテルのレストランで食べる。ここで,妻の英語の力が役立ったのは嬉しいことであった。親父はただ飲み食べるのみであった。思ってみれば,今日は,昨日までの歴史とで文化の旅ではなく,自然を求める旅のスタートであり,色々なことを体験したも本当に思い出に残る一日であった。本当の夫婦の力が試されたのであろう。

ヴェネツィアからミラノへ

2012-06-03 02:00:02 | 日記
2012.6.2(土)

 ヴェネツィア最後の朝。6時頃目が覚め,窓を開けると,目の前の海に大きなクルーズ船が,タグボートに曳航されている。大きな船,サンマルコ教会,青い海,そして空にはカモメ,非常に眺めがよく,室内の調度品もよい部屋だ。今まで泊まったホテルでは最高だ。ただ残念なのは,風呂がないこと。ヴェネツィアは島であるので,水が不足しているからなのだろう。シャワーだけでは辛いものがある。
 朝食を終え,モーターボー・トタクシーを呼んで,駅まで送ってもらい無事にミラノ行きの列車に乗ることが出来た。イタリアの列車の乗り方が分かってきた。列車の中で,ミラノのことやスイスのことを調べる。列車の窓から見えるのは,日本とは大分違う風景である。まず,水田がない。畑と丘,そして山,日本ではもうすっかり田植えも終わり,青田が風にそよいでいるころだろう。何日もそのような風景を見ていないものだ。そうこうしているうちにミラノに着く。さすがにイタリア第2の都市,大きい駅だ。ホテルは駅のそばと分かっているが,どのように行くのか分からず地下に降りて行ってしまう。上がったたり降りたりしながら,何者もの人に尋ねながらようやく到着する。
 チェックインの後,駅前で昼食を取り,タクシーで移動する。午後2時半から「最後の晩餐とミラノ巡り」のツアーに申し込んでいるのだ。何と,英語の出来ない親父が,アメリカのサイトの会社に申し込んだので,本等にとれているのか不安いっぱいであるが,いつもの「何とかなるだろう」という気持ちで集合場所に向かった。タクシーの運転手さんに集合場所の地図を見せて,乗せてってもらう。しかし,まだ誰も集合していない。本当に大丈夫なんだろうかと思いながら待っていると,徐々に集まってくる。しかし,ほとんどが外国人であるので,聞くに聞けない。ようやっと日本人とおぼしき人が一人現れ,妻が真っ先に「日本人ですか。」と尋ね話している。やはり妻も不安なのだろう。日本人に会って,ようやく一安心する。2時15分になると係の人が来て,対応してくれた。日本のインターネットのサイトでは無理だったのが,ようやっと『最後の晩餐』を見ることができるのだ。やはりあきらめないで,いろんな所にアクセスしたことが良かったのかもしれない。
 バスに乗ると,ガイドの話が聞こえるように,受話器を一人一人に渡された。そして,まず向かったのは『ミラノスカラ座』である。有名な作曲家や演奏家の肖像等が所狭しと並べられており,演奏会場も見ることができた。オペラ好きの人にはたまらない所であろう。
 次に向かったのは,『ヴットリア・エヌマーレ2世のガッレリア』,そしてバロック建築の傑作と言われ『ドゥーモ』である。ドゥーモ前の広場には,大勢の人がおり,幾本もの尖塔が天を突き刺すように伸びている。そして,広い講堂の中に入には鮮やかなステンドグラスが輝いていた。かつてここを訪れた人々は,外の形に感動し,中の美しい光景に魅ぜられ,信仰心を更に強めていったことであろう。
 そして,『サンタ・マリア・デッレ・グラッツィ教会』に向かった。ここは,レオナルド・ダ・ヴィンチの大傑作『最後の晩餐』がある所だ。ここは,1回につき人数限定(25人)の15分間の見学である。入り口で入場券をもらい,中に入る。何と,作品にたどり着くまでに,4つの扉をくぐり抜け無ければならない。教会の食堂にその絵はあった。中に入ると,皆緊張感が漂って降り,皆が黙って絵に見入っている。フレスコ画でなく,壁に油絵で描いてあるので幾分剥げているが,レオナルドの構図と色遣いの素晴らしさに,そして表情の巧みさに心を動かされる。15分が過ぎようとすると,入り口に物々しい警備の人と共に入ってきたのは,法王庁の方々であった。このことも記念すべき出来事であった。
 たった3時間程で,おまけに説明が英語でほとんど分からないツアーであったが,来て本当に良かったと思った。イタリア最後の日の良い思い出になった。
 ミラノ名物のサフラン風味のリゾットとミラノ風カツレツを妻と二人で食べながら,イタリア最後の夜の思い出を語り合った。
 いよいよ明日には,アルプスを越え,スイスに入る。3回の乗り換えがあるので,無事にツェルマットまでたどり着けるか,これまたワクワク,ドキドキの1日だ。