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前回からの続き~
8月21日(火)の午前、仙厳園&スタバの観光を済ませ、バス停に戻ってきたのが10:41。
予定より30分早かった。
しかし、雨がパラつき、風は強くなり、空模様はよりアヤしくなってきた。
イヤな予感がして、スマホで水族館のサイトをチェックしたら、恐れていたことが。
楽しみにしていた「イルカ水路」での展示が台風による影響で本日中止とのこと。
ガーン
気を取り直し、少し遅れてやってきた11:49のシティービューバスに乗り、石橋記念公園へ向かった。
「石橋」は人の苗字ではなく、名前の通り石造りの橋のこと。「石橋を叩いて渡る」の石橋。
江戸時代末期、肥後の石工・岩永三五郎によって甲突川に架けられた5つの橋は「五石橋」と呼ばれ、
長年にわたって、鹿児島県民に親しまれてきた。
ところが1993年8月、鹿児島市内を集中豪雨が襲い、甲突川が氾濫して5つの石橋のうち2つが流されてしまった。
(その時は私が宿泊した天文館の辺りも浸水したという)
そこで、甲突川の氾濫を防ぐために川を堀って、水深を深くするなど大掛かりな護岸工事をすることになった。
そのためには川底にアーチ状の橋脚がある石橋は工事の妨げとなってしまう。
また、貴重な建造物でもある石橋を災害でもう失ってはならないという文化財保護もあり、
3つの石橋は解体した上で別の場所に移されることになったというわけ。
知らなかった。
いや、ニュースや新聞で見聞きしたのかもしれないが、鹿児島は遠すぎてピンと来なかったのか気が付かなった。
実はこの橋を見物したかった理由は小学校2年の時に遡る。
当時、私がいた小学校では2年生の秋ぐらいまで学校図書館を利用することができなかった。
小学校2年の秋に学校司書から図書館の利用の仕方を教わり、やっと図書館で本を借りて読むことが出来るようになった時、
なぜか難しい本が読みたくなって、たまたま視界に入った本を借りた。
それが『肥後の石工』という児童文学。(文庫本ではなく単行本だった)
肥後の石工 (岩波少年文庫) | |
今西 祐行 | |
岩波書店 |
家に持ち帰ったところ、母親からえらく叱られた。
「こんな中学生が読むような本を借りてきて 2年生のアンタに読めるわけがないっ」
まだ1ページも開いていない時点でそう言われてしまった。
悔しくて、「読めるもん!」と思って読みだしたものの、10ページほどでやはり理解できそうになく、たちまち自信喪失。
で、挫折して返却してしまった。
それから10年ちょっと経ち、大学生になった。
あれは大学1年から2年になる春休みのある日、大学図書館にも児童文学が並ぶ書架があって、たまたま眺めていたら
『肥後の石工』に再会しちゃったんですねぇ。
思わず手にとって、図書館内で一気読み。
もちろん、1時間以内に読了。「こういう話だったのか」と読めたことにまず感動。
そして、岩永三五郎の職人の親方としての生き方に感じ入った。
「三五郎がかけた橋を見てみたい」と思った。
その時、冒頭に登場し、命を狙われる原因となった「薩摩の秘密を持った石橋」はまだ現役バリバリだったわけだけど、
とりあえず「文学」だったし、現実にある橋だという実感がなかった。
むしろ、後半のクライマックスである川の上流に石橋を架けるくだりの方が印象に残り、
「三五郎の橋を見物しに行くのは難しい」という情報がインプットされた。
社会人になって、仕事でたまたま「岩永三五郎が架けた石橋が」という新聞記事を目にしたことがあり、
「実在の人だったの 本当に三五郎が架けた石橋が熊本にはまだ遺っているの?」とビックリしたくらい。
だから、1993年の災禍の際も石橋が流されたことに気が付いていなかった次第で、なんともお恥ずかしいことである
が、5月に鹿児島旅行をすることが決まってから市内観光の下調べをしていて、やっと気が付いた。
シティービューの巡回ルートに入っていなかったら、見逃していたかも~
てか、最初はイルカ見たさにスルーしようとさえ考えていた。
(どうせ、石橋某という鹿児島の偉人ゆかりの公園なんだろーとか思っていたから)
だから、「石橋」が苗字ではなく、あの『肥後の石工』ゆかりの石橋だと気が付いた時の衝撃はかなり大きかったわけで
勿論、図書館で岩波少年文庫を借りてきて事前に再読した。(←結構、忘れている箇所があった)
見物時間30分で足りるかしら、でも長居したらイルカ水路に間に合わない~と悩みポイントでもあった。
そして、イルカ水路の展示中止と迫りくる風雨への懸念。
「よし。気持ちを切り替えて、かくなる上は雨が降り出す前に三五郎の石橋を堪能しよう」と決めたのだった。
前振り長くなっちゃったなぁ。
ということで、石橋記念公園に到着。
まずは西田橋を渡った。
5つの橋の中で一番立派な橋。欄干もついている。
お殿様が鶴丸城から出入りする際に渡ったらしい。
表面もすごい。
お城側には立派な門もあったとか。
80年代の修学旅行時に現役バリバリで、自動車も、もしかしたら私を乗せたバスも通過したかもしれない。
(気が付かなった自分。惜しいことした~)
渡った先に岩永三五郎像があった。(石工だから銅像じゃなく、石像)
振り返れば高麗橋。
(解体して復元するのに、技術がすごすぎて現代の石工もすごく苦心されたそうで)
橋の作りは庶民的。
ちなみに、大久保利通の生誕地とも、西郷隆盛の生誕地とも近い。
きっと、彼らも出来たばかりの最新技術の石橋を心躍らせて渡ったことだろう。
肥後から石工たちを招いて橋を架けさせたのは調所広郷。
大河ドラマ『篤姫』では平幹二朗が演じていたのが印象に残っている。
玉江橋。
5つの橋の内に一番上流にあったらしい、
4連アーチで立派なんだけど、庶民的に感じられるのは何故だろう。
あと、ナゾの3連アーチの石橋もあった。
一通り橋を見た後は鹿児島県立石橋記念館で歴史や技術などをじっくり見学。
ジオラマとか石材とか、以前の写真とか、常設展示がめちゃ面白かった。
5つの橋のうち最も川下にあって一番長い71メートルもあった5連アーチの武之橋、見たかった~
なまじ大きいし、川下は一番水の力が強くなるから耐えきれなくなって流されちゃったのねぇ。
そういえば、『肥後の石工』には「石橋の中のある一つの石を抜くと、石橋そのものが崩れ落ちるという秘密が…」というくだりがあった。
だから、水の勢いでその秘密の石がポロッと取れて崩れ落ちたのかなぁ、と幼稚なことを想像していた私ではあったが、
それはウソだったようで。
防衛対策のため、意図的に流された偽情報のようで。
ということで、予定の30分どころかしっかり1時間かけて堪能した。
幸いなことに、風は強かったものの、公園内を歩いているうちは雨に降られることもなく、じっくり目で見て足で感じられたのは有難かった。
そして、イルカ水路がなくなったことで、予定はガラガラと崩れていく~
さぁ、どうなる
次回へ続く~
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