『ガレとジャポニズム』
サントリー美術館
※5月11日(日)まで
エミール・ガレが硝子工芸の作家だということは知っていたし、ランプや器など
の作品を目にする機会も度々あった。
“日本的な”一面を意識したのは4年前の春のこと。
茶会の立礼席で、大ぶりの器が水指に見立てられていた。
それは屋外の能舞台に設えられた茶席で、桜吹雪が舞い散る中でのお点前。
幻想的な雰囲気があったせいもあったが、ガレの水指はとてもその場に合っていて、強く印象に残った。
以来、ガレの作品には注意していたけれど、いつの時代を生き、なぜジャポニズムな作品なのか~という深いところまでは考えが及ばなかった。
よって、今回はガレを見つめ直すいい機会だった。
幕末、開国直後のパリ万博への出品が契機となって、欧州では日本の美術工芸品がセンセーショナルなブームを巻き起こす。
それがジャポニズム。
ガレも触発された一人だったわけ。
へぇ~。この時代のヒトだったのかぁ~。
と、少しオドロキ。
日本に旅行に来た外国人かと思っていたけど、一度も来日することはなかったらしい。
彼の地にて入手した浮世絵や絵画、伊万里焼の皿や壷などに描かれていた構図を
模写して、それを自らの硝子工芸のデザインに取り入れたらしい。
ガレの作品のほか、基になったと推測できる日本の作品も並んで展示されていて
、嬉しい反面ややこしかった~。
(乾山の茶碗とか瀬戸黒茶碗など、サントリー美術館所蔵のもの)
最初は模倣から始まったデザインではあったが、やがて日本からの留学生との出会いがあり、更に影響を受けて作風に磨きがかかったようだ。
そして、和洋折衷的なオリジナルなデザインへと発展していく。
過程がバッチリわかる構成で、これはよかった。
面白かったこと。
『碗』とされた器が2つあって、ガレとしては茶碗のつもりで作ったのだろうが
、「カタチは建水だよなぁ」としか思えなかったこと。
ガラスで重そうだしね。
余談だが、ジャポニズムの史料で大英博物館の学芸員が書いた日本の陶磁器についての書物が展示されていた。
ちょうど楽焼が解説されている頁が開いていた。
Raku-yaki や Chojirou など見慣れた漢字をローマ字にした単語が並ぶ。
楽茶碗を描いたスケッチや楽家の紹介もしてあり、歴代の紹介も。
1st Chojirou
2nd Sou-kei
3rd Dou-nyuu(Nonkou)
4th Ichi-Nyuu
:
10th Tan-nyuu
11 Raku-Kichizaemon
という具合。
11代目の楽吉左衛門というと、慶入さん。
楽家は亡くなったり、隠居した場合に号?というか「○入」という名前を与えられる。
11代目は慶入だけど、この書物が編纂された時点ではバリバリの現役。
書物や展示観賞の上のみでなぞってきただけの“歴史”をとても身近に感じた。
(頭では「慶入は『慶応年間に活躍したヒト』。だから、幕末から明治と覚えよう」と思っているけれど、実感としてピンと来なくて)
そして、ガレ自身は1904年に50代後半で病死してしまう。
日本に来てみたかっただろうなぁ。
無念だったろうなぁ。
なんて、想像力を働かせてみる。
それから約100年の年月が流れ、彼が作った作品の数々は海を渡り、彼の代わりに日本へやってきている。
そして多くの日本人の心を魅了し、大事に保管されながら、こうして公開されている。
(ガレさんもびっくりしているだろうなぁ)
もちろん、フランス人からもガレ作品は愛されているみたい。
美術館を訪れた時も、3人の旅行者らしい方々がフランス語で批評しながら、観賞されていた。
(今もパリではZENブームが続いているようだし)
サントリー美術館が東京ミッドタウン内にリニューアルオープンしてから1年ちょっとが経過した。
赤坂見附の本社ビル内にあった美術館に通っていた常連としては切に願う。
「そろそろ茶道具に絞った展覧会もやってほしいなぁ」と。
サントリー美術館は平日の夜も開館してくれるし、チケットも割引になるから、それが嬉しいんだよね。
前回のサントリー美術館はこちら
サントリー美術館
※5月11日(日)まで
エミール・ガレが硝子工芸の作家だということは知っていたし、ランプや器など
の作品を目にする機会も度々あった。
“日本的な”一面を意識したのは4年前の春のこと。
茶会の立礼席で、大ぶりの器が水指に見立てられていた。
それは屋外の能舞台に設えられた茶席で、桜吹雪が舞い散る中でのお点前。
幻想的な雰囲気があったせいもあったが、ガレの水指はとてもその場に合っていて、強く印象に残った。
以来、ガレの作品には注意していたけれど、いつの時代を生き、なぜジャポニズムな作品なのか~という深いところまでは考えが及ばなかった。
よって、今回はガレを見つめ直すいい機会だった。
幕末、開国直後のパリ万博への出品が契機となって、欧州では日本の美術工芸品がセンセーショナルなブームを巻き起こす。
それがジャポニズム。
ガレも触発された一人だったわけ。
へぇ~。この時代のヒトだったのかぁ~。
と、少しオドロキ。
日本に旅行に来た外国人かと思っていたけど、一度も来日することはなかったらしい。
彼の地にて入手した浮世絵や絵画、伊万里焼の皿や壷などに描かれていた構図を
模写して、それを自らの硝子工芸のデザインに取り入れたらしい。
ガレの作品のほか、基になったと推測できる日本の作品も並んで展示されていて
、嬉しい反面ややこしかった~。
(乾山の茶碗とか瀬戸黒茶碗など、サントリー美術館所蔵のもの)
最初は模倣から始まったデザインではあったが、やがて日本からの留学生との出会いがあり、更に影響を受けて作風に磨きがかかったようだ。
そして、和洋折衷的なオリジナルなデザインへと発展していく。
過程がバッチリわかる構成で、これはよかった。
面白かったこと。
『碗』とされた器が2つあって、ガレとしては茶碗のつもりで作ったのだろうが
、「カタチは建水だよなぁ」としか思えなかったこと。
ガラスで重そうだしね。
余談だが、ジャポニズムの史料で大英博物館の学芸員が書いた日本の陶磁器についての書物が展示されていた。
ちょうど楽焼が解説されている頁が開いていた。
Raku-yaki や Chojirou など見慣れた漢字をローマ字にした単語が並ぶ。
楽茶碗を描いたスケッチや楽家の紹介もしてあり、歴代の紹介も。
1st Chojirou
2nd Sou-kei
3rd Dou-nyuu(Nonkou)
4th Ichi-Nyuu
:
10th Tan-nyuu
11 Raku-Kichizaemon
という具合。
11代目の楽吉左衛門というと、慶入さん。
楽家は亡くなったり、隠居した場合に号?というか「○入」という名前を与えられる。
11代目は慶入だけど、この書物が編纂された時点ではバリバリの現役。
書物や展示観賞の上のみでなぞってきただけの“歴史”をとても身近に感じた。
(頭では「慶入は『慶応年間に活躍したヒト』。だから、幕末から明治と覚えよう」と思っているけれど、実感としてピンと来なくて)
そして、ガレ自身は1904年に50代後半で病死してしまう。
日本に来てみたかっただろうなぁ。
無念だったろうなぁ。
なんて、想像力を働かせてみる。
それから約100年の年月が流れ、彼が作った作品の数々は海を渡り、彼の代わりに日本へやってきている。
そして多くの日本人の心を魅了し、大事に保管されながら、こうして公開されている。
(ガレさんもびっくりしているだろうなぁ)
もちろん、フランス人からもガレ作品は愛されているみたい。
美術館を訪れた時も、3人の旅行者らしい方々がフランス語で批評しながら、観賞されていた。
(今もパリではZENブームが続いているようだし)
サントリー美術館が東京ミッドタウン内にリニューアルオープンしてから1年ちょっとが経過した。
赤坂見附の本社ビル内にあった美術館に通っていた常連としては切に願う。
「そろそろ茶道具に絞った展覧会もやってほしいなぁ」と。
サントリー美術館は平日の夜も開館してくれるし、チケットも割引になるから、それが嬉しいんだよね。
前回のサントリー美術館はこちら








