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資料室B3F

https://yaplog.jp/akasyuri/
の移籍版。

ギリシャとドイツ話

2015-02-12 03:28:28 | 小ネタ
■ギリシャ「戦争中の損害賠償を」 独は拒否 外相会談
(朝日新聞デジタル - 02月11日 18:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3269360

まあ、ドイツらしいっちゃあ、ドイツらしい。

「シュタインマイヤー氏は10日の会見で、「ナチス占領期にギリシャで起きた『ひどい出来事』に対する政治的、倫理的な責任は十分に認識している」とした上で、「すべての賠償問題は法的に解決していると確信している」と述べた。賠償問題は、ギリシャ側がこれまでもとり上げてきたが、ドイツ側は、両国が1960年に交わした賠償に関する合意などを根拠に「解決済み」の立場だ。」

ディストモ虐殺記念館のエフィ・キミアの発言が印象に残っています。

「ドイツはギリシャの中央銀行から奪った金塊や虐殺に対し賠償する、東西ドイツが一つになったら支払いますと約束してきました。東西が統一したら今度は金融システムが1つになるまで5年待って下さいと言いました。しかし何も起きませんでした」

1995年に、ギリシャ・ディストモ村の虐殺被害者遺族250人超が生命・財産の損害賠償を求めてギリシャ裁判所に提訴し、ドイツ人の弁護士10人が支援したケースがあります。第1審リバディア裁判所は1997年に、「戦争犯罪は国家の主権的行為ではない」として、主権国家は他の国家の裁判権に属さないという「主権免除」を否定しました。これは、加害国に対する戦争被害者個人の直接請求権を認める判決を言い渡したことになります。このあと、ギリシャ最高裁も地裁判決を支持したものの、ギリシャ司法相は判決の執行に必要な署名を行わなかったことが引っ掛かっているのです。また、被害者遺族はドイツの裁判所にも訴えを起こしたが、ことごとく退けられました。

話は移り2008年には、イタリアの裁判所がギリシャ裁判所の判決に基づきイタリア国内のドイツ資産を差し押さえることを認めました。

その後ドイツはハーグの国際司法裁判所に提訴し、2012年に主権免除が認められました。つまり、ドイツ自体は外国の裁判権には属さないということになります。こんなニュース、大事なのになんで日本のメディアは扱わなかったんでしょうかねぇ・・・。

現在の流れからすると重大な人権侵害に関して主権免除の除外を認める学者は多いでしょう。しかし、判決はこの流れに逆らっていることもあり、なんだかな、といった状態ではあります。

当時のTrindade判事は、 重大な人権蹂躙に対しては主権免除を適用すべきでないと明確に主張し、Yusuf判事は、明瞭ではないものの、ケースによっては、当該国の裁判権を例外的に認めることは、外交関係を害しないし、国際的な人権と人道に関する法を守るのに役立つとしました。

"The assertion of jurisdiction by domestic courts in those exceptional circumstances where there is a failure to make reparations, and where the responsible State has admitted to the commission of serious violations of humanitarian law, without providing a contextual remedy for the victims, does not, in my view, upset the harmonious relations between States, but contributes to a better observance of international human rights and humanitarian law."


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ギリシャが本当に切羽詰まる寸前で、この話を出して経済支援とチャラにする・・・みたいなことは、やるんじゃないですか。いや、使えるものは使えるカードですから。




死の病理学

2015-02-07 21:46:06 | 小ネタ
■小5授業で「イスラム国」遺体画像 名古屋市教委、謝罪
(朝日新聞デジタル - 02月05日 18:24)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3260766

このニュースを見て、ああ、そんなことやってんのか・・・と思いながらも、ふーん、人を殺している写真をみながら、世の中にはバカの壁ってあるんだよ、みたいなことでも教えているのかな・・・くらいに捉えてましたが、どうやら話は簡単でもないようです。

どうしても世の中には、グロテスクなものを見ないと子供はバカになると思っている節があるようです。ほほう。惨殺死体でないとダメなのか、ふつうの死体でないとダメなのか。

ふつうの死体でないと、と言うのであれば、実はふつうに国が・・・というより自治体が公開していたりします。別に原爆絡みじゃないですよ。解剖学者みたいに、ホトケ見飽きたとか言われてもそれはそれで首を捻る事態なんですが。

http://lite.blogos.com/article/105030/forum/
小学校の授業で無修正のIS遺体写真が使用される事案が発生(いいんちょ) - BLOGOS(ブロゴス)

この2,000件を超えるつぶやきの中で何人がこの国宝クラスの遺体を見たことがあるやら、みたいな感じはしてますが。

『九相詩絵巻』(九州国立博物館所蔵(元神奈川県個人蔵、鎌倉時代))
http://d-archive.kyuhaku.jp/da/collection/info/id/61/

確か私がアーカイブ以前に見たのは、養老孟司の『唯脳論』(青土社、1989)だったような気がします。原本は九州国立博物館所蔵の文亀元年(1501年)のものでした。コピーにコピーを重ねるくらいに手に入れるのが大変なんです。

簡単に言えば、死体の変遷を九の場面にわけて描くものです。アーカイブは、生きている姿込みですが、死後まもないものに始まり、次第に腐っていき、血や肉と化し、獣や鳥に食い荒らされ、九つ目にはばらばらの白骨ないし埋葬された様子が描かれます。尚、文亀版はバラバラ死体になります。

日本では遺体がそこら辺に転がっているのが非日常ですが、ヨーロッパではふつうに見られることです。まあ、日本でも、ふつうに解剖中の写真が例えばM?decin des morts : r?cits de pal?opathologie(フィリップ・シャルリエ、吉田春美訳『死体が語る歴史 古病理学が明かす世界』(河出書房新社、2008.09))で見られます。この本は、なんというか歴史学の側面もあるので、正直ロマン半分に見るのが正しい見方ではあります。ただ、私も、『うん、それはそうなんだろうけど、だから?』という感想をところどころ持ったことは、否定いたしません。

フランスの教会に行って、地下に行きますと、修道服を着た死体がハンガーに引っかけられて大量に置かれています。なんで土葬してやらないかと言えば、日本は土壌が酸性ですから土葬してやれば勝手に骨が溶解していくんですが、何しろヨーロッパは土壌がアルカリ性ですから、死体を埋めたらそのまま溶け出さないんです。埋める機会を失ったらあらしまった、と。そのあたりの事情は豊富な写真と共に、松原秀一、養老孟司、荻野アンナ『死の発見 ヨーロッパの古層を訪ねて』(岩波書店 1997)にございます。

死体自体が現実と切り離されている分、まあ確かに、変なロマンがまとわりついている、その辺りは確かにありそうです。ぶっちゃけ、死体見たくらいでそんな変わらんて、ってのはありますが。そんな広島くらいで驚きゃしねえよ、なんてな(見慣れてれば)。




何を考えたやら

2015-02-03 21:52:31 | 小ネタ
■「3歳女児」に食事あたえず衰弱死? なぜ母親は「殺人罪」で起訴されなかったのか
(弁護士ドットコム - 02月03日 17:52)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=3257005

似たような事件は以前にもありました。まあ、今回は先天性ミオパチーがあったのでしょうけど、だいたい2011年3月に退院して、2012年6月には介助なしに歩けるほどに回復している時点で、難病だから病院にひっきりなしに、というわけでなし、治ったようなもんよ、という認識だったわけで、死んでも構わない、というよりかは、死んだ際の理由付けに使える、と考えていたと結論付ける方がよろしいでしょう。訴因変更するべきです。

本件への雑感 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1937681353&owner_id=40049699&full=1

特殊な家庭環境を都合よくツールとして使う犯罪者は挙げるのに暇がありません。たとえば秋葉原事件の加藤。あれはわかりやすい。自分のユニフォームがなくなったのを自分の解雇のシグナルとして勝手な妄想解釈をしておいて他人を殺して挙げ句の果てには母親の教育に押し付ける。腐った人間の見本です。池永チャールズトーマスもです。いきなり裁判になって父親のネグレクトを出す。それまでは何事もなかったかのように生きていながらです。?

お分かりでしょう、境遇などそんなものです。?

特殊な家庭環境と強く主張する輩は自分の 「特殊な家庭環境」を都合よく解釈し、ツールとして(例としては、私はこんな目にあったがおまえは(中略)だから私には反論できない・・・のように)使いたがる傾向にあるのです。?

そういう奴に限って苦痛だなんて思っちゃいないのです。?

いつか役に立つ・・・すなわち何かしでかしても切り札・・・免罪符になると本気で考えているのですからね。

ドラえもんとパターナリズム http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1935035980&owner_id=40049699&full=1

そう、ちょっとグチになりますけど、だいたい児童虐待をいいわけにする人って、動機が邪魔だのうるさいだのなんですよ。こういう人はね、子供に親の命じる通りに食べ親の命じる通りに寝て親の命じる通りに振る舞い親の自己実現を妨害しないことを本気で欲望しているんです。ばかげてるでしょう?でもニュース見てると擁護者がいるんですよ。カネがないからって。カネがないからっていいわけが始まったのってホント最近ですよ?それを本気にして社会学者が言い立てるんですよ。もっとカネを、って。でもね、それはこういうことです。?

「金がすべての人間的問題を解決する。金以外には人間の苦しみや欠如感を埋める手だてはない。」?

もう少し社会学者はこの危険性に自覚的であるべきです。?

話を戻します。未成熟故にその要求に応えることに対し罰を与えるというのは、ある意味で子どもを自分と対等に見ているのです。子どもにも固有の欲望があり、それとバッティングする。それを力のあるものは力のないものをねじ伏せなければならない。無意識的にこのロジックを採用していない暴力を働く人間はいません。?

子どもを自分と同様に利己的かつ自己中心的でいつも他人を利用しいい思いをしたいと考えていると信じている。そう思わない人間が暴力を振るうはずがないでしょう。?

万人の万人に対する戦いが親子間にすら展開される。フェアな競争だと信じている。そんな人間が平然と自身が支援し扶助しなくてはならない人間を飢えさせたり殴り殺したり出来るんですよ。だから嫌いなんです。?

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http://news.ameba.jp/20120312-399/

大阪二児遺棄殺人被告 SNSで報告した以上の男性関係が判明
3月12日07時00分 提供:NEWSポストセブン

検察側が読みあげた供述調書には、幼児を部屋に置いたまま、複数の男性との性交渉や夜遊びを繰り返した下村早苗被告の姿が綴られていた。1年半前の夏に発生した大阪二児遺棄殺人事件の初公判(3月5日)は異様な雰囲気に包まれていた――。(・・・)子供が餓死に向かう時、母親は、男性と過ごし、お洒落をして大阪や地元の三重県四日市で遊び回る様子をSNSで報告していた。だが公判によれば、相手の男性たちはそれ以上に数が多く、関係をもった時期も重なり、錯綜している。(・・・)

このときも、殺人か保護責任者遺棄致死かで揉めました。

殺人罪の構成要件は「人を殺した」です。したがって、ある行為から被害者の死亡という結果が発生したことが客観面として必要で、死んでも構わないと思っていたことが必要となります。

保護責任者遺棄致死罪のそれは、

○被害者が「老年者、幼年者、身体障害者又は病者」である。

○これらのものを保護する責任のある者が加害者となって被害者を遺棄したことで、その結果被害者に死亡という結果がもたらされた場合。

に客観性がもたらされます。

故意とは、遺棄によって被害者の生命・身体の安全に危険が生じることを認識・予見した上でそれを認容していたことです。なお、死亡の結果については、認識・予見は不要です。

なお、認識・予見があったとしても、それを認容していなければ、故意は認められません・・・が、裁判実務上はそのような過失すら不要だとされます(S26.09.20最一小判刑集5巻10号1937頁)。

「傷害致死罪の成立には傷害と死亡、との間の因果関係の存在を必要とするにとどまり、致死の結果についての予見は必要としないのであるから、原判決が所論傷害の結果たる致死の予見について判示しなかつたからといつて、原判決には所論理由不備の違法は存しない。」
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=54675

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両者を見比べると、故意の内容だけで両者を分けているようにも見えます。ポイントは、殺人行為が「不作為」であるために、処罰範囲確定の見地から、一定の「枠」が必要だとされており、この「枠」内にあるかが客観面では決め手となっているためです。

殺人罪の場合、被害者の生命の保護義務がある者が、保護義務を尽くさなかったことが作為義務違反、つまり不作為の殺人行為となります。

被告人は両親であり、幼児の衣食住を整え、その生命・身体の安全を確保する義務があります。幼児が自分たちでまともに食料を調達できたとは考えられません。その生命侵害の危険性も極めて高かったと見える以上、不作為の殺人行為としてみることが、不当とは言い切れません。

・・・と、いうわけで、ポイントが結局のところ、徳永先生同様に故意がなんやねん?となるわけです。

無論常識として、飯を食わなきゃ3日で死にますし、飯を食わせなくても死なないなどという馬鹿げた妄想に基づいて、被告人である岸本友希及び岸本聖奈が予見していなかった、また認識していなかったなど、まともに受け取れることはありません。

ならば、餓死することも当然認識・予見していたはずです。それにもかかわらず、何らの措置も講じていなかった以上は、子供の死を認容していたという方が妥当です。

検察官は、頭を使う職業なんですから、もうちょっと、気合い入れてくださいよ。



Ridiculousな言論の自由

2015-01-25 17:05:27 | 小ネタ
「「モノ言えない社会は息苦しい」名誉毀損で訴えられたネトウヨ大学生の告白」(DMMニュース、2015.01.24)
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/9709950/

何が頭悪いって、ほんとに21歳なら、たかが6年前(例えば、「名誉棄損 タレントのブログに「人殺し」 容疑などで、悪質19人立件へ」(毎日新聞東京夕刊、2009.02.05、11面)のニュースも覚えていないのかって話なんですよ。

「芸能人やタレント、マスコミ関係者、政治家、顔晒してる仕事の人がネットでちょっと書き込みされたくらいで……という気持ちはあります。言いたいことがいえない社会って息苦しいですね」

これの何が愚鈍かなんて、6年前の事件を繙けばまったくもって同じことを言っているわけです。

「(・・・)共通していたのは無責任だったことです。まず「やってない」と否定し、証拠を突きつけられると友だちや同僚のせいにし、最終的には「ネットの情報にだまされた自分も被害者だ」「自分のほうがつらい」と言いだす。(・・・)「表現と言論の自由だ」とも言われました。刑事さんがある人に、「じゃあキクチさんが君の名前をブログに書き込むのも表現の自由なの?」と尋ねると、「それはイヤです。キクチさんは芸能人だからいいけど、自分は一般人で将来がありますから」と答えたそうです。」(「インターネットで中傷され続けた10年 スマイリーキクチさん」(ふらっと 人権情報ネットワーク、2011.11.25)(http://www.jinken.ne.jp/flat_now/kurashi/2011/11/25/1335-2.html))

はっきりいって、スマイリーキクチさんの経験から言って、刑事告訴に至らなければ必ず同じことを繰り返すんです。

「最初に身元が判明したのは30代後半の男性でした。警察が電話をすると最初はシラを切ったものの、契約しているプロバイダ名やブログに投稿した時刻、コメント内容などを出されて最後には認め、「二度としません」と反省した様子だったそうです。それを聞いてひとまず安心したのですが、なんとその3時間後にはまた中傷を書き込んできたんです。警察が出てくれば収まるだろうと考えていた自分の認識が甘かったのを思い知らされました。」(Ibid.)

渦中の彼をまずはこの言葉で評したい。

「Hegel bemerkte irgendwo, da? alle gro?en weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen, hinzuzuf?gen: das eine Mal als Trag?die, das andere Mal als Farce.(ヘーゲルはどこかで言っている。すべての世界史的な大事件と巨人は二回現れるというようなことを。ただしヘーゲルは、それに加えて次のように言うのを忘れている──一回目は偉大な悲劇として、二回目は安っぽい茶番狂言として、と)」(Karl Heinrich Marx、市橋秀泰訳『Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte(ルイ・ボナパルトのブリュメール18日)』(新日本出版社、2014.01))

「(・・・)welche einer mittelm??igen und grotesken Personage das Spiel der Heldenrolle erm?glichen.((・・・)そのおかげで、平凡で馬鹿げた一人物が主役を演じることができるようになったということなのだ。)」(Ibid.)

歴史は繰り返す、とは言うものの、なぜ出来事は「回帰」するのかについて、その理由を誰もうまくは説明してくれないことでしょう。人間は「自分で思っているほどには創造的ではない」のです(例えば、モーリス・ブランショなど。「作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。作品より以前に、作家は自分が何ものであるかを知らないばかりか、何ものでもない。作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。」(Maurice Blanchot, ‘La litt?rat ure et le droit ? la mort’ in La Part du Feu,Gallimard, c1949, P296))。

忘れてはならないのは、ある種の「幻想」(本件でいえば、極端なリーガルリスク(リーガルリスクを問う迄もない話ではありますが)が顕在化することなくうまく名誉毀損出来る、等)は回帰する力をもっていることでしょう。

自分はへまをこかない。そう言って未来で地べたを這いつくばって石ころのように扱われた人間が何人いたことでしょうか。

ニュースをみていないからこんなことを、と言うよりは、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』に於いて叙述する様に、「自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもと」で作られたのがこの事態であることであるのです。

そういう碌でもない環境しか自分で選択する技能を有しないと言うのは、自己責任と言うものです。

「人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。?
自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである。?
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。?
またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである(・・・)」(Ibid.)?

「人間はおのれの用〔名誉毀損〕をさせようとして、こわごわ過去の亡霊〔名誉毀損で刑事告訴された人間〕どもをよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装〔名誉毀損に使われる言葉等〕をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとする」

本質はこのセリフで看破されるのです。?私は、私の言いたいことを言い、あなたはあなたの言いたいことを言う。その理非の判断はそれを聴く方々にお任せする。そこへの敬意を怠った人間に、言論の自由を語る資格を認めるわけには行かない。それだけのことです。




はるかぜアカウントの雑感

2015-01-22 18:10:43 | 小ネタ
はるかぜちゃん、ツイッターアカウントを削除 「声優の名前の勘違い」が大炎上
2015年1月22日 15時57分 J-CASTニュース
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/9703285/

13歳だから反論してはならない、というのも常々変な話だと思っていたわけです。仮に13歳という情報を消して全くの「藪の中」にいる人間と対話していると考えてみれば、果たして同じ擁護が出来るでしょうか?年齢には本質的な擁護するべきポイントがあるわけではない(副次的でしかない)ことがわかることでしょう。

そう、藪の中、それなんですよ。芥川龍之介の(芥川の『薮の中』では、盗賊と武士(の亡霊)とその妻の三人が殺人事件について、それぞれに違う真実を語るが、盗賊は処刑される。盗賊の言うとおり、彼は殺人の主犯ではなく、共犯者に過ぎないのかもしれないが、ふだんから悪いことばかりしているので、こういうときに誰も信じてくれない)。

アノニマスな大人として正しい弁明の仕方と、会社の炎上の際の弁明の仕方と、すべての発言がブラックジョークに変わるオリンピック委員会会長の弁明の仕方とでは当然違ってくるわけですが、まあ森会長の際には何をやってもどうにもならないので、前者で話をしましょう。

カサノバナンセンス http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1935217715&owner_id=40049699&full=1

(・・・)カサノバはアメリカナイズされすぎて日本の会社運営には向いていない。原田はベネッセでややまともな法務担当アドバイザーがついたようだ。

当社は被害者?加害者?-彷徨う日本企業の広報コンプライアンス
http://blogos.com/article/91554/

【ベネッセ社長の記者会見で、社長さんは記者さんから「御社は被害者なのですか?加害者なのですか?」と質問を受けました。
たしか社長さんは「顧客にご迷惑をかけたという意味においては加害者です」と回答されたものと記憶しています。
実際のところ、情報管理会社の社員が情報を流出させ、名簿業者がこれをジャストシステム社に転売し、ジャストシステム社がこれを活用したわけですから、ベネッセ側からみれば被害者であることには間違いありません。
しかし、たしかに個人情報を預けた消費者側からみれば加害者です。
私が過去に失敗したのは、いきなり「これは当社の責任ではなくA社の責任である」といった記者会見から始めてしまったところにありました。
被害状況がまだよく把握できない状況で、世間が一番知りたいことを後回しにして、自社のリーガルリスク回避に向けた対応を優先してしまいました。もちろん最悪の結果になりました。ベネッセ社の危機対応として、このあたりの広報にはかなり腐心されているのではないでしょうか。】

【さらに問題なのは日本マクドナルド社の対応です。
中国ではネット上で食品会社とグルに なって消費期限切れの食材を使っていたのではないかとの疑惑が盛り上がっています。
このようなときに、日本の消費者向けに謝罪していたのでは、「ほらみろ、やっぱり食品会 社とグルだったではないか」と思われてしまいます。
そこで、まずは「私たちはグルでは ありません!完全に騙された被害者です!」といった広報が必要になります。
しかし、この広報を見た日本の消費者は「被害者ヅラするな!20年も仕入れていたのだろう!管理責任はどうなんだ!」といった対応をされてしまうので、すかさず「お客様にとって私た ちは加害者です」と謝罪会見を開かなければなりません。】

【以前、仕事をご一緒させていただいたリスクマネジメント会社の方 は、加害者としての立ち位置を維持しながらも、暗に「私たちも実は被害者なんです」と いう趣旨を理解していただくような雰囲気を醸し出すことが大切だといわれました。
たし かに、そのような高等戦術も必要かもしれませんが、私は結局のところ、消費者に対して 謝罪する意思があるのであれば、再発防止のためにいかに商品やサービスの「安心」を形 として示していくか、という点にまい進するしかないのでは・・・と思っています。
どん なに頑張ってみたところで不祥事は100%防ぐことは不可能です。ただ、事故を回避す るためにどれだけ企業が努力しているのか、その姿を消費者に示して、安全よりも安心を 提供するしかありません。】

まあ、ちょっと考えればわかるはずなのですが、客に欠陥品を販売していたら、販売者は加害者です。その客が、次の客に販売していたら、その企業も加害者になります。このサイクルで被害者にしかならないのは最終消費者しかいやしないのです。その途中はすべて、加害者であり被害者です。最終消費者は売買当事者である購入先を訴えればいいし、その先は順繰りに行けばいいのですから。カサノバは間違っても 「a bit deceived」などと口に出してはならなかったのです。よく今でもCEOで居られると逆にマクドナルドには感心します。

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ベネッセ流に言えば、「大塚氏に迷惑を掛けた上では」と言う前段を置くのが正解なわけですが、ちょっと考えれば、のあとを見ればわかるように、流通のサイクルからしてみると、最終的にパスされた人間しか加害者にならずにすむ構造になっておりまして、インターネットで最終的にパスされる人間というのは存在しませんから(いずれ勝手にパスしてしまう)、ある意味被害者を気取ることが許されない、とも言えます。

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1994-5年あたりに、京大の教授が弟子筋の女性研究者を暴行した疑いで講壇を逐われ、そのあと逃げ込んだ禅寺からも追い出され、週刊誌や新聞で身の潔白を訴えていたことがありました。今は御存命かどうかは知りません。

彼は、その書き記すところに依れば、自分は100%正しく、自分に対する批判はそのすべてが嘘、狂気、嫉妬、憎悪などに発するものであると主張していました。この様な状況下に於いて、自分が100%正しく、批判者は100%邪悪である、という反論を試みるのは戦術的にはたいへん拙劣なことです。もし試みるならば、それはこの人物がこれまでこの様な「決して自分の非を認めない」というかたちで議論に勝ち続けてきたことをはしなくも露呈することになります。

13歳でもわかるように言えば、「AとBの批判は掬すべきです。しかしCの批判は事実無根です」というふうに反論することがセオリーです。ですから、「お名前を間違えてしまったことは、本当に反省しています。でも声優さんの名前を知らないと声優を目指してはいけない っていうのは違うとおもいます...。声優の名前に詳しくない人は、お芝居が好きで、何かを演じてみたいって思ってはいけませんか?」というコメントは、アノニマスな大人としては、「名前を間違えたことがいかに社会的に失礼なことであるかは重々に承知しているし、その批判は是非とも掬するべきだと思います。しかし、名前を知らないから声優業を目指すべきではないと言う意見に対しては賛同しません。確かに、名前を知っている人間の方が正しいであろう見通しが立つことは確かではあることでしょう。「アノニマス的正しさ」が「はるかぜ的正しさ」に「事実として優先する」のは当たり前の話であることでしょう。しかし私にはそれが「原理的に優先する」ということを容認することが出来ません。即ち、「事実のレベルの問題」と「原理のレベルの問題」は同一次元で論じてはならない、ということを申し上げているのです。何故ならば、「誤り得る自由」が認められず、「正解する自由」だけしか認められない社会というのは、人間が知的であったり倫理的であったりする可能性が損なわれる抑圧的で暗鬱な社会であり、そのような社会では、「正解」を語っている人間が、それを「正解」であると決定したときの手続きの適法性や妥当性について検証する権利は「誤りかねない人間」には決して認められないからです。」とツイートすることになることでしょう(つぶやききれるかどうかは別として)。

まあ、何にせよ、この様な初歩的な説得術を知らない事実は、当の本人がこれまで他人の批判に耳を傾ける習慣をもっていなかったことを窺わせる結果をもたらします。

今までの戦績からして、おそらくそうやってこれまでさまざまな論戦に勝利してきたことでしょう(人海戦術でも)。その勝利のうちにはあきらかに御自身に非があり、論破された側に理があったケースもあったはずです。今回はその「つけ」を払ったのです。いい勉強となったはずです。

ウルトラポリシー http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1915626130&owner_id=40049699&full=1

はるかぜちゃん、“ネット離れ”で心境に変化……「傷つく時間をむだにしてきた」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=17&from=diary&id=2643586

どうも「お前は絶対に正しくない、私は絶対に正しい」というウルトラポリシーが強いタイプの女性だな(だって、今まで「あ、私が間違ってました、おじゃましましたオホホ」みたいなことを言ったことがありますか?間違いを認めたことがありますか?ないでしょ。前から見てて不思議だったんですよ。そういう人は、ブロックすればいいと思ってるからだ)と思ってましたが、本日、そう思う気がなぜか強まったわけですね。

【(前略)「そんなくだらないものと向き合う前に、ただ無心に走れば良かった くだらない人のくだらない言葉に傷つく時間をぼくはどれだけむだにしてきた?」との心境に至った】

それはいい経験をしましたね。
おそらくあなたは、中川淳一郎さんの 『ウェブはバカと暇人のもの : 現場からのネット敗北宣言』(光文社、2009.4)でも読んだか、と勘ぐってしまうんですよね、大人はそう勘ぐります。

あなたは芸者として何かを「売る」立場にいます。芸能プロダクションからお金をもらっていると言うことは、そういうことです。ぶっちゃけて言うと、ホントはあなた、よくクビにならないなと私は首を捻りたくなるんですよね。

ネットをやめて本を読む気になったら、13歳の反社 会学をおすすめします。

あなたは正論だの、論理だのその辺のワードが大好きなようですが、正論だけでは見向きもされません。

どうも、彼女関連の話を聞いてると、正論を言われて悔しいんだろうという話がけっこう聞こえてくるんですが、正論は「売れない」んですよね。
例えば、養老孟司さんが出したベストセラーの「バカの壁」と、バカの壁を批判する本で考えてみましょう。
確かに、バカの壁はいい加減なとこがなんだかんだある本で、そこを弱点として突いた本はこれまたいろいろあります。
でも、 その本が一冊でもベストセラーになったことは寡聞にして知りません。
なぜ、正しいことを言っても売れないのか?
それは、今まであなたがよく感じている事だろうと思います。
はっきり言えば、その売り物が面白くないからです。
うーん、まあ、なにが言いたいかっていうと、あなたの発言は無菌室でのみ成立するんですよ、ってやつですね、香西秀信さん的に言うと。

※香西秀信『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』(光文社新書)

「好き」に理由は要らないが、「嫌い」にゃ理屈をつけたがる。

気に入れば誉めたくなるし、他人に薦めたくなります。気に入らなければクサします。

問題は、自分が気に入らなかったものが、他の大勢からは賞賛されている場合です。

このとき人の心によぎるのは、「なぜ?」という困惑です。

次に陥るのが、「私の感性は間違っているのだろうか」という自己不信。

悶々と日々を過ごすうち、自分と同意見を持った少数派と出会います。

「だよね。アレ、つまんないよね。おれもそう思ってたんだよ」と同意を得たので勇気百倍、「やっぱり正しい。おれがおれを信じられなくてどうする、がんばれ、オレ」と己を叱咤し、ついには「あんなくだらないものを賞賛している連中こそがアホなのだ」という結論に落ち着き、ご飯がおいしく食べられるようになりま す。

これ、どっかで見るやり口ですが、あなたのツイッターです。

まず、人を使うのはやめましょう。私から言いたいのは、そこです。

私の意見がおもしろくないと言われたと感じたなら、どうしたら反対派も巻き込めるくらいに面白いものが書けるかを考えましょう。

それがオトナです。