昨日は忙しい一日でした。
先ず義父の墓参り・知人の写真展そして写真教室で晴海ふ頭へと終日動き回ってました。
中野坂上の宝仙寺で墓参りを済ませ石仏が沢山有るお寺成願寺に回り石仏を撮らせて頂いた。
謂れはコピーさせて頂きました、下記をご覧ください・
開基である鈴木九郎は紀州出身で室町時代に当地にやってきた商人であった。商売が成功し、財を成し「中野長者」と呼ばれ、成願寺付近に邸宅を構えていた。鈴木九郎には一人娘である小笹という若い女性がいたが18歳で病死し、九郎に深い悲しみを与えた。これを機に残りの人生を仏門に生きる決意をし、小田原の大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受け名を正蓮に改め僧侶となり、邸宅を寺院にしたのが当寺院の始まりである。1438年のことであった。
名は娘の戒名から当初は正観寺となっていたが、江戸時代に成願寺と改められる。幕末には一時、新撰組の近藤勇とその家族が当寺院に身を寄せていた。
明治時代に神仏分離令により十二社(現:新宿区西新宿)の熊野神社が分離され、現在に至っている。
先ず義父の墓参り・知人の写真展そして写真教室で晴海ふ頭へと終日動き回ってました。
中野坂上の宝仙寺で墓参りを済ませ石仏が沢山有るお寺成願寺に回り石仏を撮らせて頂いた。
謂れはコピーさせて頂きました、下記をご覧ください・
開基である鈴木九郎は紀州出身で室町時代に当地にやってきた商人であった。商売が成功し、財を成し「中野長者」と呼ばれ、成願寺付近に邸宅を構えていた。鈴木九郎には一人娘である小笹という若い女性がいたが18歳で病死し、九郎に深い悲しみを与えた。これを機に残りの人生を仏門に生きる決意をし、小田原の大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受け名を正蓮に改め僧侶となり、邸宅を寺院にしたのが当寺院の始まりである。1438年のことであった。
名は娘の戒名から当初は正観寺となっていたが、江戸時代に成願寺と改められる。幕末には一時、新撰組の近藤勇とその家族が当寺院に身を寄せていた。
明治時代に神仏分離令により十二社(現:新宿区西新宿)の熊野神社が分離され、現在に至っている。
狭い境内ですが、色んな表情で面白いですね。
熊野神社は家の直ぐ傍にも有りバス停の名前にもなってます。
私が中野坂上の事務所に配属になった時は都電が走ってましたね。
そして浅草から池袋東口のトロリーバスにも王子から乗りました
巣鴨の先・・場所が思い出せません、エンジン止めて架線にポール上げてモーターで走りました。