韓国ドラマは哲学的感性を刺激する

韓国ドラマ、IT・デジタルなこと、AIなどと並んで哲学に関する事柄や、よろずこの世界の出来事について書き綴ります

韓国ドラマあるある~「悪い人」と許し

2020-12-13 21:33:09 | 韓国ドラマ
(タイトル修正しました…)

 私が韓国ドラマをみていて一番感じることは、主人公の前に立ちはだかり、あらゆる手段でその行く手をはばもうとする「悪い人」(Bad Guy)が、徹底的に悪く描かれていることです。

 その反対に、主人公は徹底的に「いい人」(Good Guy)として描かれます。わざわざ英語を添えたのは、アメリカのドラマでも同じような構図は存在するのですが、韓国ドラマでは、そこまでやるのか!というくらいのレベルで悪い人は悪いのです。

 韓国ドラマに慣れないうちは、そのギャップについていけずに感情移入のし過ぎで気が滅入ってしまう経験を何度もしました。一話見終わるたびにどっと疲れてしまい、ぐったりするのには自分でも驚きました。

 でも、何話も進んでいくうちに今度はその構造が中毒性をもって襲い掛かってくるようになります。一話終わり、ぐったりとしているのに次のエピソードを見たくて仕方がなくなり、どんどんと夜が更けていくのです。

 こんなにも人間の醜い面をこれでもか!と見せつけられることは、どう解釈しても精神衛生にいいこととは思えないのですが、韓国ドラマに慣れるにつれて一つだけいいことがあるのに気が付きました。

 それは、現実の世界の中での韓国政府の立ち振る舞いが理解できるようになったことです。現在日韓関係は最悪と言われる状態ですが、今の政権になってからの韓国政府のわが国に対する悪行(!?)あるいは仕打ちがものすごく理解できるようになったことを、けがの功名と言ってしまったら笑われるでしょうか。

 しかし、悪い人をただただ悪い人と描いて終わってしまってはストーリーに深みが出ません。この点韓国ドラマはとてもよくできていて、悪い人がなぜ悪い人になってしまい、そんな風にしか生きられない、いられないのかということについての描写が必ずと言ってあるのです。

 もし、そういう風にできていなければストーリーが極めて薄っぺらなものになってしまい、途中で飽きられてしまう恐れがあると私は思います。特によく出てくるのが、「縁」の概念です。

 悪い人によるいい人に対する攻撃で、こじれにこじれてしまった人間関係を「縁」の悪さで表現するのです。劇中では「悪縁」という言葉が頻出します。悪い人とはいえ、自分がこんなことしかできないのは、悪縁のせいであって、楽しくてやっているのではないし、こんなことしかできないことで自分自身も傷ついているのだと、心情を吐露する場面がよく出てきます。

 このように、悪い人の心の葛藤を描くことでストーリーに深みが出て、見ている側もほっとすることができるのです。そして、その気持ちを汲んでかどうかはわかりませんが、いい人の反撃で追い詰められた悪い人に、いい人が改心するチャンスを与えるのです。

 このシーンは、現代劇、時代劇問わず見られるもので、韓国ドラマにおける普遍的な描写と言えると思います。それも、一度だけでなく、複数回のチャンスを悪い人に与えるのです。

 しかし、悪い人はいい人の気持ちを知ってか知らずか行動を改めることができずに破滅の道をたどるのです。時代劇なら死罪で毒を仰ぐ直前にいい人側の登場人物と悪い人の対面があり、現代劇なら刑務所か拘置所の鉄格子越しの対面になるのです。

 いい人はそんな風にして悪い人を許そう(赦し)とするのですが、悪い人はその気持ちに応えることができずに終わります。まるで、それが悪い人の業であるかのように。

 ただ、すべての悪い人がそのようにして破滅するわけではありません。悪い人の中には、仲間から裏切られトカゲのしっぽ切りで切り捨てられる人物がいます。その人物は、いい人たちの思いやりある許しを受け入れ、改心して今度はいい人の仲間になって悪いひとを追い詰める側に回ります。

 このいい人の許しと悪い人の改心という場面は、ドラマの中のこととはいえ何度見ても自分の心が救われる思いがするものです。これは、一種の快感で中毒性があり韓国ドラマ中毒になる原因でもあるのです

 以上、長々と大げさな感じで書いてきましたが、韓国ドラマの中のこのような描写の構成はすべての韓国ドラマに普遍的なものであり、それが魅力となっていることは間違いないと思います。

 つらい思い、せつない思いを追体験するのはしんどいことですが、今回述べたことが韓国ドラマの真骨頂と言える部分なので、そこに自らの身を委ねて心からドラマを楽しむのも悪いことではないと思います。


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