で描かれたマンガ 「美味しんぼ」 の鼻血 の描写
が世間を騒がす問題となりました。
「風評被害を助長する」 と被災地
などから抗議の声が上がり、現政府の閣僚が記者会見で
相次いで批判をし、福島県双葉町や大阪市などが抗議文
を提出、県知事も抗議声明を発表したとのことですが …
内閣を構成する大臣から地方自治体の首長や議員まで
が、たかが「鼻血」ごときで慌てふためくさまを見てしまった
ことは、日本国民としてどう考えたらいいのでしょうか
それだけ、福島の現状に自信が持てないことの裏返し的
な反応ではないかと勘ぐってしまいそうなうろたえようです。
国内では原発に対する評価が二分され、再稼動の是非
が裁判で争われるような環境下にあっては、表現者の自由
なパフォーマンス能力よりも、全方位に目配りをするような
慎重さと的確な判断力や影響力に対する配慮にこそ、より
重点が置かれるべきとの意見の方が優勢な気配ですが …
そこで、今回は、
賛否両論噴出の「『美味しんぼ』鼻血事件」
について考えてみたいと思います
まずは 「美味しんぼ」 の鼻血描写は本当に真実を
描いているのか という点に関してですが、騒動の発端は
同作品内で、福島第1原発を訪れた主人公たちが取材後
に“原因不明”の鼻血を流すシーンがあり、第1原発のある
双葉町の前町長が「鼻血はよくあることで、福島では同じ
症状の人が大勢いますよ」 と発言したことが問題に火を
つけ油を注いだとされています。
しかも、翌週号で前町長は、
その原因 を「被曝したからですよ」 と語り、
さらに騒動を大きくさせたわけです
掲載した「週刊ビッグコミックスピリッツ」(小学館)は、
「編集部の見解」 として、残留放射性物質や低線量被曝の
影響についてあらためて 「問題提起」 をするために
作品を掲載したと説明し、「表現のあり方について今一度
見直す」 として、19日発売の最新号では 放射線の専門家
や地元自治体などから寄せられた「事実と異なる」
との批判や、「事実を大切にし、きちんとした視点の企画」
であるとする支持派の識者の意見など 賛否両論 の
記事を10ページにわたって特集し、総括としていますが …
そもそも、この騒動が、さほど問題とされずに大した物議
を醸(かも)すこともなかったと想定した場合には、編集部
の意図する「問題提起」にはなり得なかったということ
で、大失敗の企画倒れということになります。
その意味からも原作者を含めて、企画・編集の段階から
の「確信犯」 であるということは否めません
但し、これほどまでのしっぺ返しを食らうことになろうとは
出版社も想定していなかったのだろうことは 「ある程度の
反発はおり込み済みだったが、ここまで騒ぎになるとは
思わなかった」 という原作者のブログでの率直なコメントに
如実にあらわれていると思われます。
そこで、果たして 真実 はどうなのか というと …
抗議文では、「原因不明の鼻血を出している町民が大勢
いるという事実はなく、こうした描写はいたずらに風評被害
を生じさせ、福島県民への差別につながる」 と厳しく批判
する内容が書かれています。
また、
「風評被害を呼ぶことがあれば、あってはならないこと」と
して、専門家によって 「原発事故と鼻血に因果関係がない
と既に評価されており、描写が何を意図しているのか全く
理解できない」と石原伸晃環境相がコメントをし、環境省も
ホームページを通じて「福島第1原発事故の放射能被曝が
原因で、住民に鼻血が多発しているとは考えられません」
としています。
放射能の健康への影響調査や除染などを所管する同省
としては当然の対応ですが、大臣が理解できないと述べた
鼻血の意図は 「問題の提起」 であると小学館側は
言っているわけで、「鼻血や疲労感の表現は、綿密な取材
に基づき、作者の表現を尊重したものだと応じています。
原作者の雁屋哲氏も 「福島を2年かけて取材をして、
しっかりとすくい取った 真実 を ありのままに 書くことが
どうして批判 されなければならないのか」 と疑問を呈し
「真実には目をつぶり、誰かさんたちに都合の良い嘘 を
書けというのだろうか」 と敵対する何者かを指し示して
「私は真実しか書けない」 と反論しています。
これでは、ますます 「キナ臭い」 と申し上げるより
ほかには言いようがないのですが …
そうした恣意的な意図が働いていたとしても、おそらくは
作者が2年間かけて取材した結果が、あの描写であって、
作者にとっての真実の姿があの作品のなかに凝縮されて
いるということなのでしょう。
作者自身もブログで 「内容についての責任は全て私に
あります」 と綴っている以上、内容に誤りがあれば責任を
取るということなのだと思います。
ただ、彼の取材がどこまで公平無私で虚心坦懐なもので
あったかについては疑問の余地が残ります。
「問題提起」が取材の前提にあって、その根底には
放射能汚染 や低線量被曝 による健康への影響に対する
一定の疑念がある限りにおいては、それがナイーブな情報
であればあるほど偏向していくのは自然の流れです。
だとすれば、
何の先入観もわだかまりもなく、取材対象者の選別にも
偏りがなかったとは到底のことにして思えないというのが
現段階での結論です。
だからと言って、鼻血も健康被害もなく 「被害妄想」
や「気のせい」 だとして一笑に付すわけにもいかない
のがこの問題のやっかいなところなのです。
現実にさまざまな症状に悩み、健康に不安を抱えていて
も、そのことを口に出せない人々がいることも一方の事実
であり真実なのかもしれません。
この騒動に見るように、「物言えば唇寒し秋の風」 よりも
強烈な「風評被害を煽るような言質」に対するバッシングと
いう猛烈な逆風に曝されることは火を見るよりも明らかで、
皮肉にも今回、それが露呈される結果となったわけです。
実際には口をつむる以外に方法を持たないマイノリティー
の存在を無視しているのが現状であって、そのこと自体は
極めて危険な実態だといえるでしょう。
※ 「事故との因果関係が証明されないから」
※ 「専門家や有識者が否定しているから」
※ 「他人を不安にさせるのはよくないから」
※ 「ごく限られた少数の声や意見だから」
… と、一顧だにせずにスルーしても構わないというような
軽々しい問題ではないとは思うのですが …
作者がそうした強い信念を持って描いたマンガであると
いう以外は、それ以上でもそれ以下でもなく、その延長線
上で言えば、鼻血という極めて曖昧で微妙な症例を用いて
表現していることにさしたる抵抗感も違和感もありません。
これが、小保方問題のような事実と結果だけがモノをいう
科学論文ならいざ知らず、週刊マンガ雑誌での意見や見解
であって、仮に、原発事故の被害を想像させる内容の描写
や言説があったとしても、それは 日本国憲法で保障される
表現の自由や言論の自由の範疇でしょう。
むしろ、言説を封じ込めようとする政府の 挙動 と地元
の過剰防衛的な反駁にこそ違和感を覚えるわけです。
そして、なによりも問題なのは、ことさらに騒ぎを大きくして
風評を伝播させているメディアやマスコミの存在です。
主人公たちの鼻血のイメージばかりをネットで拡散したり
、騒動の一面をマスコミが偏向報道することこそが、状況を
悪化させ、福島を貶めることになるわけで、それこそが最大
の風評被害だとも言えるわけです。
それが、マスコミの性(さが)であり、業(ごう)でもあると
言ってしまえばそれっきりですが …
そこで、
だから結局のところ 真実 はどうなのかと訊かれても
医師や専門家の間でもさまざまな意見があって、健康への
影響があるともないとも 「よく分からない」 という
結論 に落ち着くしかないわけです。
鼻血が出たのは真実だとしても、その原因が被曝による
ものなのかどうかは分かりません。
『愚者の行進なのか?』 と題する 2号の
エントリーのなかで、
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/269.html 参照
「放射能による健康被害には、『これぞ正しい』 と
いう確実なデータは存在しません。 ならば(現状において
危険な被曝量は推定できるとしても …)安全な被曝量など
はない」 と書いています。
カッコ内は補足加筆したものですが、この場合に自然界
に存在する放射線については言及していません。
なぜなら、放射線に曝されなければ人間はもっと長生き
出来るという可能性を否定できないからです。
その意味では、2号の意見は一定の説得力を持つもの
ではあるのですが、現実を生きる私たちには何の助けにも
なりません
要は、これが限界なのです。
医者も科学者も専門家も100%の断定は出来ません。
確度は限りなく低いものであったとしても、低線量被曝で
鼻血は生じないという100%の証明は不可能なのです。
つまり、断定も証明も出来ない問題で 不毛な戦い
を繰り広げているというわけです。
怪しい 『都市伝説』 を紹介した後に、よく使われる
「信じるか、信じないかは、アナタ次第です」
というフレーズがありますが …
取捨選択するのは誰でもありません。
「それはアナタですよ」
と言っているわけで、マスメディアから垂れ流される情報
の価値を判断するメディアリテラシー(情報読解力)を問う
意味での前回の 『知る義務と知らない権利』
とも密接に関連する事柄でもありますが …
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/360.html 参照
いずれにしても、多くの情報から、何が正しくて何が正しく
ないのか、果たして信じるに足る内容なのか否か、といった
玉石混淆たる情報の中から、単なる石ころと宝石とを選別
する能力が求められる時代になったのだということです。
そこで、放射能測定について言えば、
これは〇〇ベクレルだとか、それは〇〇シーベルトだった
とかの数値に一喜一憂するのは不確実性が支配する現在
においては実質的に無意味だと心得るべきでしょう
はい、出たベクレル じゃなかった
ハイゼンベルクの不確定性原理 よりも、
ずっとずっと不確実なのですから …
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