心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書き付くれば
あやしゅうこそ、ものぐるおしけれ …
( 暇にまかせて、一日中パソコンに向かい心に浮かぶ
とりとめもないことをなんとなく書き連ねていると不思議と
夢中になり我を忘れてしまうのです…)
現代版仕様の 『徒然草』 (吉田兼好) …、
それが <透明人間たちの気まぐれ日記> なのです。
ところで …
イソップの 『アリとセミ(キリギリス)の物語』 も、
突き詰めてしまえば、
「ゆく河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず」
という 『徒然草』 と同時代(中世日本)の代表的な随筆
『方丈記』 (鴨長明)の一節が 端的 に表現している
ような <無常観> を背景にして「生きるとは何か
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、「人はどう生きるべきなのか
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に発している物語だったのです。
そのためには、アリ たちの共演者は、絶対に セミ で
なくてはならなかったのですが、伝播していく過程において
定着してしまった キリギリス というキャラクター
のイメージが先行してしまい物語のフィナーレを何とも危うく
怪しいものにしてしまったことは重ね重ねにも残念であった
と言わなければなりません。
先に、世の中の仕組みを 八百長レース という
かたちで説いているのが 『ウサギとカメ』 の物語で、
個々の自由な選択と自己責任による自主・自助的な生き方
を示唆するのが、『アリとセミ(キリギリス)』 の物語
なのだと書きましたが …、
「これから先、自分たちはどうなるのだろう
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不安感に苛(さいな)まれ、一寸先の未来さえも見通しにくい
今の時代をどのように生きればいいのかと苦悩する現代人
に、イソップは アリ の口を通して 「夏に歌っていたなら、
冬には踊っていればいい」 と言わせてみせたのです。
つまり、それは 皮肉 でもなんでもなく、
「この世の中は、明日がわからないからこそ、素晴らしく
面白いのだ」 という予定調和的な人生や安定を捨て去って
自分らしく楽しく愉快に生きることをすすめる話だからです。
「大安心」 も 「大丈夫」 も、用意されているものではなく
自分の心のうちにしかないのだから、世間に縛られること
なく自由な心根を持って楽しく生きようとするものなのです。
<ワーキングプア川柳> にも見られるように
「働けど じっと手を見る 暇もなし」 と嘆き
、つぶやくような、それこそが、働きアリである非正規雇用の
人たちの風刺は憐れで哀しいものです。
でも、正社員ならば、あるいは、安定した雇用に恵まれて
いれば、それだけで本当に幸せなのでしょうか
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たとえば、『アリとセミの物語 <7>』 のなかで、
一匹のアリ が巣穴を守ろうと、賢者の足に咬みついたが
為に、近くにいたすべてのアリ という アリ が無残にも
踏み潰されてしまったという アリ にとっては甚だ不条理で
悲惨な出来事も、人間にとっては賢者とされるような者でも、
とかくありがちな取るに足らない行為であって、船を沈めた
神の審判に対して不服を唱えるなどおこがましい限りである
とする 『賢者とアリたちとマーキュリー神』
という話を思い出して欲しいのです。
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戦乱のさなかにいなくとも、人はいつ死ぬかわからず、
明日がどうなるのかもわかりません。
突然の天変地異による災害に襲われるかもしれないし、
不慮の事故や病気に見舞われるかもしれません。
<無常観> というと、『平家物語』 の冒頭で
詠まれる 「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」 の
音韻が連想させるのか、どこか投げやりで主体性に欠けた
消極的な生き方をイメージしますが、『アリとセミ』 の
物語に漂う <無常観> は、「未来のことは誰にも
わからないのだから、今を大切に楽しく生きよう」 とする
セミ に投げかけられた アリ からの侮蔑を装ったかたち
での応援 メッセージ にあると同時に、前向きで積極的
な アドバイス でもあったのです。
「夏に歌っていたのなら、冬には踊っていればいい」
そうです。 冬には 踊れば いいのです。
仮に、勉学に励み、いかに能力の高い努力家であった
としても、自力で道を切り開けないことは多々あります。
正規の社員として採用され、安定した収入が得られたと
しても、それだけで一生が保障されるわけではありません。
社内の出世争いや派閥抗争に巻き込まれたり、突然の
社会情勢の変革や経済状況の変化によって企業倒産の
憂き目に遭ったりするかもしれません。
そもそも、出世や名誉や成功といった勲章は
本当に大切なものなのでしょうか
そして、 巷でよく言われるような
「今日より明日が良くなる」 という夢を信じる
ことは、果たして本当に意味のあることなのでしょうか
一体全体、何をもって、昨日 や 今日 や 明日 の
良し悪しを比較するというのでしょうか
夢 と言えば、『邯鄲の夢』 や 『胡蝶の夢』
といった故事や説話が思い出されます。
―― 『邯鄲の夢』 (黄粱一炊の夢) ――
出世を望んで邯鄲(かんたん)の都にやって来た青年の
盧生(ろせい)は、栄耀栄華が思いのままになるという枕を
呂翁という道士から借りて仮寝をすると栄枯盛衰の半世紀
に渡る長い人生を夢に見たが、目覚めてみれば眠る前に
蒸していた黄粱(こうりょう)がまだ蒸し上がってもいない。
すべては束の間の出来事だったという唐の沈既済の小説
『枕中記』にあるもので、栄枯盛衰のはかなさを喩える故事
として、「邯鄲の夢」のほかにも、「一炊の夢」、「黄粱の夢」、
「邯鄲の枕」、「盧生の夢」などの言葉が生まれています。
詳しくは、
![exclamation](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ap/exclamation.png)
―― 『胡蝶の夢』 (
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昔のこと荘周(荘子)は夢の中で胡蝶となっていました。
嬉々として胡蝶になりきっていたのです。
愉快で楽しくて心ゆくまでひらひらと舞っていたのですが
自分が荘周であることは全く念頭にはありませんでした。
ハッと目が覚めると、なんと自分は荘周ではないか
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はて、荘周である私が夢の中で胡蝶になっていたのか、
実は、自分は胡蝶であって、いま、夢を見て荘周となって
いるのか、いずれが本当なのか 私にはわからない。
荘周と胡蝶とは形の上で区別があるが、主体としての
自分には変わりはなく、これが物の変化ということなのか。
この説話は、無為自然、一切斉同という 荘子 の考え方
が顕著に現れていて、荘周、胡蝶のいずれが真の姿なのか
が問題ではなく、いずれも真実であり、己自身であることに
変わりはないのです。
清と濁、是と非、正と邪、善と悪、生と死などの対立構図に
<夢と現実>があります。
いずれが真実であるかを論ずることよりも、そのいずれを
も肯定して、それぞれの姿で楽しく生きればいいのです。
そうですよね。
「夏に歌っていたなら、それこそ
冬には踊っていればいいのさ」
とばかりに、腹を括(くく)る ことさえできれば、別に
どうってことはないのです。
覚悟を決めるという意味での <腹を括る> という
言葉にしても、<腹を据える> と<高を括る> の混同に
よるもので、比較的最近(インターネットによると昭和51年の
夏の甲子園大会)から使われ始め、いつしか歴(れっき)と
した日本語としてまかり通っているようですし、結局のところ
「何が正しくて、何が間違っている」 などと、いちいち目くじら
を立てるから、ややこしく生きづらい世の中になるのであって
もっと前向きに 「
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いいのです。
<歴(れっき)>とした日本語の用法についても …、
漢字変換では、<列記とした> としか変換されないこと
から、今では普通に <列記とした> と表記する文章を
よく見かけますが、いずれ彼(か)の日には、誤記や誤用の
謗(そし)りもなくなるのかもしれません。
「ゆく河の流れは絶えずして、
しかも、もとの水にあらず」
しかして …
「万物は絶えざる変化を繰り返すものですが、その実では、
本質において何ら変わらない」 という荘子の 万物斉同
の世界で遊んでみるのも一興かもしれませんよ
あるがままに、みんながみんな本質では同じなんですから
老子 も 荘子 も イソップ も …
アリ でも セミ でも キリギリス でも …
そして、
私 も 皆さん も 世界中 の人々も …
すべては心の持ちようなのですよ …。
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これにて、一応 の 完結 です