透明人間たちのひとりごと

アリとセミの物語 <10>

 激震に揺れつづけたまま、きょうで、まるまる一週間になる
大相撲の八百長問題 ですが …、

 「何を、いまさらexclamation2」 という意味合いでは、東京都知事の
石原慎太郎氏と同じ心境です。

 せっかく、イソップが 『ウサギとカメ』 の話のなかで

「世の中は見事な嘘で成り立っている」

 だから、

 「真実を見抜く目と耳を持ちなさいexclamation2

 ばかりに、八百長社会のカラクリを ウサギカメ
関係性をモチーフにして語ってくれたというのに …、

 世間では ウサギ の油断を諫(いさ)める話であるとか、
弛(たゆ)まぬ カメ の努力の結果が身を結ぶ話、つまり、
<継続は力なり>であるとか、いかにも優等生的
な解釈ばかりがまかり通ってしまいました。

 このことについては 『ウサギとカメの物語 <1>~<7>』 を
参考にしてください。

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/195.html(参照)

 そんなイソップにいたっては、ウサギカメ
熱演も空しいかぎりで、引喩失義 の憂き目を嘆いて
いるだろうことは三国志の諸葛孔明とて同様でしょう。

 … というような言い回しの方法も、女性の化粧と同じで、
見方を変えれば広義での八百長 の一種なのです。 

 詭弁も、女性も、関取も、化粧とまわしは欠かせません。

 煙に巻くような言い回しも、メイクアップも、化粧まわしも
大袈裟なほど効果的なのですから …。

 まぁ、それはともかくも、

 八百長とは本来、勝負事に限っての隠喩ですが、インチキ
、ごまかしという点では 羊頭狗肉 などと同義でしょう。

 その意味からは、政治 も見事に八百長 なのです。

 『アリとセミの物語』 のスタートとなる <1> のなか
で、18 までの8通りの推理をした海上保安庁の巡視船
と中国漁船との衝突の瞬間を撮影したビデオ映像の投稿名
(ハンドルネーム)<sengoku 38> の謎について …

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/218.html(参照)

 前回の <9> で、5号 が、0910 とあらたに2つの
可能性を示唆していたので、ついでに、その 11 番目として
<sengoku>を並べ替えてみると<gokusen>
となります。

 <gokusen 38> right 『ごくせん』 の第38話を
見ると、冒頭でヤンクミが …
 
 「全部、人任せexclamation2  自分の力で何も
 してないじゃないかexclamation2
 と叫んでいます。

 これが犯人である元海上保安官の日本の防衛に対する
メッセージではないのかと ツイッター にあったので
ここでは、11 番目の解釈として紹介しておきます。

exclamation http://twitter.com/usamarus2001/status/822835056480258(参照)

 ところで、

 この言葉は 『アリとセミキリギリス のラストシーン
で、いみじくも最後に アリセミキリギリス)に向かって
叫びたかった言葉でもあるのです。

 つまり、イソップは、

 <何でも人任せにして、自分では何もしない> 時代が
来ることを予知していたのです。

 <他人任せで、自分では何もしない>
時代 とは、老子の云う 《機心》 right (機械に依存して
機械の虜となり人間本来に備わっていたさまざまな力を失う
ことになる機械依存症)に犯される時代、つまり、百害あって
一利しかないような現代社会をさしているのです。

 荘子の天地篇(第十二)に反機械論的な話があります。

 子貢が旅の途中に畑仕事をするひとりの老人と出会った。

 手仕事で、いかにも能率が悪そうなのを見かねた子貢は
「ハネツルベを使わないのですかquestion2 ハネツルベを使えば、
流れるように水が汲めて、一日に百畝(うね)は水を撒くこと
ができますよ」 と言った。

 「わしは師匠から、『 機械を使う者は、必ず機事がある。
機事がある者は、必ず機心がある。 機心が胸中に存在
すると純白な心がなくなり、精神の本性が定まらなくなる 』
と習った。 だから、わしはハネツルベを知らないわけでは
ないが、使わないのだ」 と答えたとあります。

 便利な機械を持っている者は、機械を利用する手段として
多種多様な仕事を生み出すことにより、さらに機械に頼る心
が増幅されてしまいます。
 
 機械に頼り依存するようになると自然なままの心のうちが
乱れ純白さが失われてくる right 自ら為すべき、あたりまえの
行動やチャレンジする精神あるいは自然とのふれあいから
生まれる心の安息といったものを失ってしまうのです。

 あえて、便利さを捨て去ることも、時には必要なのかも
しれませんね。

 この件(くだり)については、『便利すぎる不便さ(1)』 の
続篇としての (2) で、いずれ詳しく書こうかと思いますので
きょうは先に進みます。 

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/192.html(参照)

 <夏に歌っていたなら、冬には踊ればいい> という
アリ たちの言葉も同様です。

 セミキリギリス)は、夏のあいだ、怠けていたのではなく
エンターテイナー としてのショービジネス
行なっていたと解釈すべき言葉なのです。

 「僕らは怠けていたんじゃない。仕事で歌っていたんだ」
という セミキリギリス)の声が聞こえませんか

 なにせ 「働かざる者、食うべからず」 の世界
なのですから …

 でも、ちょっと待ってください。 

 <他人任せで、自分では何もしない>
ことと、「働かざる者、食うべからず」 とは、
矛盾しませんかquestion2

 夏のあいだに、アリのように働いて冬の準備をしなかった
からこそ セミキリギリス)は飢えて死んだのでしょう

 と、ツッコミ を入れたいアナタ !!  貴方ですよ

 ~く、考えてみてください。

 q1 アリの勤勉さは常に肯定されるべきものなのか
 q2 夏に歌い冬に踊る生き方は否定されるものなのか
 q3 セミ(キリギリス)が冬を生きることは不可能なのか

 <1>~<9>までに、2号 が提示した3つの疑問は、

 a1 絶対的な意味からも、常に肯定されるものではない
 a2 否定されるべき生き方であるとは断言できない
 a3 セミは論外だが、キリギリスにおいては可能である

 … という結論に達しています。

 12 に関して言えば、

 現代の日本人のように働きすぎて過労死しては、勤勉の
意味がありませんし、セミキリギリスに喩えられる
ショービジネスの世界は活況を呈していて、お隣の韓国から
Kポップ は全盛の極みですよね。

 3 に関しては、秋を待たずに死に絶えてしまったはずの
セミ が、なぜ冬まで生き延びていて、わざわざ アリ
ところに物乞いにやって来たのかeq という物語のなかの
最大の<謎>が残っているのですが …

 そのことについては、

 医学の進歩によって昔なら助からなかった命が救われる
ことで、寿命が格段に延びるようになった現代社会の姿
その反面にある厳しい競争社会から脱落した落伍者しての
ホームレス の存在などを、同時並行的に表現する
ための ストーリー として、夏の盛りに寿命をむかえる
セミ が秋を過ぎて、さらには、冬の真っ只中になってから
アリ の巣に物乞いに訪ねるというプロット(筋書き)が
採用 されたのだと思われるのです。

 物語をそのまま素直に見れば、冬の季節も心豊かに安心
して生きられるための社会保障制度必要性
説いている話であると言えなくもありませんが …。

 そうであれば、アリ の慈善に頼らずに済んだでしょうし、
セミキリギリス)らしく平穏に暮らせたのでしょうにね。

 つまり、イソップが アリセミキリギリス)に託した
予言が見事に現代に成就 したと言えなくもないのです。

 次回は、『アリとセミキリギリスの物語』
一応の 完結篇 を予定しています。

 ところで、

 大相撲の 八百長事件 も、十両以上の関取である
セミキリギリス)たちの寿命を必死に延ばそうと画策した
茶番劇のようなものです。

 イソップならば、この 失態劇 を果たして …

 どう 書く かい(角界) なんちゃって

コメント一覧

むらさき納言
すべて2号さんのシナリオによるものと思われます。

もちろん、依頼を受けて1号さんなり、5号さんが投稿している可能性もありますが・・・
江戸川ドイル
確かに5号さんの確率は高いが、1号さんかもしれないし、2号さんの自作自演もあり得る。
刑事プリオ
この記事を読み、現在進行中の『ダ・ヴィンチの罠』にある3番目の使者とされている“チルネヤン3288”なる投稿者名と“sengoku38”のあいだに共通する要素が見つかることが分かった。

アナグラムと数字の意味づけである。

よって、誰かの予想通りに、透明人間さんたちのいずれかがメッセンジャーになっているものと想定される。

この記事は1号さんだが、ひとつ前の記事を書いた5号さんが本命だと思うが・・・
エレキテル
「sengoku38、八百長、謎」でググったら、10番目にあったのがここだった。

イソップがらみの「アリとセミの話」も、老子の「機心」も、今更ながら胸に響く。

響くというより少し胸に痛いかも、コロナ禍での在宅ワーク(テレワーク)を今後も継続・推奨する動きがあるが、これも「機心」と言えば、「機心」である。

こうして、どんどん機械に依存していくのかもしれないが、その根源にある電気の存在を忘れてはならないと思う。
バカボンのパパのパパ
飛べ! わしはバカボンのパパのパパなのだぁ~!!

 思栄楠 非亜(シェークスピア)君よ!
思栄楠 非亜
なるほど、そう角界(書くかい)。

TO BE TO BE もっと飛べ! ここはロードス島だ!

… って、これじゃあ、イソップだね。
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