サブロー日記

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わらじを履いた関東軍

2006年07月03日 | Weblog
わらじを履いた関東軍  わらじを履いた関東軍
        昔々の日記 ○3サブロー日記06.7.1
昭和18 年3 月、全国から志願して集まった若者は一万人以上となった。これを受け入れ衣食住を与え、統率し、教育し、訓練をすることは並大抵のことではない。三郎達は、この内原義勇軍訓練所に入隊すると、そこにはあらかじめ、幹部訓練所で教育された。中隊長をはじめ幹部が待ち受けていた。また直接訓練を受ける小隊長は、われわれより一年先に入隊した隊員の中より、優秀な者を選び、一年間みっちり準幹部の教育をうけた人達であった。私たち第3小隊の隊長は隣村出身のkさんで、一つ違いの兄さんであった。またこの人はよくできた人で、母の手から離れたばかりの私達に、洗濯の仕方、繕い物の仕方、布団のたたみ方、ストーブの焚き方、教練は勿論、生活にかかわる物事すべてを教えてくれた。六十年たった今もこの小隊長の教えを私は生活のなかに生かしている。
 一万人以上の大世帯であるこの訓練所、何事も規模が大きい、よく蜆の味噌汁が出た。蜆は大きなトラックに山盛り、入って来る。まるで土砂扱いである。三郎は蜆と言うもの見たことも、食ったことも無かった。ところが訓練所では、その頃、盲腸炎が流行っていた。それは蜆の砂が盲腸炎を引き起こすのだと言う、うわさが流れた。同郷の梶本君も入院手術となり、三郎もそれ以来蜆を敬遠するようになった。いまでも蜆を見るとその事が頭をよぎる。ここで訓練所の食事メニューを紹介しておこう、食糧事情の悪い中、一万人の食料を調達するのは容易ではなかったであろうが、ここではとくに栄養、蛋白質、カロリーをやかましく言った。私達はカロリーってなに?といった感じであった。
 夕食の副食。  味噌40g煮干3g 甘藷100g黄粉15g砂糖8g 塩少々 漬物40g 主食は一日 7分搗米460g小麦粉250g  一日分の主食副食の合計は約、 蛋白質100g カロリー3、500であった。数字の上では充分満たされていた。
三郎達はまだ子供、甘いものに飢えていた。
ある週、三郎は、糧秣倉庫の当番を命ぜられた。倉庫といっても小学校ほどもある。そこら辺りには、大きな渡満支度倉庫、農具庫、兵器庫、佃煮部、製菓部、醸造課、饅頭部等の建物が居並んでいる。糧秣倉庫は二つ並んで建っていた。ここには穀物、野菜、調味料、その他なんでも山と積んで有る。ここに勤務すると、お目当ての砂糖が配給中に、ちょいと舐めれるのである。甘さに飢えている私達は、皆ここの当番になりたいのであるが、めったにはなれない。なったら友達から砂糖を掠めて来いとの要求がある。そのような慣例が有るからである。これは他人の物を盗むと言う行為であるが、どうしてか良心はこれを許す。親父は日の丸、これくらいの事は許されるだろう、みんなの公認のようなものである。 そのチャンスが来た。糧秣受領書を持って、東北弁の当番が、「山形00中隊糧秣授領に参りました」受領書を差し出す。それをチェクし、その物品、数量を渡す、ちょうど味噌、醤油、砂糖、揚げ油、塩と来た。隊友と顔を見合わせ、にんまり。てきぱきとこれをこなす。砂糖のところで、これ幸いと、かねて用意の紙袋をポケットから取り出し「これにもついでに?下さいよ」と独り言を言いながら小さなスコップで頂き、友の分も入れ、付近にあった根菜類のガゴが並んでいる合間に素早く隠した。これが役目であるとさえ思っていた。もちろん先輩や幹部の目も光っている。三郎の今やるべき最大の仕事は如何にこの砂糖を掠め取り、隊友達に持ち帰るかである。こんな事は、小隊長は教えてくれてない。
やがて長い一日が終わり展望哨から大太鼓、これに合わせてラッパが鳴り響く。一日中乱雑になった食品を整理しつつ宝物を隠した処に行って見ると、なんたる事ぞ、付近一帯醤油の臭いぷんぷん、昼間醤油を運び込む際その樽を落としたと見え、醤油の海となっていたのであろう。隠し場所まで浸水、カゴの根菜は無事でも、掌中にあったこの袋、今は無残にもあの真っ白い砂糖が、醤油色に溶けただれ、どうしようも無い姿に変わり果てていた。
それより数週間後、今度は同郷のi君と物品倉庫の当番となった。ここは広い訓練所の北の端、ここにも衣服倉庫をはじめもろもろの倉庫が建ち並んでいる。ここは第五歩哨の近くである。この歩哨所は倉庫群の中なので夜になると人けがさらに無く、歩哨線の外は深い松林が続いている。夜中になると直ぐ其処で、狐が寂しい声で鳴く、三郎この歩哨に立って狐の声をはじめて聞いた。池川も山奥であるが狐など見たことも無い、ただ狐は人を化かす、化かされた。の話はよく聞いたことがあったので、大変淋しい思いをした事とを今でも忘れられない。
さて倉庫の勤務であるが、糧秣と違って口に入るものは何も無い、木材、木炭、石炭、衣服の様なものであったが、ここで突然同僚のi君が気を失い、しゃがみこんだ。吃驚した。ここを仕切っている先輩が跳んで来て処置してくれた。原因は足に大きな、俗に言うネブトが出来ており、その中心部の膿の塊が剥げ落ちたので、そこに大きな穴が開いた。これを見たi君仰天したのであろう、
この先輩、「もう君たちは良いから中隊に帰れ、」「君はこの人をよく介護して帰りなさい」。と言う、三郎は戸惑った。介護、介護とは、i君はもう元の元気さである。「帰ります」二人は報告し帰り始めると、その先輩跳んで来て、介護とはこうするものだ。と、私を叱りながら、i君の腕を自分の首の後ろに回し、しっかり握り肩を鋤けるようにし、一方の手で相手の体を抱え込む。「これが介護と言うものだ。」と強く言い聞かされた。私は今もこの言葉、動作が忘れられない。今の社会、介護、介護の声がするが。本当に介護しなければならない人には、小手先の介護ではいけない、口先の介護ではいけない。肩をすけ腕を巻いての介護であってほしいと思う。      来月に続く、、、、



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