サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

草鞋を履いた関東軍

2010年12月14日 | Weblog

 草鞋を履いた関東軍       16        サブロー
 

2010. 12.  14
 訓練本部に着くと、早くも各中隊は集まり火事場のような騒ぎであった。この寧安大訓練所は私達広瀬中隊を含めて五中隊より編成されており、今はこの各中隊がそれぞれに牛馬をひき連れこの本部に集まって来たのである。やがて副所長から、「糧秣倉庫、衣服倉庫は解放してあるから各中隊は出来るだけ多くの食糧を積む事。又各隊員は食糧、衣服等持てるだけ持って行ってよし」。との事である。糧秣倉庫に行って見ると今までは支給の少なかったパンや砂糖、いろいろの食品が山と積まれているのだ。三郎のりュックは満杯だ。しかし此の砂糖がほしい、今まで大事にして来た三年間の日記帳も此処で破り捨て、中隊から持って来た飯ごうの米をも振り捨てて、この真っ白い砂糖の山へガバッと押し込み力らいっぱい詰め込んだ。又衣服倉庫にも行き、我々には支給されていなかった新調の外衣(コート)も羽織った。何と嬉しい事よ、まだまだほしい物が沢山あるのだがこれ以上背負えないだろうとあきらめる。
 この現状を見ると、やはり我々はこの訓練所を捨ててどこかに逃げるのだな?と思った。此の異変を聞きつけた近方の満人が手に手に袋や縄を提げて我々を遠巻きにし、我々の去るのを待っている。何とも惜しい事だがこの貴重な品々満人にくれてやらねばならない。
 やがて出発の集合ラッパ、副所長より種々の訓示は有ったがこれから何処に行くかも、その理由の話は無かった。馬上の栗田所長は陸軍少将の立派な軍装である。白い口髭、長い軍刀をぶら下げている。私達はこの所長のこの姿を誇らしげに思った。今までこの姿を見る事は無かった。うわさでは昭和維新?の二二六事件に関連し満州の果てに左遷されたのだと聞く。やがて出発、リュックにはいっぱいうまい物が詰まっている。皆まるで遠足に行くような気分であった。私たちの行く手は、後で分かった事だが、寧安から敦化-通化へ通ずる道。即ち、牡丹江から南満に通じる主要道路(悪路)であった。そして関東軍の、既定方針であった新京(長春)を頂点とし新京―図門。新京―大連の鉄道を防御線とし持久抗戦すると言う想定で、その線内へ、そして要塞が設けられていると言う鏡泊湖へと向かっていたのである。私達は2キロくらい、わいわいとお祭り気分で行軍していたのだが、だんだん重くなってくる背の物、銃に弾。不細工な防毒面。だんだんと口数が少なくなって来た。処が、 である。「あっ 中隊が燃えている」「あっ本部も燃えている」。ほんとだ。はるかに見える我が中隊が炎をあげ燃えている。また本部と思われる上空に黒煙。「満人に焼かれたのかな?」しかしそうではなかったのである。出発前私達に行李を集めさせていた官舎丸ごと、後に残った一隊が各中隊を廻って火をつけ敵に物資を利用されないためのことであった。これでやっと事の次第が分かってきた。ソ連が攻め込んで来たのである。そうだわれわれはソ連軍に追われているのだ。それで我々は逃げているのだ。そう言えば遥か遠く東京城あたりの空にも黒煙があがっている。 これは一大事、足元に火がついたとは此の事である。私達はこれ等の煙に追いたてられるようにし、行く手、長白山へと歩を早めた。この逃避行で気の毒なのは、わが中隊の藤野幹部の奥さんである。幹部が応召されて未だ間の無い今、奥さんは赤子を抱えての事である。当番の隊員は付いては居るが、行軍中のオシメの交換、授乳、まことに見るに忍びない有様であった。隊から遅れつつも母は強し、頑張っている。一行数百の隊員は夕方長白山系の山の入り口までたどり着いた。
 小高い稜線を幾つか越えてたどり着いた、其処はきれいな小川が流れている。まるで故郷の山川のような所であった。やがて隊長より「今日はここで露営だ!」此の声を待ちかねていた私達は思い思いの場所に我が陣をとり、休む間もなく夕餉の支度である。リュックには何でもある。これが盆と正月が一緒に来たとは此の事であろう、
米はある、砂糖はある、何でも有る。追われている身でありながら、明日を知らない私達は最高の晩餐であった。その夜ここまで運んで来た弾薬を焼却するので皆は出来るだけ窪地に寝るようにとの達しがあった。これからの険しい道、弾薬より食糧が大事と判断したのであろう、しかし各自の銃、弾薬はここに置いていくわけにはいかない。三郎は大きな一株の萩の根元に今夜のねぐらを構えた。
 三郎が満州へ行く事が決まったとき、母は家が恋しくなったらあの星を見よ と教えてもらったあの三ツ星の星座をさがしつつ深い眠りに沈んでいった。   つづく