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捏造(餌付け、ヤラセ)のない「本当の世界」の
写真を載せています。

カワセミ飛び立ち|こういうのは写し易い種類、なのだが...

2021年04月01日 | 野鳥・鳥類
元画像は、 何なら PCのデスクトップ背景サイズでも使えるが・・・
光の入り方が あまり良くないので、 通常対応で x x x
まぁ、 これでも 画素数的には L判に長辺一杯で高画質印刷できる目安に足りるサイズ。



これまでにも書いている類の話ながら...

カワセミは、 体形の特徴の1つとして 脚がとても短いので、 歩く動作には不向き。
だから、 ごく短い距離では とても小さな歩幅での 急にスライドしたようにも見える動きで素早く歩くことはあるものの、 ほんの近い距離でも 殆どは いちいち飛んで移動するので、 飛び立ちの機会が多くあって、 予測も かなり容易。
動き出しも、 強く蹴り出せないから?なのか、 「小さい鳥としては」の条件内では 破格の超スローモーション。
周囲の余白的な空間が そう広くはないスケールで狙っていても、 動き出したのを見てからレリーズするとか その後の動きを追いながら写すとか “普通”にやるだけで間に合ってしまうのは、 似た大きさの 他種の鳥とは 感覚が違いすぎる 独特の世界。

この特徴から、 こういう画は 「 回数が多い × 予測し易い × 難度が低め = たくさん写せる 」。
ただし・・・
これは当然、 どこにでも 無数にいてしまう、 “ヤラセ枝”のような小細工の 幼児然とした『積み木自慢』をしていられる面々に荒らされずに済んで 自然な状況がある間は、だが。
そして、 この事情は、 ダイビングのシーンを狙うことでも同じ。
これは、 カワセミの行動を 少しでも見たことさえあれば、 初心者でも容易にわかるにすぎないこと。

当たり前すぎることだが、 鳥写真では、 被写体になる鳥がいて、 撮れる状況があるシーンしか写せない。
そして、 写っているものを文言に置き換えて 「○○(種名)が写っている」とか「○○(種名)が △△(行動)しているのが写っている」と表せば ありがたがられるものに当てはまらなくはない、というだけで 「良い写真の撮影に『成功』した」と はしゃいでいられるものではない。
何が どう写っていても、 距離が遠すぎても、 光が悪くても、 構図内の周囲や背景が悪くても、 ダメなものはダメで 使いものにならない。
だから、 写す価値がある状況が 良い条件では起きなくしてしまう迷惑な存在が居れば(来れば)、 他の誰もがまで 巻き添えにされて、 写したところで価値の低い写真しか 望めなくなる。

カワセミは、 遥か昔から 多くにありがたがられ、 多くが追いかけ回し続けている。
そのため、 本来なら写せる条件が良い場所は、 “ヤラセ枝”の『積み木自慢』に象徴される愚かな面々が 日々 通い続けては、 その集いでは優れているとして称え合うことが求められる 稚拙な写真しか写せないようにしてあげて 荒らし続けていることで、 (カワセミが写ってさえいれば喜んでいられる嗜好ではない意図での) カワセミを撮れる機会は なくなってしまっている。

それでも、 『積み木自慢』の面々の、 既知の撮影地の現場ですら 自身では 唯一のお目当てのカワセミがすぐ近くに来ていても気付けないから、 いつでも そもそもフィールドを見ることもせずに 皆でずっと 他の人が見つけるのを監視しているような能力では、 自力で 他にもカワセミが活動している場所を見つけることは 殆どできない。
だから、 ほんの最低限の知識さえあれば、 他の場所で 条件は良くなくても そこそこには写せる状況は見つけられる。
・・・のだが・・・
当然、 カワセミが目に前にいても見つけられない面々でも、 桁違いどころではなく遥かに大きい「人」は 見つけられるわけで・・・
そこも、 愚かな面々のネットワークが嗅ぎつけるのは 時間の問題で、 また徒党を組んで押しかけては、 いつものように荒らし回ってしまう。
なので、 労力を費やして新しい場所を探しても、 撮れるのは ほんの一瞬だけで、 すぐに お終い。

しかも、 割り込んで来る時には、 そのどれもが 揃いも揃って まず例外もなく、 少し離れた所に順次集結して 頭数【あたまかず】を多く揃えてから、 一斉に、 そして これも また 揃いも揃って 見事なまでの異口同音に
(標準語に近付けて表すと)
「アンタは、 今、 そこで撮ってるよ! アンタは そこで撮っていることに まだ気付いていないのを 私はちゃんとわかっているから“教えてあげた”よ! △☆〇◇《 ←※ ここで ほぼ確実に 歓喜の奇声 x x x 》、 アンタが そこで“先”に撮っているのを “私が”“見つけて”“教えてあげる”ことに『成功』したのだから、 これで、 そこは 1週間前から“私が”自分でも気付かないうちに“先”に“見つけて”いたのを アンタに“教えてあげた”ことになった《 ←※ 単語を並べ替えた 作り替え x x x 》のを、 私はちゃんとわかっている! その証拠に、 アンタは そこで撮っていることに気付いていないのだから 先に来ることはできないということは、 アンタは そこにいるように見えていても 本当は まだ そこにいないことを 私はちゃんとわかっているから、 アンタは 私に教えてもらってから 私の後からそこに来たことを、 私はちゃんとわかっている!」
「そこは 1週間前から 私が先に見つけていたことを、 私はちゃんとわかっている! その証拠に、 そこは、 今も 私が先に撮っている《 ←※ まだ 自身が“そこ”に向かっている途中なのに... 》ことを 私はちゃんとわかっているから、 アンタは 私が撮っている場所に行きさえすれば 私がそこで 自分でも気付かないうちに撮影に『成功』していた良い写真と同じものが撮れると思って、 私の後を尾行て 私の後から来たことを、 私はちゃんとわかっている!」
という趣旨の、 あり得ようがない支離滅裂な文言を 大きなお声で口走り合い、 互いに 肯定し合いながら。

そんな滑稽すぎる妄想世界に暮らしている面々が 群れ集って 嬉々として押しかけてくる 気味悪すぎる行動に、 “人”としての接しようがあるのだろうか??
それでも、 そういう面々は、 どれだけ迷惑だろうと、 ご自由ご勝手に動かれてしまう状況に放たれていることを 直接的に規制したり処罰することは できないわけで・・・
だから、 そういう面々は どこにでも 常に無数にいてしまうので、 その、 僅か数パターン程度の、 個性でのバリエーションすらもなく 毎回毎回 どれもが 「1週間前から」 「私が先に」 「自分でも気付かないうちに『成功』していた」 「その証拠に」 など 細部までそっくり同じ 定型の妄想を繰り返し続けるだけの 非“人”的な言動で 何度となく 度々 纏わりつかれる気味悪さに いちいち困惑したりするような、 一般的には普通だろう感覚でいたのでは 鳥の写真を撮れる場所なんて無いのが現実。

でも、 これでは また他の場所を探すしかなくなるので、 条件が もっと悪い場所でしか・・・、 でも、そこも・・・

だから、 鳥の写真のスキルが高いほど、 カワセミを写す機会自体が 反比例的に少ないものだろう。

そのため、 自身こそが荒らし回り続けている現実とは あべこべに、
「カワセミが来る場所は、 全て 私が先に見つけて教えてあげていることを、 私はちゃんとわかっている」
「私が 他の皆にも優れた写真の撮影に『成功』できるようにしてあげていることを、 私はちゃんとわかっている」
などと喧伝している愚かな面々が 得意満面に仕切ってあげてしまっている『積み木自慢』の集いでは、 稚拙な写真を写しただけで “望み得る最も優れた写真の撮影にまでも『成功』している”などとして 称え合っていられるのが、 周囲と矛盾していないかのようにも見えることにもなるのだが・・・
それは、 周囲の「鳥の写真を撮っている人」からは隔絶されている“ムラ”(特定の嗜好の同類さんだけで集った 小さな世界)の中だけしか知らないからこその見え方。

そして、 これも ありがちな、 “ヤラセ撮影会”に通っていながら、 その集いでは想像もできない写真を撮れる人を知ると 「どこに行けば それが撮れるのか」を訊くのも、 “人”として接することが極めて困難な存在だからこその 関わりようがない言動。
どういう写真を写せるか、よりも、 幼児さながらの『積み木自慢』をする方が魅力的でいるからこそ 実際に その『積み木自慢』をできている幸せを 同類さん同士だけで喜んでいる面々は、 「どこに行けば撮れるのか」などと訊くこと自体が 完全な矛盾。
それとも、 もし、 “ヤラセ撮影会”に通っていながら、 より価値がある写真を撮りたいと思っている『つもり』でいるのなら、 自身が、 何でも、 明確に実在しようもなければ 当然 現に目の前にある実際とも全く違うお噺が あたかも現実かのように ちゃんとわかってしまった妄想を語り合い続けているだけにすぎないと気付くこともなく、 自身が望むような写真を わざわざ 撮れなくなるようにしてあげている、 もしくは、 そういう愚行を ありがたがって 群れ集い続けているのも、 どちらであれ 醜態ぶりは同等。

こういう事柄は、 そういう面々だけでなく、 その周囲の一般の人も、 話として聞く(教えてもらえる)機会が少ないかもしれない。
それは、 知的面で “人”としての 意味を持った会話など成立するはずもない面々には、 社会的なモラル感では、 迷惑を被っていても なお 周囲の方が 知的面に配慮した行動をするべきとされることで、 特に リアル世界での会話のような (いくら 文言として明示することを避けたとしても) 具体的な特定対象を直接的に指すことになる話題に挙げるのは 避けられるからのもの。

そして、 以前にも 他種の鳥でも書いているように、 鳥や 鳥の写真に関しては、 カワセミに限らず どの種類でも、 圧倒的大多数が語り合っているお話の あまりに多くは、 あまりに基本的すぎて初歩的すぎる 根本からの誤りや、 知的面での いわゆる“健常者”なら (鳥には門外漢でも 鳥の知識とは全く関係ない部分の 物事の道理として) 瞬時に 実在しようがないことがわかる 明らかな矛盾を延々と連ねた 馬鹿げた妄想が垂れ流されているのが、 残念な現実。
なおかつ、 当然といえば当然ながら、 自身をご都合良く祀り上げたお噺ほど ご機嫌よく ご熱心に押し売りに励まれるのは 想像に易いように、 あちこちのどこででも 多数が そっくり同じ内容のご自慢を繰り返し続けているお話、 そして、 より華々しく飾り付けられたお話ほど、 支離滅裂ぶりが重篤なものが 特に多い。
だから・・・
一般の周囲も、 “そういう集い”の面々が得意満面に教えてあげているご自慢を聞いて 他の人に そのまま教えてあげる 受け売りの知ったかぶりで得意げになっているのが ありがちだが、 それは、 自身が醜態を晒して (表には出されない内心では)嘲笑されているというような生易しいレベルでは済んでくれない、 もう 今更、 知的面での“健常者”として接してもらえることなど 永久に望めるはずもなくなる言動をしているのでは・・・


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