前記事の続き。
写真は、 エントリークラスレンズを 手持ち + 手振れ補正で写したもの。
こっちの分は、 トリミングしただけで 縮小なしのサイズ。
天王星食は まだ遠い。
普通の皆既月食に オマケ付き、といった感か。
感覚的には 天王星が 月に近付いて行っているように見えがちかも...
実際は、 月の方が近付いて行っている。
前記事からの続き。
月食前半から色々あったのだが・・・
また 別件の 「ピントが合わない」と。
ボディーは、 フルサイズの デジタル一眼レフ。
レンズは、 こちらの エントリークラスと比べれば、 実販価格では1桁違う高級タイプで 定番的モデルの 望遠ズーム。
AFでは 全部ピンボケになって、 MFでも だめなのだという。
一応、 AFの合焦位置の調節が出来ていて これまで使えていたレンズが 合わなくなった...んですよね?と 訊いてみると...
「そんなこと していない」
・・・ぇぇええ、 それが原因の可能性があるのでゎ・・・?
一眼レフのAFが「合焦した」と判断する位置は、 レンズとカメラの組み合わせ毎に バラつきがあるのが 現実。
これが合っていないと、 ピンボケになる条件では 何度やっても 同じような加減のピンボケばかりが続くことになる。
このズレる加減は、 レンズも ボディーも、 同じ型式でも 個体ごとに それぞれ違う。
実際、 同じ型のボディーを 新品購入と中古購入の2台を持っているが、 同じレンズでも それぞれの補正値は違う。
それも、 今回使っているズームでは、 広角~望遠で変化する傾向から違うように見える。
この調節は、 エントリークラスでも、高級モデルでも、もっと高価な大砲レンズでも、 実質 必須。
結果的に初期値位置のこともあるが、 それは、 そのボディーとレンズの組み合わせでの 単なる偶然。
この調節の設定値を見つける 具体的な作業手順は 色々あり得て、 それぞれ自分なりに、といったところ。
たとえば、 まだ 前ピン 後ピンの傾向もわからない状態からだと、
まずは、 調節できる範囲全域を 何段階かの等間隔に刻んだ補正値で写したコマを見比べて、 およその位置を推定...
次は、 その推定位置を中心にして 前後に刻む幅を半分位に狭めて写した数コマを見比べて、 また およその位置を推定...
その同じ作業の 刻む幅を 順次狭めて繰り返せば、 そのうち...
とか。
これは、 MFで ピント位置があっても 故意に大きく通りすぎてから、 往復する幅を狭めながら詰めていくイメージ。
でも、 実際には AFが 毎回正確に同じ位置には来なかったコマが混ざるので、 理屈ほど簡単ではないはず x x x
これを、 使うボディーと レンズやテレコンの類の組み合わせ全てでして 登録する。
この調節をせずに、 鮮明に写らないことを
「性能が悪いレンズだから」
「性能が悪いボディーだから」
「撮像センサーが小さい機種だから」
と思って 文句を言ったり 諦めているなら、 劇的に改善できる可能性もある項目。
同時に、 あれこれ買い替えたり 高級機に買い替えたからといって、 好結果になるとは限らない部分。
それでも、 ズームの全域でジャスピンにまでは、 できるとは限らない。
あるいは、 撮影距離によって違ってくることもありそう。
だから、 同じボディーとレンズでも、 望ましい設定は 意向次第で色々あり得て 一概には決まらない。
極端には、 鳥撮り主体なら、 望遠端に最適化して、 広角側が外れるのは諦めてまでも 望遠域の精度を なるべく高くする、とか。
このボディーとレンズでは、 ズーム全域の どこでも なるべくハズレを少なくする方針で設定してあった。
今回は、 そもそも写す予定ではなくて、 自分用の写真を写している意識自体が なかったので、 普段の設定のまま x x x
これを 望遠端の無限遠に最適化すれば、 もう一歩 鮮鋭に写っていた...のかもしれない。
で、 冒頭の「ピントが合わない」事案は・・・
AFではピンボケ、 MFも 現場での実績が ピントを合わせられる期待は低そう、となると、 突貫工事で AFを調節するしかない、か。
皆既食も後半かという時に、 その設定自体を知らないところへの 趣旨と操作の説明のところから、 調節を探ってみる事態に x x x
もう ナビする相手がいないので、 写すなら 自分用写真の写し方ができるように 状況が変わっているのだが・・・
気付いていない、というか、 なんとなく そのまま、で、 最後まで 手持ち + 手振れ補正のまま写していた x x x
いつものことながら、 アタマの切り替え、 アタマの回転が 遅い x x x
三脚を使って 手振れ補正 OFF で コマ数を多く写せば、 精度低めの手振れ補正での甘さがない分が 少し鮮明なコマがあったかも?
まぁ、 超高感度では、 低感度での レンズ本来の画質感には ならないけれど。
天王星食は、 正確な状況までは把握できていないのだが・・・
2~3コマずつの連写を 数秒間だけ 断続的に繰り返した。
・・・というか、 数回だけ繰り返していた記憶はある。
写したタイミングは、 直前コマから漠然と推測しつつも、 具体的な根拠はない、 ふんわりした、 半ば無意識のような感覚。
そろそろ 閉園時間に急かされるような気になる頃で、 充電式カイロも切れて 寒くなってくる。
映画や ドラマでなら こうなるよね的な、 いかにも よくできた、 色々なタイミングが ちょうど揃った感じ。
帰ろうか。
長居したものも、 欠けていく月を見ながら帰る予定が、 満月に戻っていく、に変わった程度。
とっても魅力的な人に接して、 こっそり役に立てていた時間を過ごせていたつもりで、 道中は 心温かく 楽しげな気分。
普段には まぁ全く感じられていない気分。
写したコマの確認をしたのは、 翌日。
時間進行は 左 → 右 へ。
偶然なのか、何なのか、 天王星が隠れていく途中のタイミングに掛かっていたように見える。
そもそもは 写すつもりもなかった自分が 写していた、という展開だった?
重ね重ねながら、 望遠機材としては超軽装の エントリークラスレンズを 手持ち + 手振れ補正で写せるとは 思っていなかった。
この結果になったのを知ってから 振り返ってみると、 寂しさもあって・・・
自分が これを写しても、 「ぁ、写ってたんだ」程度のこと。
でも・・・
もし、 前記事の“バッテリー切れの人”だったら・・・
自身が 自身のカメラで写した写真は、 他とは違う 特別なものだろう。
そこには、 他者の視点で他と比べての評価の優劣は、 そう重要ではない。
そして、 写したくて写すことに、 自身の知識ではできない部分に アシストを受けても、 立派に“自分が写した写真”だろう。
写る結果を良くさせるだけなら、 カメラの知識の差があるので、 何でも こちらが指示して写させる方が 簡単。
どこにでもいる 自称 優秀な指導者さんが、 定型を丸写しさせた 見せ掛けだけの好結果を並べさせるしかできないように・・・
でも、 そんな、 主観も主体性も思考もなく 体裁良い結果を拾わされるだけのロボットみたいな時間が 楽しいだろうか。
そして、 自分がシャッターを切ったというだけで、 「自分が写した」といえる“自分の写真”だろうか。
せっかく写すなら より良く写せた方が 対外的には見栄えが良くできても、 自身に大切なのは 写真の結果だけではないはず。
そもそも、 最初には訊かれたというだけで、 その後のことまでは頼まれてもいないのを 勝手に考えているだけの状況。
だから、 なるべく、 写したい時に写したところに、 特に必要なことや 訊かれたことには ナビするようにしたつもり。
上に書いた“ピントが合わない”さんの メッキ知識でのイマイチなご指導に靡いるのはわかっていても、 そのままにしていた。
たいていには 豪華な機材を使っている方が 知識も優れているように見えるのが 定番。
差といっても こちらの知識でならイマイチと判る軽度なら、 あちらなりに楽しくいる時間に介入するのは 筋違いだろう。
それで、 写せるのが、 他者からは不出来に見える 浅い部分月食だけに終わってしまうかもしれない。
それでも、 そこには、 その場のなりゆきも含めて 自身なりに写した“自分の写真”があるのだから、 それでいいと思っていた。
今でも、 ここまでは正しかったと信じているけれど・・・
考えていたのは、 写すことへの 技術的な部分と、 ナビするタイミングや 伝え方ばかり。
いずれバッテリー切れになるのは予測できていたのに、 その後のことは 全く考えていなかった。
あの時、 バッテリー切れになってから思い付いて、 このカメラで写せば、とは 少し言った... けれど・・・
あちらは 予備のSDカードは 持ってきていなかった。
あちらの使いかけのカードを 違う機種で使うのは、 万一トラブルが出たら...の心配で 薦められなかった。
でも、 こっちには予備のカードもあったし、 その時は思い付かなかったけれど 近所のコンビニでも買えたのかも。
そのカードを持ち帰れば、 その写真が 当日にも使えるコース。
それに、 当日は無理コースなら、 方法は 複数あり得ることは わかっていたのに・・・
写したからといって、 その時が 楽しいとか嬉しいとか、 SNSに載せる...とかで完結するだけで 充分。
それが 直接的や具体的な何かに繋がっていく必要なんて ないもの。
思い出として ずっと残り続ける必要なんて ないもの。
もし “いい所”は写せなくても、 それはそれで良かったこと。
というより、 こう写ることもあること自体を知らなくて、 天王星が隣接していくのが写せれば、 もう満点でいられただろう。
そこには、 この実際で 自分が写したことよりも、 100倍とか... たぶん もっともっととかの価値がある時間があった...はず。
それは、 自分にも、 この実際とは比べられない 楽しくて幸せな時間...だったはず。
あの時、 そこに進める方法に 手が掛かっていたのに・・・、 逃していた。
もっと早くから考えていれば 対応できていたかも・・・
いつものことながら、 アタマの切り替え、 アタマの回転が 遅い x x x
役に立てていたつもりでいたなんて、 何もわかっていなかっただけの 単なる勘違いさんだった x x x
その結果が、 このブログの1記事だけ、 もし 天王星食の途中に掛かっていなかったら、 この1記事自体も 無かった。
得られる最良でも、 逃したものとは 全く 釣り合っていない。
勿体ないことをしてしまっていたと 痛感する。
この実際は、 あの時、 その先に有り得た いくつかの未来の中で “一番つまらない所”に来てしまった、 そんな気分 x x x
写真は、 エントリークラスレンズを 手持ち + 手振れ補正で写したもの。
こっちの分は、 トリミングしただけで 縮小なしのサイズ。
天王星食は まだ遠い。
普通の皆既月食に オマケ付き、といった感か。
感覚的には 天王星が 月に近付いて行っているように見えがちかも...
実際は、 月の方が近付いて行っている。
前記事からの続き。
月食前半から色々あったのだが・・・
また 別件の 「ピントが合わない」と。
ボディーは、 フルサイズの デジタル一眼レフ。
レンズは、 こちらの エントリークラスと比べれば、 実販価格では1桁違う高級タイプで 定番的モデルの 望遠ズーム。
AFでは 全部ピンボケになって、 MFでも だめなのだという。
一応、 AFの合焦位置の調節が出来ていて これまで使えていたレンズが 合わなくなった...んですよね?と 訊いてみると...
「そんなこと していない」
・・・ぇぇええ、 それが原因の可能性があるのでゎ・・・?
一眼レフのAFが「合焦した」と判断する位置は、 レンズとカメラの組み合わせ毎に バラつきがあるのが 現実。
これが合っていないと、 ピンボケになる条件では 何度やっても 同じような加減のピンボケばかりが続くことになる。
このズレる加減は、 レンズも ボディーも、 同じ型式でも 個体ごとに それぞれ違う。
実際、 同じ型のボディーを 新品購入と中古購入の2台を持っているが、 同じレンズでも それぞれの補正値は違う。
それも、 今回使っているズームでは、 広角~望遠で変化する傾向から違うように見える。
この調節は、 エントリークラスでも、高級モデルでも、もっと高価な大砲レンズでも、 実質 必須。
結果的に初期値位置のこともあるが、 それは、 そのボディーとレンズの組み合わせでの 単なる偶然。
この調節の設定値を見つける 具体的な作業手順は 色々あり得て、 それぞれ自分なりに、といったところ。
たとえば、 まだ 前ピン 後ピンの傾向もわからない状態からだと、
まずは、 調節できる範囲全域を 何段階かの等間隔に刻んだ補正値で写したコマを見比べて、 およその位置を推定...
次は、 その推定位置を中心にして 前後に刻む幅を半分位に狭めて写した数コマを見比べて、 また およその位置を推定...
その同じ作業の 刻む幅を 順次狭めて繰り返せば、 そのうち...
とか。
これは、 MFで ピント位置があっても 故意に大きく通りすぎてから、 往復する幅を狭めながら詰めていくイメージ。
でも、 実際には AFが 毎回正確に同じ位置には来なかったコマが混ざるので、 理屈ほど簡単ではないはず x x x
これを、 使うボディーと レンズやテレコンの類の組み合わせ全てでして 登録する。
この調節をせずに、 鮮明に写らないことを
「性能が悪いレンズだから」
「性能が悪いボディーだから」
「撮像センサーが小さい機種だから」
と思って 文句を言ったり 諦めているなら、 劇的に改善できる可能性もある項目。
同時に、 あれこれ買い替えたり 高級機に買い替えたからといって、 好結果になるとは限らない部分。
それでも、 ズームの全域でジャスピンにまでは、 できるとは限らない。
あるいは、 撮影距離によって違ってくることもありそう。
だから、 同じボディーとレンズでも、 望ましい設定は 意向次第で色々あり得て 一概には決まらない。
極端には、 鳥撮り主体なら、 望遠端に最適化して、 広角側が外れるのは諦めてまでも 望遠域の精度を なるべく高くする、とか。
このボディーとレンズでは、 ズーム全域の どこでも なるべくハズレを少なくする方針で設定してあった。
今回は、 そもそも写す予定ではなくて、 自分用の写真を写している意識自体が なかったので、 普段の設定のまま x x x
これを 望遠端の無限遠に最適化すれば、 もう一歩 鮮鋭に写っていた...のかもしれない。
で、 冒頭の「ピントが合わない」事案は・・・
AFではピンボケ、 MFも 現場での実績が ピントを合わせられる期待は低そう、となると、 突貫工事で AFを調節するしかない、か。
皆既食も後半かという時に、 その設定自体を知らないところへの 趣旨と操作の説明のところから、 調節を探ってみる事態に x x x
もう ナビする相手がいないので、 写すなら 自分用写真の写し方ができるように 状況が変わっているのだが・・・
気付いていない、というか、 なんとなく そのまま、で、 最後まで 手持ち + 手振れ補正のまま写していた x x x
いつものことながら、 アタマの切り替え、 アタマの回転が 遅い x x x
三脚を使って 手振れ補正 OFF で コマ数を多く写せば、 精度低めの手振れ補正での甘さがない分が 少し鮮明なコマがあったかも?
まぁ、 超高感度では、 低感度での レンズ本来の画質感には ならないけれど。
天王星食は、 正確な状況までは把握できていないのだが・・・
2~3コマずつの連写を 数秒間だけ 断続的に繰り返した。
・・・というか、 数回だけ繰り返していた記憶はある。
写したタイミングは、 直前コマから漠然と推測しつつも、 具体的な根拠はない、 ふんわりした、 半ば無意識のような感覚。
そろそろ 閉園時間に急かされるような気になる頃で、 充電式カイロも切れて 寒くなってくる。
映画や ドラマでなら こうなるよね的な、 いかにも よくできた、 色々なタイミングが ちょうど揃った感じ。
帰ろうか。
長居したものも、 欠けていく月を見ながら帰る予定が、 満月に戻っていく、に変わった程度。
とっても魅力的な人に接して、 こっそり役に立てていた時間を過ごせていたつもりで、 道中は 心温かく 楽しげな気分。
普段には まぁ全く感じられていない気分。
写したコマの確認をしたのは、 翌日。
時間進行は 左 → 右 へ。
偶然なのか、何なのか、 天王星が隠れていく途中のタイミングに掛かっていたように見える。
そもそもは 写すつもりもなかった自分が 写していた、という展開だった?
重ね重ねながら、 望遠機材としては超軽装の エントリークラスレンズを 手持ち + 手振れ補正で写せるとは 思っていなかった。
この結果になったのを知ってから 振り返ってみると、 寂しさもあって・・・
自分が これを写しても、 「ぁ、写ってたんだ」程度のこと。
でも・・・
もし、 前記事の“バッテリー切れの人”だったら・・・
自身が 自身のカメラで写した写真は、 他とは違う 特別なものだろう。
そこには、 他者の視点で他と比べての評価の優劣は、 そう重要ではない。
そして、 写したくて写すことに、 自身の知識ではできない部分に アシストを受けても、 立派に“自分が写した写真”だろう。
写る結果を良くさせるだけなら、 カメラの知識の差があるので、 何でも こちらが指示して写させる方が 簡単。
どこにでもいる 自称 優秀な指導者さんが、 定型を丸写しさせた 見せ掛けだけの好結果を並べさせるしかできないように・・・
でも、 そんな、 主観も主体性も思考もなく 体裁良い結果を拾わされるだけのロボットみたいな時間が 楽しいだろうか。
そして、 自分がシャッターを切ったというだけで、 「自分が写した」といえる“自分の写真”だろうか。
せっかく写すなら より良く写せた方が 対外的には見栄えが良くできても、 自身に大切なのは 写真の結果だけではないはず。
そもそも、 最初には訊かれたというだけで、 その後のことまでは頼まれてもいないのを 勝手に考えているだけの状況。
だから、 なるべく、 写したい時に写したところに、 特に必要なことや 訊かれたことには ナビするようにしたつもり。
上に書いた“ピントが合わない”さんの メッキ知識でのイマイチなご指導に靡いるのはわかっていても、 そのままにしていた。
たいていには 豪華な機材を使っている方が 知識も優れているように見えるのが 定番。
差といっても こちらの知識でならイマイチと判る軽度なら、 あちらなりに楽しくいる時間に介入するのは 筋違いだろう。
それで、 写せるのが、 他者からは不出来に見える 浅い部分月食だけに終わってしまうかもしれない。
それでも、 そこには、 その場のなりゆきも含めて 自身なりに写した“自分の写真”があるのだから、 それでいいと思っていた。
今でも、 ここまでは正しかったと信じているけれど・・・
考えていたのは、 写すことへの 技術的な部分と、 ナビするタイミングや 伝え方ばかり。
いずれバッテリー切れになるのは予測できていたのに、 その後のことは 全く考えていなかった。
あの時、 バッテリー切れになってから思い付いて、 このカメラで写せば、とは 少し言った... けれど・・・
あちらは 予備のSDカードは 持ってきていなかった。
あちらの使いかけのカードを 違う機種で使うのは、 万一トラブルが出たら...の心配で 薦められなかった。
でも、 こっちには予備のカードもあったし、 その時は思い付かなかったけれど 近所のコンビニでも買えたのかも。
そのカードを持ち帰れば、 その写真が 当日にも使えるコース。
それに、 当日は無理コースなら、 方法は 複数あり得ることは わかっていたのに・・・
写したからといって、 その時が 楽しいとか嬉しいとか、 SNSに載せる...とかで完結するだけで 充分。
それが 直接的や具体的な何かに繋がっていく必要なんて ないもの。
思い出として ずっと残り続ける必要なんて ないもの。
もし “いい所”は写せなくても、 それはそれで良かったこと。
というより、 こう写ることもあること自体を知らなくて、 天王星が隣接していくのが写せれば、 もう満点でいられただろう。
そこには、 この実際で 自分が写したことよりも、 100倍とか... たぶん もっともっととかの価値がある時間があった...はず。
それは、 自分にも、 この実際とは比べられない 楽しくて幸せな時間...だったはず。
あの時、 そこに進める方法に 手が掛かっていたのに・・・、 逃していた。
もっと早くから考えていれば 対応できていたかも・・・
いつものことながら、 アタマの切り替え、 アタマの回転が 遅い x x x
役に立てていたつもりでいたなんて、 何もわかっていなかっただけの 単なる勘違いさんだった x x x
その結果が、 このブログの1記事だけ、 もし 天王星食の途中に掛かっていなかったら、 この1記事自体も 無かった。
得られる最良でも、 逃したものとは 全く 釣り合っていない。
勿体ないことをしてしまっていたと 痛感する。
この実際は、 あの時、 その先に有り得た いくつかの未来の中で “一番つまらない所”に来てしまった、 そんな気分 x x x
そもそも出掛けたのは、 月食前の「月の出」直後の撮影狙いで、 月食が始まる頃には 帰途につく想定、だったのだが・・・
ちょっとした状況で しばらく待ってみていたうちに、 月食が始まる頃になっていた。
すぐ近くで 望遠鏡を並べた“観察会”もあったので、 人が増えてきていた。
帰るか、もう少し残るか、と思っているところに、 「月がキレイに写せないのを どうすれば・・・」と訊かれる。
どうも、 露光オーバーになるのを、 月自体が解像するように写すには どうすれば、ということらしい。
カメラの設定を見ると、 露光モードは M でも、 ISO が AUTO。
周囲の暗い空に引っ張られた感度になって、 まだ明るい月は 超露光オーバーになっている状況か。
これは、 ISO を任意値に設定して、 写したいイメージに合うように 露光レベルを調節する。
一旦は解決・・・
でも、 食が進むと 月が暗くなっていくので、 順次 調節が必要だろう、が、 わかってなさそうで 通じ難そうな x x x
その使っているレンズは、 偶然、 今回も持って行っていて 直前まで使っていたものと 全く同モデル。
ここに載せる写真でも、 飛行機に、トンボに、と 結構使っている、 エントリークラスの望遠ズーム。
“望遠”とはいっても、 イメージよりも小さくしか見えていない月を そう大きく写せるほどのものではないのだが x x x
一般には、 遠くのものも大きく写せるレンズの感覚なのだろう。
エントリークラスレンズの手振れ補正は、 商品説明では 高級機種と同じ文言でも、 実際の性能には かなりの差がある。
ブレ易いシャッター速度域では、 極端な大ブレは減る代わりに、 レンズ本来の解像感のコマは 一切全く無くなる、といった感じ。
だから、 手ぶれ補正をアテにしたシャッター速度設定では、 最良のコマでも 鮮鋭さでは びみょ~な画しか写せなかったりする。
画質感に差が少ない範囲でなら、 撮影感度を上げて ブレないシャッター速度で写した方が 鮮明に写せることもある。
感度を抑えて 手振れ補正 OFF で 膨大に写しておいて、 後で結果OKのコマを探せば、が、 最良の結果を得る or 全滅 の撮影法。
そのうち、 今度は「シャッターが切れない」という。
AFが、 合焦すると AFロックされるモード(ONE SHOT とか S と表記されるモード)だった。
このモードでは、 カメラが「合焦した」と判断するまで シャッターが切れない設定になっているのが標準的。
カメラが ピントを合わせようとしても、 最終的な「合焦した」とは判断できずに、 測距不可扱いになっているかも?
カメラのAF性能は変えられない、 でも、 不確かなAFでも、 MFにするよりは 無難そう。
そのエントリークラスのボディーが AFモードのレリーズ設定を変えられるのか知らないので、 簡単な切り替えで・・・
カメラの合焦判断とは無関係にシャッターが切れる設定が標準的な、 連続的に AFし続けるモードに変えてみたら?
シャッターは切れて、 ピントも まぁ普通のようで、 強行突破的に 一応は解消。
また更に、 バッテリーが 残量警告が出るまで減っているのに、 交換するバッテリーを持ってきていないらしい、とも。
自分用の予備なら2つもあるが・・・、 一目瞭然で バッテリーの型が違うボディー。
狙い所の“赤い月”は まだまだ先。
カメラの知識の差で、 設定を探るテスト撮影は こっちがした方が早い。
なるべく無駄なコマで浪費しないで済むように、 カメラの設定を こっそりナビした方が良い?
夕方のうちの早めに撤収を想定していたので、 服は軽装気味・・・
でも、 服ほど嵩張らないので 両ポケットに入れてあった充電式カイロの一方が、 何十分か前に 意図せず ON になっていた。
前シーズンに充電してから、 夏季に自然放電した分で 残量が定かではない状態。
それなら 使ってから充電し直して今期に備えれば、と、 ついでに もう1つも ON にしてあったところ。
防寒には 心配は少なそうで、 そもそも 自分用の月食写真を撮りたい意向はなかったので、 ナビに徹していて構わない。
まだ 明るい部分は多いが、 手持ち + 手振れ補正で 皆既中の“赤銅色”状態を写せるのか、 テストしておきたいところ。
あまり堅剛なものではないながら、 三脚もあるが・・・
当然、 “まともな写真”と比べてしまえば、 ピント甘い、ブレてる、ノイズ酷い、 まぁ、 全面 アラの塊り状態、とはいえ・・・
エントリークラスレンズの手持ちで、 昔の感覚でなら“超望遠”扱いだった画角でも「一応それっぽく」は写せるみたい x x x
周囲の 天王星(左下)や、 もっと暗い星も いくつか写っている。
まだ 皆既には入っていないが、 ISOと シャッター速度の組み合わせでの ブレの出方を試してみる。
ボディーは違っても、 レンズは同じなので、 傾向は推測できるかも。
ノイズは少なくてもブレた画と、 ノイズが酷くてもブレは少ない画では、 どっちが良い?
ブレた写真しか写せなくても、 それはそれの思い出にはなるのだろう。
でも、 せっかくなら なるべくブレていない方が良いのでは。
世の中全体を見れば もっと鮮明な写真がたくさんあっても、 自分が写した写真は 価値観が違う世界。
コマ数を多くは撃てないのでは、 ノイズが酷くても それなりには見える画に当たる確率が高いだろう露光設定の方が良いはず。
シャッター速度を遅くするのは 1/30秒位までか?
それに、 天体は、 月の出を連写すると コマ毎に 月の位置が変わっているのがわかる位の 結構な速さで動いて見えている 動体。
それを追尾せずに 構図を固定して スローシャッターで写すと、 動きの分 流れた 被写体ブレになって写る。
天体を 望遠 + スローシャッターで 鮮明に写せるのは、 モータードライブ付き赤道儀での世界。
そこでも、 露光時間を長くして 感度を下げれば ノイズ感を抑えて 綺麗に写せる...ほど 単純な話ではない。
あちらも同じ露光設定にすれば 同じように写せて、 喜んでいる様子。
こういうのを見るのは、 こちらも 嬉しいとか、楽しい的な感覚と同時に、 好感での“羨ましい”みたいなものも・・・
自分が 写真を写して喜んだのは・・・、 もう ずいぶん無いな、とか 思ったり。
・・・ だったのだが、 色のイメージが違う・・・?、と。
保存形式が JPEG のようなので、 RAWと違って 撮影時の設定が重要。
カメラの設定一覧を見ると、 ホワイトバランス(WB)が AUTO。
普段使いでは無難な AUTO の設定も、 こういう 特殊性が強い撮影シーンでは 仇になりがち。
こちらと同じ 太陽光にすれば 改善して、 また喜んでいる様子。
・・・だったのだが・・・、 まだ違う・・・?
ボディーの機種が違えば 再現性自体も モニターの見え方も違って普通で、 それに、 同じ機種でも 個体差も・・・
ぁ、 実際、 設定が違っている?
設定項目を色々表示してみているモニターを見ていると、 ホワイトバランスの微調整が、 何故か 初期値ではないところに?
これを 初期値に戻して写す。
まぁ、 色や明るさは それぞれの好み次第の部分なのだが。
そして・・・、 その後、 本当にバッテリー切れに至る。
周囲から借りられる?かと思っても、 同じバッテリーの機種は・・・、 見渡してみた限りでは 無さそうで・・・
こっそりナビ気分も 終わり。
まだ明るい月でも AFが迷っていたのかも?のボディーが、 皆既中の暗い月に 最低限以上のピントを捉えてくれていただろうか?
それが 最低限以上には ブレずに写っていただろうか?
まぁ、 写真の結果が良ければ その方が喜べるだろうが・・・、 写せた結果だけが重要なのではないはず。
良くても 悪くても、 それはそれでのエピソードだったのだろう。
なんだかんだ...は まだ続く x x x
別件の、 だいぶ前から聞こえてはいた 「ピントが合わない」。
少し遠めから見たモニターでは たいして問題なさそうと思っていたので 気に留めなかったのだが・・・
・・・ これは 次回分で?
載せている写真は、 手持ちで撮っているので、 毎回 傾きが違っている。
前後コマと連続性がない場所にある星状の光は、 高感度撮影でのノイズ。 (または、 撮像センサーの同じ場所に常時出る輝点)
逆に、 ノイズリダクションで 実際にある星が 消えたり薄くなったりも しているかも?
月食は、 月の欠け方が変わっていくだけか、 月が星空の中を移動していくのを感じるかで、 見える世界観がずいぶん違ってくる。
ちょっとした状況で しばらく待ってみていたうちに、 月食が始まる頃になっていた。
すぐ近くで 望遠鏡を並べた“観察会”もあったので、 人が増えてきていた。
帰るか、もう少し残るか、と思っているところに、 「月がキレイに写せないのを どうすれば・・・」と訊かれる。
どうも、 露光オーバーになるのを、 月自体が解像するように写すには どうすれば、ということらしい。
カメラの設定を見ると、 露光モードは M でも、 ISO が AUTO。
周囲の暗い空に引っ張られた感度になって、 まだ明るい月は 超露光オーバーになっている状況か。
これは、 ISO を任意値に設定して、 写したいイメージに合うように 露光レベルを調節する。
一旦は解決・・・
でも、 食が進むと 月が暗くなっていくので、 順次 調節が必要だろう、が、 わかってなさそうで 通じ難そうな x x x
その使っているレンズは、 偶然、 今回も持って行っていて 直前まで使っていたものと 全く同モデル。
ここに載せる写真でも、 飛行機に、トンボに、と 結構使っている、 エントリークラスの望遠ズーム。
“望遠”とはいっても、 イメージよりも小さくしか見えていない月を そう大きく写せるほどのものではないのだが x x x
一般には、 遠くのものも大きく写せるレンズの感覚なのだろう。
エントリークラスレンズの手振れ補正は、 商品説明では 高級機種と同じ文言でも、 実際の性能には かなりの差がある。
ブレ易いシャッター速度域では、 極端な大ブレは減る代わりに、 レンズ本来の解像感のコマは 一切全く無くなる、といった感じ。
だから、 手ぶれ補正をアテにしたシャッター速度設定では、 最良のコマでも 鮮鋭さでは びみょ~な画しか写せなかったりする。
画質感に差が少ない範囲でなら、 撮影感度を上げて ブレないシャッター速度で写した方が 鮮明に写せることもある。
感度を抑えて 手振れ補正 OFF で 膨大に写しておいて、 後で結果OKのコマを探せば、が、 最良の結果を得る or 全滅 の撮影法。
そのうち、 今度は「シャッターが切れない」という。
AFが、 合焦すると AFロックされるモード(ONE SHOT とか S と表記されるモード)だった。
このモードでは、 カメラが「合焦した」と判断するまで シャッターが切れない設定になっているのが標準的。
カメラが ピントを合わせようとしても、 最終的な「合焦した」とは判断できずに、 測距不可扱いになっているかも?
カメラのAF性能は変えられない、 でも、 不確かなAFでも、 MFにするよりは 無難そう。
そのエントリークラスのボディーが AFモードのレリーズ設定を変えられるのか知らないので、 簡単な切り替えで・・・
カメラの合焦判断とは無関係にシャッターが切れる設定が標準的な、 連続的に AFし続けるモードに変えてみたら?
シャッターは切れて、 ピントも まぁ普通のようで、 強行突破的に 一応は解消。
また更に、 バッテリーが 残量警告が出るまで減っているのに、 交換するバッテリーを持ってきていないらしい、とも。
自分用の予備なら2つもあるが・・・、 一目瞭然で バッテリーの型が違うボディー。
狙い所の“赤い月”は まだまだ先。
カメラの知識の差で、 設定を探るテスト撮影は こっちがした方が早い。
なるべく無駄なコマで浪費しないで済むように、 カメラの設定を こっそりナビした方が良い?
夕方のうちの早めに撤収を想定していたので、 服は軽装気味・・・
でも、 服ほど嵩張らないので 両ポケットに入れてあった充電式カイロの一方が、 何十分か前に 意図せず ON になっていた。
前シーズンに充電してから、 夏季に自然放電した分で 残量が定かではない状態。
それなら 使ってから充電し直して今期に備えれば、と、 ついでに もう1つも ON にしてあったところ。
防寒には 心配は少なそうで、 そもそも 自分用の月食写真を撮りたい意向はなかったので、 ナビに徹していて構わない。
まだ 明るい部分は多いが、 手持ち + 手振れ補正で 皆既中の“赤銅色”状態を写せるのか、 テストしておきたいところ。
あまり堅剛なものではないながら、 三脚もあるが・・・
当然、 “まともな写真”と比べてしまえば、 ピント甘い、ブレてる、ノイズ酷い、 まぁ、 全面 アラの塊り状態、とはいえ・・・
エントリークラスレンズの手持ちで、 昔の感覚でなら“超望遠”扱いだった画角でも「一応それっぽく」は写せるみたい x x x
周囲の 天王星(左下)や、 もっと暗い星も いくつか写っている。
まだ 皆既には入っていないが、 ISOと シャッター速度の組み合わせでの ブレの出方を試してみる。
ボディーは違っても、 レンズは同じなので、 傾向は推測できるかも。
ノイズは少なくてもブレた画と、 ノイズが酷くてもブレは少ない画では、 どっちが良い?
ブレた写真しか写せなくても、 それはそれの思い出にはなるのだろう。
でも、 せっかくなら なるべくブレていない方が良いのでは。
世の中全体を見れば もっと鮮明な写真がたくさんあっても、 自分が写した写真は 価値観が違う世界。
コマ数を多くは撃てないのでは、 ノイズが酷くても それなりには見える画に当たる確率が高いだろう露光設定の方が良いはず。
シャッター速度を遅くするのは 1/30秒位までか?
それに、 天体は、 月の出を連写すると コマ毎に 月の位置が変わっているのがわかる位の 結構な速さで動いて見えている 動体。
それを追尾せずに 構図を固定して スローシャッターで写すと、 動きの分 流れた 被写体ブレになって写る。
天体を 望遠 + スローシャッターで 鮮明に写せるのは、 モータードライブ付き赤道儀での世界。
そこでも、 露光時間を長くして 感度を下げれば ノイズ感を抑えて 綺麗に写せる...ほど 単純な話ではない。
あちらも同じ露光設定にすれば 同じように写せて、 喜んでいる様子。
こういうのを見るのは、 こちらも 嬉しいとか、楽しい的な感覚と同時に、 好感での“羨ましい”みたいなものも・・・
自分が 写真を写して喜んだのは・・・、 もう ずいぶん無いな、とか 思ったり。
・・・ だったのだが、 色のイメージが違う・・・?、と。
保存形式が JPEG のようなので、 RAWと違って 撮影時の設定が重要。
カメラの設定一覧を見ると、 ホワイトバランス(WB)が AUTO。
普段使いでは無難な AUTO の設定も、 こういう 特殊性が強い撮影シーンでは 仇になりがち。
こちらと同じ 太陽光にすれば 改善して、 また喜んでいる様子。
・・・だったのだが・・・、 まだ違う・・・?
ボディーの機種が違えば 再現性自体も モニターの見え方も違って普通で、 それに、 同じ機種でも 個体差も・・・
ぁ、 実際、 設定が違っている?
設定項目を色々表示してみているモニターを見ていると、 ホワイトバランスの微調整が、 何故か 初期値ではないところに?
これを 初期値に戻して写す。
まぁ、 色や明るさは それぞれの好み次第の部分なのだが。
そして・・・、 その後、 本当にバッテリー切れに至る。
周囲から借りられる?かと思っても、 同じバッテリーの機種は・・・、 見渡してみた限りでは 無さそうで・・・
こっそりナビ気分も 終わり。
まだ明るい月でも AFが迷っていたのかも?のボディーが、 皆既中の暗い月に 最低限以上のピントを捉えてくれていただろうか?
それが 最低限以上には ブレずに写っていただろうか?
まぁ、 写真の結果が良ければ その方が喜べるだろうが・・・、 写せた結果だけが重要なのではないはず。
良くても 悪くても、 それはそれでのエピソードだったのだろう。
なんだかんだ...は まだ続く x x x
別件の、 だいぶ前から聞こえてはいた 「ピントが合わない」。
少し遠めから見たモニターでは たいして問題なさそうと思っていたので 気に留めなかったのだが・・・
・・・ これは 次回分で?
載せている写真は、 手持ちで撮っているので、 毎回 傾きが違っている。
前後コマと連続性がない場所にある星状の光は、 高感度撮影でのノイズ。 (または、 撮像センサーの同じ場所に常時出る輝点)
逆に、 ノイズリダクションで 実際にある星が 消えたり薄くなったりも しているかも?
月食は、 月の欠け方が変わっていくだけか、 月が星空の中を移動していくのを感じるかで、 見える世界観がずいぶん違ってくる。
忘れた頃に... というか、 忘れ去ってから また出てくるシリーズ x x x
このアーティストの認知度ということでは、 かなり限定されていそうなイメージがある。
その割には 意外と...というのもナンながら、 アクセス解析を見ていると、 一連の過去記事に、 そこそこの頻度で、 機械的な巡回収集の類ではなくて 実際に“人”のアクセスだろう記録が あったり。
このところ、 もう2ヶ月以上位のずっと、 頭の中で 『この道の上』が回り続けていたりしながらも・・・
今回は、 これまでの順番通りに、 鈴木彩子【すずきさいこ】名義での アコースティックミニアルバム『あの日に帰ろう』について。
演奏が全て (電子楽器ではない)“生音”の楽器で制作されているのが、 この作品のコンセプト。
サウンド的には 他のアルバムとは毛色が違う感はあっても、 メッセージ性が強く感じられるところや その方向性のような、 特徴的なスタイルは変わらない。
◆ 導火線に火をつけろ!
このアーティストのアルバムでは、 1曲目に インパクトが強い曲が入っているパターンが いくつかある。
これも、 その1つに入るのでは。
これより後のアルバムでは 冒頭から いきなり「!」な言葉をぶつける構成があるのとは違って、 曲全体でのメッセージ性や、 使われている言葉の選び方・・・
札束で布団を叩きましょう
落ちる 落ちる 世の中のほこりが落ちる
と 皮肉とか 揶揄ったような表現のインパクトが強い感じ。
この曲が冒頭にあるのは、 アルバムと同名の曲が最後に配されているところまで繋がっている、 全体での表現としての構成だろう。
だから、 アルバム全体を通して聴くのと、 個々の曲を“バラ売り”だけで聴くのとでは、 内容の受け取り方から 大きく違ってくるのかも。
そういうところで、 複数曲を 曲順を決めて纏めた“アルバム”のスタイルは、 音楽でのメッセージ表現を厚くする意味を持てる 必要な様式だと思う。
◆ あの素晴しい愛をもう一度
『ALL TIME BEST ALBUM』の時にも 挙げましたが・・・
幅広い層に お薦め度が高い一曲。
元曲とは かなりイメージが違う、 とても力強いアレンジになっている。
“鈴木彩子”を知らない人には、 広く知られた曲のカヴァーだからこそ 「あの曲が、こんな曲になる」というところで、 このアーティストの個性的な特徴が 鮮明に感じられると思う。
カヴァー曲では、 元曲のイメージを なるべく無難に踏襲するのも、 それはそれでよいのだろう。
対して、 複製的に模倣して演じるだけではないアレンジには、 賛否が分かれたり、 特に 元曲に好感を持っていた人は 批判的な印象を持つこともあるのだろう。
でも、 カヴァーするからには、 新しい見え方がある表現をできることが、 創作活動として より一層の意味がある作品になると感じる。
そういうところでも、 一聴してみる価値がある曲だと思う。
◆ 恋ってさ
こちらは セルフカヴァー。
このアーティストでは いかにもなラブソングの比率は あまり多くない中で、 この曲は タイトルの通り、 ラブソング。
アルバム『明日へつながる道』に収録されていた元曲は、 個人的には あまり意識する曲ではなかったが・・・
元曲では 青臭さもある若々しさような軽いイメージが、 こちらは、 かなりスローテンポにアレンジされて、 数年程度とはいえ 歌い手自身の年齢での部分もあるのだろうが、 ずっと大人っぽく、 心境の より深いところを意識させる 厚みがある曲に成熟しているように感じる。
メロディーも詞も「同じ曲」でも、 思い浮かぶ情景が ずいぶん違ってくるのが「別の曲」でもありで 興味深く、 また、 このアレンジがあることで、 元曲の方も印象が強くなった相乗効果があるだろう。
◆ 砂の城
最後の曲の1つ前に配されている、 “社会”とか“世の中”と表されるものへの 批判や反発での攻撃性があるような部分が多い曲。
一応、 詞で描かれるのは それだけではないのだが・・・、 歌い出しから
崩れかけた砂の城を見つめて
世の中の未来と重ねてみた
うわべだけの城に群がる人が溢れる
といった風で、 サウンド的にも 前奏からサビまで 軽さや明るさとは縁遠い。
それが、 曲の後半、 急に 曲調に明るさが射して
大空に向かって 雲を突き抜けて
と、 勢いがある言葉が現れる・・・が、 ここでも、 一般にはありがちだろう 安易な“救い”や “明るい未来予想図”を描くわけではない。
こういうところも、 アルバム全体での表現としての意味合いも強く持つ曲でもあるだろう。
こういう方向性・・・、 自身が どうこうして直接的に変え得る範疇よりも大きすぎるように見える “社会”の現状への否定的な言葉を伴う表現は、 ネガティブな社会的メッセージ性の印象で見られがちで、 それが そのアーティストに対してもネガティブな印象になって 嫌厭する向きもある...らしい。
でも、 本当の実際に制作されている曲は 幅広くあって、 同時に、 こういう曲での社会的なメッセージ性も、 それだけが このアーティストのメッセージの全てではない。
だから、 最後の曲で・・・
◆ あの日に帰ろう
直前の曲で 危惧や愁いを描いたような“社会”の中でも、 僕(←詞での一人称)は・・・
そんな、 このミニアルバム全体での表現としても サティスファクションのメッセージが込められた曲。
曲名は、 最後の結びの言葉。
同じ言葉が 『愛があるなら』でも 同じ趣旨で使われているなど、 この 社会的状況の立ち位置と 心境の方向性が、 『VOICE~明日への滑走路』が源流になっている、 このアーティストのメッセージ表現での 特に主要なテーマだろう。
この「あの日」は、 詞では 具体的な情景というよりは、 抽象的な色合いが強い「あの」日。
自身が 過去のどこを振り返っても 苦労や努力をしたつもりでいる実体験が 軽薄でしかなければ、 自身相応の軽薄な志向に当てはめることしかできないだろう。
すると、 自身では成立しないものは、 断片的に切り出した短文を 全体での連続性もなく 単語だけで“和和翻訳”した羅列で、 “後ろ向きな感情”と解釈して、 ここでも ネガティブな心境の印象を持たれがちらしい。
この曲の詞からは外れる話ながら・・・
ポジティブ(明)・ネガティブ(暗)で表される感覚では、 一般的に、 ポジティブを充てられる方が 良い印象で受け取られがちだろう。
そして、 (ここで 鳥関連で度々書いている類のような、) 平易すぎる成果で得意げになって、 自称の文言では いかにも立派そうな、 ~~を達成した、~~に成功した、と はしゃいでいるだけの 稚拙な言動でも、 その外面的な活況の様が 好ましく見られがち。
でも、 外面的な明るさが「好まれる」ことを あたかも「優れている」かのように取り違えて、 軽薄な目標しか持たないからこそ 何でもすぐに達成感に満たされていられることが “自己肯定”や“ポジティブシンキング”など 印象が良い表現にすり替わって 賛美されて、 指導的にまで奨励されがちな風潮も 目につく。
当然ながら、 自画自賛に興じている 外面的なポジティブ感の印象と、 もっと大きな達成を目指して努力できる 内面的な部分の前向きさや積極性での ポジティブな志向とは、 同じ単語を充てて形容でき得るからといって、 そもそも何の関連性もない 全く別なもの。
努力の情景は様々で、 その少なからずで 「黙々と」と形容される状況が 必然的に続くように。
そして、 安易な自己満足での完結を正当化するだけの自己肯定と、 すぐには成果に繋がるはずもなく 結果の保証もない未来への努力を ひたむきに続けられる信念のような 自己肯定とは、 全く正反対のこと。
この曲の詞に戻って・・・
むかし見た未来は こんな色じゃなかった
すべてをやりなそう
大切な瞬間をからっぽになるまで
誰も知らない場所を目指し そうさ歩き出せ
恐れを知らずに生きていた僕を取り戻せ
あの日に帰ろう
この「あの日に帰ろう」と表されている言葉は、 望む未来に進もうとしていた あの日のような気持ちを取り戻して また進み出そう、といった意味でのもの。
だから、 自身の中に、 その「あの日」としてイメージできる、 長く困難な状況でも進もうとした 深く篤い実体験の経緯と、 未来への前向きな思いがあれば、 このアーティストの作品に 厚く共感できるだろう。
そして、 そこが、 このアーティストでは、 その作品に共感する人、 つまり、 いわゆる“ファン”に相当する位置付けの言葉として “仲間”と表すことが多い感覚が共有されている 大きな要素の1つだろう。
このアーティストの認知度ということでは、 かなり限定されていそうなイメージがある。
その割には 意外と...というのもナンながら、 アクセス解析を見ていると、 一連の過去記事に、 そこそこの頻度で、 機械的な巡回収集の類ではなくて 実際に“人”のアクセスだろう記録が あったり。
このところ、 もう2ヶ月以上位のずっと、 頭の中で 『この道の上』が回り続けていたりしながらも・・・
今回は、 これまでの順番通りに、 鈴木彩子【すずきさいこ】名義での アコースティックミニアルバム『あの日に帰ろう』について。
演奏が全て (電子楽器ではない)“生音”の楽器で制作されているのが、 この作品のコンセプト。
サウンド的には 他のアルバムとは毛色が違う感はあっても、 メッセージ性が強く感じられるところや その方向性のような、 特徴的なスタイルは変わらない。
◆ 導火線に火をつけろ!
このアーティストのアルバムでは、 1曲目に インパクトが強い曲が入っているパターンが いくつかある。
これも、 その1つに入るのでは。
これより後のアルバムでは 冒頭から いきなり「!」な言葉をぶつける構成があるのとは違って、 曲全体でのメッセージ性や、 使われている言葉の選び方・・・
札束で布団を叩きましょう
落ちる 落ちる 世の中のほこりが落ちる
と 皮肉とか 揶揄ったような表現のインパクトが強い感じ。
この曲が冒頭にあるのは、 アルバムと同名の曲が最後に配されているところまで繋がっている、 全体での表現としての構成だろう。
だから、 アルバム全体を通して聴くのと、 個々の曲を“バラ売り”だけで聴くのとでは、 内容の受け取り方から 大きく違ってくるのかも。
そういうところで、 複数曲を 曲順を決めて纏めた“アルバム”のスタイルは、 音楽でのメッセージ表現を厚くする意味を持てる 必要な様式だと思う。
◆ あの素晴しい愛をもう一度
『ALL TIME BEST ALBUM』の時にも 挙げましたが・・・
幅広い層に お薦め度が高い一曲。
元曲とは かなりイメージが違う、 とても力強いアレンジになっている。
“鈴木彩子”を知らない人には、 広く知られた曲のカヴァーだからこそ 「あの曲が、こんな曲になる」というところで、 このアーティストの個性的な特徴が 鮮明に感じられると思う。
カヴァー曲では、 元曲のイメージを なるべく無難に踏襲するのも、 それはそれでよいのだろう。
対して、 複製的に模倣して演じるだけではないアレンジには、 賛否が分かれたり、 特に 元曲に好感を持っていた人は 批判的な印象を持つこともあるのだろう。
でも、 カヴァーするからには、 新しい見え方がある表現をできることが、 創作活動として より一層の意味がある作品になると感じる。
そういうところでも、 一聴してみる価値がある曲だと思う。
◆ 恋ってさ
こちらは セルフカヴァー。
このアーティストでは いかにもなラブソングの比率は あまり多くない中で、 この曲は タイトルの通り、 ラブソング。
アルバム『明日へつながる道』に収録されていた元曲は、 個人的には あまり意識する曲ではなかったが・・・
元曲では 青臭さもある若々しさような軽いイメージが、 こちらは、 かなりスローテンポにアレンジされて、 数年程度とはいえ 歌い手自身の年齢での部分もあるのだろうが、 ずっと大人っぽく、 心境の より深いところを意識させる 厚みがある曲に成熟しているように感じる。
メロディーも詞も「同じ曲」でも、 思い浮かぶ情景が ずいぶん違ってくるのが「別の曲」でもありで 興味深く、 また、 このアレンジがあることで、 元曲の方も印象が強くなった相乗効果があるだろう。
◆ 砂の城
最後の曲の1つ前に配されている、 “社会”とか“世の中”と表されるものへの 批判や反発での攻撃性があるような部分が多い曲。
一応、 詞で描かれるのは それだけではないのだが・・・、 歌い出しから
崩れかけた砂の城を見つめて
世の中の未来と重ねてみた
うわべだけの城に群がる人が溢れる
といった風で、 サウンド的にも 前奏からサビまで 軽さや明るさとは縁遠い。
それが、 曲の後半、 急に 曲調に明るさが射して
大空に向かって 雲を突き抜けて
と、 勢いがある言葉が現れる・・・が、 ここでも、 一般にはありがちだろう 安易な“救い”や “明るい未来予想図”を描くわけではない。
こういうところも、 アルバム全体での表現としての意味合いも強く持つ曲でもあるだろう。
こういう方向性・・・、 自身が どうこうして直接的に変え得る範疇よりも大きすぎるように見える “社会”の現状への否定的な言葉を伴う表現は、 ネガティブな社会的メッセージ性の印象で見られがちで、 それが そのアーティストに対してもネガティブな印象になって 嫌厭する向きもある...らしい。
でも、 本当の実際に制作されている曲は 幅広くあって、 同時に、 こういう曲での社会的なメッセージ性も、 それだけが このアーティストのメッセージの全てではない。
だから、 最後の曲で・・・
◆ あの日に帰ろう
直前の曲で 危惧や愁いを描いたような“社会”の中でも、 僕(←詞での一人称)は・・・
そんな、 このミニアルバム全体での表現としても サティスファクションのメッセージが込められた曲。
曲名は、 最後の結びの言葉。
同じ言葉が 『愛があるなら』でも 同じ趣旨で使われているなど、 この 社会的状況の立ち位置と 心境の方向性が、 『VOICE~明日への滑走路』が源流になっている、 このアーティストのメッセージ表現での 特に主要なテーマだろう。
この「あの日」は、 詞では 具体的な情景というよりは、 抽象的な色合いが強い「あの」日。
自身が 過去のどこを振り返っても 苦労や努力をしたつもりでいる実体験が 軽薄でしかなければ、 自身相応の軽薄な志向に当てはめることしかできないだろう。
すると、 自身では成立しないものは、 断片的に切り出した短文を 全体での連続性もなく 単語だけで“和和翻訳”した羅列で、 “後ろ向きな感情”と解釈して、 ここでも ネガティブな心境の印象を持たれがちらしい。
この曲の詞からは外れる話ながら・・・
ポジティブ(明)・ネガティブ(暗)で表される感覚では、 一般的に、 ポジティブを充てられる方が 良い印象で受け取られがちだろう。
そして、 (ここで 鳥関連で度々書いている類のような、) 平易すぎる成果で得意げになって、 自称の文言では いかにも立派そうな、 ~~を達成した、~~に成功した、と はしゃいでいるだけの 稚拙な言動でも、 その外面的な活況の様が 好ましく見られがち。
でも、 外面的な明るさが「好まれる」ことを あたかも「優れている」かのように取り違えて、 軽薄な目標しか持たないからこそ 何でもすぐに達成感に満たされていられることが “自己肯定”や“ポジティブシンキング”など 印象が良い表現にすり替わって 賛美されて、 指導的にまで奨励されがちな風潮も 目につく。
当然ながら、 自画自賛に興じている 外面的なポジティブ感の印象と、 もっと大きな達成を目指して努力できる 内面的な部分の前向きさや積極性での ポジティブな志向とは、 同じ単語を充てて形容でき得るからといって、 そもそも何の関連性もない 全く別なもの。
努力の情景は様々で、 その少なからずで 「黙々と」と形容される状況が 必然的に続くように。
そして、 安易な自己満足での完結を正当化するだけの自己肯定と、 すぐには成果に繋がるはずもなく 結果の保証もない未来への努力を ひたむきに続けられる信念のような 自己肯定とは、 全く正反対のこと。
この曲の詞に戻って・・・
むかし見た未来は こんな色じゃなかった
すべてをやりなそう
大切な瞬間をからっぽになるまで
誰も知らない場所を目指し そうさ歩き出せ
恐れを知らずに生きていた僕を取り戻せ
あの日に帰ろう
この「あの日に帰ろう」と表されている言葉は、 望む未来に進もうとしていた あの日のような気持ちを取り戻して また進み出そう、といった意味でのもの。
だから、 自身の中に、 その「あの日」としてイメージできる、 長く困難な状況でも進もうとした 深く篤い実体験の経緯と、 未来への前向きな思いがあれば、 このアーティストの作品に 厚く共感できるだろう。
そして、 そこが、 このアーティストでは、 その作品に共感する人、 つまり、 いわゆる“ファン”に相当する位置付けの言葉として “仲間”と表すことが多い感覚が共有されている 大きな要素の1つだろう。
前記事の状況が
ありまして、 これも載せておくか、と。
鯉がジャンプしたシーンを「見たことがある」というのは、 結構いそう。
でも、 写真に捉えようと狙って待つ、となると、 そう頻繁には起きないもの。
そして、 いつ、どこで跳ぶかを予測するのは難しく、 そもそも、 どこにいるのか自体から見え難い。
シャッターチャンスは、 見えない水中から跳び出してきた一瞬。
でも、 人は 体の動作が反応するのにタイムラグがある上に、 カメラのレリーズタイムラグ(レリーズしてから シャッターが切れるまでの動作にかかる時間)も積み重なる。
跳んだのが見えてからカメラを向けたのでは、 写るのは 落下した後。
だから、 なるべく正確な位置で構図を待ち構えて、 まだ何もない情景の中に跳び出してくる瞬間にレリーズする必要がある。
そして、 上手く対応できて「捉えた!」と思った状況でも、 画的に良い形のタイミングがない動きになったり、 跳び上がるというほどにはならずに沈んでいったりに終わることは 多々。
技術的には捉えていても、 その結果に どんな画が得られるかは “運”の世界。
( クリックすると 533*800px の画像が表示されます )
こういうシーンを捉えるのは、 自分にとっては、 鳥写真の感覚を応用しているイメージがある。
時間では 圧倒的大部分を占める 具体的に狙える対象がない時にも、 いつ、どこに、何が現れるかわからない 見えていない対象の捕捉に集中を保って、 狙う候補を見つけると、 まだ起きていない動きを予測して追う、といった感覚。
鯉がジャンプしたシーンを「見たことがある」というのは、 結構いそう。
でも、 写真に捉えようと狙って待つ、となると、 そう頻繁には起きないもの。
そして、 いつ、どこで跳ぶかを予測するのは難しく、 そもそも、 どこにいるのか自体から見え難い。
シャッターチャンスは、 見えない水中から跳び出してきた一瞬。
でも、 人は 体の動作が反応するのにタイムラグがある上に、 カメラのレリーズタイムラグ(レリーズしてから シャッターが切れるまでの動作にかかる時間)も積み重なる。
跳んだのが見えてからカメラを向けたのでは、 写るのは 落下した後。
だから、 なるべく正確な位置で構図を待ち構えて、 まだ何もない情景の中に跳び出してくる瞬間にレリーズする必要がある。
そして、 上手く対応できて「捉えた!」と思った状況でも、 画的に良い形のタイミングがない動きになったり、 跳び上がるというほどにはならずに沈んでいったりに終わることは 多々。
技術的には捉えていても、 その結果に どんな画が得られるかは “運”の世界。
( クリックすると 533*800px の画像が表示されます )
こういうシーンを捉えるのは、 自分にとっては、 鳥写真の感覚を応用しているイメージがある。
時間では 圧倒的大部分を占める 具体的に狙える対象がない時にも、 いつ、どこに、何が現れるかわからない 見えていない対象の捕捉に集中を保って、 狙う候補を見つけると、 まだ起きていない動きを予測して追う、といった感覚。
少々前に募集されていた 「渾身の一記事」に応募していた記事が goo blogのトップページに掲載してもらえまして・・・
1年以上前の記事ですが、 なんとなく“あの絵”のアマビエ様のフォルム感っぽい(?)写真を載せたもの。
募集を見ての最初は、 こういうのや こんなのを イメージしたものの・・・、 画像を載せていることが条件になっていたので 見送り。
鳥や 鳥写真関連で 蔓延している おかしな迷信の間違いを書いたものでは、 1つには絞り難いし、 一般の殆どには関係もなく、 楽しい話でもない。
その辺から、 今回は、 ここでは他には載せていないジャンルの写真ながら、 自分にとって 特徴的でもあり 思い入れも強い撮影テーマの写真の記事を応募することにしたもの。
1年以上前の記事ですが、 なんとなく“あの絵”のアマビエ様のフォルム感っぽい(?)写真を載せたもの。
募集を見ての最初は、 こういうのや こんなのを イメージしたものの・・・、 画像を載せていることが条件になっていたので 見送り。
鳥や 鳥写真関連で 蔓延している おかしな迷信の間違いを書いたものでは、 1つには絞り難いし、 一般の殆どには関係もなく、 楽しい話でもない。
その辺から、 今回は、 ここでは他には載せていないジャンルの写真ながら、 自分にとって 特徴的でもあり 思い入れも強い撮影テーマの写真の記事を応募することにしたもの。
昨今の カメラ雑誌の休刊が相次ぐ中、 「日本カメラ」も 5月号を最後に 休刊。
個人的には、 フォトコンテストで 賞金が貰える入賞が、 まだフィルムの時代の 日本カメラでの機会が最初だった、とかも ありますが...
以前は、 自由課題の月例コンテストとは別に、 年1回(当初は4回?) 「自然と風景」の テーマ限定のコンテストがあった。
当時は 1年の中で 重点的に意識するコンテストになっていたことや、 フィルムの時代も デジタルでも 入賞したりもあって、 なんとなく親近感があった雑誌が休刊になるのには、 ありきたりな言葉では 寂しさのような感覚がある。
でも、 コンテストに応募したり 入賞したことなら、 去年に休刊になったカメラ誌でも あったわけで・・・
そういう経緯での思い入れとは別で 印象に残っているのは、 「自然と風景」のコンテストでは、 入賞作品が展示される “コンテスト展”があった。
そこで、 誌面に掲載されている印刷では 「これ、 そんなに良い?」と感じていた 風景写真の作品が、 大きいサイズでの展示で見ると、 「そうだったのか」といった感じで 印象が違って、 評価が納得できる、ということがあった。
その後で 改めて 誌面を見ると、 良い評価がされる“その要素”は 確かに見える・・・ のだが・・・
一般向けのプリンターでも 写真の出力には 大きいプリントが作れる機種が魅力的なニーズも多いように、 原板は同じでも、 プリントの大きさが違うと 印象が かなり違ってくることは多い。
風景写真でなら コンテストでの入選作品の撮影地に行って 模倣にもなっていない“似たような構図”で写しただけで、 あるいは、 鳥写真なら 極度にトリミングして やっと 大幅に縮小して掲載された作品と“似たような感じ”にできただけで、 「全国レベルで優れた評価をされる写真と同等の撮影に『成功』している」と称するご自慢が ありがちだろう。
それは、 リアル世界で優れた評価をされる写真の “本当の画”を知らないことでの幻想。
だから、 “コンテスト展”のような 大きいサイズで見れば、 気付けることがあるはず。
こういうところは、 写真にある表現性に対して、 掲載サイズも画質も制約がある誌面で伝わるものの限度、でもある。
これは、 モニターで見る ネット世界でも 同じこと。
かつては、 アマチュアにとっては、 作品を不特定の多くに見せられる「発表」の機会は 希少だった。
フォトコンテストを (名声欲でしか考えていない向きも 少なからずあるようだが...) 作品を発表できる場として見ると、 その機会は、 審査を経て 多数の中から選び出されるものでなければ 得られない。
近代では、 ネット世界が一般化して、 自分が載せたい画を 好きなように載せて 交流できるようになった。
これは、 写真を「発表」できる機会が、 他者の管理を受けることなく より“自由”に、 そして、 他者による評価の優劣で差がつくこともなく より“平等”に持てる時代、ともいえて、 文言としても 開放感があって、 いかにも麗しい・・・ のだが・・・
(鳥写真のような) 専門性がある知識やスキルの差が表れ易いテーマでは 特に、 全体の中での割合では多数を占める、 一生でも何度もはないだろう自慢の傑作でも 公募での場で選出される期待は望み難いような “裾野”のレベルでの、 その中でも 日常的に多々ある 並な内容が 無差別の無秩序に氾濫することにもなっている。
まぁ、 そこには このブログも含まれるが x x x
もちろん、 全体の中での相対的に見れば レベルが低くても (ありがちな勘違い行動で 迷惑をかけ続けたりしなければ) それが悪いことでもなければ、 高いレベルを目指さなければいけないものでもなく、 自分なりに楽しむのが それぞれの自由。
そして、 何でも真に受けられるものとは限らないのは、 見る側の 自己責任という自由。
そういうことでは、 コンテストなどの公募の場でも、 選考は 選者氏の判断によるもので、 思い違いのような、 知っている人が見れば 明らかに つじつまが合っていないこともあって、 その評価の全てが望ましいとは限らないが・・・
個人的には、 某誌で、 テーマが限定されたコンテストなのに、 (その世界を実際に知っている人には 滑稽すぎることが明らかでも、 世の中では大多数を占める門外漢には、 実際を正しく述べていれば頻出しない 好まれがちな“それっぽい単語”が並ぶのが喜ばれて、 むしろ 本物よりも本物らしく見えてしまうらしい、) 初歩的なことから門外漢なご解説を垂れられることが続いて、 それについて 何度も色々と書いたものを同封したものの、 更に悪化するだけだったので、 印刷メディアでの作品の発表機会は貴重でも、 それ以上に、 自分の写真が掲載されることが 妄想話を もっともらしく垂れ流されることに利用されて 世の中への害に加担した結果になるのは 適切ではないと判断して 応募を止めて、 以降も その選者氏が長らく続いていることで 今も そのままになっているものもあり x x x
そんな風に、 作品のジャンルと 選者氏の名目上の肩書きとの 関連性の遠近を問わず、 良い評価をされた根拠の 主観的な要素ではない客観的な事実関係が支離滅裂といった醜態もあるので、 何でも 鵜呑みのコピペで わかったつもりになってしまう 他者任せの思考停止では いけないもの。
それでも、 鳥写真でなら 「○○が写っている」だけを喜んでいる類のような 画的に稚拙なものばかりが並ぶことまでは 考え難い面はあるが。
近代での写真の環境は、 一段と気軽に 幅広く使えるようになって お手軽な楽しさが増えたのと引き換えに、 表現的な作品としての写真に接する機会、 特に、 優れた作品を 表現性として充分な品質で見られる機会が 少なくなってきたように感じる。
そういうところから、 作品としての 各自それぞれに 自分なりの表現的な意識があるべき写真の世界観もあることを知らずに、 何でも、 記念写真とか、 SNSやメールで 証拠や視覚的な説明として添えたり 楽しい話題を作るネタといった、 「○○が写っている」が判別できさえすれば満願のような 日常的で手軽な用途と同一視して、 写真を撮ろうとすることの意識が 根源的な部分から違うものが混同されている広がりが 一段と進行しているように思える。
時代的な変化で 写真というものの世界観の大勢も変わっていくのは、 良いとか悪いとかいうことではないが・・・
カメラ雑誌が少なくなっていくことも、 写真というものの世界観が 日常的な用途に 更に傾向して、 表現としての作品を撮ろうとすること自体が ますます解され難い時代になっていく方向に 影響するのだろう。
個人的には、 フォトコンテストで 賞金が貰える入賞が、 まだフィルムの時代の 日本カメラでの機会が最初だった、とかも ありますが...
以前は、 自由課題の月例コンテストとは別に、 年1回(当初は4回?) 「自然と風景」の テーマ限定のコンテストがあった。
当時は 1年の中で 重点的に意識するコンテストになっていたことや、 フィルムの時代も デジタルでも 入賞したりもあって、 なんとなく親近感があった雑誌が休刊になるのには、 ありきたりな言葉では 寂しさのような感覚がある。
でも、 コンテストに応募したり 入賞したことなら、 去年に休刊になったカメラ誌でも あったわけで・・・
そういう経緯での思い入れとは別で 印象に残っているのは、 「自然と風景」のコンテストでは、 入賞作品が展示される “コンテスト展”があった。
そこで、 誌面に掲載されている印刷では 「これ、 そんなに良い?」と感じていた 風景写真の作品が、 大きいサイズでの展示で見ると、 「そうだったのか」といった感じで 印象が違って、 評価が納得できる、ということがあった。
その後で 改めて 誌面を見ると、 良い評価がされる“その要素”は 確かに見える・・・ のだが・・・
一般向けのプリンターでも 写真の出力には 大きいプリントが作れる機種が魅力的なニーズも多いように、 原板は同じでも、 プリントの大きさが違うと 印象が かなり違ってくることは多い。
風景写真でなら コンテストでの入選作品の撮影地に行って 模倣にもなっていない“似たような構図”で写しただけで、 あるいは、 鳥写真なら 極度にトリミングして やっと 大幅に縮小して掲載された作品と“似たような感じ”にできただけで、 「全国レベルで優れた評価をされる写真と同等の撮影に『成功』している」と称するご自慢が ありがちだろう。
それは、 リアル世界で優れた評価をされる写真の “本当の画”を知らないことでの幻想。
だから、 “コンテスト展”のような 大きいサイズで見れば、 気付けることがあるはず。
こういうところは、 写真にある表現性に対して、 掲載サイズも画質も制約がある誌面で伝わるものの限度、でもある。
これは、 モニターで見る ネット世界でも 同じこと。
かつては、 アマチュアにとっては、 作品を不特定の多くに見せられる「発表」の機会は 希少だった。
フォトコンテストを (名声欲でしか考えていない向きも 少なからずあるようだが...) 作品を発表できる場として見ると、 その機会は、 審査を経て 多数の中から選び出されるものでなければ 得られない。
近代では、 ネット世界が一般化して、 自分が載せたい画を 好きなように載せて 交流できるようになった。
これは、 写真を「発表」できる機会が、 他者の管理を受けることなく より“自由”に、 そして、 他者による評価の優劣で差がつくこともなく より“平等”に持てる時代、ともいえて、 文言としても 開放感があって、 いかにも麗しい・・・ のだが・・・
(鳥写真のような) 専門性がある知識やスキルの差が表れ易いテーマでは 特に、 全体の中での割合では多数を占める、 一生でも何度もはないだろう自慢の傑作でも 公募での場で選出される期待は望み難いような “裾野”のレベルでの、 その中でも 日常的に多々ある 並な内容が 無差別の無秩序に氾濫することにもなっている。
まぁ、 そこには このブログも含まれるが x x x
もちろん、 全体の中での相対的に見れば レベルが低くても (ありがちな勘違い行動で 迷惑をかけ続けたりしなければ) それが悪いことでもなければ、 高いレベルを目指さなければいけないものでもなく、 自分なりに楽しむのが それぞれの自由。
そして、 何でも真に受けられるものとは限らないのは、 見る側の 自己責任という自由。
そういうことでは、 コンテストなどの公募の場でも、 選考は 選者氏の判断によるもので、 思い違いのような、 知っている人が見れば 明らかに つじつまが合っていないこともあって、 その評価の全てが望ましいとは限らないが・・・
個人的には、 某誌で、 テーマが限定されたコンテストなのに、 (その世界を実際に知っている人には 滑稽すぎることが明らかでも、 世の中では大多数を占める門外漢には、 実際を正しく述べていれば頻出しない 好まれがちな“それっぽい単語”が並ぶのが喜ばれて、 むしろ 本物よりも本物らしく見えてしまうらしい、) 初歩的なことから門外漢なご解説を垂れられることが続いて、 それについて 何度も色々と書いたものを同封したものの、 更に悪化するだけだったので、 印刷メディアでの作品の発表機会は貴重でも、 それ以上に、 自分の写真が掲載されることが 妄想話を もっともらしく垂れ流されることに利用されて 世の中への害に加担した結果になるのは 適切ではないと判断して 応募を止めて、 以降も その選者氏が長らく続いていることで 今も そのままになっているものもあり x x x
そんな風に、 作品のジャンルと 選者氏の名目上の肩書きとの 関連性の遠近を問わず、 良い評価をされた根拠の 主観的な要素ではない客観的な事実関係が支離滅裂といった醜態もあるので、 何でも 鵜呑みのコピペで わかったつもりになってしまう 他者任せの思考停止では いけないもの。
それでも、 鳥写真でなら 「○○が写っている」だけを喜んでいる類のような 画的に稚拙なものばかりが並ぶことまでは 考え難い面はあるが。
近代での写真の環境は、 一段と気軽に 幅広く使えるようになって お手軽な楽しさが増えたのと引き換えに、 表現的な作品としての写真に接する機会、 特に、 優れた作品を 表現性として充分な品質で見られる機会が 少なくなってきたように感じる。
そういうところから、 作品としての 各自それぞれに 自分なりの表現的な意識があるべき写真の世界観もあることを知らずに、 何でも、 記念写真とか、 SNSやメールで 証拠や視覚的な説明として添えたり 楽しい話題を作るネタといった、 「○○が写っている」が判別できさえすれば満願のような 日常的で手軽な用途と同一視して、 写真を撮ろうとすることの意識が 根源的な部分から違うものが混同されている広がりが 一段と進行しているように思える。
時代的な変化で 写真というものの世界観の大勢も変わっていくのは、 良いとか悪いとかいうことではないが・・・
カメラ雑誌が少なくなっていくことも、 写真というものの世界観が 日常的な用途に 更に傾向して、 表現としての作品を撮ろうとすること自体が ますます解され難い時代になっていく方向に 影響するのだろう。
忘れた頃に 時々出てくるシリーズ...
ビクターから 鈴木彩子【すずきさいこ】名義のCDで出ていた分の 全作品、 そして、 ビクター在籍期以降のアルバムも 配信に対応したとのことで...
今回は、 6thアルバム『愛があるなら』について。
このタイトルから “ラブソング”主体の世界観を想像して その期待で聴くなら、 見事なまでに裏切られるだろう。
『迷路』 『情熱』あたりには、 恋愛的な対象への感情としては ラブソング的な要素も あるにはあるが・・・、 これも いわゆるラブソングのイメージとは かなり趣が違う。
それでも、 このアルバムは “ある意味”では 確かにラブソングでもあるのだと感じる。
このアルバムも含めて、 このアーティストの作品の多くは、 娯楽としてのエンターテイメント性よりも、 メッセージ性が強い表現の印象が顕著。
もちろん、 楽しくて軽い音楽を主体としたアーティストの作品にも メッセージはあるのだが、 その趣旨や描き方次第で 印象の受け方が 相当に違ってくる。
「音楽」に 軽く聴き流して楽しくいられることを求める向きには、 その価値が評価できない・・・というか、 どう聴けばよいのかというところから 戸惑うのかもしれないが・・・
これは、 例えば、 「映画」と表せば同じ分野に入るものでも、 派手なアクションがウリの エンターテイメント作品もあれば、 社会的なテーマに向き合うことに主眼を置いた作品など、 色々あるようなこと。
だから、 「音楽」という手法での表現の価値も、 エンターテイメント性だけではない。
収録されている曲には、 希望に向かっての勢いがある曲もあり、 重い情景を語る曲もあり、と 幅広い。
世の中での風潮として、 表面的な明るさを 前向きや強さといった方向性でのイメージに結び付けて好まれがち。
対して、 重さのある情景は、 意識すること自体を避けられがちで 積極的に扱うことには難しさが多く、 その重さを緩和するような 安易な“空手形”の救いも作らずに 過度なほどストレートに描く表現は 特に印象が強く残りがちで、 ネガティブな評価、 あるいは、 そういう表現をすること自体のような部分へも 嫌悪や反感のような不快感を持つ向きもあるのだろう。
だから、 「売れる」ことだけを目指すのなら、 とにかく何でも、 より多くに触りが良い 夢や希望の方に向いた“がんばりましょうソング”に仕立てて ポジティブ感を演出した方がお利口なのだろうが・・・
でも、 他者の視線ばかりを気にして ステレオタイプなお仕着せのキャラを明るく演じることに腐心するのでは、 対外的にはウケが良くても、 本質的なポジティブでもなければ、 必ずしも望ましい方向性とは限らない。
あるいは、 求めるものを 容易に手が届く範囲に止めてしまうなら、 重く悩むこと自体もないだろう。
そうして 明るく元気に振舞っていられる様や 文言の上では「夢を実現」したとも表せなくはない達成が ポジティブとして好まれがちでも、 その本質は、 表面的なポジティブ感と結び付けられる 前向き・積極的とか 強さとは 全く逆だからこそのもの。
このアルバムは、 実際には 誰しもにあっても、 現実であり 自分自身でありと向き合うことから逃げてしまいがちな 重い心情での世界観も直接的に描く部分もあるからこそ、 その最後に アルバムと同名の『愛があるなら』が置かれている構成での “自分自身へのラブソング”のようなメッセージ表現が より強く感じられる作品になっていると思う。
だから、 このアルバムも また、 全体を通して 厚く聴いてほしい作品だと思う。
そして、 個人的には、 このアルバムは とても特別な作品になっている。
(このところ もう長くやっていないが、 以前は、) 心境的に困難感が強くなった時なんかに、 アルバムを3作品選んで 続けて聴く、ということが よくあった。
当然、 それぞれのアルバムの内容はわかっていて、 どういうイメージを経て、 最終的に 自分の心境を どういう方向にするか、に合わせて選ぶので、 組み合わせや 順番は その時によって違うのだが・・・
それほど深刻ではなく 勢いがある締め方にしたい時は 最後を『BORO BORO』に、とか、 力弱い感がありすぎる時には『9 -nine-』が入ってくる、とか、 少々 “悲壮感”がある決意のようなイメージが必要な時には 最後に『サイコ』を、とか・・・
その中で、 この『愛があるなら』は、 その3作品の中に 殆ど必ず入っていただろうと思う。
その時の心境が どういう方向性であっても、 自分の本質的な部分へのイメージとして 重要な意味を確認できる作品だと感じる。
それは、 「好きなアルバム」というよりは、 自分にとって 「大切なもの」といった感覚。
あるいは、 直接的に聴いている時だけには限らずに影響している 「必要なもの」と表した方が良いのかもしれない。
『僕はここにいるよ』 『長い放課後』 『Tomorrow』 『愛があるなら』 の各曲に関しては 過去記事に書いたので、 ここでは省略して・・・
◆ Stranger
1曲目の 『In The Rain』は、 現状でもあり これまででもありの 困難もある状況を“激しい雨”と表して、 その中に進み出して 希望の未来を手に入れよう、といった 勢いがある曲で、 その後の 2曲目という流れ。
(冒頭にサビのフレーズがあった後の、) 詞の最初の部分、
街はずれの路地に 一人しゃがみこむ
親子連れが通り過ぎて行く 笑い声が響く
この情景が どんな方向性での感情で見えているのかは、 直接的な文言では表されていないが・・・
世間並みには暮らしている感覚では、 幸せで 微笑ましい、 美しさや 温かさの側のイメージなのかもしれない、が、 この曲での視線では、 哀しさのような 冷たい側の感覚だろう。
この感覚は 解せない向きも多いのかもしれない。
でも、 この描かれ方の感覚には、 (経緯の趣旨が少し違うかもしれないが) とても共感する・・・というか、 共感してしまう。
腐りかけた夢を独り 身体に打ちつけた僕は
OH STRANGER IN THE CITY
こういう部分は、
『In The Rain』
激しい雨に打たれたい
涙も見えない位に
ゴールなんてさ何処だって構わない
虹が見たいから今を生きる
『BACK STREETが俺を愛してる』(アルバム BORO BORO 収録曲)
みんなが求めるパラダイスを
探してるだけさこの俺も
冷たい壁の隙間から光が差し込んで来る
まるでスポットライトさ
といった詞とは、 表面的な印象はずいぶん違っても、 社会的な状況の立ち位置を考えると それほど違わないのではないかと思う。
同じような状況にあっても、 どういう気持ちでいるかによって 見え方や 感じ方は 大きく違ってくることで、 その方向性は、 どちらが正しいとか そうでないとか、 どちらが良いとか そうでないとかいうものではなく、 どちらもがあるもの。
この詞では、 哀しさの側の感情が連ねられている。
でも、 これは、 困難な状況でも (少なくとも 今は まだ) 諦めていない、 より本質的な部分での前向きな思いを持ち続けていられる強さがあるからこそ抱えている感情だろう。
そして、 『僕はここにいるよ』 『暗闇を着せられた僕』で描かれている情景も、 状況や文言が より深刻で“絶望感”的な方に振れている印象はあっても、 本質的には 同じような感情だろう。
◆ 迷路
アップテンポで 圧迫感とか危機感のようなサウンドが好きな曲。
・・・ あまり多くには共感されない感覚かもしれないが x x x
ずっと以前の、 まだ インターネットが ダイヤルアップ中心だった時代に チャットで話題にした時のこと...
この詞では、 朝の通勤風景のような情景が 閉塞感に重ねられているので、 鉄道好きな人から、 ちょっと気が悪いみたいな反応もあったり x x x
まぁ、 これは、 この曲の詞では そういう描かれ方になっている、というだけで、 このアーティストが 鉄道に悪い印象があるというようなことではないだろう。
実際、 『最後の抵抗』(アルバム 罪深き英雄 収録曲)では、 蒸気機関車のイメージでの“夢の列車”が 閉塞感がある状況から抜け出して 求める未来へ力強く進む 希望の象徴的に表されている曲もある。
ビクターから 鈴木彩子【すずきさいこ】名義のCDで出ていた分の 全作品、 そして、 ビクター在籍期以降のアルバムも 配信に対応したとのことで...
今回は、 6thアルバム『愛があるなら』について。
このタイトルから “ラブソング”主体の世界観を想像して その期待で聴くなら、 見事なまでに裏切られるだろう。
『迷路』 『情熱』あたりには、 恋愛的な対象への感情としては ラブソング的な要素も あるにはあるが・・・、 これも いわゆるラブソングのイメージとは かなり趣が違う。
それでも、 このアルバムは “ある意味”では 確かにラブソングでもあるのだと感じる。
このアルバムも含めて、 このアーティストの作品の多くは、 娯楽としてのエンターテイメント性よりも、 メッセージ性が強い表現の印象が顕著。
もちろん、 楽しくて軽い音楽を主体としたアーティストの作品にも メッセージはあるのだが、 その趣旨や描き方次第で 印象の受け方が 相当に違ってくる。
「音楽」に 軽く聴き流して楽しくいられることを求める向きには、 その価値が評価できない・・・というか、 どう聴けばよいのかというところから 戸惑うのかもしれないが・・・
これは、 例えば、 「映画」と表せば同じ分野に入るものでも、 派手なアクションがウリの エンターテイメント作品もあれば、 社会的なテーマに向き合うことに主眼を置いた作品など、 色々あるようなこと。
だから、 「音楽」という手法での表現の価値も、 エンターテイメント性だけではない。
収録されている曲には、 希望に向かっての勢いがある曲もあり、 重い情景を語る曲もあり、と 幅広い。
世の中での風潮として、 表面的な明るさを 前向きや強さといった方向性でのイメージに結び付けて好まれがち。
対して、 重さのある情景は、 意識すること自体を避けられがちで 積極的に扱うことには難しさが多く、 その重さを緩和するような 安易な“空手形”の救いも作らずに 過度なほどストレートに描く表現は 特に印象が強く残りがちで、 ネガティブな評価、 あるいは、 そういう表現をすること自体のような部分へも 嫌悪や反感のような不快感を持つ向きもあるのだろう。
だから、 「売れる」ことだけを目指すのなら、 とにかく何でも、 より多くに触りが良い 夢や希望の方に向いた“がんばりましょうソング”に仕立てて ポジティブ感を演出した方がお利口なのだろうが・・・
でも、 他者の視線ばかりを気にして ステレオタイプなお仕着せのキャラを明るく演じることに腐心するのでは、 対外的にはウケが良くても、 本質的なポジティブでもなければ、 必ずしも望ましい方向性とは限らない。
あるいは、 求めるものを 容易に手が届く範囲に止めてしまうなら、 重く悩むこと自体もないだろう。
そうして 明るく元気に振舞っていられる様や 文言の上では「夢を実現」したとも表せなくはない達成が ポジティブとして好まれがちでも、 その本質は、 表面的なポジティブ感と結び付けられる 前向き・積極的とか 強さとは 全く逆だからこそのもの。
このアルバムは、 実際には 誰しもにあっても、 現実であり 自分自身でありと向き合うことから逃げてしまいがちな 重い心情での世界観も直接的に描く部分もあるからこそ、 その最後に アルバムと同名の『愛があるなら』が置かれている構成での “自分自身へのラブソング”のようなメッセージ表現が より強く感じられる作品になっていると思う。
だから、 このアルバムも また、 全体を通して 厚く聴いてほしい作品だと思う。
そして、 個人的には、 このアルバムは とても特別な作品になっている。
(このところ もう長くやっていないが、 以前は、) 心境的に困難感が強くなった時なんかに、 アルバムを3作品選んで 続けて聴く、ということが よくあった。
当然、 それぞれのアルバムの内容はわかっていて、 どういうイメージを経て、 最終的に 自分の心境を どういう方向にするか、に合わせて選ぶので、 組み合わせや 順番は その時によって違うのだが・・・
それほど深刻ではなく 勢いがある締め方にしたい時は 最後を『BORO BORO』に、とか、 力弱い感がありすぎる時には『9 -nine-』が入ってくる、とか、 少々 “悲壮感”がある決意のようなイメージが必要な時には 最後に『サイコ』を、とか・・・
その中で、 この『愛があるなら』は、 その3作品の中に 殆ど必ず入っていただろうと思う。
その時の心境が どういう方向性であっても、 自分の本質的な部分へのイメージとして 重要な意味を確認できる作品だと感じる。
それは、 「好きなアルバム」というよりは、 自分にとって 「大切なもの」といった感覚。
あるいは、 直接的に聴いている時だけには限らずに影響している 「必要なもの」と表した方が良いのかもしれない。
『僕はここにいるよ』 『長い放課後』 『Tomorrow』 『愛があるなら』 の各曲に関しては 過去記事に書いたので、 ここでは省略して・・・
◆ Stranger
1曲目の 『In The Rain』は、 現状でもあり これまででもありの 困難もある状況を“激しい雨”と表して、 その中に進み出して 希望の未来を手に入れよう、といった 勢いがある曲で、 その後の 2曲目という流れ。
(冒頭にサビのフレーズがあった後の、) 詞の最初の部分、
街はずれの路地に 一人しゃがみこむ
親子連れが通り過ぎて行く 笑い声が響く
この情景が どんな方向性での感情で見えているのかは、 直接的な文言では表されていないが・・・
世間並みには暮らしている感覚では、 幸せで 微笑ましい、 美しさや 温かさの側のイメージなのかもしれない、が、 この曲での視線では、 哀しさのような 冷たい側の感覚だろう。
この感覚は 解せない向きも多いのかもしれない。
でも、 この描かれ方の感覚には、 (経緯の趣旨が少し違うかもしれないが) とても共感する・・・というか、 共感してしまう。
腐りかけた夢を独り 身体に打ちつけた僕は
OH STRANGER IN THE CITY
こういう部分は、
『In The Rain』
激しい雨に打たれたい
涙も見えない位に
ゴールなんてさ何処だって構わない
虹が見たいから今を生きる
『BACK STREETが俺を愛してる』(アルバム BORO BORO 収録曲)
みんなが求めるパラダイスを
探してるだけさこの俺も
冷たい壁の隙間から光が差し込んで来る
まるでスポットライトさ
といった詞とは、 表面的な印象はずいぶん違っても、 社会的な状況の立ち位置を考えると それほど違わないのではないかと思う。
同じような状況にあっても、 どういう気持ちでいるかによって 見え方や 感じ方は 大きく違ってくることで、 その方向性は、 どちらが正しいとか そうでないとか、 どちらが良いとか そうでないとかいうものではなく、 どちらもがあるもの。
この詞では、 哀しさの側の感情が連ねられている。
でも、 これは、 困難な状況でも (少なくとも 今は まだ) 諦めていない、 より本質的な部分での前向きな思いを持ち続けていられる強さがあるからこそ抱えている感情だろう。
そして、 『僕はここにいるよ』 『暗闇を着せられた僕』で描かれている情景も、 状況や文言が より深刻で“絶望感”的な方に振れている印象はあっても、 本質的には 同じような感情だろう。
◆ 迷路
アップテンポで 圧迫感とか危機感のようなサウンドが好きな曲。
・・・ あまり多くには共感されない感覚かもしれないが x x x
ずっと以前の、 まだ インターネットが ダイヤルアップ中心だった時代に チャットで話題にした時のこと...
この詞では、 朝の通勤風景のような情景が 閉塞感に重ねられているので、 鉄道好きな人から、 ちょっと気が悪いみたいな反応もあったり x x x
まぁ、 これは、 この曲の詞では そういう描かれ方になっている、というだけで、 このアーティストが 鉄道に悪い印象があるというようなことではないだろう。
実際、 『最後の抵抗』(アルバム 罪深き英雄 収録曲)では、 蒸気機関車のイメージでの“夢の列車”が 閉塞感がある状況から抜け出して 求める未来へ力強く進む 希望の象徴的に表されている曲もある。
自分での経験では 要因は違うのだが・・・
少々 前に、 鈴木彩子 「ミステリー~運命(さだめ)~」について書いたことで 思ったこと...
どこにでもありふれた、 特別に 「恵まれた家庭で 何不自由なく育った」といわれるほどでもない 「普通」の環境からでも、 世の中や 自身の思考が、 真に公平・平等とまでではなくても 概ねでは 極端に脱するほどではなく それなりには健全なことになっている世界観が、 当たり前の常識として見えているらしい。
でも、 その世界観は、 家庭が要因での「そうではない環境」の立場では 無数に経験する、 ありがちな言葉では 『偏見』『差別的』とか 『社会の歪み』と表されるような、 自身の能力や行動の実際とは無関係に 家庭面の「そうではない環境」を理由として科される不条理が連鎖する実際は、 根本的に 全く違いすぎていると感じる。
こういう部分は、 実際に経験していなければ、 断片的な それっぽい文言を ただ復唱して わかっているつもりになっていても、 その大きすぎる重さも、 そもそも それが何なのかも、 微々たる ほんの一端すら、 わかり、感じられることは まず望めないことを、 何かの機会がある度に痛感する。
そして、 『社会の歪み』の側にいる面々は、 他者の『偏見』『差別的』な言動や『社会の歪み』を批判していながら、 まさに自身こそが 同じ あるいは もっと歪んだ思考での 具体的な言動をしている矛盾にも 気付くことができないもの。
家庭面の「そうではない環境」を理由として具体的で直接的に明言されて 実際とは無関係な断定を勝手に決め付けられることは、 多くの教師も含めて 無数に経験している。
そういう勝手な決め付けの誤り(というか、 殆どの場合、 根本から全てが明確に矛盾して そもそも実在し得ない支離滅裂ぶり)を指摘する必要がある状況では、 具体的な事実を挙げてもなお、 その自身は、 『差別的』な思考が当然でいて 実際に それに沿った行動をしている現実を タテマエでは 社会的な美徳感に沿った健全なことにして 辻褄が合っていないまま暮らしていて恒常化した矛盾に気付くことはできず、 そもそも見てもいないのに 自身が見て確認した事実と称して詳細に語っているお噺が 実態の欠片も全くない虚構でしかないことも 自覚できない。
また、 その断定の根拠として 家庭面の「そうではない環境」を具体的で直接的に明言している事実も、 ほんの数秒前に その文言を自身が発したことから 自覚できない。
そのため、 また更に、 断定の根拠として 家庭面の「そうではない環境」を具体的で直接的に明言して 現実とは全く違うお噺を口走り続けることを 延々と繰り返すだけの、 “人”としての会話と呼べる関係そのものが成立することを望めるとは到底思えない 不毛な状況になるばかり。
そのため、 『社会の歪み』の側の面々は、 自身の言動に対する 自身のタテマエでは都合が悪い指摘を、 相手が「自分の殻の中に閉じ籠もっている」 「被害妄想」と決め付けがちのようだが、 現実は 完全なあべこべで、 それこそが 『自分の殻の中に閉じ籠もって』 自身のタテマエではご都合がよい『妄想』を積み重ねているだけのこと。
そして、 自身が『妄想世界』に閉じ籠っているだけの現実が理解できず・・・ というか、 自身こそが現実を見ようとすること自体から逃げ続けていながら、 わざわざ、 ありもしなければ、 明確に辻褄が合っていないのだから あり得るはずもないことを言い張り続けてしまっているから 馬鹿げた状況になってしまっているのに、 実際とは あべこべに、 自身が わざわざ作った不都合を相手の所為にして、 相手の誤りを正して指導してあげる正義感を振りかざして 更に『妄想』を口走っては 延々と ご勝手な虚構を積み重ね続けて、 ますます 正義感が勢いづいて・・・ の 醜態を晒し続けられる愚行に巻き込まれるのだから、 迷惑極まりない。
そんな風に、 むしろ、 全く違うことを わかっているつもりになっている面々、 そして、 より歪んだ思考で暮らしている面々ほど、 自身にはご都合が良い ご勝手な『妄想』を より多く積み上げて、 より一層に 良識者面してしまう。
そして、 そういう わかっているつもりの 支離滅裂な説法が喧伝されては、 それが ご都合が良い面々が群れ集って称賛して、 その周囲の面々も含めて なお一層の 良識者気取りに陶酔してしまう、 世の中全体での 馬鹿げた? 愚かな? 狂った? 大きな『妄想』の無限ループは とても根が深い。
そして、 これは、 別の例では・・・
(これまでにも書いてきたように、) 鳥関連での 頭数【あたまかず】では 圧倒的大多数を占める、 目の前にある現実の ありのままを理解できることは無く、 そして、 単にわからないだけでは済んでいなくて、 何でも 必ず 現実とは違うことが 現実として見えてしまって、 現実とは全く違う『妄想世界』のお伽噺を語り合って暮らしている面々の集いが成立する構図と 同じだろう。
現実を正しくわかることができる人には より正しいことが より望ましく正しいこととわかり、 優れているようになれてきた人には より優れていることが より望ましく優れていることとわかって、 経験と共に より向上していくことができる。
でも、 『思考停止』と表されたりもする、 自身で考えたり 確かめるということ自体が 未だに わかるようにならないまま、 何でも 全て他者に倣って 誰かから教えられたお噺の断片を復唱することで わかっている振りをして ごまかし続けている面々は、 どういう状況ででも、 自身が 優れているとか 正しいことにするのにご都合がよいお噺の下に群がる。
だから、 間違っている面々には より馬鹿げた間違いほど より望ましく正しいことになり、 劣りすぎている面々には より劣っていることが より望ましく優れていることになってしまって、 より一層の間違いを深めて 一段と劣化することを、 あべこべに 向上したつもりになってしまう。
鳥写真の関連でなら、 稚拙すぎるにも全く及ばないことをしただけで 超絶に優れたことに『成功』したと 大きなお声でご自慢しているお方の周りに 続々と吹き溜まっての集いが形成される、 毎度毎度の情景。
そういう集いでは、 ありがたがられている“ご教義”のお噺を復唱することが 正しくて優れている証明の根拠とされて、 その“設定”とは異なることは 間違っていて劣っている証明とされる。
でも、 本来 一番肝心な、 その“ご教義”であり それに沿った“設定”でありが 本当に正しいのか、 優れていると称するものが 本当に優れているのか、という 根本の本質的な部分には、 そもそも 目を向けることは無い・・・ というか、 そこに集うにおいて 大前提のお約束である“設定”に疑問を持つのは、 それ自体が“設定”に反するのを根拠として 間違っていて劣っていることになってしまう、 本質の実態がないご都合での集いだからこその必要性で共有されている 暗黙の了解での 触れてはいけない お約束の闇。
だから『思考停止』であり、 だから、 実際にやっていることとは全く違うことに『成功』したとご自慢している矛盾にすら 気付くことはできない。
これは 同時に、 もし、 自身が優れているとする根拠にしている集いの支離滅裂ぶりに気付いてしまうことになれば、 自身が醜態を晒してきた現実に気付くこと そのもの。
だからこそ 現実に気付く必要がある・・・ のが、 真っ当で 普通だろうが・・・
その現実に気付き、 その現実に向き合って 自身を改善していける 最低限の知的な能力があって現在に至っているのなら、 そもそも そんな集いには 一度として関わったりしていないだろう。
まして、 あまりにも馬鹿げすぎている矛盾にすら気付けずに、 “人”なら 全くあり得るはずもない醜態を すでに延々と積み上げてきた、 しかも、 多くは、 ご立派を気取って ご自慢の押し売りにまで励み続けて わざわざ ひけらかし回ってきた、となると・・・
そういう面々が 実際とは違うものが見えてしまって暮らしていることがわかっている側からは、 もし 『幻想世界』の面々が リアル世界の現実に気付いてしまうことになれば 『何に気付く』のかが わかっているので、 実際に気付いたとなれば、 言葉では 何も言わなくても、 あるいは、 ごまかそうとしたところで、 立ち居振る舞いで 容易に そして 明確にわかる。
だから、 そういう集いの中で暮らしている面々が、 リアル世界の実際が、 自身が優れていることにしている“設定”とは 全く違う現実が見えそうになってしまうと、 その現実を認めることが受け入れられずに、 (より本当には すでに知ってしまっている)現実から目を背け 耳を塞いで、 それまで拠り所にしてきた“設定”を復唱し合って その正しさを証明し合っていられる 同類さん同士だけでの『幻想世界』に逃げ戻って 閉じ籠もり続けていることも 明確にわかるもの。
そういう状況は、 自身の矛盾を “認識(もしくは 理解、自覚、...)している”のか “認識できていない”のか、は、 表すのが難しい部分だが・・・
矛盾しているからこそ、 (そもそも 本当に自身が正しいのが当然でいるのなら そもそも する必要などない) 自身の正当化を声高に叫ばずにはいられない不安から、 また更に一段と大きなお声で 『幻想世界』の“設定”の復唱を ご熱心に繰り返して 同類さんに賛同を求めて回り続けることで、 ますます その馬鹿げたお噺が さも事実かのように喧伝されていく。
そういう『幻想世界』に暮らし続けている面々の存在は、 鳥関連が、 他の分野や 世の中全体と比べて 割合が極端に多い特殊な世界ということでは ないだろう。
もちろん、 ピアノや スポーツのような、 初心者が “ある程度”には リアル世界全体からの 客観性がある指導と評価が期待できる「~~教室」的な環境を経ることができる分野では、 少々 事情が違うが・・・
実態とはかけ離れすぎた『幻想世界』に暮らし続けている面々が 頭数では圧倒的大多数を占めているのは、 鳥関連だけではなく、 他の分野でも 世の中全体でも 同じはず。
世の中全般にあることは どの分野でも 同じようにあるし、 何かの分野にあることは 世の中全般でも 同じようにあるもの。
何かの特定の分野にあることは 他の分野でも 同じようにあるもの。
リアル世界にあることは ネット世界でも 同じようにあるし、 ネット世界にあることは リアル世界でも 同じようにあるもの。
(鳥関連のような) 日常生活での 最低限の必須要素ではない 特定の分野の中での、 元々 周囲から配慮をしてもらえていることで お幸せに集っていられている『幻想世界』での醜態なら、 その現実に気付いてしまっても、 以降は、 実態をわかっているからこそ 温かい目で そっとスルーしてくれていると目される人とは隣接しない状況に限定した『幻想世界』の集いの中に閉じ籠もるに徹して、 また、 ご立派を気取って ご指導してあげようと周囲に絡みついていく 勘違い行動をしなれば、 自身の本質には向き合おうとせずに、 それでも 自身が 稚拙ぶりをあべこべに得意げでいる現実を認識せざるを得ない状況を わざわざ自身で作って 不都合な感情が生じてしまうのは緩和しようとする ごまかしの逃げ道もあるだろうが・・・
でも、 『社会の歪み』での “人”として関わることが困難な醜態を晒している状況は、 日常生活そのものの中でのこと。
そして、 これは、 特に、 教師によるもののような、 その都度 現実を明確に示すことが必要な状況もある。
その、 自身のタテマエでは不都合な 『偏見』や『差別的』な思考での 支離滅裂な言動の現実を明確に示されることには、 中途半端にごまかせる逃げ道はなく、 自身が 知的面で“人”として接せられる存在ではあり得ない現実のありのままを 正しく認めた上で、 一時の表面上の文言だけではない 実態と継続性がある 真摯な言動を示すことでしか、 “人”として関われる以前に、“人”として関われる可能性の模索を始められることすら あり得ようがない。
それを、 頑なに ご勝手なご都合での妄想話を捏ね繰り回して 自身を自賛し続ける『幻想世界』に閉じ籠もり続けるのでは、 もう 永久に“人”として見てもらえなくなるのは 当然のことだろう。
それでも・・・、 『偏見』や『差別的』な思考を当然としていながら良識者面でいる面々は、 遠大で膨大な労力の先で 一時的には 自覚するに至る状況があっても なお、 私の経験の限りでは 例外なく全てが すぐに現実を認めることから逃げて、 一切誇張なく 全くリアルな ほんの数秒の まさに一瞬で、 また 同類さんが圧倒的に多くいる『幻想世界』に閉じ籠もって、 ご都合の妄想噺を正しいことにし合える同類さん同士だけで正当化し合って、 ますます良識者面して 全く矛盾した決め付けを喧伝して回る 無限ループの繰り返しに帰す・・・ というか、 更に一層 悪化してしまうのが、 根が深すぎる要因だろう。
少々 前に、 鈴木彩子 「ミステリー~運命(さだめ)~」について書いたことで 思ったこと...
どこにでもありふれた、 特別に 「恵まれた家庭で 何不自由なく育った」といわれるほどでもない 「普通」の環境からでも、 世の中や 自身の思考が、 真に公平・平等とまでではなくても 概ねでは 極端に脱するほどではなく それなりには健全なことになっている世界観が、 当たり前の常識として見えているらしい。
でも、 その世界観は、 家庭が要因での「そうではない環境」の立場では 無数に経験する、 ありがちな言葉では 『偏見』『差別的』とか 『社会の歪み』と表されるような、 自身の能力や行動の実際とは無関係に 家庭面の「そうではない環境」を理由として科される不条理が連鎖する実際は、 根本的に 全く違いすぎていると感じる。
こういう部分は、 実際に経験していなければ、 断片的な それっぽい文言を ただ復唱して わかっているつもりになっていても、 その大きすぎる重さも、 そもそも それが何なのかも、 微々たる ほんの一端すら、 わかり、感じられることは まず望めないことを、 何かの機会がある度に痛感する。
そして、 『社会の歪み』の側にいる面々は、 他者の『偏見』『差別的』な言動や『社会の歪み』を批判していながら、 まさに自身こそが 同じ あるいは もっと歪んだ思考での 具体的な言動をしている矛盾にも 気付くことができないもの。
家庭面の「そうではない環境」を理由として具体的で直接的に明言されて 実際とは無関係な断定を勝手に決め付けられることは、 多くの教師も含めて 無数に経験している。
そういう勝手な決め付けの誤り(というか、 殆どの場合、 根本から全てが明確に矛盾して そもそも実在し得ない支離滅裂ぶり)を指摘する必要がある状況では、 具体的な事実を挙げてもなお、 その自身は、 『差別的』な思考が当然でいて 実際に それに沿った行動をしている現実を タテマエでは 社会的な美徳感に沿った健全なことにして 辻褄が合っていないまま暮らしていて恒常化した矛盾に気付くことはできず、 そもそも見てもいないのに 自身が見て確認した事実と称して詳細に語っているお噺が 実態の欠片も全くない虚構でしかないことも 自覚できない。
また、 その断定の根拠として 家庭面の「そうではない環境」を具体的で直接的に明言している事実も、 ほんの数秒前に その文言を自身が発したことから 自覚できない。
そのため、 また更に、 断定の根拠として 家庭面の「そうではない環境」を具体的で直接的に明言して 現実とは全く違うお噺を口走り続けることを 延々と繰り返すだけの、 “人”としての会話と呼べる関係そのものが成立することを望めるとは到底思えない 不毛な状況になるばかり。
そのため、 『社会の歪み』の側の面々は、 自身の言動に対する 自身のタテマエでは都合が悪い指摘を、 相手が「自分の殻の中に閉じ籠もっている」 「被害妄想」と決め付けがちのようだが、 現実は 完全なあべこべで、 それこそが 『自分の殻の中に閉じ籠もって』 自身のタテマエではご都合がよい『妄想』を積み重ねているだけのこと。
そして、 自身が『妄想世界』に閉じ籠っているだけの現実が理解できず・・・ というか、 自身こそが現実を見ようとすること自体から逃げ続けていながら、 わざわざ、 ありもしなければ、 明確に辻褄が合っていないのだから あり得るはずもないことを言い張り続けてしまっているから 馬鹿げた状況になってしまっているのに、 実際とは あべこべに、 自身が わざわざ作った不都合を相手の所為にして、 相手の誤りを正して指導してあげる正義感を振りかざして 更に『妄想』を口走っては 延々と ご勝手な虚構を積み重ね続けて、 ますます 正義感が勢いづいて・・・ の 醜態を晒し続けられる愚行に巻き込まれるのだから、 迷惑極まりない。
そんな風に、 むしろ、 全く違うことを わかっているつもりになっている面々、 そして、 より歪んだ思考で暮らしている面々ほど、 自身にはご都合が良い ご勝手な『妄想』を より多く積み上げて、 より一層に 良識者面してしまう。
そして、 そういう わかっているつもりの 支離滅裂な説法が喧伝されては、 それが ご都合が良い面々が群れ集って称賛して、 その周囲の面々も含めて なお一層の 良識者気取りに陶酔してしまう、 世の中全体での 馬鹿げた? 愚かな? 狂った? 大きな『妄想』の無限ループは とても根が深い。
そして、 これは、 別の例では・・・
(これまでにも書いてきたように、) 鳥関連での 頭数【あたまかず】では 圧倒的大多数を占める、 目の前にある現実の ありのままを理解できることは無く、 そして、 単にわからないだけでは済んでいなくて、 何でも 必ず 現実とは違うことが 現実として見えてしまって、 現実とは全く違う『妄想世界』のお伽噺を語り合って暮らしている面々の集いが成立する構図と 同じだろう。
現実を正しくわかることができる人には より正しいことが より望ましく正しいこととわかり、 優れているようになれてきた人には より優れていることが より望ましく優れていることとわかって、 経験と共に より向上していくことができる。
でも、 『思考停止』と表されたりもする、 自身で考えたり 確かめるということ自体が 未だに わかるようにならないまま、 何でも 全て他者に倣って 誰かから教えられたお噺の断片を復唱することで わかっている振りをして ごまかし続けている面々は、 どういう状況ででも、 自身が 優れているとか 正しいことにするのにご都合がよいお噺の下に群がる。
だから、 間違っている面々には より馬鹿げた間違いほど より望ましく正しいことになり、 劣りすぎている面々には より劣っていることが より望ましく優れていることになってしまって、 より一層の間違いを深めて 一段と劣化することを、 あべこべに 向上したつもりになってしまう。
鳥写真の関連でなら、 稚拙すぎるにも全く及ばないことをしただけで 超絶に優れたことに『成功』したと 大きなお声でご自慢しているお方の周りに 続々と吹き溜まっての集いが形成される、 毎度毎度の情景。
そういう集いでは、 ありがたがられている“ご教義”のお噺を復唱することが 正しくて優れている証明の根拠とされて、 その“設定”とは異なることは 間違っていて劣っている証明とされる。
でも、 本来 一番肝心な、 その“ご教義”であり それに沿った“設定”でありが 本当に正しいのか、 優れていると称するものが 本当に優れているのか、という 根本の本質的な部分には、 そもそも 目を向けることは無い・・・ というか、 そこに集うにおいて 大前提のお約束である“設定”に疑問を持つのは、 それ自体が“設定”に反するのを根拠として 間違っていて劣っていることになってしまう、 本質の実態がないご都合での集いだからこその必要性で共有されている 暗黙の了解での 触れてはいけない お約束の闇。
だから『思考停止』であり、 だから、 実際にやっていることとは全く違うことに『成功』したとご自慢している矛盾にすら 気付くことはできない。
これは 同時に、 もし、 自身が優れているとする根拠にしている集いの支離滅裂ぶりに気付いてしまうことになれば、 自身が醜態を晒してきた現実に気付くこと そのもの。
だからこそ 現実に気付く必要がある・・・ のが、 真っ当で 普通だろうが・・・
その現実に気付き、 その現実に向き合って 自身を改善していける 最低限の知的な能力があって現在に至っているのなら、 そもそも そんな集いには 一度として関わったりしていないだろう。
まして、 あまりにも馬鹿げすぎている矛盾にすら気付けずに、 “人”なら 全くあり得るはずもない醜態を すでに延々と積み上げてきた、 しかも、 多くは、 ご立派を気取って ご自慢の押し売りにまで励み続けて わざわざ ひけらかし回ってきた、となると・・・
そういう面々が 実際とは違うものが見えてしまって暮らしていることがわかっている側からは、 もし 『幻想世界』の面々が リアル世界の現実に気付いてしまうことになれば 『何に気付く』のかが わかっているので、 実際に気付いたとなれば、 言葉では 何も言わなくても、 あるいは、 ごまかそうとしたところで、 立ち居振る舞いで 容易に そして 明確にわかる。
だから、 そういう集いの中で暮らしている面々が、 リアル世界の実際が、 自身が優れていることにしている“設定”とは 全く違う現実が見えそうになってしまうと、 その現実を認めることが受け入れられずに、 (より本当には すでに知ってしまっている)現実から目を背け 耳を塞いで、 それまで拠り所にしてきた“設定”を復唱し合って その正しさを証明し合っていられる 同類さん同士だけでの『幻想世界』に逃げ戻って 閉じ籠もり続けていることも 明確にわかるもの。
そういう状況は、 自身の矛盾を “認識(もしくは 理解、自覚、...)している”のか “認識できていない”のか、は、 表すのが難しい部分だが・・・
矛盾しているからこそ、 (そもそも 本当に自身が正しいのが当然でいるのなら そもそも する必要などない) 自身の正当化を声高に叫ばずにはいられない不安から、 また更に一段と大きなお声で 『幻想世界』の“設定”の復唱を ご熱心に繰り返して 同類さんに賛同を求めて回り続けることで、 ますます その馬鹿げたお噺が さも事実かのように喧伝されていく。
そういう『幻想世界』に暮らし続けている面々の存在は、 鳥関連が、 他の分野や 世の中全体と比べて 割合が極端に多い特殊な世界ということでは ないだろう。
もちろん、 ピアノや スポーツのような、 初心者が “ある程度”には リアル世界全体からの 客観性がある指導と評価が期待できる「~~教室」的な環境を経ることができる分野では、 少々 事情が違うが・・・
実態とはかけ離れすぎた『幻想世界』に暮らし続けている面々が 頭数では圧倒的大多数を占めているのは、 鳥関連だけではなく、 他の分野でも 世の中全体でも 同じはず。
世の中全般にあることは どの分野でも 同じようにあるし、 何かの分野にあることは 世の中全般でも 同じようにあるもの。
何かの特定の分野にあることは 他の分野でも 同じようにあるもの。
リアル世界にあることは ネット世界でも 同じようにあるし、 ネット世界にあることは リアル世界でも 同じようにあるもの。
(鳥関連のような) 日常生活での 最低限の必須要素ではない 特定の分野の中での、 元々 周囲から配慮をしてもらえていることで お幸せに集っていられている『幻想世界』での醜態なら、 その現実に気付いてしまっても、 以降は、 実態をわかっているからこそ 温かい目で そっとスルーしてくれていると目される人とは隣接しない状況に限定した『幻想世界』の集いの中に閉じ籠もるに徹して、 また、 ご立派を気取って ご指導してあげようと周囲に絡みついていく 勘違い行動をしなれば、 自身の本質には向き合おうとせずに、 それでも 自身が 稚拙ぶりをあべこべに得意げでいる現実を認識せざるを得ない状況を わざわざ自身で作って 不都合な感情が生じてしまうのは緩和しようとする ごまかしの逃げ道もあるだろうが・・・
でも、 『社会の歪み』での “人”として関わることが困難な醜態を晒している状況は、 日常生活そのものの中でのこと。
そして、 これは、 特に、 教師によるもののような、 その都度 現実を明確に示すことが必要な状況もある。
その、 自身のタテマエでは不都合な 『偏見』や『差別的』な思考での 支離滅裂な言動の現実を明確に示されることには、 中途半端にごまかせる逃げ道はなく、 自身が 知的面で“人”として接せられる存在ではあり得ない現実のありのままを 正しく認めた上で、 一時の表面上の文言だけではない 実態と継続性がある 真摯な言動を示すことでしか、 “人”として関われる以前に、“人”として関われる可能性の模索を始められることすら あり得ようがない。
それを、 頑なに ご勝手なご都合での妄想話を捏ね繰り回して 自身を自賛し続ける『幻想世界』に閉じ籠もり続けるのでは、 もう 永久に“人”として見てもらえなくなるのは 当然のことだろう。
それでも・・・、 『偏見』や『差別的』な思考を当然としていながら良識者面でいる面々は、 遠大で膨大な労力の先で 一時的には 自覚するに至る状況があっても なお、 私の経験の限りでは 例外なく全てが すぐに現実を認めることから逃げて、 一切誇張なく 全くリアルな ほんの数秒の まさに一瞬で、 また 同類さんが圧倒的に多くいる『幻想世界』に閉じ籠もって、 ご都合の妄想噺を正しいことにし合える同類さん同士だけで正当化し合って、 ますます良識者面して 全く矛盾した決め付けを喧伝して回る 無限ループの繰り返しに帰す・・・ というか、 更に一層 悪化してしまうのが、 根が深すぎる要因だろう。
前回からは かなり間が空きましたが・・・
ビクターから 鈴木彩子名義のCDで出ていた分の 全作品が、 配信に対応したとのことで...
今回は、 5thアルバム『BORO BORO』について。
前に、 『ALL TIME BEST ALBUM』で 「希望の鐘」を挙げた時に書いたのと 同じ話ですが...
このアルバムを最初に聴いた時に思った印象は、 四半世紀位経っている今でも、 とてもよく憶えている。
といっても、 印象が良かったのではない。
一言一句 そのまま文字にすれば、 「このCD、叩き割ったろか」だった x x x
そして、 思っただけではなくて、 叩き割りはしなくても、 叩き割るような振りもした x x x
でも、 最悪な印象にも、 何か 引っかかるものがあった...のだろうか・・・
その後も、 何度か聴いている中で、 評価が 大きく転換して、 とても重要な位置を占める作品になるのだから、 最初の 一度や数度での印象は、 浅い理解にすぎなくて、 そう確かなものではないということだろう。
まぁ、 今となっては、 あの時 叩き割らなくてよかったと思う x x x
◆ Generation
この曲を どう評価するか・・・
単独で見ると、 希望を 高らかに歌う スケールの大きい曲と見ることもできるだろうが、 キレイ事を並べただけの リアル感がない 薄っぺらな印象になるかもしれない。
個人的には、 後者の印象が強かったことが、 最初の 印象の悪さの一端になっていただろうと思う。
でも、 どこまで意図された狙いだったのかは わからないが、 アルバムの1曲目として、 最後の 「希望の鐘」との関連を意識すると、 とても重要な意味があるように見えてくる。
そして、 キレイ事にすぎないとも思える言葉も、 アルバム全体でのメッセージ性に重要な曲になっていると感じられる。
◆ ミステリー~運命(さだめ)~
2ndアルバム 『明日へつながる道』の時に 少しだけ触れましたが...
このアーティストの曲では、 家族に類する要素が描かれることは とても少ない。
この曲の中では、 その要因として 特にナーバスな部分だろう“父”の姿が、 直接的な文言としては ほんの一瞬だけ描かれている。
その視線の冷たさは、 とてもリアルなものだろう。
この詞の全体で描かれているものとして思い浮かぶ世界観は、 それぞれ自身の経験で 大きく違うのかもしれない。
自分としては、 家庭環境的な要因での困難がある状況では 対外的な関係で 日常の様々な場面で無数に経験することで 見えてしまう、 いくつか特定のエピソードそのものというよりも、 その根源にある 大きく深く重い“社会の歪み”...、 (自身では 諸々のコンプレックスはあっても) どこにでもありふれた程度には恵まれた環境で暮らしていれば 気付けないらしい、 自身では概ね良識的で健全と信じられているタテマエと 現実の思考とが 全く矛盾した行動での 不条理に満ちた社会の、 “人”の醜さや哀しさも 含まれていると感じるのだが・・・
その“社会の歪み”を構成している側での経験しかなければ、 曲の表現としての重さに バランスが取れていないような 違和感があるかもしれない。
◆ BORO BORO
この曲名なので、 ハッピーな曲ではないが...
サウンドは コミカルな感じもあって、 ネガティブとも見られがちな 重さがある感情も ストレートな言葉で表されている部分もありながらも、
電信柱に登って 喜んだのはガキの頃
国会議事堂に登り 喜ばせてあげようか
あたりの言い回しとも併せて、 ちょっと 茶化したような、 他とは 少し趣きが違う印象の曲にも思う。
◆ 希望の鐘
前にも書いた通り...
この曲を 最初に聴いた時の印象は、 腹立たしいほどに スカスカで カっスカスな評価だった。
それが、 かなりの後になって、 いくつかの要素から視点が広がって、 感動する曲に 大転換した・・・
この曲は、 アルバム全体を通して聴くことで、 意味 そして 価値が 格段に高くなる曲だと思う。
それが 同時に、 アルバム内の 他の曲で描かれている世界観の意味やメッセージ、 そして、 重さのある心情にも向き合ってこその、 その先にあるべき 希望へのイメージが強められる構成になっていると感じる。
このアーティストは 聴く側が 決まった振り付けで動くことを求められるようなスタイルではないのだが、 このアルバムを 厚く聴いてきた人なら、 この曲の 前奏、間奏、アウトロでは 腕を振り上げることに 自然と一致するはず。
でも、 この曲の詞には、 そういう文言は 歌われていない。
それでも、 このアーティスト自身の声で 聞いたはず... それは 何処で...
他にもあるが・・・、 そこを 既に知って聴いてきた人なら、 この曲だけを切り出して聴いても感じられることも、 そこを まだ知らないで この曲だけを聞いても、 印象も 評価も、 ずいぶん 違うものにしかならないだろう。
だから、 このアルバムを通して聴くことをしないのでは 勿体ない... と思う。
そして、 このアルバムを厚く聴けば、 音楽という手法が 「アート(芸術)」・・・、 単に 芸事を披露するだけではない 「芸的な術を用いての メッセージ的な表現」をできるものだからこそ、 それをする人が「アーティスト」と呼ばれる 本質的な意味の一端を感じることができる作品になっていると思う。
ビクターから 鈴木彩子名義のCDで出ていた分の 全作品が、 配信に対応したとのことで...
今回は、 5thアルバム『BORO BORO』について。
前に、 『ALL TIME BEST ALBUM』で 「希望の鐘」を挙げた時に書いたのと 同じ話ですが...
このアルバムを最初に聴いた時に思った印象は、 四半世紀位経っている今でも、 とてもよく憶えている。
といっても、 印象が良かったのではない。
一言一句 そのまま文字にすれば、 「このCD、叩き割ったろか」だった x x x
そして、 思っただけではなくて、 叩き割りはしなくても、 叩き割るような振りもした x x x
でも、 最悪な印象にも、 何か 引っかかるものがあった...のだろうか・・・
その後も、 何度か聴いている中で、 評価が 大きく転換して、 とても重要な位置を占める作品になるのだから、 最初の 一度や数度での印象は、 浅い理解にすぎなくて、 そう確かなものではないということだろう。
まぁ、 今となっては、 あの時 叩き割らなくてよかったと思う x x x
◆ Generation
この曲を どう評価するか・・・
単独で見ると、 希望を 高らかに歌う スケールの大きい曲と見ることもできるだろうが、 キレイ事を並べただけの リアル感がない 薄っぺらな印象になるかもしれない。
個人的には、 後者の印象が強かったことが、 最初の 印象の悪さの一端になっていただろうと思う。
でも、 どこまで意図された狙いだったのかは わからないが、 アルバムの1曲目として、 最後の 「希望の鐘」との関連を意識すると、 とても重要な意味があるように見えてくる。
そして、 キレイ事にすぎないとも思える言葉も、 アルバム全体でのメッセージ性に重要な曲になっていると感じられる。
◆ ミステリー~運命(さだめ)~
2ndアルバム 『明日へつながる道』の時に 少しだけ触れましたが...
このアーティストの曲では、 家族に類する要素が描かれることは とても少ない。
この曲の中では、 その要因として 特にナーバスな部分だろう“父”の姿が、 直接的な文言としては ほんの一瞬だけ描かれている。
その視線の冷たさは、 とてもリアルなものだろう。
この詞の全体で描かれているものとして思い浮かぶ世界観は、 それぞれ自身の経験で 大きく違うのかもしれない。
自分としては、 家庭環境的な要因での困難がある状況では 対外的な関係で 日常の様々な場面で無数に経験することで 見えてしまう、 いくつか特定のエピソードそのものというよりも、 その根源にある 大きく深く重い“社会の歪み”...、 (自身では 諸々のコンプレックスはあっても) どこにでもありふれた程度には恵まれた環境で暮らしていれば 気付けないらしい、 自身では概ね良識的で健全と信じられているタテマエと 現実の思考とが 全く矛盾した行動での 不条理に満ちた社会の、 “人”の醜さや哀しさも 含まれていると感じるのだが・・・
その“社会の歪み”を構成している側での経験しかなければ、 曲の表現としての重さに バランスが取れていないような 違和感があるかもしれない。
◆ BORO BORO
この曲名なので、 ハッピーな曲ではないが...
サウンドは コミカルな感じもあって、 ネガティブとも見られがちな 重さがある感情も ストレートな言葉で表されている部分もありながらも、
電信柱に登って 喜んだのはガキの頃
国会議事堂に登り 喜ばせてあげようか
あたりの言い回しとも併せて、 ちょっと 茶化したような、 他とは 少し趣きが違う印象の曲にも思う。
◆ 希望の鐘
前にも書いた通り...
この曲を 最初に聴いた時の印象は、 腹立たしいほどに スカスカで カっスカスな評価だった。
それが、 かなりの後になって、 いくつかの要素から視点が広がって、 感動する曲に 大転換した・・・
この曲は、 アルバム全体を通して聴くことで、 意味 そして 価値が 格段に高くなる曲だと思う。
それが 同時に、 アルバム内の 他の曲で描かれている世界観の意味やメッセージ、 そして、 重さのある心情にも向き合ってこその、 その先にあるべき 希望へのイメージが強められる構成になっていると感じる。
このアーティストは 聴く側が 決まった振り付けで動くことを求められるようなスタイルではないのだが、 このアルバムを 厚く聴いてきた人なら、 この曲の 前奏、間奏、アウトロでは 腕を振り上げることに 自然と一致するはず。
でも、 この曲の詞には、 そういう文言は 歌われていない。
それでも、 このアーティスト自身の声で 聞いたはず... それは 何処で...
他にもあるが・・・、 そこを 既に知って聴いてきた人なら、 この曲だけを切り出して聴いても感じられることも、 そこを まだ知らないで この曲だけを聞いても、 印象も 評価も、 ずいぶん 違うものにしかならないだろう。
だから、 このアルバムを通して聴くことをしないのでは 勿体ない... と思う。
そして、 このアルバムを厚く聴けば、 音楽という手法が 「アート(芸術)」・・・、 単に 芸事を披露するだけではない 「芸的な術を用いての メッセージ的な表現」をできるものだからこそ、 それをする人が「アーティスト」と呼ばれる 本質的な意味の一端を感じることができる作品になっていると思う。
初歩的なことですが、 前記事からの関連も ちょっとあって...
写真では、 写っているもの自体は 同じ情景でも、 四角い(←たいていの場合)枠の中に どう切り抜いてくるかが違えば、 見た人が思い描く印象が違ってくる。
それを意識して“写真”としての構成を考えるのは、 実際の ありのままを写した 非演出の ドキュメンタリー的な写真でも必要な、 視覚での“表現”としての 基本的な要素。
鳥の写真だと、 たとえば、 背景が 植物の緑に満ちていれば、 その撮影地が 自然豊かな環境のような印象を 持たれがちだろう、・・・が、 もしかすると、 背景を満たしている 植物の緑は 超望遠の とても狭い画角の ギリギリ1枚分だけしかない部分に 上手く重ねたもので、 その撮影地の実際は 殆ど 誰が見ても 自然豊かな印象を持つとは思えないような場所 、ということも あり得る、が、 写真を見るだけでは、 写っている状況の実際を知れる方法は ない。
こういう類のことは、 とても躍動的なシーンのようでも 実際は それほどでもない、とか、 大きさのイメージが 実際とは ずいぶん違って見える、とか、 ごく簡単なものから 多岐にわたる方法で 無数にある。
だから、 写真には、 (写された現場は見ていなくて、写真だけで)見た人が思い描く印象は 必ずしも 正しいとは限らない、とか、 その 実際とは違う印象を持つのは (偶発の場合もあるが) 撮影者の意図で 誘導されていることもある、という面がある。
そして、 これは、 同じ状況を撮るのでも、 “上手い人”ほど、“そうではない面々”の、 写真の表現としての要素には スタートラインすら見えていないような、 文言で表せは 「○○が写っている」と言えなくはないだけで 撮影に『成功』したと 達成感と優越感に満たされて 万歳でゴールしていられる 門外漢の理解では 想像できない写真を撮れる、という部分でもある。
そういった部分を、 撮影者の 写真自体でのスキル的な表現力・・・、 撮ろうとする状況自体の選択、 フレミング(撮影位置・画角・構図の選択)、 光の状態、 動きの中でのタイミング、 絞りやシャッター速度の加減、 明るさ・コントラスト・色調の加減、 etc... の効果で誘導されたものも含めて、 「写真の嘘」 「写真は嘘をつく」とか (“写真”の漢字表記に掛けた ダジャレ的に)「写っているものが真実ではない」といった類の言い方をすることもある。
これは、 ヤラセや合成の 『嘘の写真(写っているもの自体が嘘)』 『真実ではないものが写っている』のとは、 本質的に 意味が全く違うこと。
だから、 実際の ありのままを写した写真で 「(自然豊かな場所みたいですが、) それは 写真の嘘で、 ...」のような 説明がされていることも あり得る。
それを、 ありがちな、 ヤラセや合成での 捏造と 同じような単語が含まれる文言で表せるという 極度に断片的すぎる要素だけでの 間違った理解で混同してしまうのなら、 それは、 自身が (写真だけに限らず) 何でも 捏造した見せ掛けで ごまかすことしか考えられない 醜い存在だから、 他者も皆が 自身と同じだと 勝手に決めつけてしまっているだけの 愚かな思考だろう。
写真では、 写っているもの自体は 同じ情景でも、 四角い(←たいていの場合)枠の中に どう切り抜いてくるかが違えば、 見た人が思い描く印象が違ってくる。
それを意識して“写真”としての構成を考えるのは、 実際の ありのままを写した 非演出の ドキュメンタリー的な写真でも必要な、 視覚での“表現”としての 基本的な要素。
鳥の写真だと、 たとえば、 背景が 植物の緑に満ちていれば、 その撮影地が 自然豊かな環境のような印象を 持たれがちだろう、・・・が、 もしかすると、 背景を満たしている 植物の緑は 超望遠の とても狭い画角の ギリギリ1枚分だけしかない部分に 上手く重ねたもので、 その撮影地の実際は 殆ど 誰が見ても 自然豊かな印象を持つとは思えないような場所 、ということも あり得る、が、 写真を見るだけでは、 写っている状況の実際を知れる方法は ない。
こういう類のことは、 とても躍動的なシーンのようでも 実際は それほどでもない、とか、 大きさのイメージが 実際とは ずいぶん違って見える、とか、 ごく簡単なものから 多岐にわたる方法で 無数にある。
だから、 写真には、 (写された現場は見ていなくて、写真だけで)見た人が思い描く印象は 必ずしも 正しいとは限らない、とか、 その 実際とは違う印象を持つのは (偶発の場合もあるが) 撮影者の意図で 誘導されていることもある、という面がある。
そして、 これは、 同じ状況を撮るのでも、 “上手い人”ほど、“そうではない面々”の、 写真の表現としての要素には スタートラインすら見えていないような、 文言で表せは 「○○が写っている」と言えなくはないだけで 撮影に『成功』したと 達成感と優越感に満たされて 万歳でゴールしていられる 門外漢の理解では 想像できない写真を撮れる、という部分でもある。
そういった部分を、 撮影者の 写真自体でのスキル的な表現力・・・、 撮ろうとする状況自体の選択、 フレミング(撮影位置・画角・構図の選択)、 光の状態、 動きの中でのタイミング、 絞りやシャッター速度の加減、 明るさ・コントラスト・色調の加減、 etc... の効果で誘導されたものも含めて、 「写真の嘘」 「写真は嘘をつく」とか (“写真”の漢字表記に掛けた ダジャレ的に)「写っているものが真実ではない」といった類の言い方をすることもある。
これは、 ヤラセや合成の 『嘘の写真(写っているもの自体が嘘)』 『真実ではないものが写っている』のとは、 本質的に 意味が全く違うこと。
だから、 実際の ありのままを写した写真で 「(自然豊かな場所みたいですが、) それは 写真の嘘で、 ...」のような 説明がされていることも あり得る。
それを、 ありがちな、 ヤラセや合成での 捏造と 同じような単語が含まれる文言で表せるという 極度に断片的すぎる要素だけでの 間違った理解で混同してしまうのなら、 それは、 自身が (写真だけに限らず) 何でも 捏造した見せ掛けで ごまかすことしか考えられない 醜い存在だから、 他者も皆が 自身と同じだと 勝手に決めつけてしまっているだけの 愚かな思考だろう。
少し前に、 鈴木彩子「この闇を越えて」について書くことで、
あらためて 思ったこと・・・
大サビでの 歌詞の一節、というか、 元のメロディーから外れたところで語りかけるようなフレーズなので “台詞”の方が 近いのかもしれないが...
四角い空を見上げてるよりも 自分の力ではばたいてみろよ
この“四角い空”という言葉は、 上手く表された言い方だと思う。
ネット情報でも、 テレビでも、 新聞・雑誌・書籍(教科書・参考書、辞典・辞書、解説書・図鑑、etc...)等でも、 色々なことを見るとか 学ぶとかの “知る”ことは できる。
でも、 「百聞は一見に如かず」というように、 リアル世界の実際に直接関わる以外での、 四角い枠の中で“知る”ことができるのは、 概要の中でも ごくごく断片的なものだけ。
これだけでは、 「百聞」でも「一見に如かず」なのに、“一聞”程度のものでしかない。
まぁ、 テストや クイズでの解答でなら、 そのレベルの知識でも、 名称や 文言が 間違いではなければ、 正解!として 解っているという評価になるのだろうが・・・
そして、 “百聞”以上の“一見”、 あるいは、 その先の、 リアル世界の実際に関わる“経験”を伴って知ることは、 それを 文字的に表せば 同じような単語が並んだ 似たような文面になっても、 そこにある 知っていることの実体は 根本的に違う。
リアル世界の実際には あるはずもない 四角い枠に囲まれた情報を復唱しているだけの 経験を伴っていない知識は、 表される文言自体は 間違いとまではいえなくても、 リアル世界の実際を知っている人には、 実質的には全く違うという位に 底浅く 薄っぺらにすぎないことが 容易に判っても、 当の自身は その実際を知らないので、 ちゃんと解っているつもりになっていがち。
そういう 四角い枠の中で見えるものを 並べるだけ、考えるだけで、 行動しなければ、 実際は 何も知ることもないままで、 何もできない。
そして、 ここでも 何度か “鳥”に関して “常識”とか“優れた知識”として蔓延している情報の 馬鹿げた実態を書いているように、 そもそも、 実際とは違うものが見えてしまっている面々だけで集って行われている “~~ごっこ”の設定すぎないものを復唱し合う醜態が 同類さん同士で称え合われて、 周囲にも 得意げに ご自慢の押し売りに励まれることで 垂れ流されている“迷信”も、 とても多い。
そういう“迷信”の殆どは、 正しい実際を知ることに 高度な知識や見識を必要とするようなものではなく、 興味・関心を持って見れば、 容易に 間違いに気付けるもの。
しかし、 “その世界”への関心が乏しい 一般の人は、 その検証をすることは まず無く そのまま 鵜呑みにしがち、 ・・・ あるいは、 更に間違った理解に化けてしまったり・・・
そのため、 そういう集いの外の 一般でも、 リアル世界の実際とは全く違う“迷信”が さも実際かのように語られ、 真に受けてしまっている面々の方が 大勢を占めてしまっているのも、 全く珍しくもなく、 どこにでも ありがち。
だから、 自身が行動することで、 本当のことを知り、本当のことをできるようになるのは、 大切なこと・・・、 だが・・・
そこまでなら、 そう難しくはないことも 多いのかもしれない。
なのだが、 実際問題では・・・
たとえば、 表向きは 自然の写真を撮っていると謳っているプロ写真家氏が選者を務めるコンテストでも、 実際の自然には実在しない、 ヤラセで創作された“不自然さが気持ち悪い情景”が、 “自然の美しさ”や “生態” “生息環境”など 門外漢には いかにも それっぽく見えるらしい 好まれがちな断片的な語句を並べただけの 不可解なご解説で 称えられたりしてしまったりする。
ありがちな ヤラセ写真・・・、 鳥写真でなら、 たとえば、 梅だったり 桜だったりが、 何故か 水辺の低い位置に 何故か ご都合良く1本だけ伸びて お花が咲いている枝に カワセミがとまっている、の図。
そこに写っている外側に、 どんな 梅の木、 桜の木があると思うのだろうか・・・
そのお花が 梅だ、桜だと 知っているというだけでは、 四角い枠に囲まれた 薄っぺらな知識でしかない。
実際に“自然写真”を撮っている写真家氏が、 梅の木、桜の木も知らないことが あり得るのだろうか?
当たり前すぎることを いちいち書くと 可笑しな話になってしまうが、 自然の写真を写すこととは、 その文字の通り、 自然を写すことだろう。
写っているものが 自然物だからといって、 何でも 自然の写真なのではない。
自然に向き合うこともなく、 自身が “神”や“創造主”になってしまって、 リアル世界の実際とは無関係な お伽噺のような 勝手な嗜好のご都合に合わせた、 リアル世界には実在しない情景を創作しているのでは、 自然の写真とは 本質的に 全く違うもの。
あるいは、 ヤラセ写真と 『合成写真』は 何が違うのか。
ヤラセ写真は、 『合成写真』が 撮影した後に『合成』で加工して改変する代わりとして 撮影する状況の側を ヤラセで加工して改変しているだけのことで、 リアル世界には実在していなかった“架空の世界の情景”を 作為を持って創作している趣旨の本質は、 『合成写真』と同じだろう。
しかし、 こういう、 当たり前すぎること、簡単すぎることは、 それが解らない面々となると、 むしろ、 当たり前すぎること、簡単すぎることほど、 どんな説明をしたところで 理解できることは まず望めないもの。
ヤラセで創作した リアル世界には実在しない情景だけを どれだけたくさん写したところで、 自然の実際を知る機会はなく、 四角い枠に囲まれた知識以上の 実際を知ることも、 常識とされていがちでも 実際を見たことがあれば 知らないはずがない 簡単すぎる間違いに気付くことも できない。
でも、 そういう 同類さん同士だけで集って 自身が優れていることにして 称え合っているのでは、 実際は 何も解っていないことには気付けないもの、 ・・・というか、 気付けないこと自体に 気付くことはできない。
そして、 「撮影した写真を 後には改変していない」という点に すがりついているだけの、 ヤラセさん同士内での ご都合の論理を 得意げに 振りかざしてしまう・・・
これは、 また、 リアル世界に実在しない情景の写真には、 (実際を写した写真なら そもそも 必要ない) 正当性を印象付ける能書きを謳う必要に迫られて 雄弁になってしまうこととも 繋がっているだろう。
だから、 リアル世界の実際を知らない門外漢には いかにも それらしく見えるらしい単語を並べただけの 不可解なご解説が、 その都度 その都度 毎回毎回、 さも もっともらしく 賑やかに騙られ、 大多数を占める、 何時でも 何処でも 何でも ヤラセで捏造した情景を写すことを大前提としている 同類さんが 復唱し合い、 それが 真に受けられた “迷信”が作られる。
そして、 それを模しながら、 更に 勝手な嗜好が加わった より華美な情景の写真が創作され、 また それを模しながら 更に 華美に・・・ の 競い合いが 繰り返される。
そうして、 リアル世界の実際の自然への興味は乏しい面々の 勝手な嗜好に沿った情景が 実在することになってしまって、 何故か 自然にあるとされる情景の方が また更に 勝手な嗜好のご都合に より合うように “進化”していってしまう。
リアル世界に実在しない“自然の美しさ”の魅力とは 何なのだろうか?
リアル世界に実在しない“生態”が捉えられている魅力とは 何なのだろうか?
ヤラセで創作された “不自然な写真”が “自然”の写真かのように扱われることには、 他で喩えるなら、 実際の日本を知らない外国の人には ありがちらしい 間違った理解による嗜好に合わせた、 現代にも ニンジャや サムライが 闊歩している 架空の世界の情景を創作して、 それが 日本の実際かのように騙られるようなことに思える。
それと同じように、 前記の 自然写真を撮っていると謳っているプロ写真家氏も、 自然への 知識も経験も、 何もないに等しい・・・ というよりも、 本質的な根本から違うのでなければ あり得るとは考え難い言動に思える。
でも、 そんな 馬鹿げた醜態ほど、 大勢を占める 同類の ヤラセさんや 間違った理解をしている門外漢には 都合が良く、 むしろ 喜ばれ ありがたがられて、 実際とは あべこべに 優れた実績に化けて もてはやされてしまう、といった具合。
でも、 そういう類の 残念な現実は、 どこの世界にでも 多々あることだろう。
そういう おかしな世界と同類の愚者であることで 良い評価を得られれば善しとするのではなく、 もちろん、 おかしな世界と知りながら 同類の愚者に成り下がって 良い評価を得ようとするのでもなく、 本当のことを当たり前として “権力”的なものや “社会” “世の中”と表されるような 漠然とした大きなものに 関わっていくのは 容易ではない、というところが、 「この闇」の 本質だろうと思う。
大サビでの 歌詞の一節、というか、 元のメロディーから外れたところで語りかけるようなフレーズなので “台詞”の方が 近いのかもしれないが...
四角い空を見上げてるよりも 自分の力ではばたいてみろよ
この“四角い空”という言葉は、 上手く表された言い方だと思う。
ネット情報でも、 テレビでも、 新聞・雑誌・書籍(教科書・参考書、辞典・辞書、解説書・図鑑、etc...)等でも、 色々なことを見るとか 学ぶとかの “知る”ことは できる。
でも、 「百聞は一見に如かず」というように、 リアル世界の実際に直接関わる以外での、 四角い枠の中で“知る”ことができるのは、 概要の中でも ごくごく断片的なものだけ。
これだけでは、 「百聞」でも「一見に如かず」なのに、“一聞”程度のものでしかない。
まぁ、 テストや クイズでの解答でなら、 そのレベルの知識でも、 名称や 文言が 間違いではなければ、 正解!として 解っているという評価になるのだろうが・・・
そして、 “百聞”以上の“一見”、 あるいは、 その先の、 リアル世界の実際に関わる“経験”を伴って知ることは、 それを 文字的に表せば 同じような単語が並んだ 似たような文面になっても、 そこにある 知っていることの実体は 根本的に違う。
リアル世界の実際には あるはずもない 四角い枠に囲まれた情報を復唱しているだけの 経験を伴っていない知識は、 表される文言自体は 間違いとまではいえなくても、 リアル世界の実際を知っている人には、 実質的には全く違うという位に 底浅く 薄っぺらにすぎないことが 容易に判っても、 当の自身は その実際を知らないので、 ちゃんと解っているつもりになっていがち。
そういう 四角い枠の中で見えるものを 並べるだけ、考えるだけで、 行動しなければ、 実際は 何も知ることもないままで、 何もできない。
そして、 ここでも 何度か “鳥”に関して “常識”とか“優れた知識”として蔓延している情報の 馬鹿げた実態を書いているように、 そもそも、 実際とは違うものが見えてしまっている面々だけで集って行われている “~~ごっこ”の設定すぎないものを復唱し合う醜態が 同類さん同士で称え合われて、 周囲にも 得意げに ご自慢の押し売りに励まれることで 垂れ流されている“迷信”も、 とても多い。
そういう“迷信”の殆どは、 正しい実際を知ることに 高度な知識や見識を必要とするようなものではなく、 興味・関心を持って見れば、 容易に 間違いに気付けるもの。
しかし、 “その世界”への関心が乏しい 一般の人は、 その検証をすることは まず無く そのまま 鵜呑みにしがち、 ・・・ あるいは、 更に間違った理解に化けてしまったり・・・
そのため、 そういう集いの外の 一般でも、 リアル世界の実際とは全く違う“迷信”が さも実際かのように語られ、 真に受けてしまっている面々の方が 大勢を占めてしまっているのも、 全く珍しくもなく、 どこにでも ありがち。
だから、 自身が行動することで、 本当のことを知り、本当のことをできるようになるのは、 大切なこと・・・、 だが・・・
そこまでなら、 そう難しくはないことも 多いのかもしれない。
なのだが、 実際問題では・・・
たとえば、 表向きは 自然の写真を撮っていると謳っているプロ写真家氏が選者を務めるコンテストでも、 実際の自然には実在しない、 ヤラセで創作された“不自然さが気持ち悪い情景”が、 “自然の美しさ”や “生態” “生息環境”など 門外漢には いかにも それっぽく見えるらしい 好まれがちな断片的な語句を並べただけの 不可解なご解説で 称えられたりしてしまったりする。
ありがちな ヤラセ写真・・・、 鳥写真でなら、 たとえば、 梅だったり 桜だったりが、 何故か 水辺の低い位置に 何故か ご都合良く1本だけ伸びて お花が咲いている枝に カワセミがとまっている、の図。
そこに写っている外側に、 どんな 梅の木、 桜の木があると思うのだろうか・・・
そのお花が 梅だ、桜だと 知っているというだけでは、 四角い枠に囲まれた 薄っぺらな知識でしかない。
実際に“自然写真”を撮っている写真家氏が、 梅の木、桜の木も知らないことが あり得るのだろうか?
当たり前すぎることを いちいち書くと 可笑しな話になってしまうが、 自然の写真を写すこととは、 その文字の通り、 自然を写すことだろう。
写っているものが 自然物だからといって、 何でも 自然の写真なのではない。
自然に向き合うこともなく、 自身が “神”や“創造主”になってしまって、 リアル世界の実際とは無関係な お伽噺のような 勝手な嗜好のご都合に合わせた、 リアル世界には実在しない情景を創作しているのでは、 自然の写真とは 本質的に 全く違うもの。
あるいは、 ヤラセ写真と 『合成写真』は 何が違うのか。
ヤラセ写真は、 『合成写真』が 撮影した後に『合成』で加工して改変する代わりとして 撮影する状況の側を ヤラセで加工して改変しているだけのことで、 リアル世界には実在していなかった“架空の世界の情景”を 作為を持って創作している趣旨の本質は、 『合成写真』と同じだろう。
しかし、 こういう、 当たり前すぎること、簡単すぎることは、 それが解らない面々となると、 むしろ、 当たり前すぎること、簡単すぎることほど、 どんな説明をしたところで 理解できることは まず望めないもの。
ヤラセで創作した リアル世界には実在しない情景だけを どれだけたくさん写したところで、 自然の実際を知る機会はなく、 四角い枠に囲まれた知識以上の 実際を知ることも、 常識とされていがちでも 実際を見たことがあれば 知らないはずがない 簡単すぎる間違いに気付くことも できない。
でも、 そういう 同類さん同士だけで集って 自身が優れていることにして 称え合っているのでは、 実際は 何も解っていないことには気付けないもの、 ・・・というか、 気付けないこと自体に 気付くことはできない。
そして、 「撮影した写真を 後には改変していない」という点に すがりついているだけの、 ヤラセさん同士内での ご都合の論理を 得意げに 振りかざしてしまう・・・
これは、 また、 リアル世界に実在しない情景の写真には、 (実際を写した写真なら そもそも 必要ない) 正当性を印象付ける能書きを謳う必要に迫られて 雄弁になってしまうこととも 繋がっているだろう。
だから、 リアル世界の実際を知らない門外漢には いかにも それらしく見えるらしい単語を並べただけの 不可解なご解説が、 その都度 その都度 毎回毎回、 さも もっともらしく 賑やかに騙られ、 大多数を占める、 何時でも 何処でも 何でも ヤラセで捏造した情景を写すことを大前提としている 同類さんが 復唱し合い、 それが 真に受けられた “迷信”が作られる。
そして、 それを模しながら、 更に 勝手な嗜好が加わった より華美な情景の写真が創作され、 また それを模しながら 更に 華美に・・・ の 競い合いが 繰り返される。
そうして、 リアル世界の実際の自然への興味は乏しい面々の 勝手な嗜好に沿った情景が 実在することになってしまって、 何故か 自然にあるとされる情景の方が また更に 勝手な嗜好のご都合に より合うように “進化”していってしまう。
リアル世界に実在しない“自然の美しさ”の魅力とは 何なのだろうか?
リアル世界に実在しない“生態”が捉えられている魅力とは 何なのだろうか?
ヤラセで創作された “不自然な写真”が “自然”の写真かのように扱われることには、 他で喩えるなら、 実際の日本を知らない外国の人には ありがちらしい 間違った理解による嗜好に合わせた、 現代にも ニンジャや サムライが 闊歩している 架空の世界の情景を創作して、 それが 日本の実際かのように騙られるようなことに思える。
それと同じように、 前記の 自然写真を撮っていると謳っているプロ写真家氏も、 自然への 知識も経験も、 何もないに等しい・・・ というよりも、 本質的な根本から違うのでなければ あり得るとは考え難い言動に思える。
でも、 そんな 馬鹿げた醜態ほど、 大勢を占める 同類の ヤラセさんや 間違った理解をしている門外漢には 都合が良く、 むしろ 喜ばれ ありがたがられて、 実際とは あべこべに 優れた実績に化けて もてはやされてしまう、といった具合。
でも、 そういう類の 残念な現実は、 どこの世界にでも 多々あることだろう。
そういう おかしな世界と同類の愚者であることで 良い評価を得られれば善しとするのではなく、 もちろん、 おかしな世界と知りながら 同類の愚者に成り下がって 良い評価を得ようとするのでもなく、 本当のことを当たり前として “権力”的なものや “社会” “世の中”と表されるような 漠然とした大きなものに 関わっていくのは 容易ではない、というところが、 「この闇」の 本質だろうと思う。
ビクターから
鈴木彩子名義のCDで出ていた分の 全作品が、
配信に対応したとのことで...
今回は、 4thアルバム『けがれなき大人への道』について。
このアーティスのキャリアの中でも 特に重要な作品の1つだろう。
聴く側からの 勝手なイメージとしては、 ここまでは いわば 助走や模索といった 準備期間だったようなもので、 ここから 本当の“鈴木彩子”の世界が 明確に見えてくる、といった感じ。
個人的には、 最初に買ったのが このアルバムだったこともあって、 思い入れが とても強いということもあるが、 お薦め度は とても高い作品。
インターネットが まだダイヤルアップ中心だった頃に、 チャットで話題にした時に、 後日 「何枚のアルバムからの ベストアルバムなの?」と訊かれたこともある。
内容の充実でも、 各曲のイメージの振り幅の広さでも、 毎年 アルバムを発表している 限られた期間に制作された分だけとは思えない、ということだと思う。
でも、 興味は持ったが、ジャケットの写真を見て 買うのを止めた、という人もいたが x x x
3rdアルバムまでと比べると、 メッセージ性として かなり 攻めた内容というか、 聴き手を選ぶというか、 誰にでも受け入れられ易いというほど 無難で簡単な作品ではない部分もあると思うし、 このジャケ写は 作品のイメージが表されていると思う。
そういうことでは、 このアルバム名と ジャケ写を見て “自分のゾーンとは違うだろうな...”と感じるなら、 それはそれで かなり妥当な印象なのかもしれない。
主要な曲の 「葛藤」 「VOICE ~明日への滑走路」 「それぞれの探しもの」は 『ALL TIME BEST ALBUM』の関連で 前にも挙げたので、 ここでは省略して・・・
◆ 私の色
詞も 歌唱も含めたサウンドも、 明るく クリアーなイメージの曲。
アルバムの曲順通りに聴くと、 1曲目「葛藤」の次の 2曲目。
この曲そのものへの評価というよりも、 1曲目から
人の波と欲望になびくな
生き残れ溜息の街 黒い都会で
こういう詞が 勢いよく歌われた次には どんな曲が・・・ と思ったところに この曲、という、 冒頭から いきなりの 振り幅の広さに ちょっと コケそうになるような 流れの極端さの部分での印象が強い x x x
◆ 誓い
詞の言葉が かなり立て込んでいるので、 個人的には、 自転車で走りながら 口ずさんでいると 酸欠になりそうになる... というところでの印象が 強かったり x x x
◆ 旅立つ朝に
これも インターネットが まだダイヤルアップ中心だった頃に、 チャットで話題にした時の話・・・
この曲は、 アニメ映画で使われている“アニソン”でもあるので、 そっちを 先に知っている人だったようで、 真面目な曲の中に 急にアニソンがでてきて、 頭が アニメの世界観の方になって ヘンな感じ、なのだそう。
アルバムの曲順では、 とても強い印象を与える力があるだろう 「VOICE ~明日への滑走路」の直後なので、 なおさら ギャップが大きいのかもしれない。
◆ この闇を越えて
そう多くの人が好んで聴こうとするような曲では ないだろうとは思うが・・・
#鈴木彩子リクエスト で Twitterに 少し書いた曲。
前奏の頭から 圧迫感があるサウンドで、 ハッピーな情景は描かれないことは すぐに想像できる通り。
1番の詞は メロディーにのって歌われる、が、 2番になると 元のメロディーからは外れたところで 言葉をぶつけていくように叫ぶフレーズがでてくる。
3番になると、 ほぼ逸脱しているような印象もあり、 大サビでは 演奏が元のサビのメロディーをトレースしている中で 全く違った場所で 語りかけ、そして 叫ぶ・・・
と書くと、 ぐちゃぐちゃな曲のように思われそうだが・・・
Aメロでは逸脱していても Bメロは 元のメロディーにのって歌い、 大サビで逸脱した後には 元のサビのリピートがあり、と、 音楽としての体裁は保ちながらの表現として 構成されている。
曲名の通り、 詞が描く情景は 重く暗い 「闇」の中にいても、 語り、叫ばれる言葉は 熱い。
そこには、 明るい光に照らされた中での輝きとは違った感覚での 眩しさがあると思う。
とても個人的には、 この曲があったことで、 この表現ができるアーティストなら、 信じられるのではないか、 信じてもよいのではないか、と感じた。
だから、 もし、 このアルバムに この曲がなかったら・・・、 もしかすると、 このアーティスの 他のアルバムを聴くことは なかったかもしれない 分岐点になっていた曲だと思う。
そして、 あれから 長い年月が経っているが、 少なくとも 今のところ、 あの時に、 信じられるのではないか、と思った感覚は、 正しかっただろうと思っている。
◆ あの時いっしょにいた瞳たち
なかなか 自分で期待するようには 上手くいっていない状況は、 誰にでもあることだろう。
そういった 不安や焦りを、 学生時代の仲間たちを思い浮かべながら、 美しいサウンドとメロディーで歌う。
夕暮れの風景から始まって、 思い浮かべるシーンが、 夜、 明日、 と 時間軸に沿って移っていく詞に、 サウンドでの情景表現が 上手く重ねられていると感じる。
この曲 単独で見ても、 とても いい曲だと思う。
そして、 アルバムの曲順通りに 「この闇を越えて」の後だと、 より一層 美しさが際立つだろう。
◆ 春夏秋冬
カヴァー曲。
歌詞は 少し替えてある、という話を見たような記憶があるが・・・、 詳しくは知らない x x x
個人的には、 このアルバムを買う きっかけになったのは この曲だった。
たぶん アルバムのキャンペーンのようなものだったのだろうが、 ある 関西ローカル(?)の 深夜番組で見たことで 関心を持った・・・ のだが・・・
実のところ、 その当時には 音楽CDを買う意識はなかったこともあって、 実際に買うのは ずっとずっと後・・・、 今となっては 正確にはわからないが、 1年とか2年とかの後になってからだった...はず。
そんな後まで 憶えていたというのも、 それはそれで スゴい話かもしれないが・・・
そこから思うこと・・・
歌手のキャンペーンに限ったことではなく、 その他の色々な活動でも、 伝えたいこと、知ってほしいことがあっても、 “これをしたからといって 誰に届くのか・・・”というような状況は よくあることだろう。
でも、 当たり前すぎることながら、 たいした期待は できそうもないような機会でも、 僅かでも可能性があるのだから、 ちゃんとやらないといけない、ということ。
そして、 可能性が小さく見えても やり続けていくことが大切、ということ。
それが、 何の反応もなく 何の成果もなく終わったように見えたとしても、 それは まだ 何の結果も決まっていない、ということ。
実際に、 “その時”には 何の反応もしなくて、 その存在に気付きようもなかった誰かが、 およそ四半世紀も経った今になっても、 こんなことを 長々と書いていたりするのだから。
今回は、 4thアルバム『けがれなき大人への道』について。
このアーティスのキャリアの中でも 特に重要な作品の1つだろう。
聴く側からの 勝手なイメージとしては、 ここまでは いわば 助走や模索といった 準備期間だったようなもので、 ここから 本当の“鈴木彩子”の世界が 明確に見えてくる、といった感じ。
個人的には、 最初に買ったのが このアルバムだったこともあって、 思い入れが とても強いということもあるが、 お薦め度は とても高い作品。
インターネットが まだダイヤルアップ中心だった頃に、 チャットで話題にした時に、 後日 「何枚のアルバムからの ベストアルバムなの?」と訊かれたこともある。
内容の充実でも、 各曲のイメージの振り幅の広さでも、 毎年 アルバムを発表している 限られた期間に制作された分だけとは思えない、ということだと思う。
でも、 興味は持ったが、ジャケットの写真を見て 買うのを止めた、という人もいたが x x x
3rdアルバムまでと比べると、 メッセージ性として かなり 攻めた内容というか、 聴き手を選ぶというか、 誰にでも受け入れられ易いというほど 無難で簡単な作品ではない部分もあると思うし、 このジャケ写は 作品のイメージが表されていると思う。
そういうことでは、 このアルバム名と ジャケ写を見て “自分のゾーンとは違うだろうな...”と感じるなら、 それはそれで かなり妥当な印象なのかもしれない。
主要な曲の 「葛藤」 「VOICE ~明日への滑走路」 「それぞれの探しもの」は 『ALL TIME BEST ALBUM』の関連で 前にも挙げたので、 ここでは省略して・・・
◆ 私の色
詞も 歌唱も含めたサウンドも、 明るく クリアーなイメージの曲。
アルバムの曲順通りに聴くと、 1曲目「葛藤」の次の 2曲目。
この曲そのものへの評価というよりも、 1曲目から
人の波と欲望になびくな
生き残れ溜息の街 黒い都会で
こういう詞が 勢いよく歌われた次には どんな曲が・・・ と思ったところに この曲、という、 冒頭から いきなりの 振り幅の広さに ちょっと コケそうになるような 流れの極端さの部分での印象が強い x x x
◆ 誓い
詞の言葉が かなり立て込んでいるので、 個人的には、 自転車で走りながら 口ずさんでいると 酸欠になりそうになる... というところでの印象が 強かったり x x x
◆ 旅立つ朝に
これも インターネットが まだダイヤルアップ中心だった頃に、 チャットで話題にした時の話・・・
この曲は、 アニメ映画で使われている“アニソン”でもあるので、 そっちを 先に知っている人だったようで、 真面目な曲の中に 急にアニソンがでてきて、 頭が アニメの世界観の方になって ヘンな感じ、なのだそう。
アルバムの曲順では、 とても強い印象を与える力があるだろう 「VOICE ~明日への滑走路」の直後なので、 なおさら ギャップが大きいのかもしれない。
◆ この闇を越えて
そう多くの人が好んで聴こうとするような曲では ないだろうとは思うが・・・
#鈴木彩子リクエスト で Twitterに 少し書いた曲。
前奏の頭から 圧迫感があるサウンドで、 ハッピーな情景は描かれないことは すぐに想像できる通り。
1番の詞は メロディーにのって歌われる、が、 2番になると 元のメロディーからは外れたところで 言葉をぶつけていくように叫ぶフレーズがでてくる。
3番になると、 ほぼ逸脱しているような印象もあり、 大サビでは 演奏が元のサビのメロディーをトレースしている中で 全く違った場所で 語りかけ、そして 叫ぶ・・・
と書くと、 ぐちゃぐちゃな曲のように思われそうだが・・・
Aメロでは逸脱していても Bメロは 元のメロディーにのって歌い、 大サビで逸脱した後には 元のサビのリピートがあり、と、 音楽としての体裁は保ちながらの表現として 構成されている。
曲名の通り、 詞が描く情景は 重く暗い 「闇」の中にいても、 語り、叫ばれる言葉は 熱い。
そこには、 明るい光に照らされた中での輝きとは違った感覚での 眩しさがあると思う。
とても個人的には、 この曲があったことで、 この表現ができるアーティストなら、 信じられるのではないか、 信じてもよいのではないか、と感じた。
だから、 もし、 このアルバムに この曲がなかったら・・・、 もしかすると、 このアーティスの 他のアルバムを聴くことは なかったかもしれない 分岐点になっていた曲だと思う。
そして、 あれから 長い年月が経っているが、 少なくとも 今のところ、 あの時に、 信じられるのではないか、と思った感覚は、 正しかっただろうと思っている。
◆ あの時いっしょにいた瞳たち
なかなか 自分で期待するようには 上手くいっていない状況は、 誰にでもあることだろう。
そういった 不安や焦りを、 学生時代の仲間たちを思い浮かべながら、 美しいサウンドとメロディーで歌う。
夕暮れの風景から始まって、 思い浮かべるシーンが、 夜、 明日、 と 時間軸に沿って移っていく詞に、 サウンドでの情景表現が 上手く重ねられていると感じる。
この曲 単独で見ても、 とても いい曲だと思う。
そして、 アルバムの曲順通りに 「この闇を越えて」の後だと、 より一層 美しさが際立つだろう。
◆ 春夏秋冬
カヴァー曲。
歌詞は 少し替えてある、という話を見たような記憶があるが・・・、 詳しくは知らない x x x
個人的には、 このアルバムを買う きっかけになったのは この曲だった。
たぶん アルバムのキャンペーンのようなものだったのだろうが、 ある 関西ローカル(?)の 深夜番組で見たことで 関心を持った・・・ のだが・・・
実のところ、 その当時には 音楽CDを買う意識はなかったこともあって、 実際に買うのは ずっとずっと後・・・、 今となっては 正確にはわからないが、 1年とか2年とかの後になってからだった...はず。
そんな後まで 憶えていたというのも、 それはそれで スゴい話かもしれないが・・・
そこから思うこと・・・
歌手のキャンペーンに限ったことではなく、 その他の色々な活動でも、 伝えたいこと、知ってほしいことがあっても、 “これをしたからといって 誰に届くのか・・・”というような状況は よくあることだろう。
でも、 当たり前すぎることながら、 たいした期待は できそうもないような機会でも、 僅かでも可能性があるのだから、 ちゃんとやらないといけない、ということ。
そして、 可能性が小さく見えても やり続けていくことが大切、ということ。
それが、 何の反応もなく 何の成果もなく終わったように見えたとしても、 それは まだ 何の結果も決まっていない、ということ。
実際に、 “その時”には 何の反応もしなくて、 その存在に気付きようもなかった誰かが、 およそ四半世紀も経った今になっても、 こんなことを 長々と書いていたりするのだから。
新型コロナの流行で 何かと登場機会が多い アマビエ様。
ここで載せている 実写のドキュメンタリー的な写真で見せられるのは、 リアル世界に実在して、 なおかつ、 状況... 機材... 撮影スキル... 諸々の条件の総合として 写すことが可能なものを 実際に写せた画だけ。
なので、 加工写真とか 絵や造形物とか キャラ弁とか...みたいに 好きなように創作して 疫病退散!と祈願するようなことは できませんが・・・
でも、 何かないかな... と思ってみたり。
そう思って 考えてみると、 アマビエ様とされる姿って、 顔より下は 魚っぽく見えるな... ということで、 すいぶん以前に撮った写真の中に、 こんなのは どうかな、というのが あったので・・・
Twitter にも 同じものを載せていますが、 書ける文字数が少ないので、 こちらがメイン。
今回は 縦画なので、 いつもとは違って、 このページでの表示は小さめで、 写真をクリックすると 大きいサイズで見られます。
ただ、 ここ(goo blog)と Twitter では、 送信データ量を減らすための 高圧縮化 = 画像の表示サイズはそのままでも 画質が低下する代わりに ファイルサイズを小さくする仕様が違う都合で、 Twitter の方が、 微妙には 画質が良い...というか、 画質の低下が 微妙には 少なくて済んでいるかも...
(当然ながら、 “あの絵”では 長髪に とんがり口で描かれているところは 似ていないけど、) 水面上に現れて 直立している 全体的なフォルム感あたりは、 なんとなくでは 似てるイメージも 重ねられるかな・・・ と思ったり。
先行きが見えない コロナ禍の色々に “ご利益”があるかどうかは...
まぁ、 「鯉」が「躍」っている・・・ので、 「ご鯉躍」と書けば “ごりやく”と読めたりもして x x x
あるいは、 他にも、 鯉というと、 立身出世を成す 「鯉の滝登り」の 縁起が良いイメージにも繋がる。
これは、 滝(竜門)を登りきった鯉は “龍”に姿を変えるとされる 伝承で、 「登竜門(登龍門)」と同じ。
魚で縁起が良いとされる 出世魚は、 ずっと同じ魚なのは 変わらない範囲の中で 呼び名が変わる 出世。
対して、 鯉は、 魚という枠すら跳び越して、 東洋文化では 神聖な存在として 各地で多くの信仰の対象にもなっている “龍”になるとは、 躍進するスケール感の次元が 圧倒的に違う!
もしかしたら、 この鯉も・・・?!?
と、 古くからの伝承もある 鯉ですが・・・
もちろん、 リアル世界の 自然写真・動物写真としても、 実際の自然な状況で起きる情景の瞬間の ありのままをスナップした 本当の世界の写真です。
ここで載せている 実写のドキュメンタリー的な写真で見せられるのは、 リアル世界に実在して、 なおかつ、 状況... 機材... 撮影スキル... 諸々の条件の総合として 写すことが可能なものを 実際に写せた画だけ。
なので、 加工写真とか 絵や造形物とか キャラ弁とか...みたいに 好きなように創作して 疫病退散!と祈願するようなことは できませんが・・・
でも、 何かないかな... と思ってみたり。
そう思って 考えてみると、 アマビエ様とされる姿って、 顔より下は 魚っぽく見えるな... ということで、 すいぶん以前に撮った写真の中に、 こんなのは どうかな、というのが あったので・・・
Twitter にも 同じものを載せていますが、 書ける文字数が少ないので、 こちらがメイン。
今回は 縦画なので、 いつもとは違って、 このページでの表示は小さめで、 写真をクリックすると 大きいサイズで見られます。
ただ、 ここ(goo blog)と Twitter では、 送信データ量を減らすための 高圧縮化 = 画像の表示サイズはそのままでも 画質が低下する代わりに ファイルサイズを小さくする仕様が違う都合で、 Twitter の方が、 微妙には 画質が良い...というか、 画質の低下が 微妙には 少なくて済んでいるかも...
(当然ながら、 “あの絵”では 長髪に とんがり口で描かれているところは 似ていないけど、) 水面上に現れて 直立している 全体的なフォルム感あたりは、 なんとなくでは 似てるイメージも 重ねられるかな・・・ と思ったり。
先行きが見えない コロナ禍の色々に “ご利益”があるかどうかは...
まぁ、 「鯉」が「躍」っている・・・ので、 「ご鯉躍」と書けば “ごりやく”と読めたりもして x x x
あるいは、 他にも、 鯉というと、 立身出世を成す 「鯉の滝登り」の 縁起が良いイメージにも繋がる。
これは、 滝(竜門)を登りきった鯉は “龍”に姿を変えるとされる 伝承で、 「登竜門(登龍門)」と同じ。
魚で縁起が良いとされる 出世魚は、 ずっと同じ魚なのは 変わらない範囲の中で 呼び名が変わる 出世。
対して、 鯉は、 魚という枠すら跳び越して、 東洋文化では 神聖な存在として 各地で多くの信仰の対象にもなっている “龍”になるとは、 躍進するスケール感の次元が 圧倒的に違う!
もしかしたら、 この鯉も・・・?!?
と、 古くからの伝承もある 鯉ですが・・・
もちろん、 リアル世界の 自然写真・動物写真としても、 実際の自然な状況で起きる情景の瞬間の ありのままをスナップした 本当の世界の写真です。
ビクターから
鈴木彩子名義のCDで出ていた分の 全作品が、
配信に対応したとのことで...
今回は、 3rdアルバム『19才の鼓動』について。
全体的に、 前に少しだけ書いた 「COUNT DOWN」をはじめ、 明るく軽快な曲が多い印象。
個人的な好みも込みでは、 2ndアルバム『明日へつながる道』とは“逆”というか、 これも 前に挙げた 「風に吹かれて」 「ひとりぼっちの意味」といった 特筆したい 印象が強い曲がある反面、 その他の曲の印象は そこまでではない、と 評価が割れる感じがしている。
アルバムを通して聴くと、 最後の曲の前に 「ひとりぼっちの意味」が 置かれている。
これは、 そこまでの流れに沿った曲・・・のようにも見えながら、 ちょっと“爆弾”が仕掛けてある的な構成になっているように思えて、 そこにあるメッセージ、 そして、 他の曲で描かれる世界観にも、 両面に その大切さを より強く伝える要素になっていると 感じる。
そういうところでの効果からも、 個々の曲に切り分けた評価が良い悪いというのとは 別な部分で、 このアルバムも 全体を通して聴くことを薦めたい作品だと思う。
- - - - -
◆ 優しい眠り
このアーティストの 一番の代表曲に挙げても良いだろう「葛藤」のシングル盤の カップリング曲で、 アルバムには 未収録。
このアーティストの曲を 厚く聴いている人でも、 アルバムは持っていても シングルは持っていないことも多いだろう、ということで、 知らない人も 少なからずいるのかも。
ラブソングなのだろうが、 詞が描く部分が深くて、 サウンドや歌い方も、 厚いというのか 重めというのか、 昔は よくあった “昼ドラ”の主題歌にも使えそう・・・ といった感じか。
20歳前後位の時に制作された曲として見ると、 年齢相応の若々しさからは ずいぶん遠い印象はあるが・・・
そこは、 この曲は この曲、として聴くには 関係ない部分でもある。
個人的には、 パソコン作業の時に 簡単に再生できるように取り込んである中に入っていることもあって、 結構 出番がある曲になっている。
今回は、 3rdアルバム『19才の鼓動』について。
全体的に、 前に少しだけ書いた 「COUNT DOWN」をはじめ、 明るく軽快な曲が多い印象。
個人的な好みも込みでは、 2ndアルバム『明日へつながる道』とは“逆”というか、 これも 前に挙げた 「風に吹かれて」 「ひとりぼっちの意味」といった 特筆したい 印象が強い曲がある反面、 その他の曲の印象は そこまでではない、と 評価が割れる感じがしている。
アルバムを通して聴くと、 最後の曲の前に 「ひとりぼっちの意味」が 置かれている。
これは、 そこまでの流れに沿った曲・・・のようにも見えながら、 ちょっと“爆弾”が仕掛けてある的な構成になっているように思えて、 そこにあるメッセージ、 そして、 他の曲で描かれる世界観にも、 両面に その大切さを より強く伝える要素になっていると 感じる。
そういうところでの効果からも、 個々の曲に切り分けた評価が良い悪いというのとは 別な部分で、 このアルバムも 全体を通して聴くことを薦めたい作品だと思う。
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◆ 優しい眠り
このアーティストの 一番の代表曲に挙げても良いだろう「葛藤」のシングル盤の カップリング曲で、 アルバムには 未収録。
このアーティストの曲を 厚く聴いている人でも、 アルバムは持っていても シングルは持っていないことも多いだろう、ということで、 知らない人も 少なからずいるのかも。
ラブソングなのだろうが、 詞が描く部分が深くて、 サウンドや歌い方も、 厚いというのか 重めというのか、 昔は よくあった “昼ドラ”の主題歌にも使えそう・・・ といった感じか。
20歳前後位の時に制作された曲として見ると、 年齢相応の若々しさからは ずいぶん遠い印象はあるが・・・
そこは、 この曲は この曲、として聴くには 関係ない部分でもある。
個人的には、 パソコン作業の時に 簡単に再生できるように取り込んである中に入っていることもあって、 結構 出番がある曲になっている。
リアル世界(現実世界)に ちゃんと実在している本来の情景のままを写した、
“人の勝手な嗜好に合うように状況を作為的に改変して創作された虚構”のない 絶対非演出スナップです。
野鳥写真:大空を自在に翔ける飛翔写真 = 鳥の行動で「最も鳥らしい特徴が表れた魅力」とも言える 飛ぶ姿を中心に、 カワセミ(翡翠),オオタカなど猛禽類(鷹)といった人気の種類から バードウォッチングで“ものさし鳥”にも使われる普通種まで 幅広く。 多くは ネイチャーフォト系や動物写真系のフォトコンテストでの入選・入賞が出ている場所でのものです。 (撮影地は記載しません)
他に、 昆虫写真や ネコ写真(野良ねこ写真)、 航空機 など...
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野鳥写真:大空を自在に翔ける飛翔写真 = 鳥の行動で「最も鳥らしい特徴が表れた魅力」とも言える 飛ぶ姿を中心に、 カワセミ(翡翠),オオタカなど猛禽類(鷹)といった人気の種類から バードウォッチングで“ものさし鳥”にも使われる普通種まで 幅広く。 多くは ネイチャーフォト系や動物写真系のフォトコンテストでの入選・入賞が出ている場所でのものです。 (撮影地は記載しません)
他に、 昆虫写真や ネコ写真(野良ねこ写真)、 航空機 など...
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