【建設的フィードバックを期待します】
なお、私は反原発団体のメンバーでもありませんし、原発の専門家でもありません。しかし、(未熟であるかもしれませんが)人文科学・自然科学両面に渡る基礎的な知識、私自身の今までの人生経験や観察事実から(再)発見したこの宇宙の法則、賢者たちの言葉から導き出される真理などのフィルターを掛け、できるだけ良質な情報を発信して行こうと考えております。
私のブログ記事を読む方々の中には、きっと私よりも豊富な知識や情報をお持ちの方も多いことと思います。是非情報提供・ご教授の程をお願いいたします。また、もし原発推進派で正しい情報にもとづく理性的な意見をお持ちの方がいらっしゃった場合も遠慮なくコメント欄にご提示ください。
様々な側面からの映像(様々な立場からの意見)を組み合わせて行くことで、原発問題の全体像・立体像がより鮮明に映し出されていくことでしょう。
【「群盲象を評す」から「群盲象を描く」へ】
いくつかの仏典に「群盲象を撫でる(評す)」という説話が残されています。
その説話は「多数の盲人が象の様々な部分を触ってそれぞれが『象とはこう言うものだ』と評したところで、所詮それはある一部分の形状を示すもので象の全体像を正しく形容することはできない」という事例によって「視野の狭い者が多く集まり、銘々の観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が見失われている状態の喩え」として使われているようです。(「群盲象を評す」の説話については以下のサイトなどをご参照ください)
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%A4%E7%9B%B2%E8%B1%A1%E3%82%92%E8%A9%95%E3%81%99
(ちなみにこの仏典が起源と思われる説話は、20世紀のインドの大聖ラーマクリシュナも語り、スーフィーの逸話としても取り込まれています)
しかし、たとえ一人一人の盲人が象の全体をいっぺんに触ることはできなくても、それぞれがお互いの感触結果を報告し合い謙虚に耳を傾け合うことができれば、全体像を想像することは可能だったのではないでしょうか?
私たち一人一人の知力は限られています。原子力という巨大なエネルギーの前で、私たち人間一人一人の理解力は盲人の触覚ほどのものかもしれません。「群盲象を評す」の逸話の盲人たちは、お互いの意見を否定して論争に陥り、象の正しい全体像を描き出すことはできませんでした。
しかし、私たちが私たちの理性にもとづく知識を正しく結び合わせるのならば、「群盲象を描く」ことも可能になるのではないかと私は考えています。
また、もし一部の人たちが情報操作を行って自分たちに都合の悪い情報を隠したり歪曲していたとしても、真実の全てを隠し通せるものではありません。メディアの記事の端々にも、過去原発に関して情報操作や虚構にもとづく無謀な行為を行っていたことを告白する人々が現れて来ていることを読み取ることができます。そういった断片をつなぎ合わせて行くことによっても、隠されていた真実をうかがい知ることが可能になるでしょう。「群盲象を描く」には、そのような意味もかけています。
私たちは、まず、原子力発電の正しい全体像を描き出し、その地上最大の巨獣との付き合い方を考えて行くべきではないでしょうか。