先日メンバーの八木君から「真面目さ」「シリアス」について投稿を頂きまして、こういう風に内部からてつがくカフェの「あやうさ」を率直に言ってくれるメンバーがいて、@いわては本当に恵まれていると思います。それが私が一番求めているものかもしれません。きっかけは「てつがくカフェ」ですが、こういう風にいろんな意見の人が集まる場があって、それぞれに分化、メタモルフォーゼしていけばいいのではないかと思います。歯に衣きせない常に進化しつづける思考の?八木君にはいつも感謝しております。
その八木君(と東北大の先輩)と2日前仙台で飲む機会がありました。彼は(てつがくカフェによく見られる)「真面目さ」や「シリアスさ」が自家中毒を引き起こす、その危険性を指摘していて、彼は見通しをよくするような、風穴をあけるようなこと必要なんだ!と力説しておりました。例として、最近の初音ミクのオペラ『the end』などには、私はとても興味深く感じました。「イメージ」で乗り越えることを、それは音楽であったり、絵画であったり、彫刻であったりと芸術的なものを指していると思います。「乗り越える」ためには、今までのイメージから出てきた言葉ではダメで、「イメージ」そのものを変える必要がある。これは次回のテーマ『今、芸術を問う』にもこのまま接続できますね!!
私たちは自分で受け止めることのできない何か「過剰」な経験をしてしまったとき(人の死であったり、恋愛であったり)、言葉にできないものを表現しようとする。そうでなければ「出来事」という過剰な暴力が私を圧倒的に打ちのめしてしまうだろう・・。ではその「過剰」さが表現させるものであるならば、「イメージで乗り越える」とは、そのイメージ自体は(外部から来るのか、内部から来るのかは分からないが)、すごくモンスター的な狂気に近いもののような気もする。
そんな事を考えながら、昨夜知人に誘われて行きました、バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』。
久しぶりのディカプリオに酔いながら、人生に希望を見出す純粋な力とその暴力性、シリアスな思考と狂気は同じものの違う呼び名だと改めて思ったりしました。彼は人が賞賛してやまない無類の「imagination」(想像力)で、小さいころから描いていた数々の希望を実現していく。そして「過去」さえも「変えられる」と本当に思ってしまう。過去に遡れば遡るほど彼にとって象徴的な緑の灯り(デイジーという女性)は遠のいていく・・・・。(加賀谷)
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