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てつがくカフェ@いわて

てつがくカフェ@いわてのブログです。

映画『華麗なるギャツビー』から「シリアス」を考える

2013-07-01 15:29:16 | 映画

先日メンバーの八木君から「真面目さ」「シリアス」について投稿を頂きまして、こういう風に内部からてつがくカフェの「あやうさ」を率直に言ってくれるメンバーがいて、@いわては本当に恵まれていると思います。それが私が一番求めているものかもしれません。きっかけは「てつがくカフェ」ですが、こういう風にいろんな意見の人が集まる場があって、それぞれに分化、メタモルフォーゼしていけばいいのではないかと思います。歯に衣きせない常に進化しつづける思考の?八木君にはいつも感謝しております。

その八木君(と東北大の先輩)と2日前仙台で飲む機会がありました。彼は(てつがくカフェによく見られる)「真面目さ」や「シリアスさ」が自家中毒を引き起こす、その危険性を指摘していて、彼は見通しをよくするような、風穴をあけるようなこと必要なんだ!と力説しておりました。例として、最近の初音ミクのオペラ『the end』などには、私はとても興味深く感じました。「イメージ」で乗り越えることを、それは音楽であったり、絵画であったり、彫刻であったりと芸術的なものを指していると思います。「乗り越える」ためには、今までのイメージから出てきた言葉ではダメで、「イメージ」そのものを変える必要がある。これは次回のテーマ『今、芸術を問う』にもこのまま接続できますね!!

私たちは自分で受け止めることのできない何か「過剰」な経験をしてしまったとき(人の死であったり、恋愛であったり)、言葉にできないものを表現しようとする。そうでなければ「出来事」という過剰な暴力が私を圧倒的に打ちのめしてしまうだろう・・。ではその「過剰」さが表現させるものであるならば、「イメージで乗り越える」とは、そのイメージ自体は(外部から来るのか、内部から来るのかは分からないが)、すごくモンスター的な狂気に近いもののような気もする。

そんな事を考えながら、昨夜知人に誘われて行きました、バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』。
久しぶりのディカプリオに酔いながら、人生に希望を見出す純粋な力とその暴力性、シリアスな思考と狂気は同じものの違う呼び名だと改めて思ったりしました。彼は人が賞賛してやまない無類の「imagination」(想像力)で、小さいころから描いていた数々の希望を実現していく。そして「過去」さえも「変えられる」と本当に思ってしまう。過去に遡れば遡るほど彼にとって象徴的な緑の灯り(デイジーという女性)は遠のいていく・・・・。(加賀谷)


ご興味のある方は以下のURLから

 http://www.gatsbymovie.jp/


映画『飯館村 放射能と帰村』

2013-07-01 09:11:27 | 映画

6月28日が最終上映日だった土井敏邦監督の『飯館村』を見てまいりました。土井監督は「被災地でのパレスチィナはどこか?」という視点で飯館村に入り、約2年かけこの映画を結実させました。

 「原発から30キロ以上離れていながら、風向きと除雪・降雨のために大量の放射能に汚染され、「全村避難」を余儀なくされた福島県飯館村。酪農の生業を失い、家族離散に追い込まれたふたつの家族の「その後」の生活と、故郷や家族への思いを描きながら、原発事故がもたらした<故郷喪失>の深刻な傷跡をあぶり出す。
 一方、政府は村民への帰村と村の復興をめざし、2011年末から「除染」効果の実験事業を開始した。然しその効果は「子どもたちが安心して暮らせる」レベルにはほとんど遠い。村人の中から、数千万億円にも及ぶ膨大な費用のかける除染で、本当に帰村できるのかという疑問や不安、不信の声が噴出する。
 「帰りたい。しかし帰れないのでは?」ではどうする?・・・(宣伝文より)」

 

印象的だったのは、もと畜産業を営んでいた登場人物の男性は「土地や牛や家などいろいろなものを汚染された。でも一番心を国と政治に汚染された」とその行き場のない思いを吐露していました。この男性は映画のはじめに自分の財産である牛を場に送るシーンで出てきた男性。いやがる牛を見ながら悔しさで涙をこらえきれず、その時はままだ言葉を見つけていなかったように見えました。しかし映画の最後でのセリフはしっかり言葉を持ってたように思えます。「数字上のたった4シーベールとの違いで帰れる、帰れないが決められる。帰るか帰らないかは自分で決める」と。

 

この映画を見て、初めて「除染ムラ」という言葉を聞きました。わたしたちが聞きなれているのは「原子力ムラ」でしょうが、除染を請け負うのは、大手のゼネコンで、ダムや道路などの建設時に土建業者に大量の資金が流れた構造がここにも出てきているそうです。そして土井監督は「今やっている除染はまるで意味がありません。やっているほうもそれは分かっている。原発の再起動の下地つくりのための除染です。努力してますよ、というポーズですよ」とインタビューで応えている。実際映画で見る除染の実態は「林は除染しない」とか「土塀は除染不可」、「庭の土の上層部3cmだけを削って移動するだけ」といった目・耳を疑うものでした。映画中の原子力専門家は「原発政策は国の不始末。除染事業はあくまでも原発再稼働という路線を遂行するための、パフォーマンス」という。

なるほど、この除染の本来の目的とかい離した実態から「私たちの原発推進政策は、一度事故を起こしてしまいましたが、このとおり除染は成功ししてここまで復興し、飯館村の皆さんは全員帰村したので大丈夫です。みなさん安心です。私たちの政策は間違っていませんでした」といいたい声が聞こえる。

パレスチィナ難民問題をずっと追い続けてきた土井監督のインタビューでの言葉が響く。「敗戦が見えているのに、政府や軍の上層部が認めなかった。そういう構造がどこかにあるのではないでしょうか」

 
                                                              (文章 加賀谷昭子)

 映画の詳しい内容は以下のURLまで

 http://doi-toshikuni.net/j/iitate2/