東日本大震災は2011・3・11に発生しました。
震災二ヶ月後に、私は岩手県の盛岡近郊に行く機会があったんですが
その時は偶然大阪から応援に来てた自衛隊の、前線基地を見ることしかできませんでした。
今回、被災地のライフライン復興のため、早くから現地に入って協力した冒険野郎の
出来るなら早くその目で、現場を見ておいた方がいいとの意見もあり
年明け早々、彼にお願いして現地を案内してもらいました。
上が石巻市河北地区の現在の写真です。
写真を撮っていいものか迷いましたが、大震災を風化させてはいけないとの思いと
自らの感性で得た経験を持ち帰って、生かさねばとの思いで撮らせて頂きました。
ガードレールの内側が生活道路だったんでしょう。水もまだ掃けてませんでした。
大川小学校です。宮沢賢治の詩を書いた卒業生が作成したモニュメント。
その裏の山をよくご覧ください。木が枯れてる所が津波の到達点です。
全校生徒108人のうち74人の児童と、教員4人が犠牲になり、まだ4人が行方不明になってます。
校舎の崩壊もさることながら、大きな瓦礫は取り除かれてますが
小さなガラス片・瓦・タイル・瀬戸物等いろいろまだたくさん混じる踏みしめてる地面
綺麗に整地されてましたが、これがどこまで深いんだろうと・・・重い気持ちが増しました。
最後に撮った慰霊碑の写真ですが、右端におじさんがおられたので中央左しか写してません。
慰霊碑に帽子を取り一礼しに行ったとき、このおじさんのライターに目がいきました。
この日は天気も良く穏やかな昼だったんですが、この現場は建造物はおろか木さえも生えてません。
どの位の距離か分かりませんが、見えるはずもない遠くの海から川に沿って強風が通り抜けて行きます。
たぶんあの時の津波の様に、海から遮る物のない所を強風が随時吹きつけているのです。
おじさんは防風付きのライターで線香に火をつけていました。
ここでは普通にしては線香に火をつけることは出来ないでしょう。
そのおじさんが私にどこから来たんだと声を掛けてきました。
答えると、慰霊碑の一点を指さし、これが嫁さん。
次にその上を指さし、これが婆さん、母親だと。
次に楕円形を描き親戚、もっと大きな円を描き同じ村の者。
衝撃に声も出ませんでした!!!!
話を聞く以外に・・・聞き逃してはいけないという思いだけでした。
全三ヶ所に線香をあげ、中央右にある印刻されてる写真モニュメントの一番端に
自宅がちょっと写ってることに気付かれ、驚いた様子で又いろいろ説明してくれました。
そうこうしてると、別の一組のご夫婦が近づいてきました。
今日は月命日の一日後、お互いご旧知の間柄らしく、親しげにお話されてたんで
その場を失礼させて頂きました。
次は今回の震災で浸水区域が最大だった石巻市内。
日和山公園という、石巻を一望できる綺麗に整備された公園に案内してもらいました。
あれ以前もこれからも毎朝、公園の大きな鳥居から御来光とともに何事も無かったように一日が始まる。
でもその下に広がる風景が、今まで漠然と過ごしてきた日常は当たり前じゃないって思い知らせてくれます。
埋立地の様に見えますが、海岸のちょっと離れた所にあるテトラポットを見ると、自然の海岸線だと思います。
世界のどこにでもある、河口にできた三角州でしょう。
上の写真は中州ですね。中州の上に見えるドームが石ノ森正太郎のマンガ館です。
「009」。「仮面ライダー」等、私たち世代が夢中になった漫画の資料館でした。
木もない・テナントの見つからない埋立地に見える様な所は、津波や火災で消失した住宅地です。
ポツリ壊れた家が残ってますが、持ち主、親族に連絡がつかず、取り壊しが出来ない住宅です。
中央左側下に見える墓石群も見て下さい。真新しい墓石ばかり多いのがお分かりでしょう。
おびただしい数です。 ここに来るまでの墓地でも圧倒的に新しい墓石ばかりでした。
でも写真でも見れるように、新しくできた水産工場もだいぶ稼働してました。
きっとこの灰塵の中から、環境との共生や人々の連帯で
この逆境を乗り越えていかれることを、切に願うことしか今の私には出来ませんでした。
帰りの車窓から見えた、海岸の松林