真相発覚
2010-01-15 | 日記
これは母が死んだ2ヵ月くらい後に「全く偶然に」わかった事で、その10年前ごろからうすうす気が付いてはいたのだが、この偶然も、父と母が死んでいなければ不明のまま今日に至っていたかもしれないのです。
この偶然とは、埼玉県川口市にある「グリーンセンター」にたまたま行った時の話で、温室の中を歩いていると、何となく誰かに見られているような感じがし、ゆっくりと周囲を見渡したところ、向かい側の木の陰からこちらを見ている人がいたのです。
母と同じくらいの年齢の人と、私と同じくらいの人と、その子供と思われる3人連れの人たちで、私と目が合うと近づいてきて「○○さんの息子さんでは?」と言うので、私が「そうですが?」と答えると、「やっぱり、よく似ているのでそうではないかと思った」のだそうである。
そして「ご両親はいかがお過ごしですか」と言う問いに「父は4年前に、母は2ヶ月ほど前に亡くなりました」と言うと、「そうですか、あなたも苦労をしましたね」と言い、続けて「あなたの事は親戚中が知っていて、何とかしてあげたいとは思ってもどうしようもなかったの、ゴメンナサイね」と言うのである。
一瞬私はポカンといていたのだが、それを察したのだろう、母と同じくらいの歳の人(父の従兄弟)が過去の様々な経緯を話してくれたのですが、父か母のどちらかが生きていたら話してはくれなかったことでしょう。
この三人は、父の母(私のおばあさん)の実家の人で、一度だけ訪れたことがあるのだが、1時間余りしか滞在していなかったので記憶に残っていなかったのですが、私が余りにも父に似ていたために先方が気が付いてくれたのです。
事の真相は至って簡単なことで、私の記憶が空白になっている時期(小学3年の頃)に父と母の間で起きた争いが私に飛び火しただけの事だったのですが、飛び火の原因が「3週間遅れて生まれた私の誕生日(母方のおじいさんの命日)」だったのです。
3週間も遅れたうえに、選りによっておじいさんの一周忌の命日に生まれたことで「おじいさんの生まれ変わり」と言われた事が、後になって災いする事など誰が想像したであろうか。
分かり易く言えば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地で行ったもので、母が坊主で「私は袈裟」だったのですが、もう一人袈裟がいたのです。
それは「母のお兄さん」で、一緒に住んでいなかったことで私ほどはひどくなかったのだが、何かにつけ「あの馬鹿野郎が!」とか「○○の家の物は皆どうしようもない馬鹿野郎だ!」と言われ続けていたのです。
それではその争いはと言うと、私たちは6人兄弟だが、父にすれば「7人目が欲しい」と思っていたのだそうだが、その事が気に入らない母に「父の人格を破壊するような暴言」を吐かれたのだそうです。
どのような言葉だったかは「とても口に出来るような言葉では無い」といって聞かせてもらえなかったのだが・・・・、「人格を破壊するような言葉」と言えばおよそ想像できるだろう。
そして更に衝撃的な事実「母は子供が嫌いだった」と言う事で、母に言わせれば、私たち兄弟は「父によって無理に生まされた望まぬ子」だったと言うのです。
このことを聞いた時ふと思い出したことは、正にこのことを裏付けるような事実があったことです。
それは、私の下の姉が二人目の女の子を出産して間も無くの事で、過労から肝臓を患い長期入院を強いられてしまった時の事、姉の家は小さなスーパーのような店を営んでおり、子供を育てる人がおらず、当時は店の経営から身を引いていた父と母が引き取って育てる事になったのだが、ある時母が私に言った言葉「私は子供(孫)なんて好きじゃないけど、おじいさんが喜んでいるのでしょうがないから手伝っている」と言っていた事を思い出したのです。
これで寒い冬、雪の降る庭に私が放り出されても「身を挺して守る」と言うことをしてくれなかった理由がわかったような気がしたのです。
そして父にしても、けして私が憎くてしたことではなく、いくら母に怒りをぶつけても「知らぬ顔の半兵偉」だった母への「アテツケ」だった物がエスカレートしてしまったもので、最後まで振り上げたこぶしの収めようが無かったのでしょう。
それでは「何故父は母と別れようと思わなっかのだろう」と聞いたところ、当時の父にとって「母がいないと店を開けてゆけない」と言う事情(弱味}が有り、母にすればそのこと(弱味)に付け込んで居座っていたのだそうで、母にしても「家を出て行ったら生活できない」と言う事情(利己主義)が働き、いわば「家庭内離婚」の状態でずるずると続いていたのです。
確かに中学2年の頃だったと思うが、ある日母がポツンと言った言葉に「母さんと父さんはもう夫婦じゃないんだョ」と言っていた事も思い出すのです。
「子は鎹(かすがい)」ならぬ「商売が鎹」で、お互いに「仕方なしに一緒にいた」だけだったのです。
そして、母は死ぬまで「悲劇のヒロイン」を演じ続けていたのだが、真相が判明してみれば「羊の皮をかぶったオオカミ」と言うほうが相応しく、「私の人生を狂わせた張本人」だったのです。
「親は子供を選べるが、子供は親を選べない」とはよく言ったものです。
次からは私の生い立ちを少しずつ順を追って書いてみようと思います。
この偶然とは、埼玉県川口市にある「グリーンセンター」にたまたま行った時の話で、温室の中を歩いていると、何となく誰かに見られているような感じがし、ゆっくりと周囲を見渡したところ、向かい側の木の陰からこちらを見ている人がいたのです。
母と同じくらいの年齢の人と、私と同じくらいの人と、その子供と思われる3人連れの人たちで、私と目が合うと近づいてきて「○○さんの息子さんでは?」と言うので、私が「そうですが?」と答えると、「やっぱり、よく似ているのでそうではないかと思った」のだそうである。
そして「ご両親はいかがお過ごしですか」と言う問いに「父は4年前に、母は2ヶ月ほど前に亡くなりました」と言うと、「そうですか、あなたも苦労をしましたね」と言い、続けて「あなたの事は親戚中が知っていて、何とかしてあげたいとは思ってもどうしようもなかったの、ゴメンナサイね」と言うのである。
一瞬私はポカンといていたのだが、それを察したのだろう、母と同じくらいの歳の人(父の従兄弟)が過去の様々な経緯を話してくれたのですが、父か母のどちらかが生きていたら話してはくれなかったことでしょう。
この三人は、父の母(私のおばあさん)の実家の人で、一度だけ訪れたことがあるのだが、1時間余りしか滞在していなかったので記憶に残っていなかったのですが、私が余りにも父に似ていたために先方が気が付いてくれたのです。
事の真相は至って簡単なことで、私の記憶が空白になっている時期(小学3年の頃)に父と母の間で起きた争いが私に飛び火しただけの事だったのですが、飛び火の原因が「3週間遅れて生まれた私の誕生日(母方のおじいさんの命日)」だったのです。
3週間も遅れたうえに、選りによっておじいさんの一周忌の命日に生まれたことで「おじいさんの生まれ変わり」と言われた事が、後になって災いする事など誰が想像したであろうか。
分かり易く言えば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地で行ったもので、母が坊主で「私は袈裟」だったのですが、もう一人袈裟がいたのです。
それは「母のお兄さん」で、一緒に住んでいなかったことで私ほどはひどくなかったのだが、何かにつけ「あの馬鹿野郎が!」とか「○○の家の物は皆どうしようもない馬鹿野郎だ!」と言われ続けていたのです。
それではその争いはと言うと、私たちは6人兄弟だが、父にすれば「7人目が欲しい」と思っていたのだそうだが、その事が気に入らない母に「父の人格を破壊するような暴言」を吐かれたのだそうです。
どのような言葉だったかは「とても口に出来るような言葉では無い」といって聞かせてもらえなかったのだが・・・・、「人格を破壊するような言葉」と言えばおよそ想像できるだろう。
そして更に衝撃的な事実「母は子供が嫌いだった」と言う事で、母に言わせれば、私たち兄弟は「父によって無理に生まされた望まぬ子」だったと言うのです。
このことを聞いた時ふと思い出したことは、正にこのことを裏付けるような事実があったことです。
それは、私の下の姉が二人目の女の子を出産して間も無くの事で、過労から肝臓を患い長期入院を強いられてしまった時の事、姉の家は小さなスーパーのような店を営んでおり、子供を育てる人がおらず、当時は店の経営から身を引いていた父と母が引き取って育てる事になったのだが、ある時母が私に言った言葉「私は子供(孫)なんて好きじゃないけど、おじいさんが喜んでいるのでしょうがないから手伝っている」と言っていた事を思い出したのです。
これで寒い冬、雪の降る庭に私が放り出されても「身を挺して守る」と言うことをしてくれなかった理由がわかったような気がしたのです。
そして父にしても、けして私が憎くてしたことではなく、いくら母に怒りをぶつけても「知らぬ顔の半兵偉」だった母への「アテツケ」だった物がエスカレートしてしまったもので、最後まで振り上げたこぶしの収めようが無かったのでしょう。
それでは「何故父は母と別れようと思わなっかのだろう」と聞いたところ、当時の父にとって「母がいないと店を開けてゆけない」と言う事情(弱味}が有り、母にすればそのこと(弱味)に付け込んで居座っていたのだそうで、母にしても「家を出て行ったら生活できない」と言う事情(利己主義)が働き、いわば「家庭内離婚」の状態でずるずると続いていたのです。
確かに中学2年の頃だったと思うが、ある日母がポツンと言った言葉に「母さんと父さんはもう夫婦じゃないんだョ」と言っていた事も思い出すのです。
「子は鎹(かすがい)」ならぬ「商売が鎹」で、お互いに「仕方なしに一緒にいた」だけだったのです。
そして、母は死ぬまで「悲劇のヒロイン」を演じ続けていたのだが、真相が判明してみれば「羊の皮をかぶったオオカミ」と言うほうが相応しく、「私の人生を狂わせた張本人」だったのです。
「親は子供を選べるが、子供は親を選べない」とはよく言ったものです。
次からは私の生い立ちを少しずつ順を追って書いてみようと思います。
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