結構間違っているというか、こじつけで歴史を語る場合がある。
平安神宮の松、大鳥居から参道、平安神宮と凸型になっている。参道の松が雄松で、奥の底辺の松が雌松になっていて子孫繁栄を表すことになっている。しかし、松は雌雄同株で、参道の松にもまつぽっくりができている。しゃれなのだろう。
赤い鳥居の神社は秦氏関係の神社が多い。野々宮神社や天皇陵墓などの鳥居は白木の鳥居が多い。なぜ? 鳥居の発祥は四条畷歴史資料館で解説されていた。神の使いだった鳥。簡単に作られた鳥居が立派になっていく。
京都中心部の京都の方は、祇園祭のときだけきゅうりを食べない。なぜ。毎週どこどこへ行ってみて来いとか、京都関係することはすべて知っていて当たり前といった先輩は、もともと八坂氏は、新羅の出身で、河童伝説があり、池や川に河童が住み着き食料となっていたからだという。水の神と崇められ、祇園祭に神である河童の植物を食べるとよくないという伝説から食べなくなったという新羅の河童伝説をとく。
京都北区にある高麗美術館の学芸員さんに約1から2年かけてしらべてもらった。感謝しかない。新羅にはそういう河童伝説は古代からも今もないというご返事をいただいた。鱧は生命力が強く京につくまで生きていたので、昔から重宝されたようである。京の夏ばて防ぐたんぱく源だった。
八坂神社の奉賛会のお金を長年徴収された方に奉賛会の話したが、徴収してただけで奉賛会の事柄は詳しくは知らないということだった。私の会社では、多くの上司(部長級)や先輩諸氏からは会社のことすべて知っていて当たり前と言われた。会社の歴史を調べていて社長出身のところで、これ以上調べると首になるぞと言われた。上司や先輩が言ったことななんだろうかと思った。首になるようなこというな。揚げ足取るなと言いたい。
あるときに会社に勤めていた父が亡くなりました。葬儀するので東京本社に連絡しましたが誰も知る方がいらっしゃらないので、京都の本社に連絡しました店長におつなぎくださいということだった。店長不在で、副店長に電話回したら知らないと、電話が返ってきた、びっくりした。人事課総務課に回したらよいものを知らない私に戻ってきた。部長級の誰に聞いても知らないと返事。常務がしどろもどろ対応しているときにたまたま通られて知っていますということで、総務課に手配しますとおっしゃっておさまった。会社の私に叱咤した上司や先輩の言葉は何だったんだろうか思う。自分も全く知らないくせに。
奉賛会は、大きく3つあり、江戸時代以前から古くから奉賛会に入られている氏子の方々、次に明治以降に氏子になられて奉賛会を続けておられる方々、最後に近年奉賛会の会員になられた方々とわかれている。それを八坂神社の奉賛会の会費を長く徴収されている方がごぞんじなかったのでびっくりした。京都人は皆知っていて当たり前なんでしょ上司や先輩!
禅寺の花頭窓、波打った縦の板数本ある。人間の煩悩を表しているそうだ。禅僧は、生活すべてが修行。食事するのも、といれするのもみな修行だそうです。冬には裸足で草鞋を履いて托鉢される。浄土真宗の御坊様に聞いたらそんなことはしないとおっしゃっていた。第2次大戦中臨済宗のお坊さん兵は、どんなことでも厳しい修行だったから耐えた方、生きられて生還した方が多いとも聞いた。
京の町中に図子と呼ばれて永く人がすまなかった地域や平安時代の地図を見ていると変な死に方をした貴族の邸宅などに悪所と書かれている場所がある。そんなところ調べるの面白いかもしれない。地獄の1丁目髑髏町、因幡薬師の裏など数か所ある・・・
知恩院の忘れ傘や瓦は、建物を完璧に作ると火事になりやすいという迷信から棟梁がわざと置いたものだそうだ。山門には知恩院を建造した棟梁の夫婦像が祭ってあった。
瓦や仏像のおいてる台座に巴紋(雷紋)がある。朝鮮半島から古くから伝わったもので火除けの意味がある。なぜ雷紋といったかというと会社の先輩の一人にラーメン鉢のこの模様何を表しているか知っているかといわれたことがある。当然ラーメン食べることしか頭のない私、絵柄や紋の意味まで考えたことなかった。よっぽど京都の方は造詣が深いと見える。
明治時代に国家プロジェクトなみのシルクロード大谷探検隊。他国は国家プロジェクト。個人で大谷光瑞が私費でおこなったのにはおどろく。京で初めて車を購入したのも京都御所の皇居と西本願寺だ。びっくりする。大谷光瑞氏世界のすべての新聞を配達してもらっていたと聞く。伏見(指月)や神戸の山のふもとに広大な別荘も持っていた。
明治の初めの国家予算と東本願寺のお布施の金額が同じくらいだったとお聞きしてびっくり、大きな立派な金庫を見せてもらった。東本願寺の建て替えに大きな柱を使ったので、その頃の材木をつるす縄がのき並み切れて難航していた。門徒の女性が長い日本髪をたくさん寄進されて、丈夫な日本女性の髪縄ができ、改築工事は無事に行われたそうです。また、令和天皇夫妻は、京都に来られた時には必ずこの前を通られる。もう京都にお住いの方は先輩の言われる通り知っておられることと思いますが、天皇の警護は、国賓並みの警備ではなく次の軽めの警護になっていると知っている方に教えていただいた。それで、いつも車窓から手を振っておられる。
まだいろいろとあるだろう。都草の会社の先輩、新羅の河童伝説を解く先輩いわく京都に住む方はすべて知っておられるといわれていた。笑われないようにせよといわれた。人間壊れた・・・
平安神宮の松、大鳥居から参道、平安神宮と凸型になっている。参道の松が雄松で、奥の底辺の松が雌松になっていて子孫繁栄を表すことになっている。しかし、松は雌雄同株で、参道の松にもまつぽっくりができている。しゃれなのだろう。
赤い鳥居の神社は秦氏関係の神社が多い。野々宮神社や天皇陵墓などの鳥居は白木の鳥居が多い。なぜ? 鳥居の発祥は四条畷歴史資料館で解説されていた。神の使いだった鳥。簡単に作られた鳥居が立派になっていく。
京都中心部の京都の方は、祇園祭のときだけきゅうりを食べない。なぜ。毎週どこどこへ行ってみて来いとか、京都関係することはすべて知っていて当たり前といった先輩は、もともと八坂氏は、新羅の出身で、河童伝説があり、池や川に河童が住み着き食料となっていたからだという。水の神と崇められ、祇園祭に神である河童の植物を食べるとよくないという伝説から食べなくなったという新羅の河童伝説をとく。
京都北区にある高麗美術館の学芸員さんに約1から2年かけてしらべてもらった。感謝しかない。新羅にはそういう河童伝説は古代からも今もないというご返事をいただいた。鱧は生命力が強く京につくまで生きていたので、昔から重宝されたようである。京の夏ばて防ぐたんぱく源だった。
八坂神社の奉賛会のお金を長年徴収された方に奉賛会の話したが、徴収してただけで奉賛会の事柄は詳しくは知らないということだった。私の会社では、多くの上司(部長級)や先輩諸氏からは会社のことすべて知っていて当たり前と言われた。会社の歴史を調べていて社長出身のところで、これ以上調べると首になるぞと言われた。上司や先輩が言ったことななんだろうかと思った。首になるようなこというな。揚げ足取るなと言いたい。
あるときに会社に勤めていた父が亡くなりました。葬儀するので東京本社に連絡しましたが誰も知る方がいらっしゃらないので、京都の本社に連絡しました店長におつなぎくださいということだった。店長不在で、副店長に電話回したら知らないと、電話が返ってきた、びっくりした。人事課総務課に回したらよいものを知らない私に戻ってきた。部長級の誰に聞いても知らないと返事。常務がしどろもどろ対応しているときにたまたま通られて知っていますということで、総務課に手配しますとおっしゃっておさまった。会社の私に叱咤した上司や先輩の言葉は何だったんだろうか思う。自分も全く知らないくせに。
奉賛会は、大きく3つあり、江戸時代以前から古くから奉賛会に入られている氏子の方々、次に明治以降に氏子になられて奉賛会を続けておられる方々、最後に近年奉賛会の会員になられた方々とわかれている。それを八坂神社の奉賛会の会費を長く徴収されている方がごぞんじなかったのでびっくりした。京都人は皆知っていて当たり前なんでしょ上司や先輩!
禅寺の花頭窓、波打った縦の板数本ある。人間の煩悩を表しているそうだ。禅僧は、生活すべてが修行。食事するのも、といれするのもみな修行だそうです。冬には裸足で草鞋を履いて托鉢される。浄土真宗の御坊様に聞いたらそんなことはしないとおっしゃっていた。第2次大戦中臨済宗のお坊さん兵は、どんなことでも厳しい修行だったから耐えた方、生きられて生還した方が多いとも聞いた。
京の町中に図子と呼ばれて永く人がすまなかった地域や平安時代の地図を見ていると変な死に方をした貴族の邸宅などに悪所と書かれている場所がある。そんなところ調べるの面白いかもしれない。地獄の1丁目髑髏町、因幡薬師の裏など数か所ある・・・
知恩院の忘れ傘や瓦は、建物を完璧に作ると火事になりやすいという迷信から棟梁がわざと置いたものだそうだ。山門には知恩院を建造した棟梁の夫婦像が祭ってあった。
瓦や仏像のおいてる台座に巴紋(雷紋)がある。朝鮮半島から古くから伝わったもので火除けの意味がある。なぜ雷紋といったかというと会社の先輩の一人にラーメン鉢のこの模様何を表しているか知っているかといわれたことがある。当然ラーメン食べることしか頭のない私、絵柄や紋の意味まで考えたことなかった。よっぽど京都の方は造詣が深いと見える。
明治時代に国家プロジェクトなみのシルクロード大谷探検隊。他国は国家プロジェクト。個人で大谷光瑞が私費でおこなったのにはおどろく。京で初めて車を購入したのも京都御所の皇居と西本願寺だ。びっくりする。大谷光瑞氏世界のすべての新聞を配達してもらっていたと聞く。伏見(指月)や神戸の山のふもとに広大な別荘も持っていた。
明治の初めの国家予算と東本願寺のお布施の金額が同じくらいだったとお聞きしてびっくり、大きな立派な金庫を見せてもらった。東本願寺の建て替えに大きな柱を使ったので、その頃の材木をつるす縄がのき並み切れて難航していた。門徒の女性が長い日本髪をたくさん寄進されて、丈夫な日本女性の髪縄ができ、改築工事は無事に行われたそうです。また、令和天皇夫妻は、京都に来られた時には必ずこの前を通られる。もう京都にお住いの方は先輩の言われる通り知っておられることと思いますが、天皇の警護は、国賓並みの警備ではなく次の軽めの警護になっていると知っている方に教えていただいた。それで、いつも車窓から手を振っておられる。
まだいろいろとあるだろう。都草の会社の先輩、新羅の河童伝説を解く先輩いわく京都に住む方はすべて知っておられるといわれていた。笑われないようにせよといわれた。人間壊れた・・・