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楽しい出来事

私の楽しい出来事、うれしかった出来事日記

間違っていること!しゃれ!縁起!

2025-08-31 21:17:13 | 日記
 結構間違っているというか、こじつけで歴史を語る場合がある。
 平安神宮の松、大鳥居から参道、平安神宮と凸型になっている。参道の松が雄松で、奥の底辺の松が雌松になっていて子孫繁栄を表すことになっている。しかし、松は雌雄同株で、参道の松にもまつぽっくりができている。しゃれなのだろう。

 赤い鳥居の神社は秦氏関係の神社が多い。野々宮神社や天皇陵墓などの鳥居は白木の鳥居が多い。なぜ? 鳥居の発祥は四条畷歴史資料館で解説されていた。神の使いだった鳥。簡単に作られた鳥居が立派になっていく。

 京都中心部の京都の方は、祇園祭のときだけきゅうりを食べない。なぜ。毎週どこどこへ行ってみて来いとか、京都関係することはすべて知っていて当たり前といった先輩は、もともと八坂氏は、新羅の出身で、河童伝説があり、池や川に河童が住み着き食料となっていたからだという。水の神と崇められ、祇園祭に神である河童の植物を食べるとよくないという伝説から食べなくなったという新羅の河童伝説をとく。
 京都北区にある高麗美術館の学芸員さんに約1から2年かけてしらべてもらった。感謝しかない。新羅にはそういう河童伝説は古代からも今もないというご返事をいただいた。鱧は生命力が強く京につくまで生きていたので、昔から重宝されたようである。京の夏ばて防ぐたんぱく源だった。

 八坂神社の奉賛会のお金を長年徴収された方に奉賛会の話したが、徴収してただけで奉賛会の事柄は詳しくは知らないということだった。私の会社では、多くの上司(部長級)や先輩諸氏からは会社のことすべて知っていて当たり前と言われた。会社の歴史を調べていて社長出身のところで、これ以上調べると首になるぞと言われた。上司や先輩が言ったことななんだろうかと思った。首になるようなこというな。揚げ足取るなと言いたい。
 あるときに会社に勤めていた父が亡くなりました。葬儀するので東京本社に連絡しましたが誰も知る方がいらっしゃらないので、京都の本社に連絡しました店長におつなぎくださいということだった。店長不在で、副店長に電話回したら知らないと、電話が返ってきた、びっくりした。人事課総務課に回したらよいものを知らない私に戻ってきた。部長級の誰に聞いても知らないと返事。常務がしどろもどろ対応しているときにたまたま通られて知っていますということで、総務課に手配しますとおっしゃっておさまった。会社の私に叱咤した上司や先輩の言葉は何だったんだろうか思う。自分も全く知らないくせに。

 奉賛会は、大きく3つあり、江戸時代以前から古くから奉賛会に入られている氏子の方々、次に明治以降に氏子になられて奉賛会を続けておられる方々、最後に近年奉賛会の会員になられた方々とわかれている。それを八坂神社の奉賛会の会費を長く徴収されている方がごぞんじなかったのでびっくりした。京都人は皆知っていて当たり前なんでしょ上司や先輩!

 禅寺の花頭窓、波打った縦の板数本ある。人間の煩悩を表しているそうだ。禅僧は、生活すべてが修行。食事するのも、といれするのもみな修行だそうです。冬には裸足で草鞋を履いて托鉢される。浄土真宗の御坊様に聞いたらそんなことはしないとおっしゃっていた。第2次大戦中臨済宗のお坊さん兵は、どんなことでも厳しい修行だったから耐えた方、生きられて生還した方が多いとも聞いた。

 京の町中に図子と呼ばれて永く人がすまなかった地域や平安時代の地図を見ていると変な死に方をした貴族の邸宅などに悪所と書かれている場所がある。そんなところ調べるの面白いかもしれない。地獄の1丁目髑髏町、因幡薬師の裏など数か所ある・・・

 知恩院の忘れ傘や瓦は、建物を完璧に作ると火事になりやすいという迷信から棟梁がわざと置いたものだそうだ。山門には知恩院を建造した棟梁の夫婦像が祭ってあった。

 瓦や仏像のおいてる台座に巴紋(雷紋)がある。朝鮮半島から古くから伝わったもので火除けの意味がある。なぜ雷紋といったかというと会社の先輩の一人にラーメン鉢のこの模様何を表しているか知っているかといわれたことがある。当然ラーメン食べることしか頭のない私、絵柄や紋の意味まで考えたことなかった。よっぽど京都の方は造詣が深いと見える。

 明治時代に国家プロジェクトなみのシルクロード大谷探検隊。他国は国家プロジェクト。個人で大谷光瑞が私費でおこなったのにはおどろく。京で初めて車を購入したのも京都御所の皇居と西本願寺だ。びっくりする。大谷光瑞氏世界のすべての新聞を配達してもらっていたと聞く。伏見(指月)や神戸の山のふもとに広大な別荘も持っていた。

 明治の初めの国家予算と東本願寺のお布施の金額が同じくらいだったとお聞きしてびっくり、大きな立派な金庫を見せてもらった。東本願寺の建て替えに大きな柱を使ったので、その頃の材木をつるす縄がのき並み切れて難航していた。門徒の女性が長い日本髪をたくさん寄進されて、丈夫な日本女性の髪縄ができ、改築工事は無事に行われたそうです。また、令和天皇夫妻は、京都に来られた時には必ずこの前を通られる。もう京都にお住いの方は先輩の言われる通り知っておられることと思いますが、天皇の警護は、国賓並みの警備ではなく次の軽めの警護になっていると知っている方に教えていただいた。それで、いつも車窓から手を振っておられる。

 まだいろいろとあるだろう。都草の会社の先輩、新羅の河童伝説を解く先輩いわく京都に住む方はすべて知っておられるといわれていた。笑われないようにせよといわれた。人間壊れた・・・
 
 

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この世の中にはわからないことはないといわれたけどいまだにわかないこと

2025-08-31 12:50:02 | 日記
◎生命がどうしてできたのかわからない。
◎宇宙ってどうなってるの 果てはあり、寿命あるの
◎どうして老化するの
◎人類はいつまで生存できるの 恐竜は約3億年生きたといわれているそれ以上に続くのご返答を
◎人類はいつまでたっても平和な世界を作らず戦争や紛争をおこすの
◎核戦争は起きて、地球は放射能に汚染されるの 爆弾の中心温度は約3000度を超えるといわれています、人間1人爆心では、一瞬にして水蒸気化して何も残らない 少し離れたところでは、大やけど、内臓とびだし、手足などちぎれた状態になる
◎地球温暖化して対策会議されているのに有効な手立てがないの 二酸化炭素や窒素を減らす機械できないの
◎地球の内部マントルってどういう形状して、地球にどのような影響を及ぼしてるの
◎ヤマトタケルノミコトの白鳥陵 百舌鳥と三重の山の中にあるがどちらが本物
◎なぜ卑弥呼の国がわからないの
◎箸墓 卑弥呼の墓となんで確定できないの
◎聖徳太子の墓は三位一体になっているのに、山背大兄王の墓(古墳)は離れているの 鉄砲うちの方がいたので近くに寄れなかった 聖徳太子は京にも来て六角堂や苔寺(西芳寺)を造営しているから深い関係がある
◎足利直義 尊氏の弟 邸宅跡に尊氏が自ら八幡の神を勧請したとされる そこにも邸宅あったのかもしれないが堀川高校の北側に邸宅があったと聞いている どちらもただしい どちらかがただしい 私の会社の後の常務は、「なおよし」と呼んだ。「ただよし」なのになぜうるさく上から目線でいいはなつ会社なのに間違ったこというのと言いたい
◎西芳寺は、室町時代には枯山水の庭園だったといわれていますが、聖徳太子が造営した初期の建物や庭はどのようなものだったの
◎お茶は京都が発祥のようにいわれていますが、鎌倉建長寺に行くとガイドさんが中国の高僧が来て茶を伝えたがその代でとだえました。その後また、中国からお茶の文化をもった僧が来られて今に伝わっていますという説明だった。京か鎌倉どちらが茶の文化が先にはいってきたの 栽培は宇治だと思いますが・・・
◎エジプト文明は紀元前3000年なのにあれだけの文化があったのはなぜ。
◎ナスカの絵 次々といまだに発見されています。何のために作られ、地上の作る人はどうして上空からしかわからないのに絵を作ることができたの
◎アンシュタインが唱えた相対性理論以上の理論を発見する人がいまだにいない 上司曰く日々人間進歩しているはずだからわかって当たり前ではないの えらっそうに言われて、その進歩理論で毎年の会社査定されてあほらしい 自分も進歩されているのだからすばらしい理論か科学発表されたらいかがですか 弱い者いじめのようなことはしないでどうどうと人類に発信ください
 ・アンシュタインさん京都に来ているし奈良にも観光している
 ・ヘレンケラーさんも日本各地に来て京都にも来ている 以前にはどこで講演したか調べてもわからなかった 最近載るようになり、同志社女子大学と京都盲亜学校で公演された 皆さんご存じだったの?
 ・アメリカ大リーグで有名なベーブルースも京都の西京極球場で、京都商業高校出身の沢村栄治投手と練習試合しています。公式ではなかったので歴史書には載っていませんが、見えないものまで見える京都人は知っていて当たり前なのにご存じないなぜ
 ・トーマス・エジソンが京の真竹で白熱電球を発明したのは有名です。友人が日本の土産で持ち帰った土産物の扇子の竹。たまたま使用したら長く発光した。その扇の骨には、八幡の竹が使用されていました。自家発電で発電していたので、広く家庭に普及させようと政府に発電所を各地に作るように招請しました。発電所も完成して、家庭でエジソンの発熱電球が使用されるようになり、八幡の竹では足りないので、洛西地区の竹も多くアメリカに出荷されました。嵯峨街道(物集女街道)を竹を積んだ荷車がたくさん往来したので、その頃はエジソン街道と呼ばれたそうです。これも知る方がほとんどいらっしゃらない。竹の資料館にはエジソンンの発熱電球置いてありますが、エジソン街道と呼ばれたことまでは書いてない。なぜ。昭和の初め日本各地の真竹は花が咲き、激減しました。その代わりに今食用の孟宗竹が植えられたこと京都の方本当にご存じなのだろうか?
◎伏見本陣のあった場所そんなに歴史古くないのになぜわからないの
◎清水寺に阿弖流為の碑がある。本当は殺さないということで蝦夷から連れてこられた。滋賀県の県境で殺されたとかいくつか説があるが、本当はどこで処刑されたの
◎清水寺の懸崖造りは有名で、舞台とも呼ばれ、清水の舞台から飛びおりるという言葉もあります。実際に飛び降りされたかたもいらっしゃるようです。狸谷不動尊も同じような造りに見えました。清水寺の本堂の大屋根は、ふくらみのある形状の寄棟造で「照り起り(てりむくり)」と呼びます、檜皮作りです。なぜだかというと大屋根で瓦を全体に敷くと重さで本堂が潰れてしまうからだそうです。それもご存じでしたか?
◎祇園祭 前祭りと後祭りと2回されるようになり、鉾も菊水鉾など再現されて増えてきています。以前祇園床で長刀の稚児がしめ縄切をしていましたが、関係者の方に多くお聞きしましたが祇園床という名前すら知らないし、場所は当然知られない、なぜ。昔のように八坂神社から数人の稚児が派遣された祇園床から出発したらよいと思うのですが・・・関係者でも知らない方ばかりなので驚いた・・・
 ・長刀鉾の三条小鍛冶が作ったとされる当初の長刀。会社の先輩から京都のこと全て知っていて当たり前と言われていたころ、会社が終わって夜の7時ごろ長刀鉾の詰所に行って聞いたら数十人いらっしゃるのに誰も知らないといわれる、棟梁が知っているかもしれないということで約10時過ぎまで来られるまで待ちました。結果はどこかに預けられて、行方不明ですということでした。結果は数年前に京都御苑で行われた都草の講演に行き、会員の方数人にお聞きしたら、最近発見されて大切に保存されていますとお聞きした。そんこともなぜ祇園祭り関係者の方皆知らないのと言いたい こちらは会社の先輩からのノイローゼになるくらいうるさく言われているのに・・今はどうでもいいや人間壊れtるから・・・
(知恩院門前の長刀を作るのに使用した三条小鍛冶井戸、花山稲荷神社、白狐神社などゆかりの地やお墓まで見に行った。)
◎宇治の平等院を造営した藤原道長などの宇治にあった菩提寺はいったいどこにあったの 宇治木幡陵墓にはたくさんの藤原氏の方々の墓石があった。しかし、そこに藤原氏の菩提寺があったのではないらしい
◎平清盛など京で栄華を極めた平家の菩提寺が東福寺近くにあったと聞いていますが、いったいどこにあったの 壇ノ浦など赤間神宮神宮近くで亡くなった方の墓はその近くの墓地に葬られていると聞きました。平清盛、重盛の墓はどこにあるの
◎桓武天皇 京都を造営した方。本当の陵墓はどこにあるの
◎地球には北極と南極があり磁場ある。電流が流れていると思われるのになぜとりだせないの
◎猛暑や竜巻など自然災害が多いが。なぜわからないことはないとおっしゃっているのにわからないの
◎プラスチックできた製品はできた瞬間から劣化しているといわれている。マイクロプラスチック増え続けている。人間の血液にも入ってきています。どうにかならないの
◎桂川に山鳥が現在でも生息して見られますという記事が載った。キジやキジバト(山鳩)などは見たことはあります。本当に生息しているの
◎源頼政が退治したという鵺本当にいたの?何かの見間違え…
◎伊豆修善寺の狩野川で源頼家が月見を楽しんだという歴史がある。京都の愛宕山にみたてた山の名前を誰もご存じなかったなぜ

天皇陛下もわからないことがこの世の中には多いと1年に1回専門家や大学教授を呼ばれて勉強会をされているにもかかわらず、この世の中にはわからないことはないとすべてを知っているという顔をして返答しないパワハラ会社上司がいた。心や精神が、健康が潰れた。最終的に人間が壊れた。

いろいろとわからないことだらけだと思っていますが、会社の上司はこの世の中にはないと私を豪語して叱咤した。
ぜひご返答ください。

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先輩が言うように京都に住んでいる人は、京都に関連すること全部しておられる?

2025-08-31 06:14:31 | 日記
 本当に京都に住んでいる方は、先輩に叱咤されたように京都のこと、関連することまで知っておられるのだろうか。また、畿内の有名寺院や主だった個所はご存じなんだろうか。中身のないはったりだったのだろうか?
 今日のラジオNHKで圭子は夢ひらくを聴いていて思った。最後の1から10まで私がバカでした。親しい先輩から仮にも先輩だから聞いてやれ命取りになって人間が潰れんだろうかと・・・

 以前にも書きましたが、パンフレットに書いてないことを見てこいといわれても、パンフレットがない。どうしたらよいの。先輩は拝観して持っておられるかもしれませんが・・・
 京都に住んでいる方は京都の関連することをすべて知っておられる。笑われないようにもっと知れといわれても、1000人に1人くらいしかご存じないようで、ほとんどの方が「わからない」「しらない」「京都に住んでいるけれども、金閣寺にも行ったことがない。」という返事ばかり。

 例えば清水寺、平安京ができた頃は西にもありました。それを知る方はない。狛犬が両方とも「口あ開けている」「あうん」ではない。これはパンフレットに書いてあり学問の道場だったので終わりがないという意味。夜叉人が奥の院にいらっしゃる。京の夜中を見回られた(警護)。この方がやられたら四天王が戦われたらしい。四天王が負けたらご本尊が戦うそうだ。そのためにばらけて京に向かって配置されています。ご本尊は、清水型観音像、目に水晶が入っているのか光っている。ふっくらしたおだやかな観音様。今は入れない場所には、盲目の方や体の不住の方が通る目印が木に彫られた跡がくっきり残っています。先に作られていたか、多くの方が触られて形成されたかまではわからないが、展示のように目じるしになっている)
 清水寺の奥にある成就院は月の庭で有名。などなど
 広大な墓地には戦争の英雄三勇士の墓や親鸞和尚の墓、九条武子、司馬遼太郎など有名な方の墓が多い。
 子安塔はもともとここにあったのではなく、移されてここにある。地主神社のあたりは、京がまだ大阪湾の一部で海水があったころに人類が初めて住み着いたところだそうだ。奈良の二上山。大津皇子の墓所があり、愛馬の霊が二上山の周りを主人を偲んで駆け回ったという。また。源義経が京から熊野へ逃げた尾根道がある。りっぱなものだった。そこが決壊(狭山市)して、今の京から奈良の標高差のある地形ができた。皆さんご存じなんだろう。

 伊豆にも行った。伊豆山神社。北条政子と頼朝がデートした場所だと伝わる。北条政子産湯の井戸。頼朝が初めて旗揚げした旗揚神社。白旗神社だったか少し忘れた。
 頼朝が妾を作ろうとしたので、八重姫など数人の女性が政子に殺されていた。京都人は皆ご存じ!
 源頼家の墓、十七士の墓、源範頼、北条頼政の墓、修善寺橋袂の頼家地蔵、北条政子が安産祈願した神社などなど
 北条頼家など数人の墓所も回った。
 有名な頼朝と文覚上人が出会った蛭ヶ小島。昔は鄙びていたが今はきれいに整備されている。文覚上人が流されたという不動堂にもいった。一番このあたりで歴史知る方は、大学教授も含めてここに来られたのがあなたが初めてですと言われた(たいへんびっくりしたので、伊豆市歴史資料館の方に聞いたら。あなたを案内しておられる方が一番この地域で歴史知っておられる方だとお聞きした。)。豪語していた都草の会社の先輩は当然言って知っておられるものと思っていたので、実際には言ってないのかと言いたい。人にはどこどこに行けとか、当然知っていて当たり前とか、目に見えないもの、パンフレットに書いてない事柄を見て来いと嫌いなるほどほとんど毎日聞かされた。無理難題を言われて不本意ながらよく知る先輩の進言で無視せずに聞いてあげてるのに過剰になっていった。やめられた時本当にほっとした。しかし、精神が、人間がそれまでに潰れてしまった。

 いろいろな京都に関連する個所(畿内)回っていたので、親父から三十三観音霊場の朱印をしてまわるように頼まれた。自分の分も含めて二回廻れた。二回目にはこの世を去るときに着るおいずるも作った。あほみたいな会社や上司、先輩たちに出会い、健康、精神を壊し、潰れた。文覚上人が修行したという那智の滝も見た。右手の座禅する石に座禅して、滝に打たれて修業していた。熊野本宮大社にも行き、赤穂浪士の吉良討ち入りの血判状を作った熊野神社の神符もいただいた(江戸時代には京に熊野本宮の僧が神符を売りまわっていた)。これもご存じな京都人。京都に四十七士の墓があるけれど、上京区から山科に今はお寺が移っている。遺髪を分けたのか、数か所の寺院に墓がある。京都留守居役だった小野寺十内の墓は他にもあり、奥様と娘の墓は俳句の短冊を模した敷石があり、違うお寺に墓所がある。それもみなご存じ!お一人だけ亡くなった家族などの面倒を見るように生かされたのもご存じ。花遊小路の近くのお寺に大石蔵之助の母の墓所があるのもご存じ。江戸に出立する約一か月前に花遊軒に滞在して墓所を供養された。内蔵助の母の墓所近くに嵐勘十郎の墓所もあった。十分母供養したのち江戸に出立する。おかるが御在所にある別れ橋まで見送った。
 花遊小路にあったパイプやさんのご主人がなぜそこまで京都を知らなければならないのですか。こだわらなくてもよいのではないですか。とアドバイスを受けた。まだ会社に勤めていてやめたくなかったので、上司や先輩の言ったことに従っていたが(親しい先輩の助言が大きい~その方も今は人間が潰れてしまっている)、結局人事権を持たない自分の部署だけ査定だけできる人間だったので、今から思うと無視したらよかった。聞いても何の恩恵なし。本当に行ってきたか。見てきたかと言われつ始末で、写真を撮るようになって大量(すごい数・ネガもすごい数でネガは全部捨てた)にある。邪魔でしょうがない。京都に住んでいる方は、本当にいろいろなこと、京都に関連することすべて知っておられるの。多くの博物館や多くの寺社仏閣の図録、パンフレット、行政が発行する地域観光パンフレットなどの資料でいっぱい。写真も図録やパンフレットなどで家の大部分を埋め尽くされている。京都有名会社の歴史載った本(見学に行っていただいたり、購入したり)や畿内有名寺院の資料・パンフレットや伊豆、近江関係などもある。何を言われてもすべてに近いほど無理難題以外調べられるようになっている。しかし、会社の上司や先輩たちの言うような状態の方はいないし、これだけ京都に関連する事柄を知っている方もほとんどいないのが現実だった。人間潰れた、精神壊れた。健康じゃなくなった。
 京都市の地名(平凡社)の本は、特に高かった。竹村さんの京都名所図絵も全館一緒に購入したのでかなり支払った。一度奈良や大阪に行くと特急に乗らないと時間がないので、朝昼晩全部どこかの店で食事して、言った寺院の拝観料・有料資料、パンフレット、特別拝観があればお金にいとわず拝観した。そこまでして、京都に住んでいる方は京都に関連すること、目に見えない事柄まで知っておられるのだろうかと思う。すごい金額のお金を使った。それでも私には目に見えないものを見て来いとうるさく毎週いい、本当に言ったのかと言われたので、写真代まで増えた。先輩こそ見えないものを見よとうるさく言われているから見ておられることと思っていたが、全く見ておられなくて、人にいうよりも、自分こそ見ろと言いたくなったことが多分にあった。自分こそ目に見えないものを見よ・・・足元を見よと
 
 日本三大仇討も当然ご存じなんだろう!曽我兄弟の仇討、鍵屋の辻 現地行ってみて回った。曽我兄弟のときには、東海道にある曽我堂から足を延ばして、小田原や北条早雲歴代の城主の墓(5代)も見に行った。りっぱなものだった。京都の方はみな知っておられるという言葉で・・・

 京都所司代板倉勝重のことも西尾市立図書館の方が親切に教えていただいた。資料も立派なものを送っていただいた。感謝。勝重の住まいがどこにあり(以前は銀行)、京都所司代、西奉行所、東奉行所のあった場所もごぞんじなんだろうと。この資料は、ほとんど東大資料室やや東京の公立などの資料室に移されて、京都にはあまり残っていないと京都市歴史資料館の方に教えていただいた。感謝。無理難題は会う度に言われたが先輩からは何の返答も何もなし。京都に住む方も無言、無関心。とてもおかしな話だ!

 先輩が私に激怒叱咤されたように京都に住んでいる方はみな京都に関係すること全て知っておられるんでしょうか?
 延暦寺の最澄が作ったとされるご本尊、2000年に1度だけ正月に御開帳され参拝できました。ほとんど行ってもみられるのは御前立。ご本尊の紙のお札は売られていました。本当に京都に住んでいる方は最澄本人が作ったとされる薬師如来像をご覧になっておられるのでしょうか?また、金蔵寺には最澄と交流があったという記録もありました。親しい関係柄だったと聞いています。延暦寺の創建を応援したと聞いています。今は、ひっそりと愛宕山にあった将軍地蔵が安置されています。白馬にまたがった軍神像。また、桂昌院の遺骨の入ったお墓もあります。この寺院は桂昌院の親戚の墓地があります(善峯寺のものは近年金蔵寺さんの了承を得て作られたものです。)皆さんご存じ!

 善峯寺には西山証空上人の墓がある。粟生の光明寺を再興した人と伝わる。その方に帰依した宇都宮連生坊(頼綱)の墓が遺言によって傍らに建立されています。生前、嵯峨にいた藤原定家と親交があり、小倉百人一首など作られ大いに貢献された。源義経など頼朝が身内を殺していた頃で、殺されると思い妻(北条政子の妹)とともに洛外に逃げてきて、帰依して僧になられたと聞く。それをご存じの方も京都人では知らない。上司や先輩の言われる通りではない。

 法然上人に帰依した熊谷連生坊(熊谷直実)も粟生の光明寺ゆかりがあり、宇都宮連生坊と混同されている方が先輩がいわれるように知っておられるはずなのに全く知らない方の方が多いように思う。光明寺の名称は、嘉禄3年(1227年)に起こった嘉禄の法難の際(京都では有名な話)にはここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。その際に法然の石棺からまばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえ、寺名を改められたことからくる。それも京都人は皆知っていて当たり前!キリストが十字架にかけられる前に着ていた血の付いた布、奇跡を起こすといわれています、よく似た話かな。キリストは復活しましたが・・・

 山ほどかきたいことがいっぱい・・・ 皆さんご存じなのでしょう先輩が言うように!目に見えないものまで京都人は見られるそうです。

※粟生の光明寺と修学院離宮には、アリジゴクがいた。普通のカゲロウの幼虫は、アブラムシのように小さくミノムシのように枯葉をまとっている。当然京都の方は関連することだから知っておられることでしょう。

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畿内てっしるか?それも知れ!

2025-08-29 15:14:31 | 日記
 部署が変わり上司が変わって、京都に関連する事柄を知っていて当たり前と言われて勉強していますと言ったら、「畿内て知ってるか。言ってみ。」といわれました。急に言われたのでわかりませんでした。「京都、大阪、奈良、山城などですか」と答えたら、勉強しているわりに知らんな。摂津、大坂、京、大和、山城。もっと勉強せよ。」とさらに酷な言葉が返ってきました。
 よく知っている先輩からは、仮にも会社の先輩だから聞いてやれと言われていたので、初めは日本最初の国道葛城古道から、加茂神社をたどりました。あと約15年かかって、山の辺の道、藤原京、大和三山、恭仁京、平城京、難波宮、平清盛の築いた雪の御所、安徳天皇御座所(モルガンお雪の燈籠の寄進がありました。)暗峠数えきれないほど回りました。本当に京都に住んでいる京都人の方はみなご存じなんでしょうか?各会社の先輩の言うように。
 葛城の加茂神社がルーツで、各都に加茂神社が築かれ、最終的に平安京の加茂御祖神社や上賀茂神社につながっていくのがわかりました。
 仁徳天皇、応神天皇(譽田八幡があり、その宮司さんが京都から来られるのは珍しいとおしゃっていた)、ニホンタケルノミコト(百舌鳥)、百舌鳥古墳群(この頃は、堺博物館の学芸員の方が戦災で皆かなり壊れていますといわれ、今のように仁徳天皇陵のように1周回れなかった・遠回りして何とか回れたのを思い出す・世界遺産になるような状態ではなかった)、大津王子(大和)、嵯峨天皇、淳和天皇、平城天皇(平城京の真北に位置するのにはびっくり)、中将姫(大和・京の市役所前に中将姫ゆかりの寺院がある)、在原業平(十輪寺)、惟喬親王(大原・辺鄙なところ)、楠木正成(大坂)、正行(四条畷)、正行(大和・辞世の句 かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる)、桜井の別れ(奈良じゃなく水無瀬にありました)、高倉天皇(墓所に引っ付いて小督の墓もありました、かわいかった)、源頼政(平等院塔頭)、以仁王(井出の7家が守っておられ、敷石はのちのもの)、後白河天皇、足利尊氏(等持院)、後醍醐天皇(唯一門が京に向かって北向いている・・・嵐山に祭られていた後醍醐の神社にむいている・大和)、護良親王ゆかりの鎌倉宮(比叡山に刀剣があった・鎌倉宮には山本元帥の句が送られていた・公家にして公家にあらず、武士のような振る舞いだったように伝えられている)、古田織部(京寺内、堺、堺にある千利休、徳川家康(南宗寺)、秀吉(阿弥陀ヶ峰)、織田信長(大徳寺)、濃姫、宇治宿祢、鎌足(談山神社奥)、聖徳太子(大坂)、小野毛人(ひとけが無くジョロウグモの巣でいっぱいだった・洛外)、蘇我馬子(大和)、入鹿(大和)、行基(大坂)、長屋王(平群郡)、吉備内親王(生駒)、清少納言(木津・本当は四国にあるという)、紫式部、清盛廟(墓は不明)、熊谷直実、平敦盛の首塚、胴塚、墓(金戒光明寺)、旭日代将軍【木曽義仲】首塚(移設されている)、平将門首塚、明智光秀首塚、明智光秀(西教寺・近江)源範頼の墓(伊豆)、石川五右衛門、姉小路公知、木曽義仲(機内ではなく近江)、黒塚古墳、高松塚古墳など数えきれないほど天皇陵や古墳、墓所もめぐりました。秀吉の母の墓所は大徳寺と聞いていますが、私にはよくわからない、妹の旭姫は家康に大事にされたようで整然としたお墓でした。弟秀次は高野山で死を賜り、その前に妻や妾数十人三条河原で無残に処刑される。悪党という文字を刻んだ石の大きな墓、高瀬川を作るときにでてきた)、平徳子の墓は宮内庁の立て札だけで見られなかったように思う。安徳天皇母で無残にも子供は三種の神具ともに海の藻屑となる。高倉天皇の正妻だったにもかかわらず高倉天皇良の墓に小督の墓が寄り添うようにあった・建礼門院徳子・この頃の女性の出家は頭を丸坊主にしなくても、肩まで来たらよかった)本当に京都人はキャパが大きいか、からっぽかです。京都人大嫌い!

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今日も猛暑の兆し!

2025-08-28 09:01:29 | 日記
 朝の散歩から帰ってきました。道端の雑草の名前を前回列記しましたが、エノキグサ、コニシキソウ、クワクサもありました。水路にはメドハギの花が咲き、クレソンが生えていました。
 田んぼでは、稲の穂が実り、鳥よけがしてありました。その水路には雄のシオカラトンボが数羽行き来していました。雌は見かけませんでした。田んぼや田んぼの道の上、土のある空き地にはウスバキトンボがたくさん飛び回っていました。東南アジアへ移動中なのでしょう。
 田んぼの鬱蒼とした草むらから、数種類のコオロギの鳴き声が聞こえていました。

 昨年のヒガンバナは、例年より約10日ほど遅れて咲いたと思います。今年はどうでしょうか。「この世の中にはわからないことはない。」と豪語した会社の上司さんいつ咲きますか。前の課題の正解もまだ聞かしてもらっていません。

 コニシキソウを見て思ったのは、ヒメコニシキソウが巨椋池干拓地で多く自生していました。田んぼには蓮の花が残っている個所も見られました。温帯マラリヤ大発生で埋められたと聞いていますが、会社の上司や先輩は日本にマラリヤなんてきいたことない。お前あほかと叱咤を受けました。しかし、国からの要請で一旦取りやめになっていた埋め立ても、再度の温帯マラリヤの流行で干拓されたと記述されています。おかしな話です。
 この巨椋池干拓地ではタシギ、カワセミ、キセキレイなど観察できます。アメリカウズラシギも偶然見られました。水路では、メダカ、オイカワ、フナ、ギンブナなど多彩な魚類が生息していました。

 宝が池では、冬にオシドリが見られます。深泥池では、ミツガシワ、ジュンサイ、タガラシ、カブトムシのようなごきぶりが生息しています(このごきぶり食用になるそうです~びっくり)。国からの要請を受けた自然観察員の方が外来種のブルーギルやブラックバスを駆除されていました。びっくりしたのはヒルがたくさんいたことです。専門家の方に聞いてもいませんでしたよとおっしゃる。シカが入ってきているなら生息しているかもしれませんとおしゃっていた。
 京都御苑では、春から夏にかけてアオバズク、冬にはイカル、トラツグミ、ビンズイ、アオバトなど、1年を通してシジュウガラ、メジロ、キビタキなど多種多様の野鳥が見られます。珍しい植物ではタシロラン、マツカサタケ、カニノツメ、セミタケ、ハリセンボンなど菌類も含めると多くの生き物が見られます。当然京都人は知っておられる梶の木。桑の葉に似ていますが、梶井の紋に似ていることから縁起物として貴族邸の中に植えらえたそうです。余談ですが、明治政府初めの頃は京都御苑の周りには囲いはなかったと聞いています。浮浪者などが住み着いて治安が悪くなった時に国民公園として整備されたときにできたようです。桂離宮の竹垣の箇所も江戸時代まではなかったときいています。そのそばの道もなかったと聞いています。

 法然院の森では、ムササビが生息しています。

 西山では天然記念物のギフチョウ、サカハチチョウ(冬型と夏型翅の模様が違う)、カラスアゲハ、アサギマダラ、イシガキチョウ、オオムラサキ、ゴイシジミなどが見られます。植物では、ジンジソウ。人の形をした花が咲くユキノシタ科の植物です。カタクリの花、一万本に1つの割合で白花が咲くようです。ヤブレガサ、サラシナショウマ、ヒトリシズカ、フクジュソウ、ジャコウソウ、フタリシズカ、オオキツネノカミソリ、ミカエリソウ、オタカラコウ、アケボノソウ、トリカブト、イカリソウ、ギンリョウソウ、クリンソウなどきりがないほど珍しい生き物が見られます。京都市がゴルフ予定地を購入して、貴重な動植物を大原野森林公園として整備して守っておられます。山歩きルート以外は入山許可がいります。森の案内人が数人おられるので、迷って入ったときは許可をもらってください。この山道を歩いていると鹿の角を数本見つけられた人がいました。

 洛西の三上さん、洛西にコマツナギがなくなったんですよと嘆いておられました。結構はびこるので嫌がられたのでしょう。そのような植物が乙訓の小倉神社に自生しています。カリガネソウねすね。

 以上会社の上司や先輩からいうと京都に生まれ住んでいる方は、目に見えないものまで見えてすべて知っておられる。笑われないようにせよと叱咤をうけましたが、どれだけの方がご存じなのだろうか・・・?あほかと会社の上司諸先輩を思うこの頃です。

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