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楽しい出来事

私の楽しい出来事、うれしかった出来事日記

本当に先輩が言われるように京都に住む方は京都に関連することすべて知っておられるの!

2025-09-06 02:28:41 | 日記
 先輩には、京都に住んでいる方は、京都関連のことをすべて知っておられるとか、生まれた時から見なくても知っておられる笑われないようにせよとか、京町屋が減ってきて保存が大変なようだとか、坂本龍馬という名前は仮の名で、才谷梅太郎が本名で正解だとか、庭園の石のおき方で置くと据えるがあるそれを見極めるようにならないといけないとか、毎週どこどこへいってこいとか、本当に行ってきたんか(写真を撮影するようになった)いろいろと不本意な常識では考えられない発言しか聞かれなかった。
 京と言っても今の京都市とは範囲が違う、畿内もそうだ。私の住む場所は京都市だが京ではなく、洛外だった。乙訓や高槻も含まれて、その地域の歴史知ろうといろいろと資料や古地図など探したが、江戸時代以前の古地図は京都市歴史資料館、京都府立図書館にもなかった。そこに住む長老や歴史知っている方に聞いても、自分の住む村というか町の事柄は知っておられましたが、村や町が違うとそこは知らんといわれた。隣村のことまで知らんと返答が多かった。
 
 畿内も違う先輩からいわれたが、摂津は今の兵庫県も含まれ、京の周囲の摂津、山城、大和、和泉、河内さす。歩いてみて違いがわかった。和歌山は含まれないが、徳川の城主と大老の2国に分かれた時もあった。
 お前いつも車で行ってるんやろとけなされたが、自家用車持ってないので、全部公共機関の電車やバスでいった。交通費、早朝から電車乗ったので朝昼晩の食事代、寺院の拝観料、特別拝観料、有料資料や本、お札やお守りお札代、図録代、写真代すごい金額のお金を使った。皆京都の方してるかなと思うくらい。

 博物館や企画展、絵の展覧会、各市町村の歴史資料館などいったが、会社の秘書の前に会社が福利厚生に購入した無料券がいくつかあった。お前それで全部いってるのやろと言われた。会社を辞めてもその券は手に入らないがいろいろと回っていた。職業訓練所で出会った大学の教授の奥様がいらしてお話したら、あなたは今やっている展覧会や企画展全部いかれてるんですねととても驚かれていた。大学教授の奥様だからいろいろといかれているようでしたが、全部は無理だったようです。私をけなした先輩とは大違い。全部会社に置いてある無料券で全部いけるはずない。目に見えないものを自分こそ見よと言いたくなる。私費もだいぶ使ったし、友人や新聞販売店にも協力していただき、感謝申し上げます。

 赤穂浪士の熊野の神符はどこのかわからなかったので、熊野の代表する熊野三社を回って、本宮のものとわかった。弁慶の足跡というのを見たし、花山天皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などをはじめ熊野詣した天皇も多いのもわかった。多くの方が参詣されていた。※建永の法難のまつむし、すずむしさん両姫様可哀想!

 源氏の祖のひとり多田神社にいったら、兵庫県だったので、それで今の近畿圏内と違うとわかった。
 斎藤道三はえごまの油売りから大名にのし上がった。大山崎に本拠地があり、通行するときに関税をかけていた。難波に製油所があった。絞り方が大山崎資料館を拝見してもわからなかって、歴史のガイドさんもわからないというので調べて欲しいといわれていたので、約十数年調べたら、醤油作る製法に似ていた。今の方法ではなく江戸時代の方法だった。えごまは、高価なもので、菜種油ができるまで貴重で、庶民は魚油を使っていた。桃山時代、秀吉死後公表されてから、墓の周りをえごまの火で煌々と照らし出したと伝わる。京の油売りの話も有名です。
 そのほか、源頼朝も京に関係があり、鎌倉にも数度足を運んだ。夢想礎石が鎌倉から洛外の西芳寺に来られたことも初めて知った、天龍寺の庭は夢想礎石の造営した庭と伝わります。本来は、座敷の上から見るのが本当ですとガイドさんがおっしゃっていた。墓は臨川寺の中にあるが拝観はできない。NHKのテレビで見たくらいだ。阿仏尼の墓とされるもの、西田幾太郎の墓も京と鎌倉に2つあった。京のは源実朝を祀るお寺の門前にあった(京に実朝像があるとは知らなかった)。お茶も種は京かもしれないが、団茶と呼ばれる日本最初にお茶が伝わったのは、京か鎌倉かわからない。抹茶は、京都が発祥で石碑があった。

 源頼家は修善寺を京に見立てたし(愛宕山、嵐山、桂川など散策道がある)、北条政子は承久の乱のときに城南宮まで鎌倉の兵を進めている関係から見に行った。文覚上人も赤池にはじまり、熊野で滝に打たれ、中国では3日3晩山奥で無事にいられたらすごいという伝説から、まだニホンオオカミが生息する和歌山の山奥で難行をおこなったらしい。終わってから、へのかっぱという顔をしていたようだ。伊豆に流されて蛭ヶ小島で頼朝と出会い、兵をあげていく。京に関係あるので文覚上人がお経を読んで、身をおいたとされる不動尊を祀る個所を訪ねたら、ここを見学に来られたのはあなた初めてですよ大学教授も来られたことないですよと言われたのにはとても驚いた。うるさく言われた先輩の言葉は何だったのかといいたくなる。

 生まれてから会社にはいって、その先輩に京都のこと知れと言われるまでずっと新聞は朝日だった。あまりにうるさいから、京都新聞に変えざるおえなかった。朝日新聞の方は何か問題ありましたかとか、長年おつきあいしていただいたのでまたよろしくと何度も来られたが、会社の上司や先輩がうるさいので変えましたとはいえなかった。会社が歴史ある老舗なので何かと京都の事柄を知らないといけないので変えましたと嘘をついてしまった。さずがに京都新聞天龍寺法堂にある天龍図、鈴木松年から改修に伴い加藤又造画伯の図になりましたと記事が載っていて知っていた。その先輩は、京都検定1級を初めて最初に実施された問題にあったようで、受験した後すぐに聞かれました。新聞の記事を読んでいたので知っていましたと答えたら、悔しそうにしておられました。結局1回目は弁護士の合格率みたいに難関でした。私の知る方は36人の中に入っておられました。結局会社で1年間、京都検定受験のときにはじまるのが不手際で少し約10分ほど遅れたようで、試験官が悪い、試験官の不手際で合格するところをおとされたとよくきかされました。翌年には見事合格されました。おめでとうございます。あまりうるさく言わないでくださいね。
その先輩はその頃、毎日新聞を取っておられたように思う。
 
 本当に無理難題、人間としては言ってはいけない言葉を発した上司や先輩だったと今は思っている。

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日本の寺院の庭園 石を置く 据えるの違い

2025-09-05 12:27:43 | 日記
 都草の会員=会社の元先輩から京都の寺院の庭園を見るときに石があれば、置いてあるのか、据えてあるのか見極めて鑑賞せよと耳にタコができるくらい言われました。
 あまり庭園のことまではわかりません。庭園に使用している橋も時代と共に発達してる。木橋から、石橋へと変遷していると豪語されていました。今でもよくわかりません。
 妙心寺の東海庵を坪庭は据えてる。とよくおっしゃっていていましたが、めったに公開されないので、会社に入っていろいろといわれましたが、見られない。たまたま公開されたときに見に行って、先輩に話したら飛んで見に行かれました。びっくりしました。本当は逆なのにと思いました。東海庵の坪庭は据えてあるそうです。どっしりした感じの雰囲気があると先輩はいいました。
 そのほかの庭園のほとんどは石が置いてあるそうです。軽い感じがする雰囲気があるそうです。
 庭園師、造園師からいうと据えてあっても、おおきく石を見せようとするので不安定な石を深く埋めてどっしりした感じを出すそうです。安定感のある石は、浅く埋めても、置いても石全体の雰囲気が醸し出されるので、大きな形の良い石はどっしりとみえるそうです。先輩からうるさく言われたことがわからない。頭がおかしくなる。
 枯山水の有名なものは、竜安寺の石庭ですね。油塀で遠近感を出して石が絶妙にどこからみても隠れるように造園されています。東福寺の西郷さんが幕府軍に大砲を打ったとされる塔頭の庭園は、白川砂だけ。住職さんいわく「無」を表しているといわれていました。大徳寺の大仙院の庭は大海を表しているとガイドさんにおききました。金地院の庭は、鶴亀の枯山水です、滋賀県で、池の鶴亀の庭園のある寺院(名前忘れた)にも行きました。金閣寺は、池泉回遊式の庭園、禅寺に多いようで。修行のために瞑想されるので池の周りを回られる。近年の東福寺や松尾神社の庭園はまた雰囲気が違います。松尾神社には、原始の庭なる大きな石がごろごろ転がっている庭園があります。圓通寺は比叡山の借景で有名です(修学院離宮を造営する候補地の一つ、後水尾天皇慰めるための離宮候補地だった)。正月三ヶ日に行ったので仏様が開けられていました。京には天皇即位のときしか開けられない仏像がいくつかあります。
 細川家の菩提寺だった洛西地蔵院。かつては八幡山が眺望できた借景の庭だったと住職さんの奥様からおききしました。今は見えないですが、抹茶を立てていただきいただきました。感謝。裏山は衣笠山といい山号にされています。頂上には古墳があり、石室があり、フェンスで囲まれています。
 話違いますが、大徳寺高桐院細川三斎の墓があり、千利休からもらった燈籠がありました。秀吉が欲しがったので、壊されています。祇園長刀の三条小鍛冶の墓がある寺院も利休からいただいた鉄瓶がありましたが、秀吉が所望したので壊したと伝わります。またまた、話は違いますが、長刀鉾の上に飾られている大しめ縄は、終わった後(祇園祭で悪霊を払ったので、残しておくと悪霊が入るということですぐ取り壊されます)、冷泉家の台所に1年間飾られます。

 あまりにも比叡山と大文字山にあった白川石の堀場、山の山頂がなくなったのと白川砂がなくなるということで江戸時代に幕府から採掘禁止になりました。運び出した山道には、小さな石や大きな白川石、作りかけの燈籠などゴロゴロと転がっていました。本当は火山が噴火するはずでしたが噴火せずに白川石となりました。こと近くには温泉があります。
 瓜生山、嵐山など山城があった場所で、新田義貞が作ったとされる将軍地蔵は幼稚園に今は安置されているようで見られませんでした。
 ※大徳寺の金毛閣の草鞋の履いた利休像。今は拝観できるかもしれませんが、先輩がうるさく言っていたころは何回も社務所に電話しましたが、拝観はできませんでした。NHKのテレビでは拝見しましたが、実際にはみていません。京都の方はどうして知られて見られてご存じなんでしょうか。理解できません。

 先輩が言うように京都の皆さん寺院から伝統、仏像、庭園、動植物、歴史などあらゆること知っておられるので博識なんでしょう?いまだに庭園を見ても、石が置いてあるのか据えたあるのかわからないわたしです。
 https://www.japanesegardenlife.com/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%ba%ad%e5%9c%92%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%81%91%e3%82%8b%e7%9f%b3%e3%81%ae%e9%85%8d%e7%bd%ae%e3%82%92%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%8f%e8%a6%8b%e3%81%9b%e3%82%8b%e7%a8%ae%e9%a1%9e%e3%81%a8/ 

 私の家の庭にも本鞍馬石で、歴代の織商の会長が愛した庭園の石を父が譲ってもらってあった。置いてあるのか、据えてあるのかわからなかった。父もなくなって壊されるときに据えてあるのがわかった。
 あと父が日本三大エゾマツの盆栽をもっていたが、現在のように猛暑のときに枯れてしまった。私は、エゾマツだとだけ父に聞いていたのでこんな形の松がエゾマツかとしか思っていなかったが、盆栽好きな方が見られて、日本でも有名な盆栽で3つの指にはいるとおっしゃったので、びっくりしていた。
 本当の埴輪もあった。今は人に譲られて知らぬ間になくなっていた。土産物屋に打っている奈良の埴輪にそっくりで、約15センチ高だった。若いころに大学の友人が橿原市で教員をしていた関係で発掘調査されていたので、1体だけ譲り受けたものだった。完全な形でとても美しいお顔をされていた。誰にゆすられたんだろう・・・
 桂川に山鳥が生息するという方があったが、父が大昔アラスカに観光に行ったときに、日本アルプスに生息するという山鳥のはく製がある。夏ばねのライチョウでとてもきれいです。アラスカの土産物店に、夏羽根と冬羽根で真っ白なもの2体あったそうだが、欲しい方があって白い方を購入際に譲られたと聞いた。現在は、ワシントン条約があるから持ち帰れないだろう。エスキモーの方が作ったクジラの骨の民芸品もある。シロクマに彫刻されているほかには、アメリカに大昔いったときにインディアンの方が作ったト―テンポ-ルの彫刻がある。土産物屋でもう作るインディアンの方は少ないからなくだろうといわれていた。バッファローの角も持って帰ってきた。固く艶やかで肉厚の角である。話がそれました。ごめんなさい。
 家内の姉ののご主人の父ぎみが亡くなって整理しているときにコジュケイ(古くて羽根ボロボロ)やキジ(とてもきれい)のはく製がでてきた。獣医さんを長くされていたので持っておられたんだろうと思っている。いろいろとその地域のこと教えていただいたが、隣地区は方言も歴史も違うから情報が入ってこないといわれていた。私がいろいろの地域で長老の方とお話ししても同じような返答が返ってきた。京都の方先輩曰く目に見えないものまでみられるらしい。私にはまったくわからないし、長老の方もご存じなかった。しかし、日本全国の歴史、伝統文化を見る会が関東の方にはあるらしい。横浜の方でとても京都が好きでいろいろと知っておられ見ておられた。日本全国の有名寺社、庭園、伝統文化を大学教授並みの専門家に案内してもらってまわっておられる方があった。こんな方に言われたなら、人間や精神こわれなかったのになあと思った。黒谷にある向井去来の墓の場所を教えていただいた。感謝。

 
 

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京の街路樹

2025-09-04 14:14:33 | 日記
 昭和三年(1928年)11月10日、天皇即位の儀式(即位御大典)が京都御所内で行われました。天皇家としても最も大切な儀式です。その際に京都駅から京都御所まで烏丸通にユリノキ(チュリップツリー)が並木道として採用され、日本最初の街路樹と言われています。
 私も京都の道路の街路樹を見ると、銀杏並木やポプラ並木、ケヤキ並木を思い出します。近年、御池通は旅館が多く観光バスも朝だけ止められるとあって、イロハモミジが植えられています。

 イチョウは昔から中国から日本に伝わった樹木で源実朝話で有名ですが、本来は中国の奥地の寺院に自生しているもので、絶滅危惧種に指定されています。

 洛西地区は面白い街路樹が多く、なんじゃもんじゃ並木、ケヤキ並木、イチョウ並木、トウカエデ並木、エンジュ並木、ニセアカシア並木、ナンキンハゼ並木など多彩です。アオギリ並木はなくなり、カエデ並木になりました。

 平安神宮の参道は、松並木ですね。

 桂坂もアカガシワ並木、アメリカフウ並木、イチョウ並木があり、秋にはとてもきれいに紅葉します。遊歩道には、サクラ遊歩道やモミジ遊歩道があり、春に秋とてもきれいです。春にはサンシュユの黄色い花や夏には夜神秘的なカラスウリの花が咲いています。秋はアメリカフウが真っ赤になるのでとてもきれいです。自治会の名称が樹木の名前になっています。

 桂坂公園からの眺望やとてもよく、八幡山がはっきりみえます。ひょっこりひょうたん島のようですね。ここにも行きましたが、淀屋の歴代の墓がありました。

 京都は街路樹発祥の地ですから並木道も楽しんでください。

※観光バスは、別府温泉が発祥と言われています。観光タクシーはどうも京阪タクシーの前身が発祥ではないでしょうか・・・

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先輩にいろいろと言われてよかったことはなに・・・

2025-09-04 10:21:47 | 日記
 無理難題パワハラ的な言葉を嫌ほどいわれて、心が折れ、精神が壊れ、人間が潰れてしまった。
 しかし、よかったこともいくつかある。
◎奈良の法隆寺にある夢殿 岡倉天心やフェノロサが発見したという夢殿観音が見ることができた。多くの修学生が来ていたが、一瞬みられるだけで惜しいと感じた。
 法隆寺の塔の上に鎌がある。それも面白かった。
※フェノロサの墓は三井寺のあると聞いています。

◎聖徳太子の墓のある叡福寺にいったが、母、妻と三位一体の墓があるとは思わなかった。また、聖徳太子の生涯を描いた絵伝があり、国宝になっていることも知った。
※この辺りは源氏の祖先が鉄鉱石の出る土地というか鉱山を持っていて、その鉄で力を付けたと聞いていたのでそれを探しに行った、結局鉱山はわからなかった。このあたり河内飛鳥と呼ばれることも初めて知った。明日香は有名だが、河内飛鳥はあまりきかない。昔小野妹子や推古天皇、聖徳太子が生きていた時代に遣隋使船が通ったいわれる大和川が流れていたことから御陵があります。現在は流路が大きくかわっています。暴れ川で氾濫がおおかったようです。叡福寺は少し違うようです。

◎太子町遠かった。南海バスに初めて乗った。推古天皇や小野妹子の御陵があった。ついでに、河内長野まで足を延ばして、見たかった楠木正成が建立した建てかけの塔を見に行った、見たかっただけに感無量だった。足利尊氏がねんごろに遺体(首塚)を葬ったとされる。

◎高野山の弘法大使のいらっしゃるお堂。今でも生きておられるということで、食事や水が配膳されている。ここは撮影禁止区域。まだ、生きていらっしゃるということで、口に布を当て息がかからぬように運ばれる。知れたことはうれしかった。
※中国から帰国する船から三鈷(法具)を投げたら、高野山に落ちた伝説から造営されたと伝わります。
※秀吉の頃座主だった木食応其和尚、逆らうと高野山を火の海にするぞといわれて、大津城の開城の交渉や秀次の切腹を聞いたことで知られます。奈良の大仏より大きかったという京大仏(方広寺大仏殿)の造営にも携わりました。何度も焼け、秀吉死後も秀頼が再建しています。京都伏見城から、京の大仏殿まで秀吉は全国の大名に伏見の港(巨椋池の船着き場)を改修させ、伏見城の下しか通って京に入れないようにしました。

◎蔵王権現 秀吉が作ったとされる大きな極彩色の仁王様が2体、まじかで見せてもらった。歴史上、東大寺の仁王さんは有名だが、あまりにも立派で感無量だった。
行くときに人身事故があり、近鉄がとまった。西大寺でずいぶん待たされたのを覚えている。

◎石上神社にある七支刀 (しちしとう )こんなものが古代に存在したなんて、とても驚いた。今の名工が複製を作られましたがとても難航しました。
※ここには武器庫があって、桓武天皇が平安京に持っていかれました、何に使用されたのでしょうか。

◎正倉院展 ある方から、約10年続けて拝見されたらおおよその宝物はわかりますといわれた。その通りだった。約20回ほど拝観した。感謝。

◎三木市にある重源和尚のお寺浄土寺拝見できたことは素晴らしかった。ちょうど今頃阿弥陀如来の後ろ光背から夕陽の光・浄土の光が夕刻に差し込んでくる。上品上生など(上中下の三品 九品往生)お堂の中が見えない仕切りで仕切られていた。1週間ほどだけ戸をあけられる。この浄土寺を作られてから、東大寺再建となっていく。
・加茂にある九品寺にもいったが、すべての阿弥陀様が定印で、がっかりした。ここも扉が開いていなかったが、夜が暮れるころから扉をあけ放ち、池に照らされた9体の阿弥陀像を見るのがすばらしいとされている(18体になる)。

◎大枝にある地福寺さん。尋ねたら、拝観されていないのも関わらず住職さんが本像の仏様を見せてくださり感謝感激でした。荒削りの仏様ですが力強く感じました。

◎京都市内にある和泉式部ゆかりの誠心院、他にもう一か所軒端の梅のある寺院があってそこも行った。本堂内には、道長公が建立した本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの小さな像を安置しており、境内には式部の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)および式部の歌碑が建てられています。石を回すとお経を一回読んだとされる石車(輪)があります。どうしてもみたかったので、会社帰りにお尋ねして、お茶屋御社菓子などいただいて恐縮いたしました。どうしてもみたかった道長像と和泉式部像拝見できました、感謝感激!ありがとうございましたお礼まで。般若心経を約1時間ほど住職さん夫婦含めて数十人の方々と読んで供養させていただきました。

◎中堂寺にある長円寺。京都所司代の板倉勝重とゆかりがあるようです。恵心僧都が作ったとされる聖観音像が見たかったので、拝観されていただきました。拝観を公開していない寺院ですが快く、比叡山の僧恵心僧都源信が心込めて作ったと伝わる聖観音像拝見しました。鄙びて素朴な感じが素晴らしく心に響きました。おばあさまには板倉勝重の像があるか尋ねたところ、この寺院火事になって皆燃えるところでしたが、何とか仏様や板倉勝重像を守ることができましたとおっしゃって、快く拝見させていただきました。感謝お礼申し上げます。
 この寺院の住職の名字がかわっているのでお聞きしたら、快く支持して僧修業していた高貴な御坊様の名字をいただきましたとおっしゃっていました。
 それから西尾出身の京都所司代板倉勝重のこと京都ではほとんどわからなかったので、西尾市立図書館に連絡して快く、とても親切に立派な資料まで送っていただき、感謝申し上げます。感謝してもしきれないほどお世話になりました。ありがとうございました。

◎行基が作ったとされる泉橋、近くに泉橋寺があり、そこのお地蔵様、少し大きくて映画に出るやさしいお顔の大魔神を思い出しました、近くに清少納言と言われる墓があると聞きまわっているときにとてもトイレに行きたくて漏れそうになりました。和泉式部の墓そこそこにして、見上げると、木津警察署が見えたので飛んで行ってトイレ借りますと言ったら、快く貸していただきました、感謝感激、汗が出るほど我慢しました。
 その後、平重衡が東大寺の僧に殺された成らずの柿の木を見て、柿できてました。東大寺の僧に身柄を渡す前に頼朝は三島に招き、丁重にもてなしたと聞きます。亡骸は山科に埋められますが、重衡を慕う女性が持って行ったと聞いています。これだけ調べて聞いても勉強が足りない、京都の方に笑われないようにせよ。目に見えないものを見よ。どうしたらいいのといいたくなる。

◎京田辺付近の寺院を見て回っていたら、散策されている親切な方から同志社の中に多くの古墳があり、入り口の案内所で同志社内の古墳地図が無料でいただけますと教えていただいた。多くの石棺や古墳が見られた感謝。
※この近くにも三宅安兵衛の石碑があった。びっくりした。本当に千の眼がある千手千眼観音像がある寺院がるとも聞いた。時間がなかったのでまわれなかった。この田辺から大坂を超える峠があり、この旧街道には多くの石碑があると聞いた、在原業平も通った街道と聞く。この峠を抜けた街道の大阪出口付近はそれより以前に散策して調べました。

◎初めて今宮戎神社に行ったとき、大変多い人でびっくりした。おはよう朝日で、笹につけるお守りストラップにできるときいたので、それ目当てにお詣りに行った。戎くじがついていてまああたらないだろうと応募したらチョコレートだったが大変うれしかった。しれから、数度参拝しにいった。
※会社員のサラリーマンで商売人でなかったで大変迷ったが、会社の繁栄、会社の商売繁盛祈願して金像の戎像を購入した。会社始まって以来最高の売り上げの月があって、本当はその会社始まって以来の大きな売り上げ達成のために尽力しなければならない立場の営業部長が、そんな大きな売り上げができるはずない、パンクしょうるで!と言われて、何もしないで静観されていた。私の部署が大半の売り上げを担っていたので、意地になって見返してやろうと必死で頑張ったかいあって、達成できた。この月だけ、会社の売り上げは業界一番になった。もう疲労困憊でよれよれだった。
 また、店長が変わり、上司の課長から応援して支えてあげてくださいとおっしゃったので、健康概して営業から外され事務職になっても、人の2倍3倍働いた。その応援していろいろと後方からだけど支えていた店長から、会社業績が悪いからやめるように勧告受けた、大変ショックだった。そんなに悪いんですかと聞いたら、みな暇そうにしていますとおっしゃった、私のところにはあほほどこなしきれていない仕事が来ているにもかかわらず、店長も暇だったんだなあと痛感してあほらしくなった。
 今宮戎で会社商売繁盛、繁栄を祈ったが撤回します。
 ・おはよう朝日に出ていたタカラジェンヌお一人は黒木瞳さん、もう一方、練習で一回転するの失敗された女性(一回転したときに頭の羽帽子を落とされた)、御巣鷹山の飛行機事故で無くなられた。応援していただけにとても悲しい出来事でした。
今でも坂本九さんとタカラジェンヌさん思い出す。

◎京都の戎神社。今宮戎神社お詣りしてから後に10日戎にいった。毎年言っているという会社の先輩、木屋町のサントリーバーにボトルをおいておられ、毎年参る有志をここを集合場所とされていた。今宮神社では笹無料でしたが、ここでは有料びっくりした。狭い道路なのでひしめいていた。この神社の北西角に在原業平を祀る小祠があると聞いていたので、探して何も書いてなかったがお詣りした。こんなところにも在原業平関係の祠があるんだと驚いた。吉田神社の中にも業平塚があり、素朴な家があったと伝えられています。

◎壬生狂言も一度は見たかったので見に行った。無言劇で、庶民が祈願する言葉を描いた宝来と呼ばれる皿を積んで割られる様は圧巻。最後にクモの糸ではないが細い紙ひもを放射状に投げられる。その中に真に使ってある金属が入っていると縁起がよく、財布に入れておくとよいとされています。植物のカラスウリの種も奴(奴)さんのように見え、縁起がよいので、財布に入れておくとお金が増えるといわれています。壬生狂言見られた時は感動しました。京には各地蔵、特に六地蔵には六斎念仏踊りというのがあって、子供から若衆までが太鼓叩いたり、二人で獅子舞したり、民衆の芸能の楽しみですね。いくつか拝見しておもしろかった。吉祥院六斎を初めて絵見たが、京都会館でも京の芸能が企画のときに拝見した。

◎奈良の北、業平の自作といわれる聖観音像がある不退寺も参った。この聖観音像見たときには感慨深いものがあった。姿が在原業平に似ているとも伝えられる。

◎家内がいろいろな会社上司や先輩の話を私に聞かされていたので、おかしな変な人がとても多いね。自分本位の人が多かったね。まともに聞いたらあかんかったねといった。今でも電話かかってくる先輩がある。

 とてもいやいや回っていたものの京都の方はみんな知っておられる、自分が勉強不足だと思って我慢していろいろと回りました。目に見えないものを見よといつも言われていたので、当然私の行動も見られていると思っていまっしたが、今から思うと全く見られていなかった。自分本位で上から目線でした。完全に人間潰れました。
 いくつかよいところもありました。また、時間あれば追加していきたいと思います。


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日本のヘレンケラー 大石順教尼

2025-09-03 22:39:30 | 日記
 会社に入って1から2年の頃、都草の会員である元会社の先輩からひつこいほど、大石順教尼の講義研修聴いたやろ!すばらしかったなあとよく聞かされた。まだ、新米なのでよくその話がわからなかったので、前から会社におられる先輩に聞いたら、6から7年前くらいに管理職だけの研修で大石順教尼のお話があったように思う。私は管理職ではなかったので話の内容までは出席してないのでわからないなあという返事をいただいた。
 会社に入って約6から7年前だから、私が高校生の頃だと思った。まだ会社にも入社していなくて勉学にいそしんでいたころの話だった。知るはずがないのにいかにもそこにいてその講義を聞いたように話された。内容までは言われなかった。
 まだ、京都の歴史文化、京都に関連することはすべて知っていて当たり前とは言われていなかった頃ですが、あまりに何度も口にされるので、山科の佛光院を訪ねた。もうなくなって本人はいらっしゃらなかったが、口で書かれた絵がたくさん並べられていた。いろいろと関係者の方にお話を聞いて、手足が不住で筆を口にはさみ、絶妙に絵を描かれたという。
 日を改めて、墓にもいったが、山科にはあったが佛光院よりかなり遠かった。山科から藤ノ森に抜ける道の入り口の山裾に木々に隠れるようにあった。お詣りしてかえった。もう一度、大石順教尼の絵の企画展があったので拝見しに行ったのを覚えている。皆さんご存じでしたか?
 人が知らない事柄を自分が知っているから他人も知っているという上から目線の助言は決してしてほしくない。私もその先輩と同期で、管理職になっていて、再三言われた研修の講義を聴いていたら別だが、会社にも入社してない頃の話をあたかも聞いたようにいってもらいたくない。変なことばかり長年言われたから、精神つぶれた。人間壊れた。
 京都生まれ育ちの皆さん先輩が言われるように目に見えないものまで見えるのだからすごい!私には、全く見えない。話を聞いてもわからないから、一見する(話の内容の事柄を現実にみないとわからない)。一見(いっけん)してもようわからなかったら一体する(体験してみる)。ようやく何のことかわかってくる 先輩がいわれるように京都に生まれて育っただけで、また、京都人の方は住んでいるだけで、目に見えないものまで見られるのだからすごいと思う・・・人間完全に壊れてしまっている私・・・

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