先輩には、京都に住んでいる方は、京都関連のことをすべて知っておられるとか、生まれた時から見なくても知っておられる笑われないようにせよとか、京町屋が減ってきて保存が大変なようだとか、坂本龍馬という名前は仮の名で、才谷梅太郎が本名で正解だとか、庭園の石のおき方で置くと据えるがあるそれを見極めるようにならないといけないとか、毎週どこどこへいってこいとか、本当に行ってきたんか(写真を撮影するようになった)いろいろと不本意な常識では考えられない発言しか聞かれなかった。
京と言っても今の京都市とは範囲が違う、畿内もそうだ。私の住む場所は京都市だが京ではなく、洛外だった。乙訓や高槻も含まれて、その地域の歴史知ろうといろいろと資料や古地図など探したが、江戸時代以前の古地図は京都市歴史資料館、京都府立図書館にもなかった。そこに住む長老や歴史知っている方に聞いても、自分の住む村というか町の事柄は知っておられましたが、村や町が違うとそこは知らんといわれた。隣村のことまで知らんと返答が多かった。
畿内も違う先輩からいわれたが、摂津は今の兵庫県も含まれ、京の周囲の摂津、山城、大和、和泉、河内さす。歩いてみて違いがわかった。和歌山は含まれないが、徳川の城主と大老の2国に分かれた時もあった。
お前いつも車で行ってるんやろとけなされたが、自家用車持ってないので、全部公共機関の電車やバスでいった。交通費、早朝から電車乗ったので朝昼晩の食事代、寺院の拝観料、特別拝観料、有料資料や本、お札やお守りお札代、図録代、写真代すごい金額のお金を使った。皆京都の方してるかなと思うくらい。
博物館や企画展、絵の展覧会、各市町村の歴史資料館などいったが、会社の秘書の前に会社が福利厚生に購入した無料券がいくつかあった。お前それで全部いってるのやろと言われた。会社を辞めてもその券は手に入らないがいろいろと回っていた。職業訓練所で出会った大学の教授の奥様がいらしてお話したら、あなたは今やっている展覧会や企画展全部いかれてるんですねととても驚かれていた。大学教授の奥様だからいろいろといかれているようでしたが、全部は無理だったようです。私をけなした先輩とは大違い。全部会社に置いてある無料券で全部いけるはずない。目に見えないものを自分こそ見よと言いたくなる。私費もだいぶ使ったし、友人や新聞販売店にも協力していただき、感謝申し上げます。
赤穂浪士の熊野の神符はどこのかわからなかったので、熊野の代表する熊野三社を回って、本宮のものとわかった。弁慶の足跡というのを見たし、花山天皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などをはじめ熊野詣した天皇も多いのもわかった。多くの方が参詣されていた。※建永の法難のまつむし、すずむしさん両姫様可哀想!
源氏の祖のひとり多田神社にいったら、兵庫県だったので、それで今の近畿圏内と違うとわかった。
斎藤道三はえごまの油売りから大名にのし上がった。大山崎に本拠地があり、通行するときに関税をかけていた。難波に製油所があった。絞り方が大山崎資料館を拝見してもわからなかって、歴史のガイドさんもわからないというので調べて欲しいといわれていたので、約十数年調べたら、醤油作る製法に似ていた。今の方法ではなく江戸時代の方法だった。えごまは、高価なもので、菜種油ができるまで貴重で、庶民は魚油を使っていた。桃山時代、秀吉死後公表されてから、墓の周りをえごまの火で煌々と照らし出したと伝わる。京の油売りの話も有名です。
そのほか、源頼朝も京に関係があり、鎌倉にも数度足を運んだ。夢想礎石が鎌倉から洛外の西芳寺に来られたことも初めて知った、天龍寺の庭は夢想礎石の造営した庭と伝わります。本来は、座敷の上から見るのが本当ですとガイドさんがおっしゃっていた。墓は臨川寺の中にあるが拝観はできない。NHKのテレビで見たくらいだ。阿仏尼の墓とされるもの、西田幾太郎の墓も京と鎌倉に2つあった。京のは源実朝を祀るお寺の門前にあった(京に実朝像があるとは知らなかった)。お茶も種は京かもしれないが、団茶と呼ばれる日本最初にお茶が伝わったのは、京か鎌倉かわからない。抹茶は、京都が発祥で石碑があった。
源頼家は修善寺を京に見立てたし(愛宕山、嵐山、桂川など散策道がある)、北条政子は承久の乱のときに城南宮まで鎌倉の兵を進めている関係から見に行った。文覚上人も赤池にはじまり、熊野で滝に打たれ、中国では3日3晩山奥で無事にいられたらすごいという伝説から、まだニホンオオカミが生息する和歌山の山奥で難行をおこなったらしい。終わってから、へのかっぱという顔をしていたようだ。伊豆に流されて蛭ヶ小島で頼朝と出会い、兵をあげていく。京に関係あるので文覚上人がお経を読んで、身をおいたとされる不動尊を祀る個所を訪ねたら、ここを見学に来られたのはあなた初めてですよ大学教授も来られたことないですよと言われたのにはとても驚いた。うるさく言われた先輩の言葉は何だったのかといいたくなる。
生まれてから会社にはいって、その先輩に京都のこと知れと言われるまでずっと新聞は朝日だった。あまりにうるさいから、京都新聞に変えざるおえなかった。朝日新聞の方は何か問題ありましたかとか、長年おつきあいしていただいたのでまたよろしくと何度も来られたが、会社の上司や先輩がうるさいので変えましたとはいえなかった。会社が歴史ある老舗なので何かと京都の事柄を知らないといけないので変えましたと嘘をついてしまった。さずがに京都新聞天龍寺法堂にある天龍図、鈴木松年から改修に伴い加藤又造画伯の図になりましたと記事が載っていて知っていた。その先輩は、京都検定1級を初めて最初に実施された問題にあったようで、受験した後すぐに聞かれました。新聞の記事を読んでいたので知っていましたと答えたら、悔しそうにしておられました。結局1回目は弁護士の合格率みたいに難関でした。私の知る方は36人の中に入っておられました。結局会社で1年間、京都検定受験のときにはじまるのが不手際で少し約10分ほど遅れたようで、試験官が悪い、試験官の不手際で合格するところをおとされたとよくきかされました。翌年には見事合格されました。おめでとうございます。あまりうるさく言わないでくださいね。
その先輩はその頃、毎日新聞を取っておられたように思う。
本当に無理難題、人間としては言ってはいけない言葉を発した上司や先輩だったと今は思っている。
京と言っても今の京都市とは範囲が違う、畿内もそうだ。私の住む場所は京都市だが京ではなく、洛外だった。乙訓や高槻も含まれて、その地域の歴史知ろうといろいろと資料や古地図など探したが、江戸時代以前の古地図は京都市歴史資料館、京都府立図書館にもなかった。そこに住む長老や歴史知っている方に聞いても、自分の住む村というか町の事柄は知っておられましたが、村や町が違うとそこは知らんといわれた。隣村のことまで知らんと返答が多かった。
畿内も違う先輩からいわれたが、摂津は今の兵庫県も含まれ、京の周囲の摂津、山城、大和、和泉、河内さす。歩いてみて違いがわかった。和歌山は含まれないが、徳川の城主と大老の2国に分かれた時もあった。
お前いつも車で行ってるんやろとけなされたが、自家用車持ってないので、全部公共機関の電車やバスでいった。交通費、早朝から電車乗ったので朝昼晩の食事代、寺院の拝観料、特別拝観料、有料資料や本、お札やお守りお札代、図録代、写真代すごい金額のお金を使った。皆京都の方してるかなと思うくらい。
博物館や企画展、絵の展覧会、各市町村の歴史資料館などいったが、会社の秘書の前に会社が福利厚生に購入した無料券がいくつかあった。お前それで全部いってるのやろと言われた。会社を辞めてもその券は手に入らないがいろいろと回っていた。職業訓練所で出会った大学の教授の奥様がいらしてお話したら、あなたは今やっている展覧会や企画展全部いかれてるんですねととても驚かれていた。大学教授の奥様だからいろいろといかれているようでしたが、全部は無理だったようです。私をけなした先輩とは大違い。全部会社に置いてある無料券で全部いけるはずない。目に見えないものを自分こそ見よと言いたくなる。私費もだいぶ使ったし、友人や新聞販売店にも協力していただき、感謝申し上げます。
赤穂浪士の熊野の神符はどこのかわからなかったので、熊野の代表する熊野三社を回って、本宮のものとわかった。弁慶の足跡というのを見たし、花山天皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などをはじめ熊野詣した天皇も多いのもわかった。多くの方が参詣されていた。※建永の法難のまつむし、すずむしさん両姫様可哀想!
源氏の祖のひとり多田神社にいったら、兵庫県だったので、それで今の近畿圏内と違うとわかった。
斎藤道三はえごまの油売りから大名にのし上がった。大山崎に本拠地があり、通行するときに関税をかけていた。難波に製油所があった。絞り方が大山崎資料館を拝見してもわからなかって、歴史のガイドさんもわからないというので調べて欲しいといわれていたので、約十数年調べたら、醤油作る製法に似ていた。今の方法ではなく江戸時代の方法だった。えごまは、高価なもので、菜種油ができるまで貴重で、庶民は魚油を使っていた。桃山時代、秀吉死後公表されてから、墓の周りをえごまの火で煌々と照らし出したと伝わる。京の油売りの話も有名です。
そのほか、源頼朝も京に関係があり、鎌倉にも数度足を運んだ。夢想礎石が鎌倉から洛外の西芳寺に来られたことも初めて知った、天龍寺の庭は夢想礎石の造営した庭と伝わります。本来は、座敷の上から見るのが本当ですとガイドさんがおっしゃっていた。墓は臨川寺の中にあるが拝観はできない。NHKのテレビで見たくらいだ。阿仏尼の墓とされるもの、西田幾太郎の墓も京と鎌倉に2つあった。京のは源実朝を祀るお寺の門前にあった(京に実朝像があるとは知らなかった)。お茶も種は京かもしれないが、団茶と呼ばれる日本最初にお茶が伝わったのは、京か鎌倉かわからない。抹茶は、京都が発祥で石碑があった。
源頼家は修善寺を京に見立てたし(愛宕山、嵐山、桂川など散策道がある)、北条政子は承久の乱のときに城南宮まで鎌倉の兵を進めている関係から見に行った。文覚上人も赤池にはじまり、熊野で滝に打たれ、中国では3日3晩山奥で無事にいられたらすごいという伝説から、まだニホンオオカミが生息する和歌山の山奥で難行をおこなったらしい。終わってから、へのかっぱという顔をしていたようだ。伊豆に流されて蛭ヶ小島で頼朝と出会い、兵をあげていく。京に関係あるので文覚上人がお経を読んで、身をおいたとされる不動尊を祀る個所を訪ねたら、ここを見学に来られたのはあなた初めてですよ大学教授も来られたことないですよと言われたのにはとても驚いた。うるさく言われた先輩の言葉は何だったのかといいたくなる。
生まれてから会社にはいって、その先輩に京都のこと知れと言われるまでずっと新聞は朝日だった。あまりにうるさいから、京都新聞に変えざるおえなかった。朝日新聞の方は何か問題ありましたかとか、長年おつきあいしていただいたのでまたよろしくと何度も来られたが、会社の上司や先輩がうるさいので変えましたとはいえなかった。会社が歴史ある老舗なので何かと京都の事柄を知らないといけないので変えましたと嘘をついてしまった。さずがに京都新聞天龍寺法堂にある天龍図、鈴木松年から改修に伴い加藤又造画伯の図になりましたと記事が載っていて知っていた。その先輩は、京都検定1級を初めて最初に実施された問題にあったようで、受験した後すぐに聞かれました。新聞の記事を読んでいたので知っていましたと答えたら、悔しそうにしておられました。結局1回目は弁護士の合格率みたいに難関でした。私の知る方は36人の中に入っておられました。結局会社で1年間、京都検定受験のときにはじまるのが不手際で少し約10分ほど遅れたようで、試験官が悪い、試験官の不手際で合格するところをおとされたとよくきかされました。翌年には見事合格されました。おめでとうございます。あまりうるさく言わないでくださいね。
その先輩はその頃、毎日新聞を取っておられたように思う。
本当に無理難題、人間としては言ってはいけない言葉を発した上司や先輩だったと今は思っている。