楽しい出来事

私の楽しい出来事、うれしかった出来事日記

新入社員の頃言葉の綾で大失敗しました!

2018-02-12 11:44:16 | 日記
 今から思うとブラックキギョウだと思う会社に入社して、いやいや冬の忘年会の幹事を任されました。
 大学では、幹事が好きな方がいらして、毎年、全部店の設定からお金の計算までしてもらって、体だけ持って行ったらよかっただけ出した。安物の中華店で、大学のゼミの仲間と楽しくがやがやと楽しみました。料理はあまりおいしくはなかったように思いますが、仲間と話すのが楽しかった。よき青春でした。

 会社の冬の忘年会で初めて幹事をさせられました。
慣れていないので、いろいろと先輩の良く使われる宴会のお店を聞いたり、教えてもらったりして何軒か電話し、予算と照らし合わしたら全然会いませんでした。
 先輩に教えてもらったお店は、全部会社の接待でお得意様と行かれるところで、高いところばかりでした。
 しかたがないので、自分の知っているところで先輩の教えてもらったところと見劣りしないお店と思ったところにしようと思いました。

 先に会社の先輩の教えてもらった接待のお店に電話したときに、慣れないそのお店のお嬢様が出てこられ、断るのに「もう結構です」といいました。「はいわかりました」と言われ切りました。
 自分の知っている店に忘年会を設定しました。
 
 忘年会の当日の朝1番に「断ったはずのお店から準備してお待ちしています」という連絡があり、「注文はしません。もういらないという意味で、もう結構ですといったつもりです。」と話したら、初めて注文を受けられたそのお店のお嬢様は「了解しました。予約お願いしますという意味で、けっこうですよ「」という意味にとられていました。
 会社の良く接待に行かれるお店なので、平に誤り断りましたが、後味がとても悪かったのを覚えています。

 それ以来、何か註文するときや予約するときは、相手が嫌な気持ちになられてもしょうがないから「もう結構です。」という言葉はそれ以来1度も使ったことはありません。

 断るなら「それはいりません。欲しくありません。手に入れたくありません。その納期ではだめですから生産しないでください。・・・・」とはっきり言ってきました。

 それ以来間違いは1度もありませんが、仕入れ先から「あなたの言葉は明快で、心にぐっさとくる言葉を使われるので怖いです」と数回言われたことがあります。

※初めて幹事をやって何とか無事に終わりましたが、数人の先輩から領収書はいらないからもう少し安くしてもらえといわれましたが、そういうお店ではないのにいわれたのにはがっかりしました。
 長く会社にいると幹事上手な方がいらっしゃいました。安くてクーポンが使えるところで、飲み放題。少し予算を多めにとって、本番前にその集めたお金で下見。味見。
 これがよいことか悪いことかは判断しにくいですが、それでも上手に立ち回って、いつも幹事されて、よい目をされていました。幹事の裏側を見たようで、私はよく思いませんでしたが、うまく会社を立ち回ろうとすると「良」「可」なのでしょう。

 もう1つ、各務原市(かがみはらし=正式 かかみはらし)というのが岐阜県にあります。そこへ荷物を送ってもらうのに「かくむはらし」と書くんですよといわないとよく配送業者や送り主から迷子になっているとか、届かないということがありました。
 私は、2回ほど荷物が迷子になったので「電話代や時間はかかりますが(相手も知っていると思っていた思い過ごしもあった)、ちゃんと「かくはおのおのの各という漢字で、むは、任務の務めるという漢字、はらははらっぱの原と書いてカガミハラと読むんですといって再確認するようにしました。

 しかし、何年たってもほかの課や部署でも同じような間違いをやっているのを見ました。「鏡原市」と書いて、荷物が関東で見つかったり、迷子になることが多かったように思います。ブラック企業ですから、申し送りはなく、新しい人間やそれを知らない人間は、未だにおなじことをやっていることでしょう。

 日本語は難しいことがあります。2つ以上に意味が取れる場合があります。その場合は相手に失礼でも、言いたいとは言葉を濁さない、よいように言おうとしないという原則が勉強できました。また、紛らわしいことは、もう一度再確認することもするようになりました。発注の数量、生産の可否、納期管理などの間違いは激減しました。(復唱、電話内容・発注・製品名・色版型番・数量・納期などの確認書ファックス)

実家の最後の整理!

2018-02-01 11:10:50 | 日記
 昨年、父が2月7日に逝去して1年になろうとしています。
 すごい量のごみ遺品で妹たちには一切触らんといてといわれましたが、雑貨や古下着類、椅子類、小さな棚類は細かく潰して家庭ごみに出しました。写真や盆栽の本などもたくさんあり、写真に関する金属製のものなどどちらもトラック1台分、本以外の古紙や古着は、大型トラック1台持って行ってもらいましたが、家内やご近所さんの1部は知っておられますが、妹たちは遠くにいるので地分たちが整理した3割で全部で、大変だったと思っていることでしょう。

 家内は、実家を売っても私には1銭も入って来ないので、やめとけと何度も言われましたが、父母に育ててもらった恩と、妹の吐いた言葉「死んだら遺言もくそもない」という言葉で(謝りましたが…後日)、もう縁をだんだん切ろうと思っています。

 2月に入ったら解体というメールが1週間前に入り、去年のお彼岸の間父の供養で仏壇を開けていましたが、そのあと一切入っていませんでしたが(妹たちは8月中旬以来来ていませんでした)、父の表札や家族写真が数枚あるので、取りに行きました。そのあとに、1月末ぎりぎりに妹が1時間ほど最後の確認に来たみたいで、合えずじまいでしたが、少し整理してあったのでお礼のメールが来ていました。
 
 亡くなった父には、このブログでも紹介していますが、いろいろな修理道具や溶液があり、住宅掃除や汚れ落とし、ちょっとしたものの修理ができました。

 アマゾンで見た時計電池外し用の道具も最後の最後に何の道具かわかり、すぐに1000円時計の電池を取り換えることができました。
 真鍮や鉄などの汚れ落としもアマゾンで見ていて、使い古しですがあったので持って帰って、出窓の外枠掃除に使おうと思っています。

 父は最後には認知病で、私のことを泥棒扱いし、たまに来てくれる妹の方を大事にしました。現金は、妹2人がほとんど持って行ったので、父の使っていた道具や植木などを遺品にもらいました。

 その中で、生きているときには教えてもらえなかったことを本当にいろいろと理解でき、その部分ではたいへん感謝しています。

 一番遠い妹に遺品整理の全権を、末の妹には自分の遺骨の管理を生きていれば50年頼んで死んでいきました。私は一切話を聞いていなかったのでびっくりしました。

 お金の大部分も妹2人が持っていきますが、しょうがないのかなと思っています。全権を任された妹は、父・母方の親戚のことは見なくてもよいといっています。今年来た年賀状も全く触らなくていいとも言っています。私の名前は一切遺言には出てきませんでした。
 妹2人で整理は大変だと思うが、後のことは頼むで結んでありました。

 家内も細かいことは気にせず、遠くにいる妹の方がいとおしく思えたからそうしたのであって、全権を任された妹に従っていて、余計なことをしない方がよいといっています。

 これでひとまず、1軒落着です。
 ごみを見るたびにアレルギー症状になったことや、手があかぎれで痛くて困ったこと、腕が上がらないほど激痛に襲われたこと、スチール棚を2階から降ろそうとして死にかけたこと、たくさんのごみ袋を小分けにしてあちらこちらの集積場に運ぶのに4時起きで雪の日も暑い日も1時間以上かけて運んだこと、最後に重たいものを残しておいて、捨てるときにきつい腰痛になって痛み止めの注射を数回打ったことなど昨日のように思い出します。
 本当に亡くなってから遺品からいろいろと勉強させられた日々でした。感謝!

 高校時代に父の会社の社員旅行に同行して、北海道を回ったこと、家の前の川が氾濫して出られなかって会社に行けない状態のときに、おんぶして会社に生かしてくれたこと(空手5段で、まだ若かった50代)、今更ながらによい思い出も思い出されます。

※最後に元全日本空手道連盟剛柔会の会長をされ、元和歌山市長もされた宇治田省三師範の手書きの漢詩が有ります。生前、綺麗な額に入れてとてもとても大事にしていたものです(シミも汚れもなくとてもきれいなもの)。遺言にも出てきます。処分を任された妹は全く触らず、それがなんとも忍び難く思います。もう家と一緒に解体され父と同じくこの世からなってしまいます。

 ※もうなくなってしまいました。連盟を発足された方だけに今から思うと、全日本空手道連盟に処分を委託された妹たちは寄贈すべきだったのではないかと説に感じます。

 立命館の理学部を卒業していたので(立化会)、そちらの方は遺言にはなかったので、定期的に会報が亡くなってからも来ていたので連絡して、丁寧に対処していただきました。今年の会報に立命館大学に貢献した人として死亡通知が載る予定です。
 数年前に伝統ある立命館大学の空手部の不祥事で廃部になったことを生前とても悔やんでいました。そのことが思い出されます。