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楽しい出来事

私の楽しい出来事、うれしかった出来事日記

日本のヘレンケラー 大石順教尼

2025-09-03 22:39:30 | 日記
 会社に入って1から2年の頃、都草の会員である元会社の先輩からひつこいほど、大石順教尼の講義研修聴いたやろ!すばらしかったなあとよく聞かされた。まだ、新米なのでよくその話がわからなかったので、前から会社におられる先輩に聞いたら、6から7年前くらいに管理職だけの研修で大石順教尼のお話があったように思う。私は管理職ではなかったので話の内容までは出席してないのでわからないなあという返事をいただいた。
 会社に入って約6から7年前だから、私が高校生の頃だと思った。まだ会社にも入社していなくて勉学にいそしんでいたころの話だった。知るはずがないのにいかにもそこにいてその講義を聞いたように話された。内容までは言われなかった。
 まだ、京都の歴史文化、京都に関連することはすべて知っていて当たり前とは言われていなかった頃ですが、あまりに何度も口にされるので、山科の佛光院を訪ねた。もうなくなって本人はいらっしゃらなかったが、口で書かれた絵がたくさん並べられていた。いろいろと関係者の方にお話を聞いて、手足が不住で筆を口にはさみ、絶妙に絵を描かれたという。
 日を改めて、墓にもいったが、山科にはあったが佛光院よりかなり遠かった。山科から藤ノ森に抜ける道の入り口の山裾に木々に隠れるようにあった。お詣りしてかえった。もう一度、大石順教尼の絵の企画展があったので拝見しに行ったのを覚えている。皆さんご存じでしたか?
 人が知らない事柄を自分が知っているから他人も知っているという上から目線の助言は決してしてほしくない。私もその先輩と同期で、管理職になっていて、再三言われた研修の講義を聴いていたら別だが、会社にも入社してない頃の話をあたかも聞いたようにいってもらいたくない。変なことばかり長年言われたから、精神つぶれた。人間壊れた。
 京都生まれ育ちの皆さん先輩が言われるように目に見えないものまで見えるのだからすごい!私には、全く見えない。話を聞いてもわからないから、一見する(話の内容の事柄を現実にみないとわからない)。一見(いっけん)してもようわからなかったら一体する(体験してみる)。ようやく何のことかわかってくる 先輩がいわれるように京都に生まれて育っただけで、また、京都人の方は住んでいるだけで、目に見えないものまで見られるのだからすごいと思う・・・人間完全に壊れてしまっている私・・・

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伏見 指月

2025-09-03 09:00:54 | 日記
 今日の誕生日の方の花は、ツルボです。可憐な花で球根は薬になるので、薬草になっています。植物園で一回り小さなヒメツルボ出店で売っていましたが、南アフリカ産でした。
 結構過酷な自然があるのかリトーブスなど石に似た多肉植物や乾燥に強いサボテン類が多い、少しとりこになって、リトーブスは6月末から水をやっていない。3分の1が枯れた状態になっている。少し過酷な暑さがましになったら水をたっぷりとやろうと思っている。サボテン類は、1か月に一回だけ水やりというのもある。びっくりする。

 前回お土居に人柱建てたと主張する京都の造詣が深い先輩に、秀吉最初の伏見城で「指月」を見て、喜んでいたそうですねと尋ねたら、「指月(しげつ)」月に指さして何が面白かったんやおかしなこというなと戒められました。
 最初の伏見城は宇治川沿いにあり、丁度地震の断層(大きな断層で宇治断層という、大きな高低差があり三栖閘門がある・資料館拝見しました)に近かったのか壊れました。しかし、「四月」の眺望がとてもよかったので、指月城とも呼ばれました。伏見城の天守閣から見る満月の月、巨椋池に移る月、宇治川に移る澄み切って綺麗な満月、そして自分が手にしている盃に移る月四つの月です。盃の月を飲み干すたびに月も自分の思いのまま、この世界、天下を取ったという気持ちがわいてきたのでしょう。
 伏見は「不死身」の言葉にかけ縁起がよいといわれています。指月城地震で壊れて、少し奥の桃山に城を作り直しました。江戸時代初期まで現存していました。大名屋敷は酒屋が並ぶ個所から大手筋を西から登って伏見桃山城までの間にひしめくように建てられていました。変わった城下町といえます。
 伏見城の堀跡も残っていて、この上を警護兵が巡回していたと聞きました。

 秀吉が伏見城を作った影響で、京にあった酒屋さんの大半が伏見に移られて今に至ります。戦時中京阪電車を地下に潜らすという案がありましたが、伏見の酒蔵さんに反対されて中止になりました。
 京阪電車の宇治川の鉄橋は、そこに広大な軍事練習場があったので、橋脚がない変わった橋だと聞きました。鉄砲の玉があたるといけないからと。
 ※城の周りに松の木が良くたくさん植えられています。鉄砲除けだったと聞いています(彦根城できいた)。

 ちょうど明治天皇が軍事練習を見に来られた時にこの地(指月)を大変気に入られ、私費で自分の墓の用地を購入されました。多くの天皇陵も点在しています。京を造営した桓武天皇の墓ははっきりわかっていないようですが、桓武天皇御陵参考地としてこの近くに保存されていました。
 ※藤原百川の墓は京から離れた辺鄙なところにあります。多くの方に聞いても「しりません」しか返ってきませんでしたけど、知っている方があり、そこに百川の荘園があったので作られたんですよと教えていただき目からうろこでした。先輩曰く京に住んでいる方は知っていて当然なのにおかしな話です。
 シルクロードなど行って見て勉強された建築家伊藤忠太氏によって明治天皇陵は造営されました。その時の参拝客はとても多く、駅の乗降客の記録はいまだに破られていないそうです(桃山御陵駅)。

 お土居の人柱説をいいはって曲げない、造詣が深い京都の先輩と思っていたら秀吉の指月城にまつわる関連することご存じなかった。先輩が言われるように関連することを知っている方は少ないように思うんですけど・・・

 伏見城の遺構は、西教寺、西本願寺書院、長浜の本願寺、正伝寺や養源院など血天井のある七寺院+一寺院(こんなところにもあったと思った寺院がありましたもっと調べたらあるかもしれません。全部回りまっした。秀吉の体が小さかったので、小さめに作られていると説明をどこでも聞きました。血天井がありますが、伏見桃山の戦いで、最後まであらがった雑賀孫一が殺されたと聞きました。代々名前を受け継がれていることを和歌山にある雑賀衆の墓地に行き、雑賀孫一の墓が何基もあったのでわかりました。
 都草の会社の先輩だった方からいえば、当然知っていて当たり前なんでしょうね!

追記 正伝寺、字が違うが同じ読み方する寺院がお土居の上にある。時代劇やテレビドラマでよく登場します。知る人ぞ知るロケ地のひとつです。

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お土居作るときに人柱たてたの?

2025-09-02 13:19:15 | 日記
 神戸に清盛が安徳天皇をたて、雪の御所を造営したということで見に行った。学校のフェンス際に雪の御所という大きな石碑があった。半年ほど遷都されたが、京から建物が移設されず、貴族なども邸宅づくりしなかったので、ちゃんとした都にはならなかった。清盛廟、どでかい清盛供養塔、湊川の戦で楠木正成が戦ったという場所辺りに行った。正成が自害した史跡にも行き、水戸光圀の句碑もあった。
 以前にも述べたが安徳天皇御座所も見に行った。閑散とした山の上だった。
また、京都の踊念仏に関係する一遍上人の墓も京の皆さんごご存じだと思って摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)に菩提を弔いに行った。
 いろいろと回っていたら清盛が大和田の泊造営時に少年を人柱にしたという駒札を目にした。数十人人柱を立てる予定だったが、清盛の御付きの17歳の少年松王丸が進言して身代わりに人柱になられたという。
 会社の先輩と京にあるお土居の話をしていたら、お土居人柱建てて造営されたと言われた。いろんなお土居の企画展やお土居の専門の本を見たがどこにも書いていない。ほんとうに人柱建てたのと先輩に聞きなおしたい。中華事変と南京虐殺やアウシュビッツのように国家があまりにもひどかったので、公開していないように隠された史実なんだろうか。
 出身は京都で、難癖言われる会社の先輩だからご存じで正しいのだろう。京に住んでいる方からは回答が全くない。すべて知っておられるはずなのに。お土居の残っている個所、山科の蓮如が築いた土塁跡残ってる箇所ほとんど見て回った。私の土地にある場合は入っていない。タモリさんが両方とも入れてもらっていた。蓮如の御廟、実如、証如の墓地にもいった。

もう一度、京のお土居に人柱たてたの? インターネットにも出てないし、お土居企画展の展示資料、図録、お土居に関する専門歴史書などどこにも人柱のこと書いてない。会社の先輩は人柱たてたと断定される。いいはる。知らないのは私だけかもしれない。
※大和田の泊は造営する前に陰陽氏に占ってもらって、30人の少年を人柱にするとよいといわれたからたてた。お土居は京を攻めてこられないように秀吉が造営して、その上を警護していた。境に水路もあった容易に入れなかったと思う。会社の先輩の話を聞いていると頭が変になって、精神が人間が潰れてしまった。本当に京都の方はすべて知っておられるの?

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高瀬川

2025-09-02 08:23:40 | 日記
 江戸時代、京都の町中に物資を運搬した高瀬川がある。森鴎外の小説に高瀬舟という代表作がある。
 高瀬川の三条小橋付近にはたくさんの藩邸があり、物資を運び入れていた。江戸時代の高瀬川付近の地図を見ると藩邸がずらりあり、舟入りという文字もたくさん書かれている。幕末には、この付近に坂本龍馬が隠れ、広い材木置き場があり、鉄砲を撃って練習していたという。
 今のような平坦な橋ではなく、舟が通れるように太鼓橋になっていた。午後と午前に分けて、標高差のあるこの川の高低差を板で、スエズ運河のように一定距離水を止めて往来した。
 江戸時代初期に角倉了以・素庵の父子によって作られた(角倉家の墓も見に行ったが角倉の分家筋で本家と並んでいた)。延長が認められたのは作事奉行が大久保長安の時代だ。佐渡の金山、大仁金山の金山奉行もして妾も多かったようだが、夫妻子供皆幕府に殺される。京都に関係している事柄だ。妾に子があったのだろうか、それも知る方はいない。伊豆の大城家の妾の墓も見たが子供がいたかはわからない。今でも大城家は旧家で、小高い山の上に不動堂を持っておられる。
 少し話は変わるが、三条大橋の造営を秀吉に任された増田長盛の名前が欄干の碑文に刻まれている。

 高瀬川によって全国からいろいろな物資が運ばれてきた。帰りは、人間の糞尿に水、京の水は肌によいといわれ江戸の役者や花街など多くの人が求めたという。糞尿は途中で卸して、田畑に使用した。

 全国からいろいろな物資を運んでいた北前船が大坂六軒家に着く。大阪六軒家から淀川三十石船で淀川を上り、鍵屋など秀吉が作った太閤堤を通り、伏見まで。ここで物資に税金というか関税が伏見奉行によってかけられていた。そこから高瀬川に物資は移される。日本各地で使用されていた川船(小舟)が使われていた。東海道五十三次という。三条大橋の西詰にやじさんきたさん像がある。秀吉によって、淀川の堤防は大改修され、六軒家まで東海道五十七次になる。
 鍵屋という舟宿は、舟ごと舟入りできて、旅館内部に入れた。おどろいた。伊根町の猟師や旅館のようだ。
 くらわんか舟などが往来して、その影響で伏見周辺では、くらわんか舟の影響で、大阪弁のべらんめえ調が使われていると御香宮の住職さんから教わったが、会社の先輩方、特に伏見に住んでいた先輩はそんなことはない。ばかなこというなと叱咤された。
 さらに長建寺の参道の橋に絵柄があるといわれすぐに見に行ったが、新しく橋が架け替えられていて、先輩の言われる遊郭いわれの図柄はわからずじまいで、叱咤したきりで、教えてもくれなかった。 
 ※長建寺のお守りは女性器をかたどったもので珍しいもの(弁財天が祀られる)。 話変わるが修善寺橋近くの北条政子安産祈願した神社にも女性器をかたどった石が祀られている。

 元に戻るが、高瀬川ができたこと全国や大坂の交通の便が良くなったので、巨椋池干拓まで、巨椋池の蓮の花々を見て、遊郭や花街で遊んで、大坂城を見ながら六軒家までいく観光コースがもてはやされた。手軽な小旅行で大流行したと聞く。
 桂川にもつながっていたので、遊郭で遊んだり、桂離宮あたりのめずらしい瓜畑を鑑賞して、嵐山まで観光するというコースもあった。近松門左衛門の心中ものに登場する(近松門左衛門も京都に関係あるので大阪まで法妙寺跡のお墓を見に行った・近松門左衛門資料館も拝見した)。桂川連理柵ですね。よほどたくさんの方に利用されたようです。遺跡が今でも桂川の土手に残っています。
 三栖祭、近年川幅が狭くなりとりやめられた。復活してほしいほどだ。寺田屋の裏手には今は道があるが、幕末にはなくすぐに三栖川で舟で竜馬たちは逃げた。薩摩藩の寺院でゆかりのお墓も多いが、お登勢の名前が書かれた日蓮宗のお墓があった。本当にそのお墓が寺田の女将お登勢のお墓か知る人にひとりもあったことがない。

 先輩曰く、京都市住む方は、京都に関連することすべて知っておられる、目に見えないものまでみられている。お前もっと勉強せよと言われた。わかないことを役所に来たらこちらに電話されて聞かれたらわかるかもしれませんと親切に都草の電話番号を教えてもらった。そこでも、一方的に電話切られて、返答なし。気分悪い。どうしたらいいのといいたい。どうでもいいや人間や精神もう潰れているから・・・

※北前船で日本各地の名産や工芸品、海産物などの物資が運ばれていた。京の伏見人形など一部のものが逆に日本全国に影響を与えたのも大きいとお聞きした。おかしなのは、一番良いものが京に運ばれていたように思われがちだが、北前船が大阪に着く。堺が近く豪商や千利休や有名人の邸宅がたくさんあった。鉄砲鍛冶もあり、希少な硝石も手に入った。栄華を誇っていたから、堺周辺にお土居のように大きな堀があった、今は埋め立てられて、公園などに利用されていた。私は堺を見て回って、京より良い物資、工芸品など入っていて、堺が栄華を極めていたころは京に入る工芸品は2流品だったと思う。京より強大な力があったから。それを知る京都人誰一人いらっしゃらない。先輩の言いたいことは何といい返したい。

 
 

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虚無僧

2025-09-01 10:55:35 | 日記
 京都には江戸時代から虚無僧に免除を与える寺院がある。東福寺の塔頭ですが、全国にこういう免許を出す寺院がありました。伊豆市にもありもう立派な寺院はありませんでしたが、滝がありました。浅見光彦シリーズにでてきます。
 美空ひばりの歌に越後獅子というのがあります。江戸時代には幕府の隠密が虚無僧や越後獅子となって全国を偵察していたと聞きます。
 これをふぜぐために島津藩のようにきつい方言が生まれたと聞きます。少し前までは、東北弁も特に方言がきつかったと聞いています。

 琵琶法師養成所も京都の山科にあり、道場とされていたようです。めくらだった人康親王(さねやすしんのう)が琵琶の名手で祖と呼ばれています。

 ウスバキトンボがいっぱい飛び回っていますが、マユタテアカネ1頭だけみました。小さなコオロギの音から、エンマコオロギの鳴き声にかわってきました。夜も暑いですが、虫の音の移ろい秋の深まりを感じさせてくれます。

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