心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

世界に意味は無いのか!(第二回)

2009-08-31 17:44:53 | 世界に意味は無いのか!
こんにちは、テツせんです。
かまびすしい選挙の季節が過ぎましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

昨日、国民の多数が政権交代を選択しましたが、

選挙と言えば、
日本型の精神の病理傾向は、選挙の<投票行動>にもあらわれます。

たとえば、2005年に小泉純一郎が仕掛けた<郵政お祭り選挙>がその典型といえます。

人気取りパフォーマンスだけに長けた小泉の登場は、
国民大衆を、今までの政治(家)とのある意味で正しい疎外関係を一変させた。

すなわち、身内のような密着関係『好き・嫌い、敵・味方』を基準にした恣意性こそが、
日本人固有の関係意識であることを、小泉は見抜いていた。

純ちゃんブームが国民大衆を引き寄せた。・・・
これは日本型の精神の病理傾向を意図的に利用した点で特異な出来事であったといえます。

念のために誤解を恐れずに注釈すれば、
それまで一貫して投票率が低迷し、政治(家)と国民大衆の関係がどんどん希薄になっていたこと自体は
じつは悪いことではないということ。
むしろ、それこそが高度消費社会の大衆の健全な姿であることを決して見誤ってはならないわけです。

本来、「政治なんて、用が無い」とみんながおもうような時代こそが、
より望ましい、より良き政治、より良き時代であることに気付いていただきたいものです。

したがって、今また純ちゃん政治の失政への反発で、一時的な投票率の押し上げが見られましたが、

これは小泉が仕掛けた現実解離の美化のイメージにやすやすと乗せられたあげく、
やっとホントの現実に目覚めたた大衆の学習行動に過ぎません。

あらたな政権がたしかに小泉より誠実で能力があったとしても、
ゆめゆめ、真顔でこれ以上、政治などに近づいたりしてはいけないのです。

そこのところが何とも政治と大衆のやっかいで、逆説的な関係といえます。
みんながまたうっかり政治に近づくと、
またしても日本型の関係意識の病理をおこすことは、目に見えている・・・

たとえ政治家たちが尊大なことをいっても、政治(家)の成せることは、
国民の負託に沿って、税金の分配のための立法と行政を淡々と施行することに尽きるわけです。
(戦後、国民の負託に背を向けて、巨大スポンサーとの相互利権を追い求めた党が排除されるためには、
皮肉にも小泉純ちゃん政権の登場と破綻を待つほかなかったわけだ。・・)

また政治家はまちがっても幼稚なパワーポリティクスに酔って、恣意的な国家観などを持ち出さないことだ。

それより精々、相手国に過剰なナショナリズムを意識させないで運営することの方がよほど大事なこと。

少し前、田中真紀子氏が父・角栄氏の失脚という米国のパワーポリティクスの過酷さを回顧しつつ、
『いまあらためて、日本人のマチュア(成熟さ)が試されている。』と発言されたが、
その意を汲んだうえでなお、のほほんと見える、
大人の運営をおこなっていくことが政治(家)の極意というものでしょう。

それにしても日本人の固有の関係意識が、このように根深い病理性を抱えているのは一体なぜなのか?

<距離の無い関係意識>ではー
『自分の思いを周りが分かっているはず』『その人に密着する又は分かって欲しがる』・・
というように、古来から自己中心の依存関係をたえず無自覚に欲求してきた。

<距離を感じる関係意識>ではー
『よく分からない人や分かってくれない人に緊張、敵意をもつ』『人の目を気にする。外に出られない』・・
というように、これも歴史的に対人緊張・関係妄想をつくり出してきた。

このように両極端な関係意識をあらわす主たる要因を、
言語社会学者の鈴木孝夫や国語学者の大野晋は
日本語の文法が和語(やまと言葉)によって生成されたためであると指摘しています。

やまと言葉は古来から、関係意識を<内と外>の主観で表わして来ました。
<内>にある者は自分も皆も、おなじものを見て、おなじ思考をすると見なし、
<外>にある遠い者は、『分からない』ので放置するし、
近づけば、不安緊張による主観的な妄想をつくる。といった具合に。・・・

わたしたちは日本語そのものに由来する、このような極めつけの病理性をかかえたまま、
さらなる現在的な時代が迫る、
『<社会>や<生>に意味はあるか?』『個の存在の代替性』について思考をすすめるほかない。

(敬称略 、拝)
(次回につづきます。)




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。