心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

世界に意味は無いのか!(第一回)

2009-08-24 17:21:54 | 世界に意味は無いのか!

数日前からクマ蝉がばったり鳴かなくなったこの頃。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか?

前回の宮台真司氏の告白・記述について、

中でも
“世界の相対性、社会の相対性”を持ち出した安直な駄々っ子ブリと短絡的な面は、
彼の病理的な要因によることをお話しましたが、

彼のそれはそれとして、
わたしたち、“人”が今、“生き難い時代を生きざるをえない”ことも、

また宮台の幼児性は別にして、“社会に意味など無い”とする現代的考察も、

この近代主義の文明下に存らしめられている“人”として、
切実な課題であることにまちがいないわけです。

今回はもっと正面からこの問題をとりあげようとおもっていますので、
皆さんもご一緒にお考えください。

唐突ですが、井上陽水の唄に「人生が二度あれば」というものがあります。

以前のブログの『秋葉原無差別殺人・加藤智大の心の闇をカウンセリング』にも引用しましたが、

父親も母親も六十歳を過ぎるまで身を粉にして働き詰めにやってきたことに、
陽水が万感の思いをこめて、『人生が二度あれば』とただ高唱するしかないように、

“人生”とは人の限られた“生”そのもののことです。
もしそこに宮台のような記号的言葉で、「意味が無い」と言われたら、
陽水はどうするでしょうか? 

もちろん、わたしたちは日々の生活にいちいち意味づけしているわけではありません。
不用意にそれをしたとたんに、「意味が無い」という現実解離の病にとりこまれる。
そこがなかなか厄介なところなのですね。

世の少年少女諸君も、一度はこのような“自我の不安”や“生きる意味”について思いを寄せるものです。

そんなときに、大方の諸君は人間関係に適応することを学び、また
“生きる意味”について執着しなくなることで病理的な解離から免れていくようにおもいます。

“生きる意味”について考えることはそれほど難しいことだといえるでしょう。
現に学者といわれる宮台さえ、はじめから意味がない方に組しようとしていますから。・・・

一方で現実に今、高度資本主義の剣が峰に立たされているといえる日本の社会の中で、
人々は雪崩をうって社会不適合をあらわしつづけています。
社会不適合とは、端的に言えばに心的病理に傾いてくことをさします。

人々は“生き難い時代”にいることも“ひしひしと感じて”います。
(それさえ自覚が無いひとはすでに病理の中にとりこまれたとみなされる。)

それは単に未曾有の世界的な景気不振といった次元ではなく、
人間の深遠に及ばんとする、時代の底練りを予感させる何ものかといえるでしょうか。

人々の感じ方は多様とはいえ、この時代が強いる傾向性が見受けられます。

* たとえば、生前に葬儀を予約する人たちが増えていることです。

彼らは真顔で自分が入るための棺を見定め、葬儀のイメージ映像を見比べています。

ここに見られるのは、死後の自分にまで美化のイメージを追い求めるという、
現実を自己観念で自明のものとした、心的に現実解離した人の姿です。

この人たちは、時代から遠ざけられていることに無自覚ながらも、
自己肯定に執着しなければいられないという観念のはたらきをはげしく見せています。

* また、もっと広範に観られる現象として、
“ペット買い”と“ペット家族化”ということがあります。

日本で水を売買するというあらたな時代性がもたらしたメタファーの範疇に、
“ペット買い”も同様に肩を並べ、
最初のうちはブランド選択志向を媒介にして商品化されたとものといえるでしょう。

ただ日本の多くの人の場合、ブランド商品としてのペットであったはずが、
いつの間にか“ペット家族化”に転位し、

さらに、『ペット命!』という心的な転換が起こってきているところに
この時代が迫る、“個の不安”の進行をみせつけられるおもいがします。

今日的な不安が、

日本人が元から抱える日本語のメカニズムに起因する不適応の関係意識と反応したときに、

人は人間関係を不適応のままに逃避し、
自己中心志向を先鋭化させる傾向をみせています。

だがしかし、『ペット命』という、
あからさまに精神の自閉した世界を唯一の拠りどころに、
癒されて暮らして行きたいと思ったとき、

人は、すでに形だけの適応参加とも決定的な精神の解離を無自覚にまねくことになる。

そこを安住の世界と錯誤した結果、日々生殺しの様に
痴呆と呼ぶ分裂病をつくり、つづける。・・

人が自己観念を当たり前のように肯定するようになる(弛緩)とき、

E・クレッペリンの言うように
弛緩自閉し、やがて人格崩壊から早発性痴呆に到ることを知っておいてほしい。

人が抱えるあらゆる依存症が、群れを成して発現されてきている。

わたしたちは今、この日本型の精神の病理的傾向に強い危機感をおぼえています。

(敬称略、 拝)
(次回につづきます。)





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